この記事は、SF小説を読んだことがない男が、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読むだけの記事です。

 

<この記事に出てくる人>

32歳になるまで本を読んだことがなかった。今でも、人の倍以上の時間と体力を使わないと本が読めない。

みくのしんが本を読む手伝いをする。

 


芥川龍之介を読んだときのみくのしん

大人になるまで一冊も本を読んだことがなかったみくのしんが、さまざまな本を読む様子をレポート記事にまとめたこのシリーズ。

これまで、「純文学」「児童文学」「娯楽小説」「叙述トリックもの」「古文」など、さまざまなジャンルにおける初めての読書をお届けしてきました。

今回は、『初めてSF小説を読む』様子をお届けします。

 

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』か。めっちゃ売れてるSF小説なんだっけ?

ちなみに、みくのしんはSF小説って読んだことある?

あるはずがないだろ。ついこないだまで本が読めなかったんだから

 

本の中でもSFは「難しそうだな〜」ってイメージだけあるんだよ。SF映画は観たことあるけど、あれを文字だけで……ってなると、俺にはまだ早い気がする

早いも遅いもないと思うけどな。子どもの頃からSF小説にハマる人もいれば、大人になっても敬遠してる人もいるし

なんというか……専門家が見張ってそうな感じがするんだよな。読み間違ったら「いやいや、そこにはこういう意味があって」って指導される雰囲気があるというか

耳が痛いな。俺もSF小説を片手に、科学のうんちくを語りたがるクセがあるから

 

だいぶ本は読めるようになったけど、SF小説だけは「俺でも読めるのか?」って思っちゃう。絶対、難しいと思うし

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は読みやすいと思うけどな。まあ、もし「難しくて読めない!」って思ったら、読むのやめて映画を観ちゃえばいいしね

そんな本当のこと言っちゃダメだろ

それくらい気楽な気持ちで読みはじめて大丈夫ってことよ

 

まぁ、グダグダ言っても始まらないし……ゆっくり読んでいくか!

 

▼編集部注

予め申し上げておきますが、この記事はとても長いです。

何卒ご了承ください。

 

よし……まずは表紙を開いたぞ

表紙を開くところから実況中継するんだ

せっかくなら、一つ一つ楽しんでいきたいからね。……でも、さすがにこんなペースで読んでたらファンに怒られるかな

みくのしんの読書なんだから、マイペースでいいよ。俺もなるだけ邪魔したくないし

 

なんかカッコいいロゴが描いてあるな〜。いかにも宇宙って感じだね

ハヤカワ文庫のロゴってこんな感じだったんだ。意識したことなかったな

とりあえず「宇宙の物語が始まりそう」って感じだけは分かるね。俺にはまるで理解できなさそうだけど大丈夫か……?

 

ジョン、ポール、ジョージ、リンゴに

なにこれ? 急に人の名前が出てきたんだけど

献辞ってやつだね。小説でいう「スペシャルサンクス」みたいなものなんだけど……「◯◯に捧ぐ」みたいなの見たことない?

あ〜、なんとなくイメージはあるような……? でも、これって『ビートルズ』のメンバーの名前でしょ?

そうそう。ここでは「ビートルズに捧ぐ」的なことだと思えばいいよ

 

ビートルズ宛のファンレターってこと?

ファンレターが本になるかよ

でも、ビートルズが宇宙と何の関係があるんだろう。SFって言うからには宇宙が出てくるんでしょ?

そうとは限らないかな。SFって要は「科学的な要素」がテーマになってる作品のことだから。宇宙と関係ないSF作品なんて山程あるしね

 

その「科学的な要素」ってのが不安なんだよな〜。そんなのまともに勉強したこともないし、俺に理解できるとは思えない

そんなに難しく考えなくていいよ。タイムマシーンとかAIロボットとかもSFのテーマになるし、SFだからって難解な作品ばかりじゃないから

あ、そういうのもSFに入るんだ。じゃあ、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』も宇宙の話とは限らないのか

そうそう。あんまり気負わずに読み始めて大丈夫だって

 

 

 

 


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いや、絶対宇宙の話だろ!!! めちゃくちゃロケットの絵が出てきてんじゃねえか!

まあ、これは伏せようがないか。どのみち、表紙とか映画の予告とかでどうしたって目にする要素だもんな

やっぱり宇宙に関係する話なのか。今まで読んだ本では出てきたことのないテーマだ……

せっかくなら、それすら知らないまま読んでほしかったんだけどね

 

わ、先っぽにビートルズって書いてある。何これ……面白そう……!

あんまり期待させてもしょうがないから先に言っとくけど、今日読む第1章じゃ、そのロケットに乗り込むシーンまでたどり着かないよ

え〜! なんだよそれ! せっかくなら乗るところまで読みたいよ!

別にいいけど、このペースのまま読んでたら、そのシーンにたどり着く頃には季節が変わってると思う

 

なんか今までの本と違うね。物語が始まる前から、こっちをワクワクさせようとしてる気がする

そう? みくのしんからワクワクしにいってるようにも見えるけど

それもあるけど……なんか、もうすでに映画みたいな演出じゃない? ビートルズへの感謝を伝えた後に、ロケットの図があって……

 

で、次をめくると……

 

タイトルがドーン! かっこいいな〜!

まだ本編を1文字も読んでないのに、もうこんなに楽しんでんのかよ。感情のコスパがいいヤツだな

主人公がいる部屋からどんどんカメラが引いていって、宇宙の中にある地球がまるごと映し出されてさ……。BGMの一番盛り上がるところで画面いっぱいに『プロジェクト・ヘイル・メアリー』ってタイトルがデカデカと出てきてそうだよね!

タイトルが書いてあるページだけで、よくもそんなに想像が膨らむもんだな

 

せっかくなら始まるまでの時間を最大限楽しみたいじゃん。映画だって、始まる前の予告とかCMの時間も含めて楽しいでしょ

俺は、本でそういう楽しみ方したことないけども。まあ、みくのしんが楽しそうで何よりだよ

それに、「映画の原作小説を読む」って憧れだったんだよな〜! 本が読めるようになってから、「あの映画の元ネタも読めるのかも!?」ってすごく嬉しかったのを覚えてるから

そりゃよかった。今日は第1章だけだけど、ゆっくり読んでいこうぜ

 

よぉ〜し! じゃあ読んでいきますか!

(ようやく本文を読み始めるのか……。今日は時間がかかりそうだ)

 

 

▼編集部注

これからみくのしんの読書が始まりますが、もう一度言います。とても長いです。

彼は、一文一文を声に出して読まないと本が読めず、全編通して音読しているためです。

撮影時間は3時間33分(映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の上映時間は2時間37分)でした。何卒ご了承ください。

普通に読んでみたい方は、早川書房さんが試し読みのページを公開されているので、そちらをどうぞ。

 

 

 

 

「2足す2は?」

気になるスタートだな〜! 急に算数の問題から始まるんだ

この書き出しも惹き込まれるよな。俺も初めて読んだときは、「何が起こるんだ……!?」ってワクワクしたもん

俺も、この一文だけは知ってるよ。前に、かまどに「この書き出しがすごいんだよ」って教えてもらったから

あ〜、そういえば教えたっけ。もう2年くらい前の話だけど

 

あんときはビビったな〜! 国語だと思ってたら、急に算数が始まったから

まあ、あれから僕も何冊か本を読んできましたからね。今なら「2足す2は?」が出てきても、冷静に読めますよ

 

答えは「4」です

そんなドヤ顔で発表されても

どう? 合ってる?

答え合わせが必要なレベルの計算ではない

 

なんだかイラッとくる質問だ。

ぼくは疲れている。だからまたうとうとしはじめる。

主人公は寝起きなのかな? そこに問題を出されてイラッとしたのか

どうだろうね。まだ3行目だし、何も分かんないと思うけど

でも、すでに何かが起こりそうな気配だけは感じるよ。このまま、ただの算数教室で終わるわけないもんな

 

数分後、また聞こえてくる。

「2足す2は?」

また、同じこと言われてるね。授業中に居眠りしてんのか

……。

主人公は小学生だったりするのかな。で、先生に起こされるところから物語が始まるのか

……。

 

やわらかい女性の声は感情に欠けていて、いい方がさっきとまったくおなじ。

コンピュータだ。

え、これコンピュータなの???

うん。多分、映画だと機械音声で表現されるセリフなんじゃないかな

先に言っといてよ! カタカナで「1タス1ハ?」って書いてあったら俺にもすぐ分かったのに!

みくのしんがイメージするコンピュータは、だいぶ旧型だなぁ

 

コンピュータがいやがらせをしている。ますますイラッとくる。

とりあえず、この主人公はコンピュータと暮らしてるんだね。いかにもSFって感じだ!

……なるほど。みくのしんはここまで読んで、そういう風に感じるんだ

あれ? 違うの? 俺たちで言うところの、アレクサみたいなものなのかな〜と思ったんだけど

 

少なくとも、授業中のお話じゃなさそうだよな。というか、そもそも、ここはどこなの?

俺は何も教えられません。続きを読んでくれとしか言えないです

そっか、これでかまどに答えを教えられても興ざめだもんな。分かってるのに、ついつい聞いちゃうんだよな〜

まあまあ。みくのしんのペースで好きに読んでくれたらいいよ

 

「2足す2は?」

なんだかイラッとくる質問だ。ぼくは疲れている。だからまたうとうとしはじめる。

数分後、また聞こえてくる。

「2足す2は?」

やわらかい女性の声は感情に欠けていて、いい方がさっきとまったくおなじ。コンピュータだ。コンピュータがいやがらせをしている。ますますイラッとくる。

え〜っと……。目を覚ましたら、急にアレクサみたいな機械がしゃべりかけてきて……で……

 

 

……ん?

なに、どうした?

……。

 

ほろる。れるろ。

 

 

ほろいる! ほろいれるれる!!

どうした???

 

 

 

 

「ほろいれるれ」

なんですか、これは???

あぁ、そう書いてあったのか。とうとうみくのしんがバグったのかと思った

そう思ったんなら、止めてくれよ

 

「ほろいれるれ」といって自分で驚く。

「ほっといてくれ」といったつもりだった──私見しけんながら、ごくまっとうな反応だと思う──それなのにちゃんとしゃべれなかった。

舌が回ってないってことね。昨日の夜に飲みすぎたのかな

二日酔いでこんな状態になるかなぁ?

……たしかに「ほろいれるれ」はちょっと怖いよな。なんか、麻痺してそうなしゃべり方だもん

 

麻痺……

 

まさか、クスリとか? 睡眠薬で眠らされてたとかじゃないだろうな?

(ネタバレを避けると、下手に相槌も打てないから難しいなぁ)

 

「不正解」とコンピュータがいう。

「2足す2は?」

いやだな〜! すっげえ無機質じゃん!!

そりゃまあ、コンピュータだもの

もっとこう、音楽を鳴らしながら「オハヨウゴザイマス。ステキナ朝デスネ」とか言えよ

やっぱり旧型だなぁ

 

実験の時間だ。

ぼくは、こんにちは、といおうとする。

ん? この「実験」って何のこと?

自分がどこまで喋れるのかを試そうとしてるんじゃない?

はぇ〜! こいつ冷静だなぁ! 俺だったら、「思うように口が回らない」と気付いた時点でパニックになると思う

 

「おんいいあ?」

んぃ??

(横で見てると、音読してるのか、急にみくのしんがバグったのか区別がつかないから怖いなぁ)

「こんにちは」すらまともに言えないんだって! これはただ事じゃないスタートですね……

 

「不正解。2足す2は?」

また、問題出してる。まさか、これだけで終わる本じゃないだろうな……

これだけで終わる話だったら、映画になってないだろ

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』って『劇場版・さんすう』じゃないよね?

お前、学校の授業が映画化したの見たことあんのか?

 

どういうことだ?

なんとか理解したいが、手がかりが少なすぎる。

主人公も何が起きてるのか分かってないんだ。今のところ、SFっていうより、ミステリーって感じが──

 

 

 

なにも見えない。

何も見えてないの?!?

そうみたいだね

先に言ってよ!! じゃあ、今まで全部真っ暗だったんじゃん!!

本ならではの演出だよな〜。映像だと一発で状況が分かるのに、本だとここまで読まないと視界が真っ暗であることに気付けないんだから

 

なるほどね……! こういう本なんだ。一文読むごとに一つずつ状況がクリアになっていくというか……

だからこそ、何を話してもネタバレになりそうで、ファンは何も言えないんだけどね

今まで読んだ本って、急に物語のどこかの地点に急に立ってるところから始まってたけど……『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、それを1からゆっくりやってるんだ

そうそう。直感に近い読み方ができるからすごく読みやすい思うよ

 

コンピュータの声以外なにも聞こえない。

こうなってくると、さすがに、ここは自分の家じゃないとは分かるよな。もうすでに、何かが起きてそう……

さあ、どうだろうね。それすらも分からない状態で始まるから

これって、何かの研究施設で目を覚ましちゃった状況にも見えない? 手術が成功してるかコンピュータが確認してるのかも

 

なんの感覚もない。

感覚もないんだ。思ったより深刻な状況だな

 

いや、ちがう。なにか感じる。

おぉ……?

 

ぼくは横になっている。

なにかやわらかいものの上にいる。ベッドだ。

うん……それは、そうだと思ってたよ。俺も寝てたんだろうなとは思ってたから

ペースはゆっくりだけど、一つ一つが明らかになっていってるよな

まだ「何も分かんない」状態ではあるけどね。でも、自分の家だったら、こんな感想にはならないよな〜。やっぱり、別の知らない場所で目を覚ましたのかも

 

目を閉じているようだ。

悪くない。開ければいいだけだ。

なんでもかんでも言い過ぎじゃない? こんなペースで書いてたらキリがないって!

物語としてはかなりのスロースタートだよな

こんなこといちいち書くなよ! 朝起きたら目を開けるくらい当たり前のことだろ! 

 

開けようとするが、なにも起こらない。

どうして目が開けられないんだ?

は? え? 目も開かないの???

主人公にとっては、当たり前のことじゃなかったみたいだね

すごいな! ここまでゼロからのスタートなことある!?

 

開け。

自分に気合いを入れないと、目も開けられないんだ! めっちゃ怖い状況じゃない?!

たしかに、もし自分がこの状況だったら……と思うと、相当な恐怖だよな

この人、めっちゃ重症なのかも……。すっげぇ事故に遭って、奇跡的に助かったとかそういう話?

ゆっくり読んでるから、あれこれと想像が膨らんでるなぁ。俺は何も言わないから、好きに予想したらいいよ

 

さああああ……開け!

さああああ!!! 開け!!!!!

何も、そこまで迫真の演技を伴わなくても

これくらい気合を入れないと目が開かないってことでしょ? だったら、俺ももっと力を込めて読まないと

 

開け、くそっ!

おらぁああああ!!! 俺の目よ、開けぇええ!!!!!

やかましい読書だなぁ

つい力が入っちゃうね! 映画もこんな感じで始まるんじゃない?!

ライアン・ゴズリングが、こんなクソ演技すると思うか?

 

おお! こんどは少しピクッとした。

まぶたが動いた。動くのを感じた。

いいぞいいぞ! 着実に前に進んできてるよ!

 

開け!

おらぁあああ!!! 開けぇええええ!!!!

いつまでやってんだ

 

まぶたがじわじわ上がって、

まぶたが……ッ!!!

 

じわじわ……ッ!!!

 

グゥウウウウ!!!!!

早く読まんかい

なんですか!? 人がマジメに読んでるんだから茶化さないでください!

これでマジメに読んでるとは思えないだろ

 

まぶしい光が網膜もうまくを焼き焦がす。

え? ……なにこれ?

? どうした?

 

「網膜」に手書きでルビが書いてある! かわい〜!

あぁ……それは……

なにこの仕掛け! これが何かのヒントになってるのかな!?

テンション上がってるところ申し訳ないけど、それ書いたの俺だよ

 

かまどの仕業かよ! ビックリした! そういう斬新な表現なのかと思ったじゃん!!

テンポよく読める本だから、漢字が読めないだけで立ち止まるのはもったいないと思っちゃって。先回りしてルビを書いといたんだけど……

嬉しくなって立ち止まっちゃったわ。テンポで言うとむしろ逆効果だったかもしれん

難儀なヤツだなぁ

 

まぶたがじわじわ上がって、まぶしい光が網膜もうまくを焼き焦がす。

ただ、ルビがなかったら、この文章は読めなかったと思う。助かりました

じゃあ、よかったよ。この先も、難しそうな単語にはルビを書いてるから、読書の足しにしてください

至れり尽くせりだなぁ〜! 今後、俺が読む本を全部先回りして、片っ端からルビを書いといてほしいです

そんな究極体の天沢聖司みたいな真似したくねえよ

 

「グウウウ!」

まったくの意思の力で目を開けつづける。

ぐううううう!!

なんで読書でここまで表情筋を使うんだろう

この本、疲れるなぁ〜! 読み終わる頃には、顔の形が変わっちまうだろ!

それは見てみたいから、ぜひ読み切ってほしいです

 

なにもかもが痛みを帯びた白。

そもそも、眩しがりすぎじゃない? ただの照明がこんなに眩しいのも変だよね

まあ、普通の寝覚めとは言えないのはたしかだろうね

めっちゃライトが近いのかな? もしくは、天井の近くで寝てるとか……?

 

「目の動き、検知」いやがらせの主がいう。

「2足す2は?」

このコンピュータ、怖ぇな〜! この先、こいつと二人三脚でやっていける気がしないわ

二人三脚? みくのしんって、このコンピュータと主人公の友情物語だと思ってんの?

え、違うの? 『堅物コンピュータとの奇妙な共同生活』みたいな話だと思ったんだけど

(……なるほどなぁ)

 

白さが少しやわらぐ。目の焦点が合いはじめる。

形が見えてくるが、細かいところはまだわからない。

初っ端からこんな調子で大丈夫かな。目を開けるだけで、あんなに大騒ぎしてたのに

主にみくのしんしか騒いでなかったと思う

 

そうだ……手は動かせるだろうか? だめだ。

足は? こっちもだめだ。

手足も動かせない状態なのか。これ、まだ書いてないだけで、体を拘束されてたりするのかな

 

だが口は動かせる、そうだろう? なにかいっているんだから。

ちゃんとした意味のあることではないが、それでもなにかは。

プラス思考だな〜。「こんにちは」すらまともに言えてないのに

前向きなセリフではあるよな。「満足にしゃべれないこと」じゃなくて、「口が動くこと」に着目してるわけだし

この「そうだろう?」って言い方もいいよな〜。まさに「海外のノリ!」って感じがして──

 

……。

なに?

……。

どうした?

 

よぉおおおお

また始まった

 

よおおおおおおおお

どうしても奇声をあげなきゃダメなのか?

 

「よおお」

だって、そう書いてあるんだもん!!

だったら先に言ってくれよ。急に「よおおおおお」とか唱えだしたら、本当にそうなったと思うだろ

だから、そう思ったんなら止めろよ。俺がそうなったら、かまどしか止めるヤツいないんだから

 

「不正解。2足す2は?」

判定きびしいなぁ。まあ、「よおおお」を正解にすることはできないか

 

形が意味を持ちはじめる。ぼくはベッドにいる。

なんというか……楕円形の。

楕円形のベッド?! 珍しっ!!

普通のベッドではないよな。それがどういう意味なのかは、まだ分からないけど

でも、これかなり未来っぽい雰囲気がしない?! ドラえもん的な未来の話なのかも!

 

LED照明が上から照らしている。

天井の、いくつものカメラがぼくの動きを逐一ちくいちとらえている。

あれ? 「LED照明」があるんだ。ってことは、思ったより未来の話でもないのかな?

 

いやな感じだが、ロボットアームのほうがもっと気になる。

天井からつや消し仕上げのスチールの無骨ぶこつなアームが二本、ぶらさがっている。

やっぱり、今どきのロボって感じだね。もっと、こう……スタイリッシュでつるりとした見た目だと思ってたんだけど

見た目だけで、現代の話なのか、近未来の世界観なのかを探るのは無理あると思うけどなぁ

でもさ〜。この「艶消し仕上げ」ってマットな見た目のことでしょ? じゃあ、未来じゃないよな〜

 

どちらにも、手にあたる部分におだやかならざる、なにかプスッと貫通させるたぐいのツールがいくつもついている。

好ましい見た目、とはいえない。

これで手術とかするのかな……? そんなことできるんなら、やっぱり未来なのかな

手術支援のロボットアームくらいなら、現実世界にもすでに存在してるけどね

じゃあ、未来じゃないか〜

ミルクボーイみたいな自問自答してんなぁ

 

「よお……おおお……ん」これでどうだ?

「不正解。2足す2は?」

これも不正解なの? 判定キビしいなぁ

 

くそっ。意思の力、内なる力を総動員する。

が、少しパニックを起こしそうになってもいる。よし。それも利用してやろう。

勉強になるなぁ〜。叫びそうになるエネルギーを活かして前に進もうとしてるんだ

パニックのコントロール法を学ぼうとしてる?

まさか、パニックを有効利用できるとはね! 俺も、今後、発狂しそうになったらこれやってみます!

できれば発狂しない暮らしを送ってほしいな

 

「よおおん」

よおおおおおんん!!!!!!

偶数条件のナベアツ?

 

ついにいえた。

「正解」

やった。しゃべれる。少しは。

おぉ〜! よく解けました!

参観日のお母さんじゃないんだから

よく考えたら「おぉ〜!」じゃねえよな。大のおとなが「2+2=」を答えるだけでどんだけ時間使ってんだよ

 

ほっと溜息をつく。

待てよ──いま呼吸をコントロールした。

呼吸まで確認が必要なんだ。人としての操作方法を細かくチェックしてるみたいだね

それくらい「自分がどういう状態なのか」がまるで分かんない状態なんだろうな

 

また息を吐く。意識して。

口のなかがヒリヒリする。喉もヒリヒリする。

だがこれはぼくのヒリヒリだ。コントロールが効く。

空気が乾燥してるのかな。ビジネスホテルの寝起きとか、こんな感じだよな〜

それは加湿具合にもよるだろ

朝に目が覚めて、口の中がこうなってたら最悪だよな。「今、口に菌が入ってきたら終わりだ……」って思うよね?

よね? と言われても

 

ぼくは酸素マスクをつけている。

……え?

 

顔にぴったりつけられていて、ホースが頭のうしろの方へのびている。

そんな状態だったの!??? え?? 今、まさに手術中ってこと???

どうだろうね。俺からはまだ何も言えないです

これは……まだまだ分からないことだらけだな。俺も「よぉおおおん」とか言ってる場合じゃなかったわ

それは本当にそうです

 

ただ、 「分からないことだらけ」とは言うけど、それがストレスになってないみたいだね。横で見てる分には、楽しく読んでるように見えるし

そうだね。ほんの少しずつではあるけど、前に進んでる手応えはあるから楽しいかも

それはよかった。いつものみくのしんは、分からない状態が続くと「どういうこと!?」「もう分かんないって!」って集中力が切れるから不安だったんだよ

そう言われてみれば……。今日は、そういうことをあんまり言ってない気がするなぁ…… 

 

なんか「超大作のゲームが始まった!」って感じがするんだよな〜。ムービーが終わって、急に自分で操作できるようになった感覚に近いというか……

ゲームをプレイする感覚で本を読んでんの?

ゲームでも、Aボタンがこれで、Bボタンが……って動かし方を覚える時間が好きなんだよな〜。人から見たら、もどかしいかもしれないけど、俺の性には合ってる気がする

それならよかった。そのまま自分のペースでプレイしてくれ

そう? じゃあ、もうしばらく「よぉおお」って遊んでても大丈夫?

そこはスキップしてくれ

 

起き上がれるか?

だめだ。しかし頭は少しだけ動かせる。

今思うと、ろれつが回ってなかったのも怪しくなってくるよな。あれも手術のための麻酔みたいなことなのかもね

 

自分の身体を見下ろす。

裸で、数え切れないくらいたくさんの管につながれている。

裸で管につながれて……。やっぱり、何かの手術後みたいな雰囲気だね

そうだとして、何の手術なのかも分からない状態だけどね

う〜ん。SFっていう前情報のせいか、なんとなく「改造手術」って感じがするんだよな〜。何か人体実験されてたりするんじゃない?

……。

 

両腕それぞれに一本ずつ、両足にも一本ずつ、”紳士の装備品”に1本、そして太腿の下に消えているのが2本。

1本は陽の当たらないところへつながっているのだと思う。これで気分がいいわけがない。

紳士の装備品……?

 

チンコのこと?

そんなハッキリ言うなよ

 

それに、身体中、電極だらけだ。

心電図EKGをとるときに使うセンサータイプの電極シールのようなものだが、全身、そこらじゅうについている。

まあ、とりあえずこっちは身体のなかに押しこまれているわけではなく、貼ってあるだけだ。

センサーかぁ。こうなると、「改造手術」とか「人体実験」ってイメージとは違うなぁ

 

「こ──」

あとがつづかない。もう一度いってみる。

「ここ……は……どこだ?」

声も満足に出せないんだ。本当に、人間として初期装備って感じだね

 

「8の立方根は?」コンピュータがいう。

???

どうした? コンピュータが次の問題を出してるシーンだけど

それは分かるんだけど。……は? え、なに???

立方根だよ。要するに「3乗して8になる数字はなんでしょう?」ってこと

立方……根?

 

数字に根っこがあるの?

……まあ、「2+2=?」に比べると、難易度は上がってるのはたしかだね

うへぇ……俺が主人公だったらここで詰んでるわ。諦めて、ずっと「よおおお」って言うだけの人間になると思う

それは、人としてバッドエンドすぎる

 

「ここはどこだ?」ともう一度いう。さっきよりスムーズにいえる。

「不正解。8の立方根は?」

深く息を吸いこんで、ゆっくりしゃべる。

主人公も声を取り戻しつつあるね。この人はこの問題が分かるのかな

少なくとも、みくのしんみたいにお手上げ状態ではなさそうだね

じゃあ、頼むわ。もう僕は分かりません。この人に答えてもらうしかないです

 

 

 

 

「2掛けるeの2iπ乗」

何ですかこれ??

そりゃ、そういうリアクションにもなるよな

みんな、こんなのを普通に読んでるの? 俺、なんのこっちゃ分かんないんだけど???

俺だって分かんねえよ。ここは理系の勉強をした人じゃないと理解できないと思う

まじかよ……! 今、俺はそんなゲキムズの本を読んでるんだ……

 

ってことは、この主人公は頭いいんだね! この問題にも、なんなくクリアしてるし

少なくとも、俺やみくのしんよりは数学に強そうってことは分かるよな

こんな意味不明な状況にもパニックにならずに対処してるし……この主人公は頼りがいあるなぁ!

 

 

 

「不正解。8の立方根は?」

違うんかい!!!

よくもまあ、こんなに楽しそうに本を読めるなぁ

なんだったんだよ! いかにも正解っぽいこと言ってたくせに! 間違ってんじゃねえか!

さっきまで頼りがいがあるとか言ってたくせに

 

不正解ではない。

コンピュータがどれくらい賢いか試してみただけだ。

答え——たいしたことはない。

ん? 不正解ではないの? どゆこと?

「2掛けるeの2iπ乗」も正解の一つではある……みたいなニュアンスかな。俺も複素数は習ってないから、詳しいことはよく分かんないけど

かまども分かんないような本を読ませないでよ。俺に分かるはずがないだろ

まあまあ。別に100%理解する必要なんてないから

 

「2」と答える。

「正解」

結局、めっちゃカンタンな答えだった。なんだったんだ、一体……

う〜ん。ざっくり言うと、高校レベルの数学だと「2」で正解だけど、大学レベルだと別の答えも出せる……みたいな感じかな

じゃあ、主人公はわざと難しい答え方をしてコンピュータを試したってこと?

そうそう。「10÷3は?」って問題に主人公は「3.33333……」って答えたけど、コンピュータは「3あまり1」を正解としてる……みたいなことだよ

ふ〜ん。それもよく分かんないけど

これは義務教育の範囲だから、分かってもらわなきゃ困る

 

やばいな〜! ただでさえ、文字を読むのに時間がかかるのに、数学とか出てきたら絶対に読めないだろ!

気持ちは分かる。SFって理系の用語がバンバン出てくるから、読書家でも「このジャンルは読まない」って人いるしね

せっかく本が読めるようになったのに、次はこんな壁があるとは……。俺はいつになったら満足に本が読めるようになるんだ

そんな難しく考えなくていいって。このシーンも、なんとなく分かることくらいはあるでしょ?

 

ないです。「主人公は俺よりも頭がいいんだ〜」くらいしか分かんないよ

それが分かれば十分だって。それを表現するために難しい数学が出てきた……くらいの読み方で大丈夫だよ

でも、SFってことは数学とか科学の知識が必要でしょ? そんなの知らない俺からしたら、この先も絶対楽しめないと思うんだけど

まぁ……SFってそう思われがちではあるし、実際、専門知識がないと太刀打ちできないくらい骨太な作品もあるよ。でも、そうじゃない作品だっていっぱいあるからさ

 

例えば、ドラえもんで「タケコプター」が出てきても、「へえ〜、空飛べるんだ〜」くらいで楽しんでるでしょ?

……まあ、たしかにタケコプターの仕組みとかは全然知らないけども

そんな感覚で大丈夫だって。SFって理屈っぽいイメージあるけど、個人的にはもっと感覚的に読んでいいと思う

そういうもんかなぁ……

 

つぎの質問に耳を澄ませるが、コンピュータはもう満足したらしい。

ぼくは疲れている。だからまたうとうとしはじめる。

僕も寝たいです。突然、数学の授業が始まってすげえ眠たくなったので

できればもうちょっと頑張ってほしいなぁ

 

目が覚めた。どれくらい寝ていたんだ?

よく休めたという気がするから、けっこう長いあいだだったにちがいない。

なんの苦もなく目が開けられる。これは進歩だ。

お、さっきよりは動けるようになってるね

 

指を動かしてみる。思ったとおりにくねくね動く。

よし。この調子だ。

麻酔が切れ始めてるってことなのかな

 

「手の動き、検知」とコンピュータがいう。

こいつ怖いなぁ〜! いちいち検知したとか言わなくていいよ!

それくらい細かく観察されてるってことでしょ

でもさぁ! 自分の動作確認してるだけなのに、「検知!」とか言われたらムカつくだろ! こいつ、人の心が分かってないな〜!

 

「そのまま動かないでください」

「え? どうして──」

ロボットアームがこっちに向かってくる。動きが速い。

ぐわぁああ!

それにしてはずいぶん楽しそうに読んでんじゃねえか

 

いつのまにか身体の管がほとんど抜かれている。

なにも感じなかった。どうせ皮膚感覚が鈍っているからだろうが。

ロボが抜いてくれたのかな? 寝てる間にやってもらえるのは楽でいいなぁ

 

残った管は3本だけ──腕の点滴が1本に、尻のと尿道カテーテル。

はずして欲しいものの代表格は、あとのほうの2つだが、まあいい。

そっちを先に抜いてよ〜!

まあまあ。寝てる間にそれ抜いちゃうと、糞尿が垂れ流しになっちゃうでしょ

でもさぁ〜! チンコは一番先に抜いてほしいだろ!

卑猥な言い方すんなよ

 

 

 

 

卑猥な言い方なんてしてませんけど?

うん。してないか、ごめん

 

右の腕を上げて、バタンとベッドに落とす。

左もおなじようにする。どっちもとんでもなく重い。2、3回、おなじことをくりかえす。

起きて早々に、どれくらい動けるのか確認してるね。やっぱり、この人冷静だよな〜

 

腕は筋肉隆々りゅうりゅうだ。理屈に合わない。

出た! かまどお手製のルビ! これ、マジで助かってます

そりゃよかった。まあ、これはギリ読めるかな〜とは思ったけど

いや、危なかったです。これは読めなかった

 

ただ、読み方が分かったからと言って、意味も分かるとは限らないんですよねぇ……

そこはルビではどうしようもない部分だな。まあ、「筋肉隆々」は、「ムキムキマッチョ」と同じ意味だと思えばいいよ

なるほど、ようやく主人公の外見が分かったってわけね。この人は、たくましい体なんだ

 

なにか重大な医学的問題を抱えていて長いこと このベッドに寝たきりだった、ということなのかもしれない。

でなければ、こんなにいろいろつながれているはずがない。

俺と似たようなこと考えてんなぁ。やっぱり、まずはそれを疑うよね

似たようなこと、というと……ずっと意識不明だった主人公が、ようやく意識を取り戻したってこと?

そうそう。目を覚ましたときも、めっちゃ眩しがってたじゃん。ずっと昏睡状態で、久しぶりに起きたらそうなるんだと思う

 

だとしたら筋肉が萎縮いしゅくしているはずじゃないのか?

それに医者がいて当然じゃないのか? あるいは病院ぽい音がするとか。

……たしかに。そんだけ寝たきりだったらガリガリになってないとおかしいか

「筋肉隆々」ってことは、リハビリも必要ないくらい健康体ってことだもんね

それはおかしいよな。俺もうんこが燃えて入院したことあるけど、一週間の入院生活でかなり痩せたもんなぁ

(うんこが燃えるって何……?)

※【編集部注】みくのしんは以前「憩室炎」という病気で入院していたことがある。腸内に溜まった便が炎症を起こす病気だが、みくのしんは憩室「炎」という文字だけを見て「うんこが発火した」と勘違いしていた。

 

それにこのベッドはなんだ?

四角ではなくて楕円形だし、床ではなく壁に据え付けられている気がする。

壁に……??? なにそれ、どういう状況?? 変すぎない???

普通のベッドなら当然床に置いてあるもんな

こんなの絶対、病室じゃないよね? マジでここはどこなんですか???

 

「管……」

声が途切れてしまう。まだちょっと疲れている。

「管を抜いてくれ……」

コンピュータは答えない。

もう……なんでもいいから、一回服を着てほしいな……! それだけでも、心が落ち着くから……

そう言えば、まだ主人公は裸のままなのか

服着て、椅子に座って、足を組んで、「ふぅ……」って一息つくシーンを早く描いてほしいよ。こいつ、ずっと頑張ってるけど、このままじゃどこかで気持ちが切れちゃうって

 

また2、3回、腕を上げてみる。足の指をくねくね動かす。まちがいなく、よくなっている。

足首を前後に動かしてみる。ちゃんと動く。膝を上げてみる。足もまずまずの感じだ。

こいつ、すごくない? この状況で、ちょっとでもできることを見つけて、少しでも前に進もうとしてるんだけど……

たしかに、こんな意味不明な事態のなかにいて、冷静に自分の動作確認できるのはすごいよな

安易にパニックにも逃げないし、勇気もあるし、愚痴も言わねえし……。俺とは大違いだ

 

ボディビルダーほど太くはないが健康的で、どう見ても死に瀕している人間のそれではない。

といっても、どれくらい太ければいいのか、よくわからないが。

いろいろ考えてるね。こういう状況だから……というより、元々そういう性格の人なんだろうね

 

ただ……

ただ?

 

正直、いつ「宇宙の話」が出てくるの? って思ってます。どこからSF世界と繋がるのかが気になってしょうがない

そんなこと気にせずに読んでほしいんだけどな。まぁ、気持ちはわかるよ

正直、「もうすでに、ここが宇宙船の中だったりして?」とか思ってたんだよね。でも、ここが宇宙だとしたら無重力のはずだもんな〜

そんな感じで、いろいろ予想できるのが初読の醍醐味だよな。今のところは、どう予想してんの?

 

ここは宇宙に関する謎の実験施設で、主人公は何かしらの手術をされてるとか?  もしくはエイリアンに捕まって人体改造されてるとか……

(なるほど、なるほど……)

実験体が目を覚ましちゃった感じに見えるんだよな〜。まあ、多分この実験施設から脱出する物語なんだろうとは思うけど

(早く、読み終わったみくのしんと話したいなぁ……)

 

てのひらをベッドに押しつけて力を入れる。

胴体が上がる。起き上がれそうだ!

いいぞいいぞ! どんどん状況が進んでいってるのを感じる!

 

全力を出さないとだめだが、頑張って動くとベッドが少し揺れる。

これは絶対にふつうのベッドではない。

壁に据え付けられてるって言ってたもんね。だから、┫みたいな感じで壁からベッドが生えてるのかも

聞けば聞くほど妙なベッドだなぁ

なんだか、「人間を栽培してる」って感じしない? もしかしたら、ロボットが人間を管理してる世界だったりして

 

頭をもっと高く上げてみると、楕円形のベッドの頭の方と足の方が頑丈そうな金具で壁に取り付けられているのが見える。

いわば固いハンモックのようなものだ。

ベッドの両端が壁にくっついてるんだって。じゃあ、そもそも部屋はそんなに広くないのかな

どうだろうね。少なくとも、広々とした空間ってわけじゃなさそうだ

こんな病室、今までの人生で見たことないから、イメージしづらいなぁ……。なんでそんな設置の仕方をしてるんだろう……?

 

変わっている。

禿同。

 

まもなく、尻の管の上にすわるかたちになった。

最高に心地よい感触とはいえないが、そもそも尻に管を入れられた状態で心地よい瞬間なんてあるのか?

それは、まあ、あるんじゃないですか? 決めつけはよくないと思いますよ

何に配慮した発言なんだよ

好みは人それぞれですから。お尻に管が入ってても心地よい人だっていると思います

やけに肩を持つなぁ。なに? お尻好きなの?

は? なんですか? 関係のない話はしないでください

 

だがこれでまわりがよく見えるようになった。

ここはふつうの病室ではない。

壁はプラスチックのようだし部屋全体が丸い。天井に取りつけられたLED照明から真っ白い光が降り注いでいる。

丸い部屋ってのはかなり近未来的だよね。でも、プラスチックとかLEDっていうと超科学! って感じでもなさそう……

 

ほかにも2つ、ハンモック状のベッドがあって、それぞれに患者が寝ている。

相部屋だったの?!

そうみたいだね。実は、初めから主人公は一人ではなかった……ってことがここで分かるんだけど

カメラワークが巧みすぎるだろ! よく今まで視界に映さないまま、何シーンもつないでこれたなぁ!

映像を見てるかのような感想だなぁ。どういうイメージで本を読んでるんだ

 

3つのベッドは三角形に配置されていて、天井のまんなかに”いやがらせアーム”が2本、取りつけられている。

患者3人全員の面倒を見ているのだろう。

だんだん分かってきたね! やっぱりロボットが人間を管理してるんだ!

 

同室者たちの姿はあまりよく見えない──2人ともさっきまでのぼくのようにベッドに深く沈んでいる。

じゃあ、この人だけ早く目が覚めたんだ! 主人公っていつもそうだよな〜!

みくのしんって「早起き=主人公」ってイメージなんだ

物語を導く人ってのは、いつもそうなんですよ! だから、人間は早起きすると気持ちいいんですよ!

 

ドアは見当たらない。

ただ壁に梯子はしごがあって、梯子はしごの先は……ハッチか?

え〜っと……? ハシゴを登った先に「ハッチ」?

 

丸くてまんなかに車輪型のハンドルがある。


ハッチのイメージ

あ〜!! はいはい!! あのグルグル回して開けるタイプのドアね!! 知ってる知ってる!!!

 

これは宇宙船っぽいな〜〜〜!!!

まあ、普通の病室にはない形状のドアだもんね

こんなゴゥンゴゥン鳴るタイプのドアは宇宙船にしかないだろ!!

 

これ、大丈夫!? 開けた途端に──

 

バオッ!!!って宇宙にほおり出されるんじゃない!??

 

ああ、ハッチのたぐいにちがいない。潜水艦にあるやつみたいな。

ぼくら3人はなにかの伝染病なのか? ここは気密性の高い隔離病室とか?

まぁ〜それもありえるか。潜水艦ってのも可能性としてはゼロじゃないし……

どうだろうね。少なくとも、外界と隔離された場所って感じはするよな

宇宙船だと思ったんだけどな〜。でも、最初に、かまどが「第1章では宇宙船に乗り込むまではいかない」って言ってたし……

メタ読みすんなよ。たしかに俺が言っちゃったことではあるけど

 

壁のあちこちに小さい通気口があって、軽い空気の流れが感じられる。

コントロールされた環境ということなのかもしれない。

あ〜、通気口ってことはやっぱり宇宙船じゃないのかな? あんまりそういうイメージもないし

そう? 宇宙空間でも呼吸できるように空調が整ってたりするんじゃない?

う〜ん……。でも、宇宙船だったら見た目ですぐに分かると思うんだよな〜。そんなの、この主人公が気付かないわけないと思う

 


みくのしんの宇宙船のイメージ

テレビで見たことあるけど、いかにも触っちゃいけない機器だらけだったもんな。俺でもひと目見ただけで「宇宙船だ!」って分かるはずだよ

現代の技術だったらそうだろうね。でも、これが未来だったら、もっとすっきりしたデザインの宇宙船もありそうじゃない?

だとしても、そもそも無重力じゃない時点で宇宙船ではないでしょ。SFという前情報に引っ張られて、予想が先走ってる気がする

せっかく初めて読むんだから、いろいろ予想していいと思うけどなぁ

 

片足をすべらせてベッドの端から外へ出すと、ベッドがぐらついた。

ロボットアームがこっちをめがけてすっ飛んでくる。

出た!! 恐怖のロボットアーム!! これ映画で見たら怖いだろうな〜! 4DXでみたら「ひゃ〜!!」ってなるんじゃない!?

余計な心配をしなくていい

 

こんな感じで!「ひゃ〜!!」って!

分かったから早く続きを読めって

 

思わず縮みあがるが、2本とも少し手前で止まってそこでじっとしている。

もしぼくが落ちそうになったらつかむつもりなのだろう。

このロボって誰が操作してるんだろう。自動で動いてるタイプなのかな

どうだろうね。俺が初めて読んだときは、「AIで動いてる自律型なんだろうな」と思ってた気がするけど

素直に考えるとそうなんだけどね。でも、実は、このロボを操ってる博士がいて、この様子をずっと観察してるんじゃないか……? とか考えちゃうんだよ

いろいろ予想が拡がってるね。ゆっくり読んでるかいがあるな

 

「全身の動き、検知」とコンピュータがいう。

「あなたの名前は?」

何が「検知!」だよ。いちいち嫌らしいコンピュータだなぁ

 

「プフッ、マジで?」とぼくは聞き返す。

主人公のノリが明るいのが救いだね。言葉遣いも軽やかだし、全然暗くないんだよな〜!

キャラの性格によっては、もっと緊迫感のある話になってもおかしくないもんね

こんな異常事態に巻き込まれてるのに、クールに向き合ってるのもカッコいいよね。さすが主人公に選ばれるだけあるな

 

「不正解。2回目──あなたの名前は?」

答えようと口を開ける。

……?

 

「ええ……」

自分の名前も言えないんだ……!

 

「不正解。3回目
 ──あなたの名前は?」

なんかカウントしてる……。3回以上ミスったら、ロック解除できなくなるんじゃない??

スマホの暗証番号じゃないんだから

 

このときはじめてわかった──ぼくは自分が誰なのかわからない。

やっぱり……!! 記憶喪失なんだ!!

そうだね。ここまで、この人の名前は一度も出てきてないからな

マジか……。俺は、この人の名前も分からないまま、ずっと読んでたのかよ。次から次へと気になることが出てくるから、全然気付かなかったな……

 

なんの仕事をしているのかもわからない。 なにも覚えていない。

ここまでゼロの状態からこの物語は始まってたんだ……。すげえ話だな……

だからこそ、この導入パートが読みやすいんだよな〜。一気に舞台設定とかキャラ設定を頭に入れる必要もなく、直感に従って読めるというか

たしかに読みやすくはあるけど! でも、こんなの主人公からしたら恐怖でしかないだろ!

 

「ええと」

「不正解」

疲労の波にわしづかみにされる。 じつをいうとそれが、なんというか気持ちがいい。

コンピュータが点滴に鎮静剤のようなものを入れたにちがいない。

強制的に寝かされてる……。やっぱり、最初の麻痺状態はロボの仕業ってことか……?

 

「……待──って……」

ロボットアームがぼくをそっとベッドに寝かせる。

これ、名前が言えたらどうなってたんだろう? コンピュータが「シツレイシマシタ。◯◯サマ」つって次の部屋に案内してくれたのかな

やっぱり、みくのしんがイメージするロボは旧型だなぁ

でも、このロボにも悪い印象ではなくなってきたな。こいつなりに主人公をお世話してあげてるつもりなんだろうし、ここから仲良くなっていくんだろうね

そういえば、みくのしんはこの話は『ロボとの奇妙な共同生活』ってイメージなんだっけ?

 

じゃないと、主人公はずっと一人ぼっちのまま物語が進んじゃうでしょ。じゃあ、こいつとバディになるしかなくない?

(……妙なところで勘のいいやつだな)

そもそも俺、バディものが好きなんですよ。『寄生獣』のシンイチとミギーみたいな、人間と別種族が仲良くなって相棒になる話が昔から好きなんだよな〜!

(ネタバレしてえ〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)

 

また目が覚める。 ロボットアームが顔の上にある。

なにをしているんだ?!

とにかくぎょっとして身震いする。 アームが天井の定位置にもどっていく。

また起きるところからだ。なんか、ゲームで同じステージを何度もやり直してるみたいだね

 

顔がどうにかなっていないかさわってみる。

片側に無精ひげが生えていて、片側はなめらかだ。

「ひげを剃っていたのか?」

片側だけ……? ひげ剃りしてくれてる途中で起きちゃったのかな

多分そうだと思う。だから、起きた瞬間、目の前にロボがいたんだろうね

ってことは、主人公が起きたから、ひげ剃りを中断してくれたってことか。そういう気遣いはできるんだ……

 

「意識回復、検知」とコンピュータがいう。

「意識回復、検知!」だって。なんか、こいつのノリも楽しくなってきたな

さっきまで、「いちいち検知とか言うな!」ってイラついてたのに?

そうなんだけどさぁ。このセリフなんて、ロボットで言う一番トロの部分じゃん。俺もロボになったら「検知!」って言いたいもん

 

「あなたの名前は?」

「まだわからない」

「不正解。2回目──あなたの名前は?」

「フセイカイ。アナタノ名前ハ?」ほら、けっこう可愛くない?

その顔で「可愛くない?」と言われてもなぁ

こいつ、自分がロボットであることを楽しんでそうだね。本当はもっと流暢に話せるのに、わざと古いロボを演じてからかってんじゃない?

 

ぼくは白色人種で、男で、英語を話す。賭けに出てみよう。

「ジ、ジョン?」

数撃ちゃ当たる作戦だね。俺だったら、当てずっぽうで「サトシ!」って言うようなもんか

 

「不正解。3回目──あなたの名前は?」

そりゃそう。ここで「セイカイデス!」って言われたら、逆に困るもん

これで「たまたま正解でした」ってなる物語なんか見たことないもんな

でも、3回目の誤入力は危ないよ。また鎮静剤でリセットされるんじゃない?

 

腕の点滴の管を引っこ抜く。

「うるさい」

厄介な患者だな〜!!!さっきまでの冷静なお前はどうしたんだよ! 

まあ、こうも融通が効かないとイライラするんじゃない?

いや、だからって……。点滴がいっぱいついてるのに……

 

ムゥン!!!! ブチブチブチッ!!!!ってやる?

そんな形相だったかは分からないだろ

これはよくないですね。絶対、”要るやつ”まで抜いてるもん

 

「不正解」ロボットアームが近づいてくる。

ほら〜! また寝かされるぞ! 鎮静剤で振り出しに戻っ──

 

ぼくはごろんと寝返りを打ってベッドから出る。が、これはまちがいだった。

ほかの管はまだつながったままだ。

あ、やば

 

 

尻の管はすぐに抜けた。痛くもかゆくもなかった。

まだふくらんだままのバルーンカテーテルがグイッとペニスから引き抜かれる。

ゥヤっ!!!!

 

 

 

これは痛いなんてもんじゃない。

ホァ……ィッテェ……!!!!!

 

ゴルフボールを排泄したようなものだ。

ィヤァアアアアあああ!!!!!

やかましい読書だなぁ

やかましくならざるを得ないだろ!!! こんなシーンあるなら言っといてよ!!!!

「股間激痛シーンあり」なんてなかなか言いづらいだろ

 

悲鳴を上げて床の上で身もだえする。

ハぅ……ヒゥ……

エロ本以外でチンコ押さえながら読むことってあるんだね

なに平気な顔してんだよ!! これは……ひぃいい〜〜〜!!!

登場人物に共感しながら読むみくのしんにとっては、このシーンはかなりキツイだろうな

 


社内の雑談チャットスレより

雑談チャットで恐山さんが言ってた意味が分かったわ……。たしかに、これは映画館でチェックするしかねえわ……

そんな気にするようなシーンではない

 

「肉体的苦痛」とコンピュータがいう。

2本のアームが追いかけてくる。ぼくは這って逃げる。ほかのベッドの下に入りこむ。

必死で逃げてんなぁ……。もう大人しく捕まって、鎮静剤ぶちこんでもらおうよ……

 

アームは少し手前で止まってしまうが、あきらめない。じっと待っている。

やつらはコンピュータが動かしているんだ。忍耐力に限界はない。

なにこの「人間 vs 機械」って感じ……! 本当にここから仲良くなるの???

 

起こしていた頭をドスンと床に落としてゼイゼイ喘ぐ。

しばらくすると痛みがひいてきて、涙をぬぐう。

いったいなにがどうなっているのか、まるで見当がつかない。

俺もわかんないよ! この話、どうなるんですか!?

少しずつ進んではいるけど、まだ目指すゴールも目標も見えてない状態だもんね

よく考えたら、ずっとヒントなしで進んでるよな! そろそろ何かしらヒントがないと先に進めないって!

 

「おい!」と大声で呼びかける。

「どっちでもいいから起きてくれ!」

そっか! 相部屋の患者が起きてくれたら、また状況が変わるかもしれないのか!

 

「あなたの名前は?」とコンピュータがたずねる。

起きろ!!! 俺のチンコが大変なことになってんだから!!!

お前のチンコは無傷のはずだ

 

「どっちでもいいから、人間、起きてくれよ、頼むから」

起きてくれぇ!!!!!!!

 

なんでもいいからヒントをくれ!!!! 起きろ!!!!!!

 

 

 

「不正解」とコンピュータがいう。

きぃいいいいい!!!!

名探偵津田?

いちいち口出してきやがって!!! ぜってーコイツとは仲良くできねえわ!!!

 

股間が痛くて痛くて、笑うしかない。あまりにもばかげているから。

それとエンドルフィンが出て、浮ついた気分になっているからだ。

もう痛すぎてハイになっちゃってるね。このエンドルフィンって、聞いたことあるけど何のことかよく知らないんだよな〜

脳内麻薬とか聞いたことない? 痛みとかストレスから体を守るために、脳がリラックスする成分を出すんだよ

へえ〜、そういうのがあるんだ。これのサプリとかないのかな?

それは「麻薬がほしい」と言ってるのと同じだからよそで言わない方がいいぞ

 

ふりむいてベッドのそばにあるカテーテルを見る。

ぼくは畏怖いふの念に打たれて首をふる。あんなものが尿道を通り抜けたとは。

あんま見ないほうがいいよ……。こんなの見ると、より痛みが増すから……

 

 

 

ワオ。

ワオ。じゃねえだろ

この主人公らしいノリだよね

とことん明るい奴だなぁ〜! 俺だったらベソかいて、いじけて、楕円のベッドでふて寝すると思う

 

尿道から出る途中でどこか傷つけたようで、床にひと筋、血の跡がついている。

ぅ……わ! こんなの見るだけでも痛ぇよ……

 

 

 

それは1本の細い赤い線で──

なにこれ……怖ぁ……! ここでページ終わってるんだけど!!

本当だね。なんてちょうどいいタイミングだ

これ、わざとそうしてるのかな。こういうのも計算して本を書く人もいるんでしょ?

この場合は、たまたまじゃないかな。文庫本ではこうなってるけど、ハードカバー本だとここでページまたいでなかった気がする

 

尿道から出る途中でどこか傷つけたようで、床にひと筋、血の跡がついている。

それは1本の細い赤い線で──

もう……こっから何が起こるんだよ。気になるなぁ……

みくのしんってこういう場面でもゆっくり読むんだね。続きが気になるなら、早くページをめくればいいのに

そりゃそうなんだけどね。でも、こういう風に文章がページをまたいでると、めくるときにドキドキする溜めがある気がして……

そんな溜めを感じられるくらい夢中になってるんだ。いい読書できててよかったよ

 

 

で、次のページが……

 

 

……うん?

 

何が起きた?

どうした? 前のページと行ったりきたりしてるけど

 

一旦、整理するね。今、ロボットから逃げようとしたせいで、大事なところから管が抜けて……床に血が飛び散って……

 

で、それが一本の赤い線になってるのを見たんだよね?

 

それで……?

 

 

 

 

ぼくはコーヒーをすすってトーストの最後のひと切れを口にほうりこむと、ウェイトレスに支払いを、と合図した。

急にコーヒー飲みだしたんだけど???

そうみたいだね

え? これ、どういう……??? その……え??

 

……。

 

 

 

ワオ……。

何か尿道通った?

別に、これは尿道通ったとき専用のリアクションじゃねえだろ

 

毎朝ダイナーに通う代わりに家で朝食をとれば金の節約になっただろう。安月給のことを考えれば、それが正解だったのかもしれない。

しかしぼくは料理するのが大嫌いで、卵とベーコンが大好きなのだ。

これどういうこと?? 過去?? 未来??? 別の人の話????

わかりやすく物語に揺さぶられてるなぁ。たしかに、ここ唐突に場面が変わるから、ビックリするよな

さっきまで1人でチンコ押さえて暴れ回ってたのに……

 

ウェイトレスがうなずいて、ぼくの支払いをすませようとレジに向かって歩き出したときだった。

客がひとり入ってきて、席にすわった。

急に主人公の日常の朝が戻ってきたんだけど……???

 

ぼくは腕時計を見た。午前7時をすぎたばかりだ。急ぐ必要はない。

1日の仕事の準備をする時間がとれるように7時20分には仕事場に着きたいが、実際は8時までにいけばいいことになっている。

……なんとなく分かってきたぞ。これ、普通に考えたら、回想シーンってことだよね?

そうそう。記憶喪失だったのに、急に記憶が戻ってきたってことだよ

なるほど……。こうやって現状を打開するヒントを思い出していくってことか。本当にゲームみたいな構成だなぁ

 

ぼくはフォンを取り出してメールをチェックした。

メールとか出てくるんだね。やっぱり、現代の話ではあるのかな

 

TO: 天文学愛好家 astrocurious@scilists.org

「TO」ってことは、この主人公宛にメールがきてるのかな?

そうだね。今は、そのメールをダイナーで読んでるシーンってこと

じゃあ、この「astrocurious@」ってのが主人公の名前なのか……? いや、違うか……

 

FROM: (イリーナ・ペトロヴァ博士) ipetrova@gaoran.ru

ペトロヴァ“博士”……? 主人公って博士からのメールを受け取れる関係なんだ

回想シーンを通して、主人公の情報が補完されていってるなぁ

俺が思ってたよりすごい人物なのかもね。ただ、肝心の名前がまだ分かんな──

 

 

SUBJECT: 細い赤い線

!!!! なにこれ!??!?

なんだろうね。SUBJECTは「件名」って意味だけど

それは何となく分かるよ? でも、さっき見た血の跡と同じ言葉がそこに書かれてるんだけど???

 

不気味だなぁ〜〜〜!!!! なにこれ!! ホラーじゃん!!!

たしかにここだけ見ると不条理なホラー演出に見えるよな

こんなのSFじゃないじゃん!! いつ宇宙出てくるんだよ!!!!

 

SUBJECT: 細い赤い線(ゆずれない一線。またそこを守る少数の勇敢な人々の意)

……って書いてある。どういうことだ?

英語の慣用句らしいよ。「シン細いレッド赤いライン」で「生死の境目」とか「最終防衛ライン」みたいな意味なんだって

ふ〜ん? 要は、自分の「血の赤い線」を見たときに、同じ言葉のこのメールを思い出したってことか

 

ぼくは画面を見て顔をしかめた。

このメールの送付対象の科学者リストからは削除されたと思っていたからだ。

そういう生活とはずっと昔におさらばしていた。

これは……科学者グループに一斉送信されてるメールってことか

多分、そうだと思う。少なくとも、主人公一人にだけ届くようなメールではないんだろうね

科学者のメルマガみたいなことかな。主人公はそれに登録するような人なんだ

 

送られてくるメールの量はたいしたことはなかったが、中身は、記憶が正しければ、非常に興味深いものばかりだった。

天文学者や天体物理学者など、その道の専門家の集まりで、なにかおかしいと思ったことをみんなであれこれ話し合うグループだ。

ってことは、主人公は科学者なのかな。これってヒントになるよね?

どうだろうね。その分野と全く無関係の人間ってことはなさそうだけども

でも、科学者だと考えるといろいろ納得できそうな気もするね。たしかに、クールで頭のいいヤツではあったから……

 

ぼくはちらっとウェイトレスを見た──グループの客にメニューのことでいろいろ聞かれている。

このサリーズ・ダイナーにグルテン・フリーのヴィーガン向け刈り取り芝草サラダはあるかとかなんとかいわれているのだろう。

サンフランシスコの善良な市民はたまに食べたくなるらしい。

なんてことない日常風景って感じだなぁ。そんなことより、さっきまでのロボとかハッチの方が気になってるんだけど

 

ほかにすることもないので、ぼくはメールを読みはじめた。

メールの内容よりも、自分の名前を先に思い出してほしいなぁ

 

こんにちは、専門家のみなさん、わたしはイリーナ・ペトロヴァ博士。

ロシアのサンクトペテルブルクにあるプルコヴォ天文台勤務です。みなさんのご協力をお願いしたい案件があります。

天文台! これって、でっけえ望遠鏡とかあるところでしょ!

ざっくりした認識だなぁ。まあ宇宙を観測・研究するための施設のことだね

ってことは、いよいよ宇宙の話が始まるんじゃない!? まさか回想シーンでSFになるとは思わなかったな!

 

 

 

わたしは2年前から星雲からの赤外線放射に関する理論の研究をしています。

んんん??? 赤外線放射??

 

その過程で特定の赤外線領域をいくつか詳細に観測してきました。

そして奇妙なものを見つけたのです──星雲のなかではなく、このわたしたちの太陽系内で。

赤外線領域……? 星雲……?

 

太陽系内に、非常にかすかではあるけれど検知可能な波長25.984ミクロンの赤外線を放射しているラインがあります。

波長……? ミクロン……?

 

 

 

 

完全にその波長だけで変動はなさそうです。

俺に分かるはずがない!!!!!

気持ちは分かる。SFってそうなりがちだよな

完ッッッッ全に置いていかれました!!! 俺にはまッッッッたく理解できませんでした!!! この人はず〜っと何を言ってるんですか???

こんなのほとんどの人が分からないから大丈夫だって

 

わたしは2年前から星雲からの赤外線放射に関する理論の研究をしています。その過程で特定の赤外線領域をいくつか詳細に観測してきました。

そして奇妙なものを見つけたのです──星雲のなかではなく、このわたしたちの太陽系内で。

太陽系内に、非常にかすかではあるけれど検知可能な波長25.984ミクロンの赤外線を放射している線ラインがあります。完全にその波長だけで変動はなさそうです。

読み返しても何のことだかサッパリだ。今の俺は「博士が何かを発見したっぽい?」ってことしか分かってないです

なんだ、ちゃんと分かってるじゃん。とりあえず、それさえ伝わっていれば大丈夫だよ

マジ……? こんな難しいこと言ってるのに、なんとなくで大丈夫なの……?

SFって科学用語が出てくるから、「もう分かんねっ!」って投げやりになっちゃうよな。でも、別に100%理解しなくて大丈夫なんだよ

 

データのエクセル・スプレッドシートを添付します。

データをレンダリングで3Dモデルにしたものも少し入れておきます。

じゃあ、これは……博士が参考になるデータを送ってくれてるってこと?

そうそう。ほら、読み進めていけば、いくらか分かる部分もあるでしょ

う〜ん……。こんなものまで送ってくれるから、このメルマガは月額費高そうだな〜ってことは分かるけど……

そんなことまで考えなくていいけど、まあそれでいいよ

 

そのモデルを見ていただくと、問題のラインが太陽の北極から立ちあがって3700万キロメートルの高さまでつづくゆがんだ弧を描いているのがわかると思います。

……は? 太陽の北極から……3700万km……?

……。

なにこれ? 何の話をしてるの?

この博士が見つけたものを報告してるんじゃない?

いや、それは分かるんだけど……

 

太陽からピューンと何かの線が出てるってこと? そんなわけなくない???

普通なら、そうだろうね。でも、メールにそう書いてあるからさ

え……? なにそれ……???

 

弧はそこから急激に下降して太陽から離れ、金星に向かっています。

それが金星につながるとか言ってるんだけど???

……。

なにその線??? そんなのあって大丈夫???

 

弧の頂点をすぎると、この雲状のものは漏斗ろうとのようにひろがっていき、金星では弧の断面は惑星自体とおなじくらい大きくなっています。

え……っと? これはつまり……?

この辺は直感でイメージするのは難しいよな

……というより、頭でイメージできるスケールを超えてる気がするこれって、つまりどういうことだ……?

 

ちょっと一回ホワイトボードに書いてみるか

お、いいね。図にするとわかりやすいと思うよ

まず、太陽があって……金星があって……

 

で、太陽から謎の線がのぼっていて……

 

で、漏斗のように……こう……広がって……

 

しかも、それが金星と同じ大きさになっていて……

 

 

 

……。

 

そんなわけないか。すげえバカな絵を描いちゃったかも

いや、合ってるよ。書いてある文章通りに絵を描いたら、こうなるんだから

マジ? じゃあ、空を見てたら、本当にこの線が見えたってこと?

だから、博士も科学者たちに急いでメールで報告したんだろうね

 

 

怖すぎます!!!!

こっちのセリフだろ。急にカメラに向かって突進してくんな

なにこれ、怖ぁ!!!! 計り知れない規模で何かが起きてんじゃん!! 今まで感じたことのないタイプの怖さだ!!!

 

これで合ってんのかよ……。一回絵に書いてよかったな。こんなイメージ、脳みそに収まりきらないって

それがSFでつまづきやすい要因でもあるんだけどね。「イメージできない」「そんな訳ない」と思っちゃうと、それがそのまま「読めない」に繋がっちゃうというか……

そうそう! 最初に読んだときは「俺が読み間違えてるのか」と思ったもん。さすがにありえないから

その「ありえない」を描くのがSFなんだけどね

 

でも、そうだと分かったら、「そんな訳なさすぎる」が、そのままワクワクに繋がってる気がするね。なんかとんでもないことが起きてることは理解できるし

その感覚があるなら、SF好きになれると思うよ。このケレンミのあるスケール感こそがSFの醍醐味だから

すげぇ……! 今まで読んだ本と全然違う! 今まで見たことのない景色を見せられてる気がする……!!!

 

赤外線の輝きは非常にかすかなものです。

検知できたのは、星雲からの赤外線放射IRを探るために非常に感度のいい装置を使っていたからにすぎません。

しかし念のため、チリのアタカマ天文台──IR天文台としては世界一だと思います──に確認をお願いしたところ、まちがいないとのことでした。

この博士は、この謎の現象をたまたま見つけたのか……。そりゃメールで誰かに教えたくなるよな!

ほら、IR光とか専門用語の意味が分からなくても、ワクワクする場面なのは分かるでしょ?

分かる分かる! でも、本当にこの辺の用語は分かんなくていいの? 詳しい人にバカにされない?

そんなの気にしなくていい。「このワクワクには科学的な元ネタがある」と分かっていれば大丈夫

 

惑星間空間でIR光が観測される理由はいろいろあります。

うんうん……。IR光ってのが何なのかは分かんないけど……一応、仕組み自体は分かってるのかな?

 

宇宙塵その他の粒子が太陽光を反射している。あるいはなんらかの分子化合物がエネルギーを吸収して、赤外線領域の波長で再放射している。

それだと、すべておなじ波長ということの説明がつきます。

これも、「なんか頭のいい人が、いろいろ考えてんだな〜」くらいでいいの?

全然いいよ

本当にそれでいいの? 俺、何にも理屈を理解してないんだけど

俺だって100%は理解できてないよ。「このデタラメな現象を、専門家としてどうにか説明しようとしてる」ってことが分かれば、それで十分だと思う

 

弧の形状はきわめて興味深いものです。

最初は粒子の集合体が磁場に沿って移動しているのではないかと推測しました。

磁場に沿って? ……まあ、博士はそういう予想をしてるってことだよね

 

しかし金星には、磁場といえるほどのものは存在しません。

磁気圏じきけん電離圏でんりけんも、なにも。

またルビ書いてくれてる! かまどもよくこんな単語知ってるなぁ

俺もルビ書くまでこの単語の意味知らなかったよ

ちなみに、この磁気圏とか電離圏ってどういう意味?

説明すると難しいんだけど……ほら、大気圏ってあるでしょ。それの、磁気と電気バージョンってイメージでいいと思う

 

要するに、宇宙にドデカい線ができる現象は、電気か磁気のしわざと考えるのが普通なんだけど……

でも、金星にはそれがないってことか

 

つまり、「自然に”こんなもの”ができるわけがない」ってことで……

 

ってことは、誰かがこれを”作った”可能性もあるってこと……?

 

 

 

なんだよそれ!! おもしれぇ!!!!

面白いよな〜。ここから物語の推進力がグンと高まる、印象的なシーンだと思う

 

どんな力が働いて粒子は金星に向かっているのか? そしてなぜ光っているのか?

示唆、理論、なんでも歓迎します。

この博士にも何がなんだか分かってないってことだよね! で、ヒントが欲しくて科学者クラブにメールしてきたのか!

で、過去そのメンバーだった主人公にも、そのメールが届いてた──ってことだね

なにこれぇ……! めっちゃ面白そうじゃん!!!

ほら。理屈を100%理解しなくても面白いでしょ? だから、あんまり難しく考えずに読んでいいんだよ

たしかに! 俺でも、素直に「おもしれぇ!」って思えてるもんね!

 

でも、の面白さが、理屈でカチコチに固められてるのもすごいね! なんか分かんないけど「リアリティあるなぁ〜!」ってことだけは分かるわ!!

それもSFの魅力だよな。その理屈も現実世界と同じルールだから「ただのフィクション」としては終わらない実在感があるというか

そうそう! 現実世界とめっちゃ地続きというか……俺たちの世界でも、今はたまたまこれが起きてないだけで、いつか同じことが起きるのかも! って思わせてくれる気がする!

お前、本当にSF読むの初めてか?

 

 

あれはなんだったんだ?

いっきに思い出した。予告なしに突然、頭に浮かんだ感じだ。

ん? 回想シーンから戻ってきた?

 

自分自身のことはあまりわからなかった。

住んでいるのはサンフランシスコ──それは思い出した。そして朝食が好き。

それに前は天文学畑にいたが、いまはちがう?

そういえば、主人公については何も分かんなかったな。名前くらい思い出してもよさそうなのに

 

脳が、そのメールのことを思い出すのが重要だと判断したのはまちがいない。

自分の名前などという些細なことではなく、メールのほうが重要なのだ。

……たしかに、こんなことが起きてるのなら、名前なんか思い出してる場合じゃないのか

とはいえ、今は名前が分からないと先に進めない状況だけどね

正直、気になることが多すぎて、どこから探索すればいいのか分かんないな。オープンワールドのゲームをやってるみたいだ

 

潜在意識がなにかいいたがっている。

血の線を見たことで、あのメールのタイトル”細い赤い線”が浮かんだのはまちがいない。

しかしそれがぼくとどう関係しているのか?

回想であんなにおもしろい話をチラ見せしといて、おあずけかよ!! 早く続きを思い出してよ!!!

でも、このロボットアーム部屋のことも気にならない? こっちはこっちで、まだ何も明らかになってないんだから

それはそうなんだけどさ〜! 今のところヒントもないし、名前が思い出せなきゃ手のうちようがないじゃん!

 

身体を小刻みに揺すってベッドの下から出て、壁にもたれてすわる。

ロボットアームが角度を変えて迫ってくるが、まだ届かない。

そろそろ患者仲間の顔を見てやろう。

そうだ! この人には、仲間がいるんだった!

ほら。こっちのパートにも、大きなヒントがまだ転がってるでしょ

そういえば、これも気になってたな……。いま気付いたけど、これ、さっきの科学者メンバーなんじゃない? メール送ってた博士も一緒に寝てんのかも!

 

自分が誰なのかも、どうしてここにいるのかもわからないが、少なくともぼくは孤独ではない──

ずっと一人じゃ限界あるもんな。ここからはチームでこの部屋の謎を解いていかないとね

 

 

 

そして──、かれらは死んでいる。

えっ?!?

 

……死んでんの???

そうみたいだね

 

そうだ、まちがいなく死んでいる。

当たり前のようにサラッと言うからビックリした……。なんでこんなに冷静なんだよ!!

ここの文章すごいよね。読者の心の準備が整う前に、衝撃の事実が飛び込んでくるような演出力があって好きなんだよな

それにしたって、「そして──、かれらは死んでいる。」ってセリフはおかしくない? 人任せなケンシロウみたいな言い方しないでよ

「お前はもう死んでいる」を外部委託するとそういう言い方になるんだ

 

ぼくに近い方は女性、だと思う。とりあえず髪が長い。

それ以外は、ほとんどミイラ状態だ。乾燥したシワシワの皮膚が骨に張りついている。

匂いはない。腐敗が進行しているわけではない。だいぶ前に亡くなったのにちがいない。

なるほど……! だから、ひと目見ただけで死んでるって分かったのか……

 

もうひとつのベッドの主は男性だが、もっと前に亡くなったのだと思う。

皮膚が乾燥しているだけでなく革のようにこわばっていて、ぼろぼろにくずれている。

一瞬、「医者でもないのに、すぐに死んでると言い切るのは怪しくない?」と思ったんだけどね。もしかしたら主人公が殺したのかも、とか勘ぐっちゃった

まあ、主人公が医者じゃないかどうかは、まだ分かんないけど

……そう言われたら、そうか。よく考えたら、まだこいつのこと何も知らないな

 

オーケイ。

ぼくは2人の死人といっしょにここにいるわけだ。

人が死んでるのに「オーケイ」じゃねえだろ。こいつ、ノリが軽いなぁ〜!

まあまあ。こいつはずっとこういう性格ではあったでしょ

それにしたって、もっと深刻になったほうがいいんじゃない? これ映画だったら、もっとドラマチックに演出されるところだろ

 

急にドアップになって、ミイラの顔が画面いっぱいにドーンと映し出されてさ!

みくのしんの演出プランは知らないけども

「バァーーーン!!!」って派手な効果音も鳴ってそうだよね

 

で、それを見たライアン・ゴズリングが「ぅあぁあああ」って腰抜かしてさ!

そんな安っぽい映画なわけないだろ

 

 

気持ちが悪い、怖い、という気分になって当然なのに、ぜんぜんそうならない。

2人とも亡くなってからあまりに時間がたちすぎていて人間とは思えないのだ。ハロウィンの飾りみたいに見えてしまう。

なるほど、現実感がないのか! 血が出たり、ニオイがしてるわけでもないもんね

だから、さっきみたいな冷静な受け止め方になったんだろうね

そもそもロボとか激痛ちんことか突然の記憶復活とかいろいろあったもんな。案外、これくらいのリアクションになるのかもね

 

どちらとも親しい間柄でなければいいのだが。もしそうなら、思い出しませんように。

やだなぁ〜! いつか、この2人のこと思い出す瞬間がくるんでしょ?

まあ、記憶喪失のまま物語が終わることはないだろうな

映画だったら最大の見せ場になりそう〜! 全米が号泣するシーンになりそう……!

……。

 

人が死んでいるのは気になるが、それよりもっと気になるのは2人があんなふうになるほど長いあいだここにいるということだ。

いくら隔離区域だろうと死人は運び出すものだ、そうだろう?

はい。僕もそう思います

 

なんだかわからないが、なにかがとんでもなくおかしいことになっているのはまちがいない。

はい!! 俺も同じ気持ちです!!!

本と会話でもしてんのか?

主人公も「なんだかわからない」って言ってくれるのが嬉しいね。そのおかげで、俺も一緒に困って、一緒に進んでる感覚があって楽しいわ

 

立ち上がってみる。

そろりそろりとした動きだし、やたらと力がいる。

この状況でまだ動こうとしてるんだ……。俺だったら今起きたことを整理するためにもう何回か寝なきゃ動けないと思う

 

やっと立ち上がってミス・ミイラのベッドの縁に寄りかかる。

ベッドが揺れてぼくも揺れるが、どうにか立ちつづける。

ミス・ミイラだって。やっぱり、この人ユーモアあるよな!

こういうちょっとした表現が、ウィットに富んでるのいいよね

そもそも独り言なのに、このノリのままいられるってすごいことじゃない? 誰にも見られてなかったら、気も緩むし、ダサい振る舞いとかしちゃうのが普通なのに

 

ロボットアームがぼくをつかまえようとするので、また壁にへばりつく。

ほらきた!! 勝手に動くからロボが飛んできたぞ!

ロボが描写されるたびにカメラを威嚇するのやめてくれよ

 

ぼくは昏睡状態だったにちがいない。ああ、そうだ。考えれば考えるほど昏睡状態だったという思いが強くなる。

どれくらいのあいだここにいるのかはわからないが、ルームメイトとおなじときにここに入れられたのだとしたら、相当長い期間ということになる。

ロボと格闘しながら、これを考える余裕まで出てきたんだ。どんどん頼もしくなっていくね

 

半分ひげ剃りのすんだ顔をこする。

あのアームは長期にわたる意識不明状態を維持管理できるように設計されているのだろう。

ぼくが昏睡状態だったことを裏づける、さらなる証拠だ。

これはだいたい予想通りではあるよな。ってことは、やっぱりここは病室なのかな?

その可能性もまだゼロではないよな。主人公のお世話をするロボットもいるし

でも……だとしたら、相部屋の患者がミイラになってるのはおかしくない? なんで主人公だけが生かされてんの?

 

あのハッチまでいけるだろうか?

一歩、踏み出す。もう一歩。

なんか、この主人公って迷ったり、悩んだりする時間が全然ないよね。常に、何かを考えるか、試すかをやり続けてる気がする

だからこそ、物語の進みは遅いけど、テンポがいいから読んでて飽きないんだよな

なんかもう、物語が……というより、この主人公のことが気になってきたな。それなりに失敗もしてるのに、ずっと前向いてんのもカッコいいよなぁ……

 

そして床に沈みこむ。高望みしすぎた。休まなくては。

これだけりっぱな筋肉がついているのに、どうしてこんなにヘナヘナなんだ? そして、もし昏睡状態だったのなら、どうして筋肉がついているんだ?

マッチョなビーチボーイではなく、しぼんだひょろひょろのふぬけ野郎になっていて当然なのに。

これをずっと気にしてるね。そんなにこだわるようなところか?

みくのしんはそう思うんだね

う〜ん、そりゃ考えたら変ではあるんだけどね。でも、他にも気になることが山程あるのに、ここで気にするようなことなのかな〜

 

まあ、この人が言うからには重要なことなんだろうね

すっかり信頼してるなぁ

 

自分の終盤がどう展開していくのか、まるで見当がつかない。

なにをすればいいんだ? ぼくはほんとうに病気なのか?

なにをすればいいんだ?」ってすごいセリフだなぁ。誰に言われたわけでもないのに、自分から何をするべきかを探ろうとしてるんだ

この主人公って、読者が気になるより先に、やるべきことを見つけて、その都度、読者の予想を超えた結果を見つけていくから、読んでて気持ちいいよね

だからかな。こんなにゆっくりとしか進んでないのに、全然ストレスじゃないというか……めっちゃ頭いい人のゲーム実況を見てる気分なんだよな

 

というのも、たしかにヨレヨレという気はするが、”病気”とは思えないのだ。吐き気はない。頭痛もしない。熱もないと思う。

病気でないなら、どうして昏睡状態だったのか? 怪我をしたのか?

頭をぐるっとさわってみる。こぶも傷痕も包帯もない。身体のほかの部分もきわめて健全。健全以上。筋骨隆々だ。

こんなに分からないことだらけなのに、落ち込んだり、ヤケになったりしてないんだよ? それってすごいことじゃない?

 

眠気に襲われるが抵抗する。

もう一度やってみよう。

こいつ、カッケぇよ……!

ずいぶん気に入ってるなぁ。それだけ、みくのしんに刺さるタイプの主人公だったんだね

こんな状況でもグチグチ言わずに! それをたった一人で!! 誰にも見られてないのに!! ユーモアも忘れずに!!! ず〜っと進み続けてる!!!

 

早く名前知りてぇ〜〜〜!!!!

ここまで好きなのに、そういえばまだ名前も知らないのか

早くこの人のことを名前で呼びたいです。もっといろんなことを教えてほしい

 

よいしょと立ち上がる。

ウェイトリフティングでもしているみたいだが、さっきより少し楽だ。どんどん回復している(と思いたい)。

落ち着いてね! ゆっくりでいいから、前に進もう!

 

足だけでなく背中も支えにして、壁伝いにすり足で進む。

アームはしきりに手をのばしてくるが、届かない。

こうなると、アームは敵というより障害物って感じだね! 今さら気にするようなもんじゃないよな!

 

ゼイゼイハーハーいっている。マラソンをしてきたみたいな感じだ。

肺の感染症だろうか? ぼくを守るために隔離されているのか?

いろいろ推理してるね。その推理の対象が自分自身ってのがすごいよな〜

 

ついに梯子はしごのところまでやってきた。前によろけて、梯子はしごをつかむ。

こんなにも弱っているとは。どうやって10フィートの梯子はしごを上るというんだ?

10フィートってどれくらいなの? この単位のこと、耳にはするけどよく分かってなくて……

俺も知らないなぁ。今調べたら、1フィートが30cmくらいなんだって

じゃあ、ハシゴの長さが3mもあるってこと? 相当天井高くない???

 

10フィートの梯子はしご

ん?

 

いまヤード・ポンド法で考えた。

これは手がかりになる。ぼくはたぶんアメリカ人だ。

あるいはイギリス人か。カナダ人という可能性もある。カナダ人は短い長さにはフィートとインチを使う。

すげぇ……!! 自分の中から、とっさに出てきたものまで、ヒントにしてるんだ!

ここ、カッコいいよね〜! 俺も好きなシーンだわ

横で見てた俺でも「あれ? こいつフィートを使ってるってことは……」って気付かなかったのに! それを自分でヒントに仕立て上げたんだ!

 

俺、こいつ、好きかも。

だろうね。さっきから、ずいぶん前のめりで読んでるし

この人、頭いいけど、俺とも仲良くしてくれそうなんだよな〜。一緒にちんこを痛めた仲だしね

それで深まる絆があってたまるか

 

自分にたずねてみる──LAからニューヨークまでの距離は?

本能的に出てきた答えは──3000マイル。カナダ人ならキロメートルを使うはずだ。

したがってぼくはイギリス人かアメリカ人。あるいはリベリア出身か。

記憶喪失した脳みそからヒントを掘り出そうとしてる。こんなことできないよ……

 

リベリアでもヤード・ポンド法が使われていることは知っているのに、自分の名前がわからない。それが腹立たしい。

大丈夫、大丈夫! 君なら絶対に思い出せるから!

本を読みながら、エールを送ってんの? 器用なことするなぁ

俺は何もできないけど、応援することならできるんです

 

深呼吸する。両手で梯子はしごをつかみ、いちばん下の横桟よこざんに足をのせる。

またルビだ。いつもありがとうございます

これは正直、俺も調べないと読み方分かんなかったよ。ハシゴの足をかける横棒のことなんだって

へえ〜。あれって横桟っていうんだ

 

身体を引き上げる。

ぶるぶる震えながらだが、やり遂げる。両足が梯子はしごにのっている。手をのばしてつぎの横桟よこざんをつかむ。

オーケイ、順調に進んでいる。

握力もないから……こう、全身を使って……

みくのしんの読書ってやたらと動きを伴うよな

落ち着いて! 落ちたらやばいから! 最後まで緊張感もって!!

 

全身がなまりでできているような気がする──なにをするのもひと苦労だ。

身体を引き上げようとするが、握力が足りなかった。

まあ、それは病み上がりだからしょうがないよね。そこを責めてもしょうがな──

 

 

 

 

梯子はしごから仰向けに落ちる。

あっやば

 

これは痛いぞ。

これは痛い!!!!!

自分が落ちたかのように読むなぁ

だから、「最後まで緊張感もって!」って言ったじゃん!!俺が褒めたからって、気を抜くんじゃないよ!!!

無茶な角度から主人公を叱責しないでよ

 

 

 

痛くない。

痛くないんかい!!!!!

褒めたり、叱ったり、笑ったり。感情が忙しいやつだ

 

床に落ちる前にロボットアームが受け止めた。アームの作動範囲に入っていたからだ。

やつらはまごついたりしない。まるで子どもを寝かしつける母親のように、ぼくをベッドにもどす。

ロボが助けてくれたんだ! こいつ、ここまで面倒見てくれるんだね

主人公の健康を維持するための存在っぽいもんね

いいじゃん、いいじゃん! 主人公が名前を思い出したら、心強い味方になりそう〜!

 

白状しよう。これは助かった。

もうくたくただったから、横になれるのはありがたい。ベッドのやさしい揺れが心地いい。

これは素直に「ありがとう」って言わないとね。ここから友情が芽生えるきっかけになるわけだから

……どうしても、このロボとのバディものって印象が拭えてないんだな

そうじゃないと、主人公が孤独でかわいそうだろ。仲間はミイラになっちゃってるんだし

 

が、梯子はしごから落ちたときのことが、なんだか気になってしかたがない。

頭のなかでリプレイしてみる。指をかけそこなったのだが、そこがどうも……“おかしい”気がする。

なんだ? 何か気になることがあったのか?

具体的には分からないけど、何か違和感があったってことだろうね

どうおかしかったんだろう。落ち着いたら、もう一度行ってみてほしいな

 

うーん。

睡魔が襲ってくる。

また振り出しか……。でも、今回のチャレンジはだいぶ収穫あったんじゃない? メールのことも思い出したし、相部屋の仲間が死んでることも分かったし……

 

 

 

「食べてください」

また起きて早々、ロボの登場か。今度は食事を運んできたんだ

まあ、起きてからまだ何も食べてないもんな

そういえば、そっか。このロボもなかなか気が利くじゃん

 

胸の上に歯磨き粉のチューブが置いてある。

……えぇ?

 

「はあ?」

「食べてください」とコンピュータがくりかえす。

ロボットのいじめ、エグすぎない???

別にいたぶってるわけじゃないと思うけど

冗談でもこんなことする奴とはやっていけません! コンビ解消です!!

最初からコンビ組んでねえよ

 

ぼくはチューブを手に取る。

白地に黒い文字で“第1日・第1食”と書いてある。

あ〜、病院食みたいなことかな? 見た目が歯磨き粉だっただけか

 

「なんだこれは?」

「食べてください」

キャップを開けて匂いを嗅ぐと、うまそうな匂いがする。そう思っただけで唾が出てくる。そこで初めて、やたら腹が減っていることに気づく。

そっか、ずっと寝てたもんな。今まで点滴でしか栄養とれてなかったのか

昏睡状態だと、食べ物を摂取することもできないもんな。だから、最初は管だらけだったんだろうね

うんうん、だんだん状況が分かってきてるぞ……。まあ、「なんでそういう状態だったの?」ってのは相変わらず分かんないんだけど

 

チューブを絞ると、気持ちの悪い茶色い泥みたいなものが出てくる。

食欲わかねえなぁ〜!!!

昏睡明けの一発目に食べるものなんだし、こういうもんなんじゃない?

でも、もっとこう……彩りとか大事だろ! 食事ってのは見た目が肝心なんですよ!!

厄介な入院患者だなぁ

 

「食べてください」

身の毛のよだつロボットアームを持つコンピュータ上主オーバーロード様に、ぼくごときが疑問をぶつけられるはずもない。

オーバーロード……。これ、多分アメリカンジョークだよね。コンピュータさまさま……みたいなこと?

そういうイメージでいいと思うよ。これ自体は『幼年期の終わり』ってSF作品に出てくる単語だから、パロディネタみたいなことじゃないかな

へえ〜! そういう小ネタを仕込んでるのか。小説でもそんなことしていいんだね

それでいうと、最初の「2+2=」も有名なSF作品のオマージュだからね。そういうのもSF好きが見たら「おっ」ってなるシーンだと思う

 

だからその茶色いものをこわごわ舐めてみる。

肝心なのは味だからな……。どうだ……?

 

オー・マイ・ガー

どっち!?

 

 

 

うまい! すごくうまい!

よかったねぇ〜!

本の中の食事シーンに、ここまでリアクションとれるヤツも珍しいだろ

 

濃厚だがしつこくないグレイビーソースという感じだ。

直接、口のなかへ絞り出して味わう。

いいなぁ〜!めっちゃ美味そうじゃん! 俺も腹減ってきた!

さっきまで「食欲わかねぇ」って言ってたのに?

俺は人が美味そうに食べてるのを見るのが好きなんです! 

 

断言する、セックスよりいい。

こいつ、いちいち面白いこと言うなぁ〜!

みくのしんって、ユーモア表現に対してのリアクション多いよな。こういう小粋なセリフとかジョークとか好きなんだね

それが”本”に書いてあるってのが嬉しいんだよ。俺にとって、まだ本は「マジメでお堅いイメージ」だから、本の中でこういうこと言われると「厳しかった先生が冗談にノッてくれた」みたいな嬉しさがあるのかも

そういうもんなのか

 

でも、本当にセックスよりいいのかなぁ? そんなことある?

なに厳密に判断しようとしてんだ

これが本当だったら、今後お付き合いする人がかわいそうだろ。エッチするたびに「あのときの病院食の方がよかった」って比べられるんだよ?

余計な心配もしなくていい

 

どういうことなのかはわかっている。空腹はなによりもまさる調味料。

飢えていて、やっと食べものにありつくと、脳は気前よくごほうびを奮発してくれるのだ。

よくやった、これでしばらくは死ななくてすむぞ!

あ〜そっか! 今まで極限状態だったんだし、そりゃ大げさな感想にもなるよな

 

いろいろと合点がいく。

長いこと昏睡状態だったのだとしたら、そのあいだ栄養補給されていたはずだ。

目が覚めたとき腹から管は出ていなかったから、経鼻胃NG管を使っていたのだろう。消化に問題はないが食べることができない患者にたいしてもっとも侵襲が少ないのはこの方法だ。これなら消化器官を動かして健全に保つこともできる。

それに、目が覚めたとき管がなかったのも説明がつく。NG管は、できれば患者の意識がもどらないうちに抜いておくのが望ましい。

急にめっちゃ頭回ってんじゃん!

なんちゅう顔して読んでんだ

メシ食った途端に、ものすごいスピードで頭回転してる! やっぱ食事って大事なんだな〜!

 

どうしてこんなことを知っているんだ? ぼくは医者なのか?

いいなぁ……! もし、これが俺だったら、「自分、医者かな?」って思う瞬間なんて一生こないと思う

このシーン、カッコいいよね。記憶が戻ってないのに、必要な知識だけは覚えてる感じが好きなんだよな

記憶喪失中に思い出す自分が、こんなに頼りになる人間だったら嬉しいだろうな〜!

 

またグレイビー味の泥を口のなかに絞り出す。やっぱりうまい。ゴクンと飲みこむ。

チューブはすぐ空になる。

本当に空っぽですか? 最後まで残さず飲み切りましたか?

そんなこと気にしなくていいんだって

俺は貧乏性だから、こういうのが気になってしょうがないんです。一回、容器の中に空気を吹き込んで、余す所なく飲みましたか?

 

俺だったら、こう……容器の中に空気をプゥク……って入れて

 

パァン!!! って口ん中に噴射するけどね!!

どこで節約グセを発揮してんだよ

仕上げは容器に水を入れてソースを溶きたいです。そして、ハサミでパックを切ってゴムベラで中身を残さず舐め取ります

記憶喪失中に思い出す自分が、そんなに卑しい人間だったら落ち込むだろうな

 

ぼくはチューブを高く掲げる。「おかわり!」

「食事完了」

「まだ腹ペコだ! もう一本!」

「今回の食事の割当わりあて量はこれだけです」

うんうん。コンピュータとも、いい感じにコミュニケーションでき始めてるね

 

これは理屈に合っている。

ぼくの消化器官はたったいま半固形物を受け入れたばかりだ。安全運転でいったほうがいい。

食べたいだけ食べたら、たぶん具合が悪くなってしまうだろう。コンピュータの対応は正しい。

俺が入院したときの病院食もこんな感じだったな〜。これはこれで美味しいんだけどね

とはいえ、これで腹が満ちた気にはならないよな

それも分かる! 俺も、お見舞いに来た友だちに「今日はどんなご飯食べたの?」って聞いて、その話でどうにか腹を膨らませてたもん

文字通りの意味で「情報を食っているヤツ」っているんだ

 

「もっと食わせろよ!」

空腹のまえには正しいもくそもない。

これも分かる! 何か食べたら、より腹が減ってくるよな〜!

 

「今回の食事の割当わりあて量はこれだけです」

「チェッ」

それでも前よりずっと気分がいい。食べるものを食べてしっかりエネルギー補給ができたし、ゆっくり休んだし。

空腹はしょうがないけど、気分が持ち直したのは何よりだね

今までは、万全のコンディションってわけじゃなかったんだろうしね

よく考えたら、万全じゃないのに、ここまでユーモアを忘れずに一人で頑張り続けてたのか。アンタすげぇよ……

 

壁に向かって突進するつもりでゴロンとベッドから下りるが、アームは追いかけてこない。

食べられるとわかったので、ベッドから出ることを許されたのだろう。

ロボも見守るモードに入ってるね! こいつ、めちゃくちゃ過保護ってわけでもないんだな

 

自分の裸体を見下ろす。どうも落ち着かない。

ほかにいるのは死人だけとわかっていても、やっぱり気になる。

そうなんだよな〜。こいつ、まだ全裸の状態でウロウロしてんだよ……

さっきまで管だらけだったから、しょうがないんだけどね

そろそろ服着てほしいです。目のやり場に困るから

 

「服はあるかな?」

コンピュータはなにも答えない。

「そうか。いいたくないならいわなくていい」

ベッドのシーツを引きはがして胴に2回巻きつける。背中側にある端っこを肩にかけて前にある端っこと結ぶ。

インスタント・トーガの完成だ。

トーガってのは分かんないけど……まあ、何にしろ服を作ったってことだよね?

トーガは一枚布でできた服だね。古代ローマのファッションを思い出したら分かりやすいと思う

あ〜。テルマエ・ロマエで阿部寛が着てた感じの服か

 

「自立歩行、検知」とコンピュータがいう。

「あなたの名前は?」

名前……。そう言えば、まだこれが解決してないな

相変わらず、それが分からないと先に進めない状況のままだよな

でも、名前を検知したからってどうなるの? コンピュータに本人認証されたら、何が起こるのかもまだ分かってないし……

 

「余は皇帝昏睡状態コーマ・トースである。ひざまずくがよい」

「不正解」

いいねぇ。ジョークをかます余裕も出てきてるじゃん

 

そろそろ梯子はしごの上になにがあるのか見にいこう。

少しふらつくが、歩いて部屋を横切る。

これはひとつの勝利だ──揺れるベッドや壁にしがみつかなくても大丈夫なのだから。2本の足で自立しているのだから。

もうつかまり立ちじゃなくても行けるんだね。すっかり大きくなっちゃって……

そんな赤ちゃんの成長を見守ってるんじゃないんだから

だって、最初の方は目を開けることもできなかったんだよ? 人間として当たり前のことすらできなかったのに、どんどん成長してるからさ

……。あぁ……たしかに……?

 

 

……本当だね。はぁ〜! なるほどなぁ……!

 

何が「なるほど」なの? 勝手にかまど一人で納得しないでよ

いや、みくのしんの感想を聞いて気付いたけど、この第1章って「人間の誕生」になぞらえた構成になってるのかな〜と思って。だとしたら、めっちゃロマンある書き方だな……

ん? つまり、どういうこと?

みくのしんが言った通りだよ。最初は目も開けられなかったのに、そのうち言葉が話せるようになって、起き上がれるようになって、ベッドから転げ落ちたりしながら、そのうち一人で歩けるようになって……という展開が、まんま赤ちゃんの成長を描いてるみたいだなと

 

たまたま「まるで赤ちゃんに見えた」わけじゃなくて、そもそも「赤ちゃんのように描いてるシーン」ってこと?

そうそう。ロボットアームがずっとお世話してたり、抱っこしてくれてたのも、赤ちゃんを育てる母親のメタファーだったりするのかもね

へえ〜! そうなんだ! そういう仕掛けがある小説ってことか! そんなことによく気付けるな〜!

いやいや! これは俺が勝手にそう思っただけだから。あんまり持ち上げられても困るよ

 

なんで? かまどがせっかく気付いたんだから、それでいいじゃん

だって、ほら。こんなの全然見当違いかもしれないし、SF作品においてはよくあるメタファー表現かもしれないし、詳しい人からしたら「そんな演出意図くらい気付いて当然だろ」って言われる程度のことかもしれないし……

それでもいいじゃん。それもかまどの読書なんだから、好きに読んだらいいって

そんな無邪気な顔で言われて、俺はなんて思えばいいんだ

 

梯子はしごまでたどりついてしっかりつかむ。

なにかにつかまる必要があるわけではないが、つかまったほうが人生、楽に過ごせるのはたしかだ。

いちいちシャレてるなぁ〜。俺も、こういうときにこんな余計な一言を言えるようになりてえよ

 

梯子はしごの上にあるハッチはめちゃくちゃ頑丈そうだ。おそらく気密構造だろう。

しかもロックされている可能性が高い。それでもとりあえず試してみなくては。

カギかかってる可能性に気付いてるんだ。それなのに、前に進めるのはコイツのいいところだよね

そうでもしないと、何も打つ手がなくなっちゃうからな

でも、これが俺だったら、「どうせダメだよな〜」「これで開いてなかったら、めっちゃショックだな〜」とか延々とグズグズしてると思う

 

だからこそ、こいつは主人公なんだよ! 失敗することも頭に入れて、それでも「やってみる」って誰でもできるわけじゃないからね!

すっかりこの主人公のことが気に入ってるな

「失敗」と「成功」の捉え方が、俺と全然違うんだろうね。どっちであろうと、一つの実験の結果として受け止めてる感じ。それがカッコいいんだよな〜!

 

梯子はしごを1段上る。

厳しいが、できないことはない。

もう1段。

オーケイ、コツがわかった。ゆっくりと着実に、だ。

うんうんうん! いいよいいよ! 進んできてるよ!!

 

ハッチにたどり着く。

片手で梯子はしごをつかみ、もう片方の手でハッチの円形のクランクを回す。

どうだ……!? 回る!? カギかかってる……?!

 

 

 

ちゃんと回る!

回ります!!!

嬉しそうだなぁ。主人公より喜んでない?

そりゃ嬉しいだろ! ここにきて、ようやく努力が報われたんだから! 壮大なBGMを流すならここでしょ!

 

「ホーリー・モーリー!」とぼくはいう。

ホーリーモーリー?

 

「ホーリー・モーリー(米コミックの主人公キャプテン・マーベルの口癖)?」

これが驚いたときに口をついて出るぼくの定番表現なのか? いや、べつにいいんだが。

できればもう少し1950年代ぽくないもののほうがよかった。いったいどういう変人なんだ、ぼくは?

また自分から出てくる言葉をヒントにしてるね。どういう意味なのかは、よく分かんないけど

俺たちの感覚で言うと、咄嗟に「アッチョンプリケ!」と言っちゃって、「俺ってこんな口癖あったの?」と疑問に思うようなものじゃないかな?

なるほどね。自分の引き出しの中に古いマンガの言葉があるおかしいってことか

こういうシーンは日本の感覚だと理解しづらいよね。俺も正確なニュアンスは掴めてないと思う

 

クランクをきっちり3回、回すと、カチッと音がした。

さあ、いよいよ開くぞ……! 第2ステージの扉が……!

第2ステージて。本当にゲームみたいに読んでんだな

 

ハッチが下側に開いたので、ぶつからないようによける。

おっとと……

そこまで再現しながら読まなくていい

 

ハッチが完全に開く。頑丈そうなヒンジがついている。これで自由の身だ! 完全に、とはいえないが。

ハッチの向こうは真っ暗闇。あまりぞっとしないが、とりあえず一歩前進したのはまちがいない。

よしよしよし!! 開いた……開いたぞ!!!

(自分が開けたかのように喜んでる……)

真っ暗闇って……どんな場所なんだろう。もしかして、コンピュータの操作主がいたりする……?

 

あたらしい部屋に入って身体を引き上げ、床に下りる。

とたんにカチッと音がして明るくなる。コンピュータがやっているのだろう。

部屋は、広さも形も下のとおなじ感じ──また円形の部屋だ。

1階と同じ形の部屋か……。本当にステージ2って感じだね

 

大きなテーブルがひとつ──ラボにあるようなやつ──が床に据えつけられている。

ラボって何? よく聞くけど、正確な意味は分かってないかも

ラボラトリーの略で、実験室とか研究室みたいな意味かな

実験か……。そうなると、最初に言ってた「人体実験説」が怪しくなってくるなぁ。秘密の国家プロジェクトで超能力者に改造されたりしてるのかも

 

そばにはラボ用の椅子が3つ。これも床に固定されている。

壁際かべぎわにはずらりと実験用の器具、備品が並んでいるが、すべてテーブルや作業台に据え付けられ、そのテーブルや作業台はボルトで床に固定されている。

まるで大地震に備えているみたいだ。

動かないようになってるんだ。ラーメン屋のカウンター席の椅子みたいな感じ?

ラーメン屋にもよるだろ

 

壁際の梯子はしごは、これまた天井のハッチへとつづいている。

ぼくがいるのは豊富な備品がそろった実験室ラボラトリーだ。いつから隔離病棟の患者が自由にラボに入れるようになったんだ?

あ、まだ上の階があるんだ。じゃあ、この施設は3階建てってこと?

どうだろうね。この上にまた部屋があるかもしれないし、出口につながるドアかもしれないし……

そういえば、ここから脱出できる可能性もあるのか……。いや、でも天井に出口があるのはおかしくない?

 

そもそも、この建物の出口はどこにあるの? 1階にも2階にもなかったよね?

少なくとも、そういう描写はなかったね。だからこそ、こうして天井のドアを目指してるんだろうけど

なんか「地下シェルター」ってイメージが浮かぶなぁ。そういえば窓もないし、ドアが上に続いてるのもおかしいし……

 

それに、どう見てもこれは医療系のラボではない。

大丈夫か……? これは勝手に外に出ない方がいい気がする

ここまで脱出しようと頑張ってきたのに?

もし、これが地下シェルターだとしたら……実は主人公がものすごいウイルスに感染してて中に閉じ込められてるとかありそうじゃない?

なるほど。これで主人公が外に出ちゃうと、未知のウイルスを世界にばら撒くきっかけになるかも……ってことか

 

 

なんでこんなおかしなファッジことになっているんだ?!

ファッジ?

 

ファッジ?

俺と同じこと言ってんじゃん

 

ファッジ(やわらかくて甘いキャンディの一種)? マジで?

ぼくには小さい子どもがいるのかもしれない。あるいはすごく信心深くて、ファックの代わりにファッジといっているのか。

また自分の口癖にひっかかってるね。自分が思ってたより丁寧な言葉遣いだったから変ってこと?

多分そうだと思う。この主人公は、とっさの一言でも、汚い言葉が出るような人じゃないんだろうね

俺でいうと、思わず「お前さぁ!」と言いそうな場面で、ちゃんと「君は〜」って言えた……みたいなことかな

 

立ち上がって備品類をじっくりと見る。小型の機器類がボルトでテーブルに固定してある。

8000倍の顕微鏡、高圧蒸気滅菌器オートクレーブ、ずらりと並んだ試験管、消耗品収納用引き出し、小型冷蔵庫、炉、ピペット

いかにも実験道具って感じだね。字面だけ見ると、別にヤバそうな実験に使う雰囲気ではなさそうだけど……

 

──待てよ。

ん?

 

 

 

どうして知っているんだ?

たしかに!! こんなに名前がスラスラ出てくるのはおかしいじゃん!

見ただけじゃ、何に使うのかすら分からないのが普通だもんな

俺は当たり前に読むだけだったけど……。こいつは、その「当たり前」にも、ちゃんとひっかかってヒントにするんだ……!

 

壁沿いに並んだ大型の備品を見る。

走査型電子顕微鏡、サブミリ3Dプリンター、11軸フライス盤、レーザー干渉計、1立方メートル真空チャンバー

──どういうものか、ぜんぶ知っている。使い方も知っている。

すげえ……! こんな難しそうなやつも分かるんだ……! やっぱりこの人、科学者なんじゃない!?

回想シーンからも、それは何となく示唆されてたもんな

そう言えば、そうだったわ! 博士からのメールも届くような人なんだ! 普通の人より、めっちゃ賢いんだ!!

 

ぼくは科学者だ!

手がかりをつかんだぞ! 科学を使うときがきた。

こいつも気付いた! これはアツいぞ……!!

この主人公も、今までは科学者という自覚すらなかったんだね

でも、それを思い出したってことは、ここからは科学の知識をフルに活かせるってことじゃん!!

 

ようし、天才脳味噌くん──なにか考え出してくれ!

いいねぇ! 海外の小粋なノリ! 海外ドラマみたいで楽しいね!

(すっかり夢中になって読んでるな……)

さぁ、俺の脳みそ! 何か思いつくのかい!? どうなんだい!?

(データ派のなかやまきんに君?)

 

 

 

 

……腹ぺこだ。

ズコー!

なんで本を読むだけでこんなにドタバタできるんだ

 

きみにはがっかりだよ、脳味噌くん。

たははー!ですね。これは!

ずいぶん楽しそうに読むなぁ

 

オーケイ、まあ、なぜこのラボがここにあるのか、なぜぼくは自由に入れるのか、まったくもってわからない。

しかし……前進だ!

そうだよ! このチャレンジだけで、だいぶいろんなことが分かったし!

 

天井のハッチまで床から10フィート。また梯子はしごアドベンチャーだ。

とりあえずぼくは前より強くなっている。2、3回深呼吸して梯子はしごを上りはじめる。

こいつ、さらに上の階を目指そうとしてるんだけど!??

すごいよね。こうしてノンストップで物語が進んでいくから気持ちいいよな〜

休憩とかしたくならないの?! 一旦引き返そうとか思わないの?! もう俺とは生き方が全然違うわ!!

 

俺だったら、一回ベッドに戻って「よしよし!いったいった!」って興奮して寝るだけだもん。情けねえよ……

こんな状況だったら、ほとんどの人がそうなるとは思うけどね

でも、そういう状況だからこそ、この主人公のカッコよさが分かるよな! カッコつける余裕もないときにこそ、人間の底力が見えるというか!

 

前とおなじで、こんな単純な動きをするにも力をふりしぼらなければならない。

少しはよくなっているかもしれないが、”調子がいい”とはいえない。

ああ、身体が重い。なんとかいちばん上までいくが、ぎりぎりだ。

まだ体力も回復しきってないのか……。休みなく動き続けてるもんなぁ……

……。

でも、もう次のステージは目の前だぞ! もうひと踏ん張り!! がんばれ!!!

 

居心地の悪い姿勢で梯子はしごに身体を預けて、ハッチのハンドルを押す。

この上には何がある……? また部屋か?! それとも出口?!

 

 

 

 

 

 

 

ぴくりとも動かない。

なんだよ〜!

主人公より悔しがってない?

まあ、そんなに思い通りにはいかないか! まだ2階部分の探索も終わってないしね!

 

「ハッチのロックを解除するには、名前をいってください」とコンピュータがいう。

ぅわ……! ずっと名前を聞いてたのが、これに繋がってくるんだ

「名前を思い出せたら、何につながるのか」が、ここで明確になったね

本人認証できたら、ここから出られるってこと? コンピュータはそれを最初からずっと聞いてたってこと???

 

面白すぎる!!!!!

いいお客さんだなぁ。俺が書いた文章もこんな風に読んでほしいよ

なんだよ、この本!!! いつ飽きが来るんだよ!!! そろそろ中だるみしてもおかしくないだろ!!!

 

「でも、その名前がわからないんだ」

「不正解」

ハンドルをてのひらでピシャッと叩く。ハンドルは動かず、てのひらが痛い。

ハッチに八つ当たりしてる! こういう人間くさいところがいいんだよな〜

これが頭よくて何でもこなせる完璧人間だったら、みくのしんも俺も、こんなに好きになってないもんな

そうそう! 失敗もするし、人間くさいし、それでも芯が通ってるからカッコいいんだよ

 

つまり……そう。

収穫なしだ。

こういうノリもいいよね

 

これは待つしかない。きっとすぐに思い出すだろう。

でなければ、どこかに書いてあるのを見つけるとか。

さっきの2階にヒントが転がってると思うんだよな〜。なにか重要なアイテムを取り逃してるんじゃない?

 

梯子はしごを下りる。とりあえず、そうするつもりだ。

下りるのは上るより楽で安全だと思うかもしれない。

思わねえよ。絶対降りる方が危ないって

まあ、登るよりは力を使わないしさ

でも、この人は体力も戻ってないんだから。帰り道ほど慎重になったほうがいいだろ

 

が、ちがう。ぜんぜんちがう。

うん。だから俺もそう言って──

 

 

 

優雅に梯子はしごを下りるつもりが、すぐ下の横桟よこざんおかしな角度で足をのせてしまい、

──なッ、おい!!

 

ハッチのハンドルから手が離れて勢いよく落ちてしまう。

もぉ〜〜〜〜!!!

 

怒った猫みたいに手をふりまわし、わらをもつかむ思いで手をのばす。これが大まちがい。

テーブルの上に落ちて、消耗品の引き出しで向こうずねをしたたか打つ。

せっかく調子よかったのに!!! なんでここにきて油断しちゃうんだよ!!!

 

とんでもなく痛い!

だから言ったじゃん!!!!

そんな怒らないであげてよ

一人でなんでもかんでもやろうとすんなよ!!! 俺に一声かけてから行け!!!!

本の中の人物相手に無茶な要求をするな

 

悲鳴を上げて向こうずねをつかみ、その勢いでテーブルから床に転げ落ちてしまう。

こんどは受け止めてくれるロボットアームはない。

そっか……ここは2階だからロボの助けも使えないのか

ロボはベッドがある最初の階層にしかいないんだろうね

このステージにくるの早すぎたんじゃない?! 今日はセーブして、明日つづきをやったほうがいいって!!

 

背中から落ちて、ウッと唸る。そこへ追い打ちをかけるように引き出しが丸ごと落ちてきて、中身が雨あられと降り注ぐ。

綿棒はいい。試験管もちょっと痛いだけだ(しかも驚いたことに一本も割れない)しかしメジャーが額を直撃した。

うわぁ……! 痛そ……ッ!!

 

さらにいろいろなものがガラガラと落ちてくるが、腫れ上がってくる額を押さえるのに必死で、かまってられない。

あのメジャーはどれだけ重いんだ?

テーブルから3フィート落ちただけで、ぼくの額にコブを残すとは。

こんな状況でも、冷静に考えてるなぁ……。3フィートってどれくらいなんだろう

1フィートが30cmだから、だいたい90cmくらいじゃないかな

なるほどね。じゃあ、普通のテーブルの高さくらいか

 

……?

 

90cm落ちてきただけで、そんなに痛いの? 足の小指に落ちたわけじゃあるまいし

痛いっちゃ痛いと思うけどね。ただ、これだけで腫れたり、コブができたり……ってのは大げさかもな

すげえ硬いメジャーだったのかな。鉄製のゴツゴツしたやつだったとか?

 

「こんなのは。ありえない」

誰にともなくいう。とにかくすべてがばかげていた。

チャップリンの映画のなかの出来事みたいだった。

……? チャップリンの映画を見たことないから、俺には分からないけど

見たことはなくても、チャップリン自体はなんとなく知ってるんじゃない?

まあ、なんとなくは……。要は、自分の状況がまるでドタバタコメディみたいだって言ってんのかな?

 

実際……ほんとうにそんな感じなのだ。少しばかり似すぎている。

あの”おかしい”という感覚がよみがえってくる。

なんだ……? この状況で、何かに気付こうとしてる……?

……。

テーブルからメジャーが落ちてきて、それがめっちゃ痛かった……ってだけのことだけど。こいつも、それがひっかかるんだ……

考え込んじゃったな。気になるなら、続きを読んだら?

そうなんだけどね。でも、こいつと同じタイミングで俺も「何かがおかしい」って思えたのが嬉しいんだよ

 

ちょっとごめんね。時間かかるけど、自分で考えてみてもいい?

もちろん。みくのしんの読書なんだから好きに時間使っていいよ。今は何が気になってるの?

主人公が何に気付こうとしてるのかが気になってる。いつまでも、こいつに任せっきりじゃなくて、俺も相棒として一緒に手伝いたいんだよ

いよいよ、自分がバディになろうとしてんのかよ

 

要するに、普通のメジャーが落ちてきただけなのに、普通じゃないダメージを受けてるってことだよね?

そうだね。主人公もみくのしんもそこがひっかかってるんだと思う

う〜ん……だからといって、ひよわな主人公ってわけでもないんだよな〜。筋肉ムキムキの健康体って話だったし

 

なのに、痛いってことは……メジャーがめっちゃデカいとか? ……いや、別に大きさは普通か

 

……。

 

 

 

あ……

 

 

スピードがめっちゃ速かったとか?

なるほど。ぶつかったときの勢いが強いってことか

そうそう。ただのメジャーでもすごいスピードで飛んできたら、めっちゃ痛いだろうし

つまり、「落下速度が速かった」ってこと?

……そっか。メジャーはただ落ちただけなのか。なのに、普通以上のスピードが出ることはないよね

 

 

 

……あ

 

 

めっちゃ重かったとか?

……なるほどね

単純に考えたらこっちか。普通のメジャーより重かったら、そりゃ痛いよな

……。

でも、そんな単純な答えだったら、この主人公ならすぐ気付くと思うんだよな〜

 

 

スピード……重さ……

 

 

落ちる……

 

 

 

 

重力?

……。

この場所は、普通よりも重力が強いとか? そういうことってあるのかな、と……

もしそうだとしたら、落ちるメジャーは、重さも速さも普通以上になるよな

 

それはさすがにやりすぎか? 「実は重力が強いんです!」なんて、いくらなんでもありえないよね

ありえないかどうかは分からないよ。これはSFだから

じゃあ……え? マジで当たってるんじゃない?  『ドラゴンボール』で見たことあるんだよ。重力が20倍の場所で修行するシーンがあってさ

20Gってことは自分の体重も20倍になるのか。過酷な修行だなぁ

なんか、それを思い出すんだよ。この部屋だけなぜか重力が何倍にもなってるトレーニングルームみたいな……

 

そういえば悟空も筋肉あるのに、めっちゃ疲れてた! この主人公も、いい体してるのにすげーツラそうだったじゃん!!

主人公がずっと気にしてた違和感だね

あれって! 病み上がりだからじゃなくて! ここの重力が強いからなんじゃない!??

 

 

 

手近にある試験管をつかんで宙に放り上げてみる。

当然、試験管は上がって、下りてくる。だが、そこが引っかかる。

ほら! 主人公も落ちるスピードが気になってそうじゃん……!

 

落ちてくる物体のなにかが、ぼくを苛つかせる。

それはなぜなのか知りたい。

俺も知りたいです!!!

ここから、主人公はお得意の実験で、この仮説を検証していくんだろうね

でも、重力が強い」ってどうやって確認したらいいんだろう。目に見えないものは実験しようがなくない?

 

なにが使える?

ふむ、りっぱなラボがあって、ぼくは使い方を知っている。だが、すぐ手近にあるものはどうだ?

こいつ一瞬も考えることをサボってない!! すごい!!!

 

床に落ちているガラクタを見まわす。

試験管、検体採取用綿棒、ポプシクルの棒、デジタル・ストップウォッチ、ピペット、スコッチテープ、ペン……。

オーケイ。必要なものはそろっているようだ。

これだけでいけんの? 肝心の体重計がないけど

それがあれば一発で重さが分かるもんな

なのに、体重計を探そうともしてない……。この人は、これだけでイケるんだ……

 

立ち上がってトーガの汚れを払う。

汚れなどついていない──どうやらぼくを取り巻く世界は塵ひとつなく清潔で無菌状態のようだが、とにかく形だけ汚れを払う。

こういう無駄な行動も様になるね〜! こいつの人間らしさが伝わってくるよ

 

メジャーを拾い上げて見ると、メートル法のものだ。

ここはヨーロッパなのか? どこだかわからないが。

これはメートル表記なんだね。まあ、わかりやすくて助かるけども

 

つぎにストップウォッチをつかむ。

かなり頑丈そうで、山歩きに持っていくようなタイプだ。しっかりしたプラスチックのケースで、円周部分は固いゴム製。まちがいなく防水仕様だ。

ストップウォッチってことは……いま、重さを調べようとしてるわけじゃないのかな

どうだろうね。今は、重力について検証しようとしてるシーンだけど

重力を調べたいのに、重さは関係ないのか……? こういうときに、知識ないのがもどかしいな

 

しかし完全にオフ状態。液晶画面にはなにも表示されていない。

ボタンをいくつか押してみるが、なにも起きない。

おっと。ストップウォッチは使えないんだ。なかなか一筋縄ではいかないな

 

ひっくりかえして裏側を見る。

どんな種類の電池を使っているのかわかれば、引き出しで見つけられるかもしれない。

こいつ、マジで一瞬も止まらないな! 「ちぇっ」くらい言ってもいいのに、そんな寄り道すらしないんだ!

 

裏側から小さな赤いビニールのリボンが出ているのが目にとまる。

引っ張ってみると、ぜんぶするっと抜けた。とたんにピーッと音がしてストップウォッチが起動する。

“電池入り”で売っているオモチャみたいなものだ。購入者が初めて使う前に電池が消耗しないよう小さなプラスチックのタブがついている、あれとおなじ。

はいはい! たまごっちとかデジモンを起動させるときのやつね!

通電しないようにする絶縁体のテープな

あれ、引き抜くの楽しいよな〜!

 

オーケイ、こいつはピカピカの新品のストップウォッチだ。

はっきりいうと、このラボにあるものはどれもこれも新品のようだ。まっさらで、使用感ゼロ。

それがどういうことなのかは、よくわからない。

新品……か。それって、どういう意味なんだろう?

どうなんだろうね。今は「新品である」という事実しか分からないよな

おかしいと言えばおかしいような……?

 

しばらくストップウォッチをいじって、使い方を把握する。操作方法はじつに簡単だ。

メジャーでテーブルの高さを測る。テーブルの裏面から床まで91センチ。

何かいろいろ準備してるね。ストップウォッチとメジャーで何をしようとしてるんだろう

とりあえず、その2つがあれば時間と距離を測ることはできるね

う〜ん……。やっぱり重さを確かめようとしてるわけではなさそうな……

 

試験管をひとつ拾い上げる。

ガラス製ではない。高密度プラスチックかなにかだろう。3フィートの高さから固い床に落ちても割れなかったはずだ。

とにかく、なんでできているにせよ、空気抵抗を無視していいだけの密度はある。

試験管? この実験って試験管が必要なの?

 

試験管をテーブルに置いて、ストップウォッチを用意する。

そして片手で試験管をテーブルから落とし、もう片方の手でストップウォッチをスタートさせる。

なるほどね! 試験管を使って、落ちるスピードを測ろうとしてるんだ! 

みくのしんと同じように「落下速度がおかしい」ことを検証しようとしてるんだね

重力って言葉に引っ張られて、そのことを忘れてたな。でも、こいつは「落ちるスピードがおかしい」って思ってから、すぐにこの実験に取り組んでたんだ!

 

試験管が床に落ちるまでの時間を計測する。

約0.37秒。すごく速い。

これは速いのか? まあ、こいつが言うなら、たしかなんだろうけど

 

ぼくの反応時間が結果をゆがめていないことを祈る。

腕にペンで時間をメモする──紙はまだ見つかっていないので。

うんうん!! 野生の科学者って感じでカッコいいわぃ!!

 

試験管をテーブルにもどして実験をくりかえす。こんどは0.33秒。

ぜんぶで20回やって結果を記録する。

ぼくがストップウォッチをスタートさせるとき、止めるときの誤差を最小にするためだ。

実験の説明もしてくれるのが嬉しいな。これがないと置いてかれてたかも

 

とにかく、出てきた平均値は0.348秒。

腕が数学教師の黒板みたいになっているが、かまわない。

……でも、よく考えたら、落ちるスピードが分かったからって、何になるんだろうね

ん? みくのしんも主人公もそれが知りたかったんじゃなかったの?

だって、これだけじゃ本当に速いかどうか分からないじゃん。肝心の「“普通なら”落ちるのに何秒かかる」が分からないと……

 

 

0.348秒。

距離は加速度掛ける2分の1掛ける時間の2乗。したがって加速度は2掛ける距離割る時間の2乗。

公式がすらすら出てくる。

そうだ!! こいつには科学があるんだった!!

俺たちと違って、主人公なら「普通とはどれくらい違う数字が出てるのか」が分かるんだね

これはアツいぞ……!! 俺には、この公式の意味は理解できないけど……それでも、いま主人公が何かを切り開いてることがビンビン分かる!!!

 

第二の天性。

ぼくはまちがいなく物理が得意だ。いい情報が得られた。

第二」どころじゃないだろ! ユーモアとか、勇気とか! もう数えるのが面倒なくらい天性あるだろ!!

 

 

計算して答えを出すが、その答えが気に入らない。

うん……うん……

 

 

 

この部屋の重力は大きすぎる。

ほら〜〜〜〜!!! やっぱりそうじゃん!!!

みくのしんの言った通りだったね。ず〜っとあれこれ予想を巡らせてきたけど、ここにきて的中するとは

まあ、でもヒントはいっぱい出てたもんな! これは分かって当然か

どうだろう。少なくとも、俺はテンポよくスイスイ読んじゃってたから、初めてこの文章を見たときは驚いた記憶があるけど

 

9.8メートル毎秒毎秒でなければならないのに15も出ている。

だから物が落ちる“感覚”がおかしいと思ったのだ。落ちる速度が速すぎるからだ。

今思うと、はしごの感覚もそうだったのかもね。ほら、指をかけるときに「何かがおかしい」って言ってなかったっけ?

言ってたね。それも、通常通りの重力じゃなかったからこその違和感だったんだろうな

チャップリンに似てる」って話だけ、よく分からないままだけどね。あれってどういう意味だったんだろう

昔の映画って今とフレーム数が違うから、早回ししてるように動きが早く見えるでしょ。多分、そういうことだと思う

はぁ〜! なるほどね!!

 

だからぼくはこんなに筋骨隆々なのに力がないのだ。

なにもかもがふつうの1.5倍の重さになっているからだ。

やっぱり、これも重力のせいだったんだ。重力が分かっただけで、いろいろな疑問がクリアになっていくね

 

困ったことに、なにものも重力に影響をおよぼすことはできない。

大きくすることも小さくすることもできない。

そりゃそうだけど……今さら計算ミスってことはないでしょ

 

地球の重力は9.8メートル毎秒毎秒。これは絶対だ。

なのにぼくはそれ以上のものを経験している。

うんうん……

 

 

その理由としてありうるのはたったひとつ。

うん……

 

 

 

 

 

 

ここは地球ではない。

う……ッ……!!!

 

 

そっか……。重力が普通じゃなかったら……たしかに……

 

 

めっちゃ鳥肌立った

ここすごいよな〜! 俺も初めて見たときは、同じ気持ちだったよ

ビックリした……!!! やっぱり宇宙船にいるのかな?! もしくは、別の星にいるとか!??

何はともあれ、お疲れ様! とりあえず第1章はここでおしまいです

ここで終わり?!?!? なんちゅうところでおあずけ食らわしてんだよ!!!

 

 

ということで、無事『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の第1章を読み切ることができました。

読み終わるまでにかかった時間は3時間33分(映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の上映時間は2時間37分)でした。ここまで読んでくださったあなたもお疲れ様でした!

 

なにこれ!! めちゃくちゃ面白えじゃん!!!

たしかに、面白いね。俺も読んだことあるはずなのに、初見みたいに楽しんでた気がする

まだ第1章なのにこんなに面白くて大丈夫か?!? さすがに途中で息切れするだろ!!

最後まで読んだ身として言わせてもらうと、全然そんなことないです。これでも、全体の面白さのほんの0.1%にも満たないと思う

マジかよ……

 

でも、だいぶ真相は明らかになってない? もう主人公の名前くらいしか残ってる謎はないような……

そう? 一回、後ろ見てみてよ

後ろ?

 

まだ、太陽と金星をつなぐ謎の線のことは何も分かってないでしょ

たしかに!! これが何なのか、まるで分かってないじゃん!!!

こんな感じで、とにかく面白そうなものが現れて、そこから予想以上の真相が明らかになって、その奥にまた面白そうな謎が……というサイクルが猛スピードで展開していくんだよ

そう言われてみれば、主人公がなんで地球にいないのかも分かってないのか。最初に書いてあったロケットもまだ謎のままだし……

 

 

あれ?! え?

 

今、主人公がいる場所ってここじゃない!?  はしごとかラボとか書いてあんじゃん!!

そうだね。なので、正直、読み始める前にあんまりジロジロ見ないでほしかったです

最初からヒント出てたのかよ!! あんなにしっかり見てたのになんで気付かなかったんだ!!!

 

エンジン駆動時に生じる人工重力??? めっちゃ答え書いてあるんだけど!?!

ホントだ。ここ見れば、強い重力の謎も推測できそうだね。こんな冒頭の図なんて覚えててもおかしくないのに、俺も全然気付いてなかったな

かまどは最初に「宇宙船に乗り込むまでは読まない」って言ってなかった?! ウソついてんじゃん!!

「乗り込む」までは読んでないでしょ。最初から乗ってたんだから

 

でも、これが分かってたら、「ここが地球じゃない」って言われたときの衝撃もなかっただろうね。そう思うと気付かなくてよかったかも

やっぱ、そこの衝撃はすごいよな〜。俺も冒頭の記憶喪失のシーンに夢中になって、その図のことは忘れてたから、初見はめちゃくちゃビックリしたもん

今なら、みんなが「ネタバレ無しで観て!」って言う気持ちも分かるよ。たしかに、こんなのバラしたらもったいないよな

それでいうと、みんなが「ネタバレしたくない!」って言ってるシーンはここじゃないです。まだこの先に、何十個もこれと同じ規模の衝撃と面白さがあります

これと同じ衝撃が何十個も……?

 

やりすぎだろ。そんなにあったら、1個2個くらいネタバレしてもよくない?

まあね。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』でいうネタバレって、例えるなら、コース料理の内容を隠してるようなものだから。別に事前に分かっちゃったからって特に問題はないと思う

たしかに、コース料理で「このあと何が出てくるか」を知ってたからって、美味しさは変わらないもんな

ただ、メインディッシュが運ばれてきたときに「うお〜! こんなの出てくるの!?」って喜んでほしいから、遠慮してるだけなんです

 

それにしても、こんなまっすぐに楽しめるとは思わなかったな……。SFだから、どうせ難しくて読めないと思ってたのに

最初は「科学の勉強したことないし、理解できるとは思えない」って言ってたもんな

正直、ずっとかまどに答え合わせしてもらいながら読む羽目になると思ってたわ。実際、途中で何度か分からないところもあったし

でも、最後の方は「難しいことは分かんないけど、面白いことは分かる!」ってゾーンに入ってなかった?

 

距離は加速度掛ける2分の1掛ける時間の2乗。したがって加速度は2掛ける距離割る時間の2乗。

公式がすらすら出てくる。

これはアツいぞ……!! 俺には、この公式の意味は理解できないけど……それでも、いま主人公が何かを切り開いてることがビンビン分かる!!!

そういえば、そうだったね。あの辺はもう、頭じゃなくパッションで読んでた気がする

最初は「SFなんて読めない」って決めつけてたから不安だったけどね。いざ読んでみたら、俺よりも腰を入れて楽しんでたもんな

でも、科学知識があったら、もっと楽しめたんだろうな〜。せっかくSFを読んだのに「この主人公がカッコいい! 好き!」って感想なのがもったいないというか……

そう? それだって立派なSFの読後感だと思うけどな。俺も、SFを通して見えてくる『人間』が好きで読んでるフシがあるし

 

え? SFの魅力って『人間』なの? 科学の面白さとかじゃないの?

もちろん、科学考証の面白さもあるよ。でも、例えば、宇宙人とかタイムトラベルみたいなありえない事態と遭遇したときに、「そのとき、人間はどうあるか?」を浮き彫りにしていくのもSFの醍醐味だと思う

あ〜! そういうことなら、俺も分かるよ! この第1章も、こんだけ異常な状況だからこそ、主人公の芯が見れた気がして嬉しかったもん

 

ただの日常だったら、こんなに好きになってないよね。カッコつけたり、ぶりっこしてられない状況なのに、それでもカッコよくて、可愛い人間でいられてることに感動してたんだと思う

これが別の人だったら、もっと情けない部分とか醜い面とか出てきそうだしね。SF設定は、そんな人間模様を浮かび上がらせるきっかけなんだと思えば、もっとSFという世界に親しみを持ってもらえる気がする

なるほど……SFは人間性を浮き彫りに……。言ってみれば、鍋みたいな感じか

鍋?

 

ほら、みんなで鍋を食べるときも、人間性が浮き彫りになるでしょ。「こいつ、いつもは仕事できる風なのに、ちゃっかり多めに肉とってるな」とか「あ、今この人、おたまで取りすぎたお肉を、遠慮して戻してくれたな」とか

分かるような気もするけど。鍋の場合は、美味しいかどうかの方が大事じゃない?

いやいや! もちろん鍋の味も大事だけど、鍋を囲んだときに見えてしまう人間の柔らかい部分も好きなんだよ! 普段は隠してる情けない姿とか、ふいに出てくるカッコいい振る舞いとかがよく分かるというか……

 

だから、鍋って「美味しい!」だけじゃなくて「楽しい!」って思えるというか……

 

 

そっかぁ〜

 

 

 

SFって鍋だったんだ

そんな締め方でいいのかよ

 

 

以上、みくのしんの初めての『SF小説』でした。

とても長い記事でしたが最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

後日、みくのしんが映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の試写会にお招きいただきました。

次ページでは、その試写会の様子を記事にまとめましたので、よかったらぜひご覧ください。

そちらは短い記事になっているので、サクッと読めると思います。

>>試写会の様子はこちら<<