終わりに

 

前回の記事から約3年がたった。もうじき私は31歳になる。月日の流れでモノの見え方も変わり、ようやく言語化できるようになったことがある。ただそれを説明するには段取りが必要だ。少々長くなると思うが、お許しいただきい。

さらにもうひとつ前置きを述べると、ラヴクラフトは現代に影響を与え続ける大作家であり、大した文学の素養を持たない私がこんな話をしてよいものかと悩むところもある。だが、まずは素直に、いち読者としての個人的な感想から申し上げたい。

 

ラヴクラフト作品は、分かりにくい。

本記事冒頭で「未知なるカダスを夢に求めて」の一文を紹介した。さすがにあれは意地悪な例(同作には難解な文体が用いられており、その中でも特に難解な箇所)であって、ほとんどの作品ではちゃんと読める文章に翻訳されている。

だが、それでも分かりにくい。文章として読めたからといって、頭で理解できるわけとは限らないのだ。

読者は「どんなことが起こるのだろうか」「どんなものと出会えるのだろうか」とある種の知的な好奇心を抱いて、ラヴクラフトの描き出す怪異の世界に飛び込む。例えばある作品では、読者は主人公の視点を借りて、あやしい遺跡を冒険することになる(よくある設定だ)。

「ある部屋には○フィートの柱が立っていて、その下には玄武岩のレリーフがあり……」「次の部屋は高さが○フィートほどあって、五芒星形の天井のホールになっていて……」というような具体描写が延々と続いたかと思えば、唐突に「ユークリッドにしても名づけようのない幾何学的形態」「冒涜的なトンネル」のような抽象的な表現が現れる。

こういった文章を読むこと自体は、決して難しくない。しかし、何回読んでもイメージとして捉えきれない。おそらく翻訳のせいでも、私の想像力が乏しいせいでもないだろう。過度に具体的な描写はかえって理解しにくいものだし、「ユークリッドにしても名づけようのない幾何学的形態」のような説明は意味深なばかりだ。

しかも、こういった描写は、多いわりに物語の進行とあまり関係がない。丹念に言葉を費やしているが、特に伏線などになっているわけでもない。「その描写は必要なのか」「書かない方が、読みやすくなるのではないか」という疑問が湧く。

 

クトゥルフの怪物たちにしても、事情は変わらない。

例えば、イースの大いなる種族は「高さ十フィート、底部の広さ十フィートほどの、巨大な虹色の円錐体で、何か隆起していて、鱗があり」「頂部からは円錐体と同じ隆起をもつ、それぞれ太さ一フィートの、しなやかな円筒状器官が四本」「そのうち二本の先端にあるのは、巨大な鉤爪とも鋏ともつかないもの」「三本目の先端には漏斗形の赤い付属器官が四つ」「残る一本の先端は、直径二フィートくらいの黄味がかったいびつな球体になっていて、その中央の円周上には大きな暗い眼が三つ」……等々と説明されている。

このような文章から、怪物の姿を思い描ける読者は、一体どれだけいるのだろうか。私を含む多くの読者は言葉の海に溺れ、頭の中で像を結びきれないまま読み進めていくのではないか。

そして「おぞましい」だの「冒涜的」だのと曖昧に形容されているのを見て、「頭の中でうまくイメージできないけど、なんだか怖い」という感覚を強めていくのではないだろうか。

 

蓋し、ラヴクラフト作品はセットが豪華過ぎるのだ。

これは決して悪いことではないだろう。映像作品などであれば「細部まで行き届いた設定の面白さ」のようなものが感じられるかもしれない。だが、文章でそれをやると読者の理解力を超え出てしまうのではないか、と思う。

彼の小説を読んでいると、私はまるで迷路に入り込んでしまったかのような感覚を覚える。実際、自分(主人公)は今どんな状況に直面しているのか、恐怖している怪物がどういうものだったか分からなくなって、前のページに戻ってみたり次のページに進んでみたりと迷子のような読み方をすることが多々ある。

それでも理解しきることは難しく、「“何か”が起こっていることは分かるが、いったい“何”が起こっているのだろうか」と捉えきれないままに、おぞましい世界を歩むことになる。正直言って、初めはとっつきにくかった。

 

だが、読みこなしていくうちに私はこう思うようになった。

「人知を超えたコズミックホラー」というコンセプト通り、ラヴクラフト作品の主人公は、未知なる世界を理性的に観察しようとするが、そこで人間の力ではコントロールどころか、認識することさえ難しいような出来事に出くわす。

よく「物語を読むとは追体験することだ」と言われるが、ラヴクラフト作品に当てはめると「”分からない恐怖”に満ちた作品世界を追体験する」ということになるだろう。しかし、分からないのは作品世界ばかりではない。上述の通り、読者が現実世界で、まさに目の前にしている言葉も分からないのだ。

これはひょっとすると「分からない世界を分からせない文体で描くことで、二重の分からなさを体験させる」という仕掛けなのかもしれない。作中の人物が分からなさを体験しているとき、読者もまた分からなさを味わうというわけだ。

もしもこういうことであれば、「文章を読んでも理解でき“ない”」ということには、こんな否定表現では表しきれない積極的な意味を置かねばならないだろう。

 

繰り返しになるが、クトゥルフ神話の世界はグラフィックを使って視覚的に表現した方が分かりやすくなるはずだ。これは間違いない。

だが、私の経験上そういったコンテンツでは、ラヴクラフトの小説で味わえる、あのモヤモヤとした、だが消えることのない恐怖感・緊迫感は消えてしまうようだ。どうやら言葉で描くからこそ、演出できるものがあるらしい。

 

 

 

長くなってすまなかった。私の言いたいことは、あと17文字分しかない。

結論をクトゥルフ川柳にしたためよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

クトゥルフは

 

ちんぽこ見ても

 

分からない

 

 

(おわり)