先日、会社のトイレで用を足していた時のことだ。
すぐ後ろを通った後輩から「先輩!しっこ、めちゃくちゃ勢いありますね!」と言われた。

 

その言葉を聞いて、私は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。

 

私がしっこをする時間は、普通の人に比べて極端に短い。
そのため、生まれて35年間ずっと「自分はしっこの量が少ない人間なんだ」と思って生きてきた。

 

それがである。

 

後輩の「しっこ、めちゃくちゃ勢いありますね!」の一言によって事情は変わった。私はしっこの量が少ないのではなく”めちゃくちゃしっこを早く出す人”だったのだ。なかなか他人としっこの量を比べる事はないだろう。そのために今まで気づかなかったわけだ。

“真実”や”正しさ”は、ときに閉鎖空間においてその姿を隠してしまう。第三者の目が合ってはじめて真実が真実であり、正しさが正しいとわかることがあるのだ。

 

ある2人の人間が言い争いをしていたとしよう。

片方は「人間を殺すことはいけない事だ」といい、もう片方は「人間は殺しても構わない」と言っている。

現代社会において「人間を殺すことはいけない」というのは議論するまでもなく、至極当然なことだ。この世のほぼ全ての人間がそう思っており、法律という確固たる形で殺人はいけない事だと明言されている。圧倒的な多数決によって、この議論は終了するだろう。

 

しかし、だ。

 

この「2人の人間が言い争いをしている」というステージにおいては、議論の聴衆は相手1人しかいない。つまり殺人の反対派が1、殺人の賛成派が1となり、どちらかがどれだけ間違ったことを言っていたとしてもこの議論は五分五分の勝負となってしまうのだ。

恋人との痴話喧嘩で、自分が世間一般的には正しいはずなのに、何を言っても通じないし解決しない……という経験がある人は多いのではないだろうか。その原因は、閉鎖空間における1対1の議論になってしまっているからではないだろうか。

こうなってしまったら最後、どんなに正しくても、落とし所を考え始めたほうが敗者となってしまう。なんと後味の悪いことだろうか。

 

閉鎖空間から脱せよ。
広い空間にこそ、真実はある。

 

しっこは私に、そんな事を気づかせてくれた。
しっこから学べることは多い。
人よ、どんどんしっこすべし。
しっこをして賢くなろう。
しっこは学び舎であり、良き師なのだ。

 

 

師っこ。