感謝

 
 
 
 
 
 
 
20年ぶりの再会を果たした夜、お母さんと同じ部屋で寝ることになった。
 
 
団地の急な階段は年寄りにはしんどいだろうな……。
そんなことを思いながら2階へ上がり、5歳の頃に約半年間住んでいた部屋に入る。
全然記憶はないけれど、どこか懐かしい感じがした。
 
 
そして、お母さんと2人きりに。
 
 
この時点で変な緊張感はなくなっていて、
普段からやりとりをしているような親子に戻っていた。
電灯を消した暗い部屋のなかでボソボソと話し始める。 
 
 
「お母さんは会えてよかった?」
「もう死ぬまで会えないと思ってたからね。そりゃ、嬉しいわ」
「30歳までには会いたいと思ってたから、実現できて良かった」
「ホント、よく来てくれたね」
 
 
 
灯りを落とした静かな部屋で、お母さんの声が小さく響いた。
 
 
 
 
 
 
 
●再会の翌日

 
 
この日は、お母さんの姉の家に行くことになった。
やはり僕のことを知っていて、僕と会うなり早々に涙を浮かべながら喜んでくれた。
 
 
意を決して熊本を訪れてから、
僕と血が繋がっている家族や親戚がこんなにも大勢いることがわかった。
父親が借金の返済で親戚中にお金の無心をしすぎたこともあって、
自分には親戚らしい親戚がいないと思っていただけに衝撃というか。
これは後になっても「不思議な体験だったなぁ」と思えるほどで。
 
 
この熊本の2日間で合計20人以上、親戚が増えたんじゃないだろうか。
母親と息子の再会に誰もが「よかったね」と、温かい声をかけてくれる。
 
 
家族が増えたこと。帰る故郷ができたこと。
どちらも、熊本を訪れるまでは想像もつかなかったことだ。
 
 
 
「家族が多いっていいもんやろ?」
「うん、びっくりした」
「何かあったらすぐに頼ったらええんよ」
「わかった」
 
 
 
 
 
 
●お母さんとの別れ

 
 
僕、お母さん、従姉妹のお姉さん、そのお姉さんの旦那さん、
4人で車に乗り込み、熊本空港まで送ってもらった。
 
 
熊本空港は、霧がとてもかかりやすくて
飛行機が遅れることも珍しくないそうだ。
 
 
何気ない会話を楽しみながら、雪が積もる空港に到着。
 
 
出発まで時間があったので、
お母さんと一緒にお土産を選んで時間を過ごす。
 
 
持ちきれないほどのお土産を買ってもらって、
搭乗ロビー近くに移動する。
 
 
 
 
 
 
●飛行機が飛び立つ30分前
 
 
僕は「ここまでで大丈夫だよ」と自ら切り出した。
 
 
これ以上、引きとめるのも悪かったし
何より自分から切り出さないと“別れの覚悟”が決まらなかったからだ。
 
 
「そっか…。健康にだけは気をつけるんよ」
 
 
その瞬間、お母さんの目から涙がこぼれ落ちた
照れ笑いをしながらも、鼻をすする音が止まらなかった。
 
 
その姿を目の当たりにして、
堪え切れず僕もとうとう泣いてしまった
 
 
これまでは他の人たちが一緒だったこともあり、
なんとか涙を堪えることができていた。
 
 
だけど、それももう限界だった。
 
 
 
「これが最後になるわけじゃないし、また近いうちに帰ってくるから」
 
 
「いつでも帰ってきたらええんよ。家族がいっぱいいるんやから」
 
 
 
・・・・・
 
 
10代のころ、お母さんがいないことを恨んでいた。
自分の不甲斐なさをすべて環境のせいにしたこともあった。
 
しかし、26歳のときに転機が訪れる。
 
兄貴分として面倒を見てくれていたシモダに
「早く上京しろ!俺が何とかするから!」と尻を叩かれ、
必死で資金を貯め始めたのだ。
 
朝8時から夜22時まで「松屋」でバイトリーダー。
牛丼の匂いにまみれて、とんでもないお客のクレーム対応をしたり、
リストラされたおじさんや若い高校生の指導をしていた。
23時から深夜2時まで温泉施設でのバイトも掛け持ちしていた。
 
半年間のバイト生活で貯めた上京資金の50万円。
  
その努力はお金では決して買えない価値となって
今の自分を形成する一部となっている。
 
オモコロの活動を通してさまざまな出会いに恵まれた。
 
その支えがあったからこそ、そこで自信を積み重ねたからこそ
複雑な感情を抱えていたお母さんに会いに行くことができたんだと思う。 
 
 
 
 
 
 
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お母さん、僕を産んでくれてありがとう!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
終わり)