耳の踊り場をいつも洗い忘れる。
いきなり聴き馴染みのない単語をぶつけて申し訳ない。混乱した読者たちの前頭葉は蒸発して上昇気流となり、列島に脳雨(のうう)が降り注いでいるので、説明させてもらう。
耳の踊り場とは、耳たぶから耳穴へ降りていく途中にある、南京豆が一個くらい収まりそうなスペースのことを指す。
耳を階段に見立てるとちょうど踊り場みたいな場所なので、僕が勝手にそう呼んでいるだけだ。文句あるか。
ググれば部位の正式名称は分かるのだろうが、それをしたら負けな気がするので、墓場まで持っていく。負けっぱなしの僕だけど絶対に譲れないことだってある。
話を戻す。
耳穴は耳掻きなどで時々掃除するが、耳の踊り場は意識の及ばぬ大辺境。つい洗い忘れて垢が溜まっていく。
すると、どうなるか。
床屋(若い人は知らないだろうが、僕の世代は理髪店のことをそう呼ぶ)でシャンプーしてもらった後、理容師が僕の耳の内側をタオルでクリクリっと拭くと、タオルに黄色い垢がべっとり付着してしまうのだ。
その時の情けなさったらありゃしない。夢顎は、夢顎は腹を切りとうございます。
汚れたタオルはその後どうなるのか。桐箱に仕舞って花嫁道具にするわけじゃあるまいし、きっと焼却処分の憂き目に遭うのだろう。歴史にif(もしも)はない、いくら洗ったところで、そのタオルに耳垢が付着していた事実はなくなるわけじゃないから。
「次こそは洗うぞ」と散髪の度に誓っても結局また忘れてタオルは汚染される、その一連が繰り返され、モンペを履き頭巾を被った少女たちは生気のない表情でいつまでも布を織り続けるのだろう。
オイ、可哀想じゃんかよ。
そんなこと言われても、僕がちゃんと耳の踊り場を洗えば良い話だ。
そこで一計を案じる。
いつも使う耳掻きの柄に紙テープを巻いて、旗のようにする。そのテープに黒マジックで「耳の踊り場」と記す。
こうすれば、耳掻きを手に取る度にテープに書かれた「耳の踊り場」を目にして、耳穴と同時に耳の踊り場も忘れず洗うようになるというわけだ。
完璧な対策だ、僕ってば時代の寵児、東洋の神秘かもねと自画自賛しながらその耳掻きを筆立てに挿し、出勤する。
帰宅すると、僕のアパートの部屋が見違えるほど綺麗になっていた。どうやら母が留守中に訪ねて片付けてくれたようだ。
机の上には、母からの置き手紙が残されていた。
「○○ちゃん、お仕事お疲れさま!
部屋はちゃんといつも片付けて!あと、トイレの電球が切れてたから換えておいたよ!お弁当を冷蔵庫に入れてあるから温めて食べてね!
ところで、耳の踊り場って何?」
確かになんなんだ、耳の踊り場って。どうやら夢を見てた気がする、悲しい夢を。