
【目次】
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- ▷「今野優太(1)」……「今野優太の父親・武司が死んだのは、三年前の冬だった。」
- ▷「今野直美(1)」……「今野直美は暗い気持ちで、夕飯の支度に取り掛かった。」
- ▷「春岡美穂(1)」……「……はい……はい……。こちらでも、できることがあれば何でもご協力しますので、いつでもご連絡ください。」
- ▷「今野直美(2)」……「春岡と電話で話したことで、直美は少しだけ落ち着きを取り戻した。」
- ▷「春岡美穂(2)」……「保育園の午前中は、いつものように慌ただしく過ぎ去っていった。」
- ▷「今野直美(3)」……「もう二度と電話をかけてこないでください!」
- ▷「今野優太(2)」……「記憶の中で、蝉の声だけが、うるさく鳴り続けていた。」
- ▷「今野直美(4)」……「叱るつもりだった。」
- ▷「春岡美穂(3)」……「本当に、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
- ▷「今野直美(5)」……「その夜、直美は洗面所の鏡の前に立ち、今日一日、すっぴんで過ごしたことに気がついた。」
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今野優太
今野優太の父親・武司が死んだのは、三年前の冬だった。

主人公は今野優太か。で、父親が武司で……3年前に亡くなってて……
一行目からじっくり読んでるなぁ。別にいいけど、そのペースだと途方もない時間がかかるぞ
でも、この本ってミステリーなんでしょ? ってことは、最初にこそ大事な情報があると思うんだよ。あとあと推理に必要になってくると思う
本格的に推理しようとしてるのか。そんな読み方、久しくしてないなあ
当時3歳だった優太は、その意味をしっかりとは理解できていなかった。

んん……? 父親が亡くなった時点で3歳? じゃあ、優太はだいぶ幼いってことか……?
事件調書を読み込むようなペースだ。大事な情報ならあとでまた出てくるだろうし、もっと何となくで読んでもいいよ?
いや、そうは言うけどさ……

俺が今つまずいてるのは、「今の優太は何歳でしょう?」みたいなことなんだけど
まさか算数の範囲でつまずいてるとはね
3年前に3歳ってことは、今は6歳だよね? 合ってる?
合ってる合ってる
だから、泣いたり、 悲しんだりはしなかった。
ただ、いつもは穏やかなママが激しく取り乱す姿に、ただごとではない何かが起きたことを感じ、とても不安で恐ろしい気持ちになった。

あったな〜。子どもの頃って、何が起きたかは分かってないけど、「ただごとじゃない」とだけは理解できちゃう瞬間ってあったよね
あったような気もするけど……。俺にとっては30年も前の話だし、そんな感覚はもう覚えてないなぁ
え〜? 俺は怖かったからよく覚えてるよ。人間のDNAに刻み込まれたように「不穏な空気」だけを感じてたもん
優太はもうすぐ6歳になる。
父親と過ごしたわずかな記憶はどれも、もやに覆われたようにおぼろげだ。

6歳なのに、もう3歳の記憶がおぼろげなの? 俺は今でも覚えてるけどな〜
俺はその頃の記憶なんて残ってないなぁ。ちなみに、みくのしんが覚えてる光景って何なの?
幼稚園の遠足で、お弁当のコロッケを砂の上に落としちゃったことがあってさ。あれは悲しかったな……せっかくのカニクリームコロッケだったのに……

周りの子たちに見られたのが恥ずかしくて、砂もロクに落とさずに口に入れちゃったんだよ。それを食べたときの砂の感触は今でも覚えてるもん
よくもまあ、30年以上前の話を昨日のことのように思い出せるな
あと、お菓子と勘違いしてモルモットのうんちを食べちゃったときのことも覚えてるよ
忘れろよ、そんな記憶

こうして振り返ると、俺の幼少期の記憶って食の記憶ばっかだな
みくのしんってモルモットのうんちも「食」の記憶にカウントするんだ
しかし、その中に一つだけ、くっきりとしたものがあった。
それは三年前の夏……父が死ぬ、ほんの数か月前のことだった。

いいねえ……! なんか雰囲気のある始まり方でワクワクするわ!
まだ始まったばかりなのに、ずいぶん楽しそうだね(これは読み終わるまでに相当な時間がかかりそうだな……)
夏休みに観る映画のオープニングみたいじゃない? 夏に読みたかったな〜! この本、エアコンとセット販売したら売れると思う
聞いたことない合わせ買い商法だ
その日、優太は父に連れられ、 墓参りに行った。

墓参り……? これは、お父さんのお墓じゃないよね?
お父さんとは別に誰かのお墓があって、そこにお参りに来てるシーンなんだろうね
ってことは、すでに故人が2人確定してんのかよ。悲しい話になりそうだな
家から歩いて十分ほどの場所にある霊園だった。
カンカン照りの青空の下、麦わら帽子をかぶった優太に、父は優しい声で何かを言った。

いいねえ〜。この「物語が始まる……」って感じ!
楽しそうだな。内容はずいぶん悲しげだけど
内容はそうなんだけどね。でも、映像がすぐ浮かんできて、読んでて楽しいんだよな〜。シャワシャワシャワ……って蝉の声も聞こえてそうじゃない?
それが、どんな内容だったのか、優太はずっと、思い出せずにいる。
記憶の中で、蝉の声だけが、うるさく鳴り続けている。

ほらね! やっぱセミ鳴いてんじゃん! ここにキンキンの麦茶がないのが不思議なくらい「夏!」って感じがしてきた!

ここまでがプロローグか……。ぴったり1ページで収まってるのも気持ちいいなぁ
(まだ1ページなのか……)今のところ、読んでみてどう?
まだ何が起こるかわかんないし、今のところは、いよいよ物語が始まった……ってくらいかな。あと、雨穴の本ってめちゃくちゃ読みやすいと思ったかも

いつもは本を読んでると、「え〜っと?」って止まることが多いんだけど、雨穴の文章を読んでるときはそのストレスが全然ないんだよな
みくのしんが今まで読んできた本は、太宰治とか芥川龍之介とか、近代文学が多かったからね。それと比べると、現代に書かれた小説はかなり読みやすいと思うよ
それだけじゃないと思うな〜。雨穴の本は、文章を読んでてひっかかることがないから、うすくてぬる〜い塩水みたいに、なんの抵抗もなく体の中にヒゥッと入ってくるんだよ
生理食塩水みたいに言うなよ
今野直美
お! 次のページからは別の人の視点になってる!
群像劇ってやつだね。みくのしんが読む小説としては、初めてのスタイルじゃないかな
こんな感じでコロコロと主人公が変わるのか……。ゲームの『SIREN』みたいでドキドキするぜ……
今野直美は暗い気持ちで、夕飯の支度に取り掛かった。

直美は……お母さんかな? 苗字も同じだし、多分そうなんだろうな
こんな何気ない一文でも、腰を据えて読んでいくんだね。そんな読み方してたら疲れない?
う〜ん。やっぱりミステリー作品だからか、つい探偵になった気持ちで読んじゃうんだよ。こんな気取った読み方してたら笑われるかもしれないけど
いや、それはみんなそうだから大丈夫
長ネギの外皮をむき、包丁でみじん切りにしていく。

料理中の描写が細かいのは嬉しいね。メシ作ってるシーンって「これがこの人の日常なんだ」ってすぐに伝わるから惹かれるんだよな〜
みくのしんは料理好きだし、他の人よりも楽しんで読めるだろうね
ただ……

ネギの挿絵がないですね。ここはイラストで説明してほしかったな
なくても分かるだろ。物語に直接関係のあるシーンでもないだろうし
い〜や、これは必要な情報ですよ。どの状態のネギを剥いたのか。新鮮なのか、残り物のネギなのか。これが事件に深く関わってくると見た
どんな事件が起きると思ってんだよ
その間も、意識は隣の部屋に向いている。

うちの母さんもこんな感じだったな〜。料理してても、ちゃんとこっちの方を見てる感じというか……
小さい子どもがいたら、料理に集中しっぱなしではいられないからね
あのときの母さん、背中からオーラが出てた気がするもんな。顔見なくても、その日の母さんのご機嫌が推理できたし
リビングは静かだ。
おそらく優太は、まだソファの上で、半べそで拗ねているのだろう。

おぉ、どうした? 親子ゲンカでもした?
フライパンを火にかけ、油を引く。
きざんだ長ネギを入れ、炒め始める。

料理の手際もいいですねぇ。今日は何を作ってるんだろ〜?
無邪気な感想だなぁ。晩ご飯を待つ子どもじゃないんだから
メニューを把握できた方が「この後、どんな匂いがしてきそうか」まで分かって楽しいじゃん。先にネギから炒めるってことはチャーハンだと思うんだけど……
頭の中では、様々な思いがぶつかり合う。
(さすがに叱りすぎたかもしれない)
(でも、これは教育だから)
(もっと違う言い方があったんじゃないの?)
(優しい口調じゃ、伝わらないこともある)

わかる……。料理中って頭の中でいろんなこと考えちゃうんだよな……。俺も、仕事のこととか、将来の不安とかで頭がいっぱいになることあるもん
親になると、そこに育児とか教育の悩みまでプラスされるんだね
今の俺には、この気持ちは分からないけど……でも、こう考え込む気持ちは分かるよ
長ネギに火が通り、甘い匂いが立ち込める。

美味そうだな〜! この匂いをかぐと、「今日の晩ご飯はなんだろ?」ってウキウキして、ケンカしてることを忘れちゃいそうになるよね!
料理の描写が始まると、みくのしんがメシに気を取られちゃうからよくないな。どんだけメシ好きなんだよ
ここで、ネギを「甘い匂い」と表現するあたり信頼できますね! さすがは雨穴! 次はレシピ本にも挑戦してほしいな
冷蔵庫からひき肉を取り出し、フライパンに投入する。

ネギの次はひき肉か。ってことは、これは麻婆豆腐かな?
でも、麻婆豆腐だったら、先にニンニクも入れるはずだし……
いやぁ、これは推理のしがいがあるなぁ
ミステリー小説で晩ご飯の献立を推理させることはない
優太は、お絵描きが好きだ。
小さい頃は、ミミズのようにうねった線ばかりを楽しそうに描いていたが、今では人や動物、乗り物など、様々な絵を描けるようになった。

お絵かき、ね。6歳になると、もうだいぶ描けるようになってるだろうな
最近は道具を使うことも覚えた。
特にお気に入りなのが、『お絵描き定規』だ。

懐かしのデザイン定規
あったな〜! 穴に指を押し付けて、定規の跡をつけたりして遊んでたなぁ〜!! 懐かし〜!!
長方形の透明な定規に、丸や三角、星形などの穴が開いている。
その穴をペンでなぞると、子供でもきれいな図形を描くことができる。
それが楽しくて仕方ないらしい。

この子は賢いんだね。俺は、この手の定規は全然使いこなせてなかったもん。うまく線が閉じなかったり、ガタガタになったりで全然書けなくてさ
そんな扱いが難しいもんじゃなかったと思うけどなぁ
いやいや。みんな忘れてるだけで子どもの頃ってそんなもんだよ

子どもって、自分で思ってるほどは集中力が続かないからね。俺も、思い通りにならなくて「ムキー!」ってなってたのを覚えてるもん
よくもまあ、そんな精度で幼少期の体験を覚えてるもんだな
そんなお絵かき定規を使いこなしてるんだから、優太は伸びしろがあると思う。ぜひ、この長所を伸ばしていってほしいですね
勝手に育児方針を決めるな
そのこと自体はいっこうに構わない。
画用紙になら、いくらでも描いていい。
しかし、どうしてフローリングに……? よりにもよって油性ペンで……?

いろんなところに落書きしちゃうのか。なるほど、それで母さんとケンカになってたんだね
よく聞く話だよな。うちの子も、まさに今、いろんなところにお絵かきしまくってるし
これを叱らなきゃいけない親もツラいよな〜。俺も冷蔵庫の横にデコキャラシールを貼って怒られてたから、強く言えないわ
しかもこれが初めてではない。
この前はトイレの壁に、その前は柱に……。
クレンザーを使い、何度もこすったが、少し薄くなるだけで、完全に消えることはない。

怒ってるね〜。このときの母さんの機嫌って背中越しに伝わるんだよな〜
懐かしい記憶だなぁ。いつもよりフライパンが鳴る音もデカくて緊張感があったりしたよね

こう、背中から怒りのオーラが立ち上ってるというか……。肩がいつもより乱暴に動いてるというか……
みくのしんの読書って、誰に聞かせるわけでもないのに動きを伴うよな
これは、自分に聞かせてるんです。実際に手を動かしてみると、何事もわかりやすくなるでしょ
読書にそれが適用されたことはない

こう……とんがった動きでフライパンを動かしてて……そのくせ、こっちから話しかけても怒ってないふりするんだよな……
で、恐る恐る「ねえ、母さん」って呼びかけると……

「なぁに? みく?」
ブチギレてんじゃねえか
こういうときの母さんは、決まって「別に怒ってないけど?」って顔すんだよ。子どもからすると、そのときの顔が一番怖いんだけどね
『子供の好奇心は無限大。落書きだって大事な自己表現の一つです。叱るなんてもってのほか』と、以前読んだ育児書に書かれていた。

生意気な育児書だな! それができれば苦労はしないんだよ!
育児中に「何か解決策はないのか」と思って読んだ本に、こんな綺麗事が書かれてたら参っちゃうだろうな
その著者は、一戸建ての持ち家に住んでいるらしい。
「賃貸に住んでいても同じことが言えるのか?」
……直美は心の中で毒づいた。

そりゃ、直美もこういう表情になるよな
そういう表情になってるかは分からないけども
綺麗事ってのは受け取る側に余裕のあるときしか響かないんだよ。現実で切羽詰まってるところに理想が足しになるかよ!

なんか、このお母さんの気持ちがすごく分かるわ。俺、大きくなったら今野直美になるのかも
自分の将来像だと思ってるんだ
料理のシーンが印象的だからかな〜! めっちゃ「お母さんになった俺だ!」って感じがするんだよな〜
ひき肉に火が通ったことを確認すると、

ほら、火にかけたひき肉も、あんまり触ってなさそうじゃない? そういうところも俺っぽいんだよね
こういう角度から感情移入する人も珍しいな。共感しながら読むのはいいんだけどさ
俺も火が通るまでひき肉はあんまり触らないんだよ。もしダマになっても、それはそれで食感に変化が出ていいしね
絹ごし豆腐を手の上で小さく切り分け、フライパンに放り込む。

木綿豆腐ではなく絹ごし豆腐なんだって! これは間違いなく麻婆豆腐ですね!
まだお料理探偵やってたのかよ
これだけで「あ、今夜は麻婆豆腐だ!」って思ったもん。母さんの麻婆豆腐ってなんか絹ごしのイメージがあるんだよ

あと「絹ごし豆腐を手の上で小さく切り分け」って描写もいいねえ。これだけで、毎日手早く料理してるお母さんの絵が浮かぶよな
料理好きだと、この描写から見える情報量も違うんだなぁ。俺は、「直美の母親としての苦労を伝えるシーン」としてしか読んでなかった気がする
いやいや、このディテールは素晴らしいですよ。やっぱり雨穴も自炊が得意だからか、料理の描写が細かくて読んでて楽しいね
じゅわわわ!とけたたましい音が響く。

そりゃあ絹ごしだからね。水分も多いし、油も跳ねますよ
麻婆豆腐の箱を開け、レトルトパックからタレを流し込む。

ほら麻婆豆腐でした! 推理的中!
どこで名推理を働かせてんだ
直美は辛党だ。
若い頃は甘口なんて食べられたものじゃないと思っていた。
しかし、子供が生まれてからは、まろやかな甘いタレも、それはそれでおいしいことを知った。

いいなぁ〜! 俺もこうなりたい……!
こうなりたいって思うんだ。別に、みくのしんって今でも甘口好きじゃないっけ?
家族に合わせて味の好みが広がる感じがいいんじゃん! 俺は、自分の母さんが好きだから、こういう「お母さん」って感じの仕草に憧れるんだよ!
麻婆豆腐が煮立った頃、炊飯器からメロディが鳴った。
直美は「ふー」と息を吐き、気持ちを切り替えるように口角をきゅっと上げて、リビングに向かう。
「優ちゃん、ご飯だよ」

やっぱり、子どもの前では怒った表情は見せないんだね。考え事から切り替えて、お母さんになる瞬間だ
親も大変だよな〜。本当は悶々としてるのに、子どもの前では無理やり切り替えなきゃいけないんだから
そうは言うけど、この瞬間って案外悪くないと思わない? 俺も自炊してるときに、別の自分に切り替える瞬間があったらいいな……って思うもん
ソファの上の優太は、探るような目を直美に向ける。
ママの機嫌が直ったのか、それともまだ怒っているのか、表情から読み取ろうとしているのだ。

子どもってこうなるよね。何が悪いか分かってないから、親の顔からヒントをもらおうとする感じ……俺もそうだったわ
みくのしんって、親心じゃなく子ども心に共感しながら読むんだね。俺とは真逆の読み方だなぁ
かまどの子はもう2歳になるんだっけ? じゃあ、直美の気持ちは、俺よりもかまどの方が分かるんじゃない?
いや、もうめっちゃ分かるよ

こないだ、うちの子が駅のホームの柵から手を出そうとして、とっさに「ダメ!」って大きい声出しちゃったことがあったんだけど
そりゃ危ないもんな。ちゃんと叱ってるだけ偉いじゃん
でも、それからしばらくは、遊ぼうとするたびに「これは大丈夫なの……?」って親の様子を見るようになっちゃって。たったこれだけでも、親の顔色を気にさせちゃうのか……と思って切なかったな
ソファの上の優太は、探るような目を直美に向ける。
ママの機嫌が直ったのか、それともまだ怒っているのか、表情から読み取ろうとしているのだ。
この文章だけで、そんなことまで思い出すんだね。俺は、子どものときの自分を思い出して、懐かしい気持ちになるシーンなのに
俺は、そのときの子どもの表情を思い出して、ほろ苦い気持ちになるシーンだなぁ
(私も子供の頃、親に怒られた後に、こういう顔をしてたのかな)
直美は、普段より優しい声で、「もうママ怒ってないよ。ほら、一緒にご飯食べよ」と言って笑った。
「……うん。食べる」
優太の顔から、緊張が少しずつ消えていった。

結局、なんてことない親子ゲンカだったんだ。今のところ、今野家の日常を見せてもらってる感じだな
まあ、何か事件が始まるまではこんなもんじゃない?
俺は、すごく読みやすいし、このまま終わってくれても一向に構わないけどね。人ん家にお邪魔してるみたいで楽しいし
食事を終え、優太を風呂に入れ、寝かしつけてから、食器を洗い、洗濯物をたたんで、やっと一息ついたと思ったらもう11時だ。
リビングのソファに体をしずめると、一日の疲れが一気に押し寄せる。

家事ってとにかく時間が奪われるからね……。日常を維持するためだけに、なんでこんなに手数がかかるんだよ……って思うよな
家事の描写に集中してるなぁ。生活感覚を大事にしてるみくのしんっぽい読み方だ
もう若くはない。これから一人で、あの子を育てていけるのだろうか。
パートタイムの安い時給と扶養手当では、貯金もまともにできない。
今住んでいるマンションは都心では安いほうだが、それでも毎月の家賃はきつい。

それにしても、日常の描写がリアルだなぁ。小説の中でまで、貯金のこと考えたくないって……
進学、受験、就職……次々とやってくる人生の節目に、満足なお金を出してあげられるだろうか。優太を守ってあげられるだろうか。
まるでゴールのない長距離マラソンを走っているようだ。

直美も疲れるなぁ……。ひとり親で、これを乗り越えていかなきゃいけないのか……
直美には、そのマラソンを一緒に走るパートナーもいないもんね
なんてシビアな話だ……。読んでるだけの俺まで疲れてきた……
さらに、怖いのは未来だけではない。
直美には最近、大きな気がかりがある。

……なんか「ティーン♪」って音がしたね
なにそれ。何の音?
ミステリーが始まる音だろ。ピアノの鍵盤を叩いたような「ティーン♪」って音が頭の中で鳴るんだよ
みくのしんの頭の中で鳴ってる効果音までは分かりようがないだろ
※【編集部注】……この音のことらしいです。
『誰かに付きまとわれている』
……最初にそう感じたのは二日前の夜だった。

うわぁ……いよいよ事件が起きそうな気配がしてきたな
仕事を終え、保育園から優太を連れて家に帰る途中、突然、背後に視線を感じた。
振り返ったが、誰もいなかった。気のせいかと思った。
しかし次の日も、不穏な気配は、家路をたどる二人の後をつけた。

これは、ストーカーみたいなことかな? それとも、空き巣?
少なくとも、この親子を狙ってる奴がいるってことなんだろうね
やだなぁ……。お父さんもいない中、母さん1人でやりくりしてるところに降り掛かっていい災難じゃないだろ
そして今日の帰り道、遂に疑念が確信に変わった。
優太と一緒に、家の近くのコンビニで買い物をして外に出ると、店の前に軽自動車が停まっていた。
近所ではあまり見かけない車種だったので、少し不思議に感じた。

なんかサスペンス映画っぽい展開だね。この車にだけ、妙にピントが合って不穏なBGMが鳴り出しそう……
相変わらず、映画のようにイメージを演出させながら文字を読んでるな。その分、時間はかかるけど、器用な読み方だと思うわ
映像が浮かびやすい文章だからってのもあると思うけどね。文字を読むだけで精一杯だった頃は、こんな読み方できなかったもん
二人が歩き始めると、追いかけるように、軽自動車もゆっくりと動き出した。

緊迫感あるなぁ。コンクリートとタイヤが擦れる「ズゥリィ……」って音も鳴ってそうじゃない?
文字に書いてある以上の情報をよくイメージできるなぁ。たしかに鳴ってそうだけども
タイヤの部分だけアップになってさ……。アスファルト剥がれてんじゃないの? ってくらい粘っこい音を出して動き出すんだよ……
緊張が走る。
車は二人の後ろで、一定の距離を保ちながら、徐行を続けた。
明らかにおかしい。

気のせいとかじゃないよな。絶対この2人を狙ってるもん
走って逃げるべきか。立ち止まるべきか。振り返るべきか。
そのいずれも危険な気がして、優太の手をきつく握りしめたまま、歩き続けた。

こう……暗い夜道を急ぎ足でね……。チラホラ灯ってる街頭の前を通ったときだけ、直美の焦った顔が見える感じ……。これは怖いですね……
自分で自分を盛り上げながら読んでるからじゃない? 羨ましい読書だとは思うけども
多分、俺の根本に「もったいない精神」があるからだろうね。「せっかく読むなら、長く味わっていたい!」って思ってるのかも
みんな、なかなかそれができないんだよ
口に入れたものをめっちゃ咀嚼してるのと同じ感覚なんだけどな。メシもよく噛んで食べたほうが美味いでしょ
みくのしんの読書って、よく噛んで食べてるイメージなんだ
しばらくすると、直美たちの住むマンションが見えてくる。
「優ちゃん、急ぐよ」
直美は優太の手を引いて、足を速めた。

一旦マンションに逃げ込めば安心だよね? さすがに、車でマンションに突入することはないだろうし……
逃げ込むようにマンションのエントランスに入る。
二人が中に入った直後、車は急に速度を上げ、走り去っていった。
やはり、二人をつけていたのだ。

とりあえずこの日は無事だったのか。でも、マンションに入るところは見られたってことだよな
どの部屋か、まではバレてないけどね。ただ、どの建物に帰って行ったのかは把握された形になるね
怖ぇ……。まだ全然安心できないじゃん……
「もし、武ちゃんがいてくれたら……」
部屋の隅に置かれた、小さな仏壇を眺めてつぶやいた。
むなしい空想だが、毎晩考えてしまう。

こういうときに思い出すのが亡くなった夫……ってのもツラいよね。その他に頼りになる人が誰も思い浮かばないってことじゃん……
優太の、たった一人の父親・武司は、今では写真立ての中で微笑むだけだ。

なんかもう悲しいです。幸せな話であってくれよ……
ずいぶん体重の乗った読み方してるなぁ。まだまだ序盤なのに、大丈夫?
読んでると、直美の「生活の疲れ」がのしかかってくるようでしんどいんだよ。「不幸」とまでは言えないけど、リアルで払いのけようのない「疲れ」が……
それが……もう……

クゥ……キキィ……
え? もしかして泣こうとしてんの? なんで???
僕は、直美みたいに毎日を頑張ってる人が好きなんです……。そして、そんな人がツラい目にあうのが嫌いなんです……
この親子がツラい目に遭うなんて耐えられません……
どうか、いろんなことを乗り越えてハッピーエンドになってほしい……

でもなぁ〜! 雨穴はこの話をハッピーエンドにしてくれるかなぁ!? もっとツラい状況にしたりしないかなぁ……?!
この時点ではなんとも言えないよ。気になるなら続きを読むしかない
読むの怖ぇ……! 最終的に幸せに終わるなら、今のうちに教えてくれ……!
そんな無粋なネタバレはできないだろ
直美は重い腰を上げ、仏壇に供えた麻婆豆腐の入った小皿を手に取り、台所に行ってラップをかけ、冷蔵庫にしまった。
これは直美の明日の朝食になる。

生活感あるなぁ……。なんてことないシーンだけど、これだけで日常の質感が伝わってくるね
育児中は、どうしてもそういう場面が多くなるもんな。俺も子どもの食べ残しを片付けがてら食べて、それで夕食すますことあるし
ただ、このお供え物のお下がりも、それはそれで美味いんだよな〜! 俺、子どもの頃は率先して食べさせてもらってたよ
ご先祖様以外に、これが好物の人いるんだ
あのマルっとして固くなったお米が妙に美味しかったんだよ。よく弟と取り合ってたもん
争奪戦になるようなご馳走ではないだろ
リビングに戻り、写真立てに手を合わせると、ようやく寝室に入った。
優太はもうすっかり寝息をたてていた。泣き疲れたせいもあるだろう。
最近、優太の顔が武司に似てきた。武司のように育ってほしい。
そっと願い、布団に入った。

大変な毎日だなぁ……。頼むよ……こんな人を不幸な目にあわせないでくれ……
もう嫌なこと起きないでくれ……
スーパーに行ったら半額シールばっかりとか、たまたまいい状態の豚こま肉が売ってたとかそういう幸せなことだけ起きてくれ……
その範囲での幸せでいいんだ

だって、直美の疲労感がすごいじゃん。ちょっとでも、生活のグラフが上向きになるようなことが起きてほしいんだよ
まあまあ。まだどんな物語が展開するか分かんないんだからさ
これがハッピーエンドの前フリかもしれないしね……。続きを読むしかないか……
「あのね? 私、いつもこちらのスーパーで買い物させてもらってるんですよお」

さっそく嫌なやつ出てきてんじゃん
嫌な奴認定が早すぎるだろ
声聞けば分かるだろ。こんな「ですよお」って語尾の伸ばし方は、嫌味な奴しか使わないって
「ですけどね、こういう不親切な対応をされてしまうと、もう来たくないって思ってしまうでしょお?」

ほらみろ。確定で嫌なババアじゃねえか
語尾に「お」を一個つけるだけで、こんなに印象って変わるもんなんだな
こっちは、お父さんもなくして、ストーカー疑惑まで出てんのにさぁ! そこにきて、こんな嫌な目にあわせなくてもいいじゃん!
袋詰めの順番が気に入らなかったらしく、老年の女性客は、かれこれ五分近くも、直美を責め続けている。

いるよな……。クレームそのものにやりがいを見出してるやつ……。袋詰めの順番が変だったとして、あなたの人生に何の影響があるんですか???
接客業してると一度はこういう客に出くわすよな〜。俺も、コンビニバイトしてた頃に何度かくらったわ
直美も大変だなぁ……。お金もないし、将来も不安だし……この仕事に手応えもないんだろうな……
「あなた、接客というものを一から勉強なさったほうがいいわよ。
ネームプレート見せてちょうだい」

何が「ネームプレート見せてちょうだい」だよ。えっらそうに!
憎たらしい顔だなぁ
こういう奴ってなぜか口調は丁寧なんだよな。他人の人生の悪役になってるとは1ミリも思ってないんだよ
「『今野』さんね。
このことは、あとでお店に報告させていただきます。
もう、気分悪くなっちゃったわ!」

なんでこういう人たちが楽しく毎日を生きられるんですか???
まあまあ。気持ちはわかるけどさ
こっちは毎日悩んで、頑張ってるだけなのに! それを邪魔しといて、なんで報いを受けないんですか? 許せねえよ!!!
吐き捨てて、怒りながら歩いていく後ろ姿を、直美は頭を下げたまま見送った。
レジの時計を見ると、すでに定刻の6時を過ぎている。
タイムカードを押し、急いで着替え、小走りで店を出た。

直美には弱音を吐いてる暇もないのか……。誰か愚痴くらい聞いてやれよ……
しょうがないよ。保育園のお迎えがあると、夕方は怒涛の時間になるから
こんな嫌な目にあっても、生活は流れてくんだよな……。生きてる以上は生き続けていかなきゃいけないから……
優太の保育園は、夜7時まで子供を預かってくれる。
とはいえ、6時を過ぎる頃には、ほとんどの子供は帰ってしまう。
お迎えの遅い子は、保育室で先生と二人、親を待つことになる。
その寂しい光景を、直美は何度も見てきた。

これは……ドラマとかで見たことあるから、なんとなく知ってるかも。俺は経験ないけども……
俺は、子どもの頃に保育園で居残りしてたから分かるよ。寂しいっちゃ寂しいけど、先生を独り占めできるから楽しかったような記憶もあるなぁ
でも、直美の立場からすると、焦るだろうな〜! 「まぁ、うちの子は大丈夫でしょ」って言えるタイプのお母さんじゃなさそうだもん
ただでさえ、ひとり親の優太に、これ以上孤独な思いはさせたくない。
その一心で、直美は走る。

いいお母さんじゃん……。こんなことを毎日やってくれてると思うと頭が下がるわ
到着したのは、6時15分少し前だった。

あれ? 15分くらいで着いてる? ……ってことは、わりと職場から近いのか
1人で育児してるし、送り迎えがしやすい職場で働いてるんだろうね
あんな嫌な目にあっても仕事が続けられるのは、これが大きいんだろうね。頑張ってるなぁ……
門をくぐり園庭に入ると、「あ!優太くんのママだ!」という、かわいらしい声が聞こえた。
前から、三つ編みの女の子と、ひげをたくわえた大柄の男性が歩いてくる。
優太と同じクラスの米沢美羽と、その父親だ。

急に新キャラが出てきたな。誰だコイツ
誰だコイツ、ってことはないだろ。同級生の親御さんでしょ
なんか怪しくない? あの軽自動車で追ってきた奴は、実はこいつだったりしそう……
出てくる人間を初っ端から疑っていくね。まあ、ミステリー読んでるとそうなりがちだよな
美羽はクラスの中でも、特に優太と仲良くしてくれているらしい。
直美は少しかがんで「こんばんは、美羽ちゃん」と笑顔で言った。

優太は友だちと一緒だったんだね。1人で待たされなくてよかったじゃん
その後、目線を上げて父親と挨拶を交わす。
「米沢さん、お疲れ様です」
「今野さんもお疲れ様です! お互い、毎日大変ですね」
「ええ、本当に」

いい感じに挨拶してるし、やっぱり犯人じゃないのか? とはいえ、裏ではあくどいことを考えてる可能性もあるしな……
米沢パパの一挙手一投足を見張ってるなぁ。まだ情報も少ないんだし、あまりジロジロ見ずに読んでいったら?
え〜? せっかくだから、早押しで犯人を当てたいじゃん!「この段階で分かったの!?」って褒められたいんだよ
この段階で言い当てても、それは推理じゃなくて「こいつ犯人臭ぇな」って偏見が成就しただけだよ
「そうだ。来月、うちの庭でバーベキューやるんで、よかったら優太くんと遊びに来てください!

バーベキューのお誘いだって。よかったじゃん。直美も孤独ってわけじゃないんだ
保育園の送り迎えの時間のこういう会話ってあるよな。親同士のちっちゃな連帯感があって心地良いんだよ
とはいえ、俺はまだ米沢のこと信用できてないけどね。この誘いも、何か裏がある可能性が──
「食いきれないくらい牛肉、用意しますから!
『米沢』だけにね」

……えぇ?
「……え?」
「あの、ほら、『米沢牛』ってあるじゃないですか。
僕らの苗字も『米沢』だから……その、米沢家の買った牛、略して米沢牛……なんちゃって」

こいつは怪しくないです! さっそく容疑者リストから外れました!
まだ分からないだろ。なんでこれだけでシロ確定できたんだよ
だってお前……今までのミステリー作品で犯人がスベったところ見たことあんのか??? こいつは絶対悪いやつじゃない!!!
なんて身勝手な推理だ
だってさ。保育園で挨拶したと思ったら……急に牛肉の話を始めて……

僕の苗字も『米沢』だからあ! これぞまさに米沢牛ってことでえ!
米沢ってそんなラグビー部出身のピン芸人みたいな奴だったか?

違うか!! ガハハハハハ!!!!!
勝手に愉快なキャラに仕立てるなよ
え〜。せっかくなら面白い奴の方がいいじゃん

ここは、直美にとっては息抜きの時間なんだから。なるだけゴキゲンな育児仲間がいてほしいよ
直美のメンタルフォローを考えたキャラ付けだったんだ
「パパ、スベってるよー」
横から美羽が不満げに言う。

言うなよ、そんなこと
楽しそうに読むなぁ。これミステリー小説だぞ
この親子おもしれぇ……!! この2人のやりとりを撮ったショート動画で、すげえバズってるやつありそう!
その絶妙なかけ合いに、直美は思わず吹き出してしまった。

いいじゃんいいじゃん! 吹き出すってことは、この一瞬だけは嫌なことを忘れてるってことでしょ? 直美にはこういう瞬間が必要だよ!
労るような読み方してるなぁ。優しい奴め
こんな瞬間がないと、ずっと疲れっぱなしになっちゃうからね。ここで笑えた自分は覚えておかないと
「いやー、僕またスべっちゃったかー、美羽は厳しいなー」

いやあ、手厳しいなあ!!! ウハハハハハ!!!!
もうそいつのセリフを読み上げるのやめてくれ。みくのしんの読書がブレるから
こいつは例の不審者じゃないな! 絶対大丈夫だ!
別件で不審者ではあるだろ
米沢・父は照れ隠しのように笑い、娘と手をつないで楽しそうに門を出て行った。
直美は二人の背中を微笑ましい気持ちで見送った。

米沢の家庭はうまくいってるんだね。こうなると、急に惨めに感じちゃったりするんだよなぁ
自分のコンディションが悪いと、こういうのも見せつけられたように感じちゃうもんな
でも、直美はそれを微笑ましく見てるんでしょ? まだ心は腐ってないんだね……立派だわ……
米沢家の奥さんは、現在、末期のがんで入院していると聞く。

ぁあ……。なるほど……
今月末には退院して、在宅ケアに切り替えるという。
それぞれの家庭に、色々な事情がある。

そりゃ、そうだ……。みんなそれぞれいろいろあって、それぞれ頑張って生きてんだなぁ……
米沢パパも、ただの能天気な人ってわけじゃないんだね
それなのに、みんなの前ではあんなに豪快に笑って、周りを笑わせてたのか……。あんた、かっけぇよ……
(みんな、つらくても明るく生きてるんだ。私も頑張らなくちゃ)
……直美は、少しだけ元気をもらった気がした。

そうだ! 一緒に頑張ろう!俺も頑張るわ!
本を読みながらエールをおくる奴があるかよ
表向きはみんな羨ましく見えるけど、家に帰ったらそれぞれ向き合うものがあるんだよ! 誰だってそうなんだよ!!

いろいろ本を読んできて分かったけど、俺、「ツラくても毎日を頑張ってる人」の姿を見るのが好きなんだよ。この人が物語を乗り越えたら、現実世界の俺も頑張ろうと思えるから
そういう「生活」の描写に、「自分」を投影してるんだ。みくのしんらしい読み方だなぁ
だから、物語がハッピーエンドになったら自分の未来も信じられる気がするし、バッドエンドになったら「じゃあ、俺が頑張る理由って何……?」と怖くなるんだよな
どうかこのまま幸せに終わってくれ……。で、エンドロールでみんなで米沢牛でパーティしてる映像を流してくれ……
小説を相手に難しい注文をするなぁ
保育室では、優太と若い担任保育士の春岡美穂が、ジグソーパズルをして遊んでいた。
やはり、今日も最後の一人になってしまったようだ。

春岡美穂……? こいつも怪しく見えてきたな
とにかく疑ってるなぁ。今のところ、何のヒントもないし無理もないか
『保育士が犯人』ってパターンもありそうだしね。油断せずに見とかないと……
よく集中力が続くね。俺、こういうミステリー読んでてもそのうち犯人探しを忘れちゃうんだよな
「遅くなってごめんね!優ちゃん」と声をかけると、優太はちらりと直美のほうを見て、パズルに目を戻した。

優太は愛想がないね。昨日のケンカをまだ引きずってるのかな
どうだろうね。昨日は2人で晩ご飯食べてたけど、内心はどう思ってるのか分からないもんな
まあでも、こういうときって、ただ遊びに集中してるだけだったりするよね。単純に邪魔されたくないだけなんじゃないかな
「ママ、ちょっと待ってて。まだパズル終わってないから」
幼い声に似合わない、ぶっきらぼうな言い方だ。

ほら〜! この時期って、反抗期のお試し版みたいなことやっちゃうんだよ。 俺もこんな態度とってたな〜! 懐かしっ!
よくそこまで当時の感覚を再現できるなぁ。俺は6歳の心境に共感できるほどには覚えてないよ
幼稚園の年長くらいになると、親に対してカッコつける自分が出てくるよな〜! 優太も「俺、パズルに真剣だから」みたいな顔して浸ってるんだと思う!
迎えに来ると「ママー!」と駆け寄ってきたのは4歳の半ばまで。
最近は、外でママとべたべたするのはカッコ悪い、という感覚が芽生え始めたらしい。
直美としては少し寂しいが、男の子はそれくらいのほうがいいのかもしれない。

これはみんなそうですよ。本当はベタベタしたいし、甘えてる他の子を見て羨ましいと思ってるんだけどね。カッコつけたいお年頃なんですよ
やだな〜。うちの子もあと2年したら、ベタベタしてくれなくなるのか
そりゃそうじゃん。そのうちかまどよりも友だちと遊ぶほうが楽しくなるんだって
イヤです。いつまでも、「パパー!」って駆け寄ってきてほしいです
わがまま言うなよ
パズルとにらめっこする優太に、保育士の春岡が言った。
「ねえ、優太くん。先生、ママとお話したいことがあるから、ちょっと一人で待ってられるかな?」
直美はドキッとする。何かあったのだろうか。

油断してたら、また何か始まりそうだ……。なんだよ、「お話したいこと」って……
もうちょいリラックスして読んだら? そんなに逐一ビクビクしてたら身が持たないだろ
でも、こんなの絶対楽しい話題じゃないだろ。この出だしで、「今度スシローのフェアが始まるらしいですよ」みたいなテーマだったことないもん
優太は不服そうな顔をしたが、春岡が「先生たちが戻ってきたら、完成したパズル見せてよ! 楽しみだなぁ!」とハッパをかけると、がぜんやる気を出したようだった。

かわいぃ……! こういうシリアスなシーンで、子どもの無邪気な顔が映ると、気が抜けて落ち着くよな〜!
それにしては渋い顔してるけども
俺は知ってるんだよ……。こういうほのぼのとしたシーンの後ほど、落ち込むようなことが待ってたりするんです……
春岡は直美を職員室へ案内した。
「お疲れのところ申し訳ありません。どうぞ、こちらにおかけになってください」
「すみません。失礼します」
直美がパイプ椅子に腰を下ろすと、春岡も同じものを持ってきて、隣に座った。

ヤだな〜。怒られる前に出る「大人としての敬語」って感じがするわ
「最近、優太くん、お家で変わったことはありませんか?」
「変わったこと……というと……?」
「たとえば……怖いテレビにハマってる……とか……」

ん? 怖いテレビ……?
「怖いテレビ……? いえ……特にそういうものは、見せていませんが……。
あの、優太に何かあったんですか?」「ええ……ちょっと、お待ちください」

なんか、面白くなってきたなぁ! ホラー展開が始まりそうじゃん
「直美には不幸になってほしくない」って言ってたわりに、嬉しそうだね
正直、怖い話は好きだからね。直美には悪いけど、「何が起こるんだろう……!」って怖いもの見たさのワクワクが出ちゃってるかも

しかもほら! ここ見てよ!

「ちょっと、お待ちください」で、ちょうどページが終わってんだよ? こんなことされると、次の展開を期待しちゃうでしょ!
紙の本ならでは演出だね。テレビ見てたら、いいところでCM入った……みたいな感じだ
雨穴の本ってこういうところがいいよな〜! 先が気になる作りになってて、ページをめくること自体が楽しいんだよ
春岡は立ち上がり、職員用デスクから、分厚いファイルを持ってきた。
中にはたくさんの絵が入っている。子供たちの描いたクレヨン画だ。

春岡が見せたかったのはクレヨン画か。優太が保育園で描いたやつかな?
「今日の午後、クラスでお絵描きをしたんです。もうすぐ母の日ですよね。
だから、プレゼントとして『お母さんの絵』をみんなに描いてもらったんです。
それで……えーと、これが優太くんの絵なんですけど……」手渡された画用紙を見て、直美はぎょっとした。

ぅわ……。最初のページにもあったよね。これは優太が描いた絵だったのか……
たしかに、「お母さん」というテーマで園児がこれを描いてたら、保護者に事情を確認したくなるだろうな
明らかに変なものが描かれてるもんね……。なんだこれは……?

6階の2番目の部屋がグチャグチャになってるし……。やっぱり、602号室に何かがあるってことだよね?
俺も迂闊にネタバレにつながるようなことは言えないけど……少なくとも、この絵を読み解くところから、このミステリーが始まるってことだね
なるほど……。これが、「変な絵」か……
右端に描かれた二人の人物は、優太と直美だろう。
真ん中の建物は二人の住むマンションだ。階数、部屋の数、入口の場所など、かなり正確に再現されている。
人間と比べて、マンションが小さすぎるのはご愛嬌として、奇妙なのはその上部だ。

これは……血痕? 実は602号室で殺人事件があったとか……? だとしたら、めっちゃ怖いけども
……。
でも、子どもがそんな物騒なこと描くかなぁ? しかも、「お母さんを描いてみよう」って言われて、それを描くのも変だし……
最上階の真ん中の部屋が、灰色でぐちゃぐちゃに塗られている。
そこは、直美たちの住む部屋だ。

これは事件の香りがしてきましたねえ
ずいぶんノッてきたなぁ。作中で事件が動き出すと、前のめりになる気持ちは分かるけど
「何これ、怖っ」と思った場所が、まさか自分たちの部屋とはね。それに気付いたとき、直美もビビっただろうな
「春岡先生……この灰色のぐちゃぐちゃは……優太が……自分で……?」

「灰色」で塗られてるってことは、血ではないのか……? 殺人事件ってのは俺の考えすぎ?
……なんかこれ、相槌をうつのも難しいな。変にヒントを与えて、みくのしんの読書を邪魔しちゃいそうだ
そんなこと言ったら、俺だって人に見られながらミステリーを解くの初めてだから緊張してるよ
優太は絵を描くのが好きだ。
お気に入りの絵が描けると、寝転がって満足そうに眺めたりもする。
直美はそれを『自画自賛タイム』と呼んで、愛おしく思っていた。

かわいいね〜。やっぱり優太はお絵かきが好きなんだね
子どもらしい可愛い光景だよな。大人になったらなかなかしないもんね
そう? 俺もメシ作ってるときはやるよ。自分の晩飯を見て、「これ美味しい〜♪ さすが俺♪」とか口に出して言うもん
35歳になるおじさんの自画自賛タイムは聞いてられないって
そんな優太が、自分の作品にこんなことをするはずがない。
たとえば、近くの席の子にイタズラをされたのではないか……同じクラスの子を疑いたくはないが、どうしても考えてしまう。

そっか。これを本人が書いたとは限らないのか
別の誰かが、優太の絵をグチャグチャにした可能性もあるからね
それはそれで別の問題があるけどな。誰かにいじめられてるってことじゃん

見れば見るほどザワザワしてくるな……。単純にふざけて、こういう絵を描いたって可能性はないのかな……?
……いや、でもお絵描き好きの子が自分の絵を「こう」するわけないもんな。絶対「なにか」を伝えようとしてるんだと思うけど……
そんな直美の気持ちを察したように、春岡はこう言った。

うんうん……
「たしかに、お絵描きや工作の時間に、友達にちょっかいを出してしまう子は、一定の割合でいます。本人に悪気はないんですが、されたほうは傷つきますよね。
ですので、そういったことが起こらないように、みんながちゃんと自分の作業に集中できているか、注意深く見るようにしているんです。
今日に限って言えば、誰かが優太くんの絵にイタズラをする、というようなことは、ありませんでした」

丁寧な先生だな〜! 「本当に? 信じていいの?」っていう疑念がまるで出てこない言い方だね!
まあ、それを信じないと話が進まないもんな
嘘は言ってなさそうだし、こっちも余計なこと考えなくていい信頼感がある! この先生は信用できるね〜!!!!

雨穴の作品って、こういう優しいところが好きなんだよな〜。本を読んでいて、「え? でもコレはどうなの?」って疑問が、続きを読むとすぐに解決されるから、すごく読みやすいんです
たしかに、みくのしんの読書って「これどういう意味?」と立ち止まる時間が多いもんな。いつもは、俺が補足してるけど、この本ではあまりそういうことは起きてないね
読んでて感じた疑問が本の中で説明されないと「俺の話が聞いてもらえてない」「俺が考えてることは間違いなのかな?」って不安になるんだけどね。でも、雨穴の本には、そういう置いてけぼりにされる感覚がないんだよ
「そうですか……」
「ただ……これは私の力不足なんですが、それぞれの子が、どんな手順で絵を描いているかまでは、しっかりと把握できていなくて……。
優太くんの絵がおかしいと気づいたのは、完成してからでした。だから、優太くんがどういう経緯で、ここに灰色を塗ったのかはわからないんです。申し訳ありません」

そこは見といてよ〜!
見てたらつまんないだろ。初手で謎が全部解き明かされちゃうじゃん
でもさ〜! ここで見ててくれたら、俺もあれこれ考えなくてすんだだろ!
それを楽しむのがミステリーなんだよ
「そんな、謝らないでください。お一人でたくさんの子供を見られてるんですから、そこまで把握するなんて無理ですよ」
「……恐れ入ります……」
「……でも、どうして優太はこんなことをしたんだろう」

そっか。「これ何……?」って不安になってるのは、春岡も同じだもんな
「実はさっき、本人に聞いてみたんです。そしたら優太くん、『言いたくない』って」
「言いたくない……?」

ここは「ティーン♪」ポイントですね
またミステリーの音を鳴らしてるな
ミステリー小説は読んだことないけど、「こういう音が鳴ってそう」ってイメージだけはあるんだよね。何か、謎解きのヒントに迫ったときに鳴る効果音というか
「優太くん、お絵描きが大好きで、いつもなら自分の描いた絵について嬉しそうに話してくれるんですけど、今日はどうしたんだろうって、とても心配で。
ちなみにですが、この建物はご自宅のマンション……ですよね?」
「はい。……塗りつぶされているのは……私たちの部屋です」

「……」が多いと、探り探り話してる感じがして臨場感あるね。こういう記号が多いと助かるんだよなぁ〜
そうなんだ。書き手には、「……」が多いと「野暮ったい文章になってないかな」ってそわそわする人が多いんだけど、みくのしんからしたらそんなことないんだね
え、そうなの? 俺は助かるけどな

「……」があるだけで、相手の表情が伝わる気がしない? 読書に不慣れな側からすると、「文字を読むエネルギーを使ってないのに、伝わってくる情報がある」って状況がすごく助かるんだよ
そういうもんなんだ。硬派な小説だと「!」「?」すら省略してることもあるし、何ならそれがカッコいいと思ってたけど……。やっぱり記号がもたらす読みやすさも無視できないんだな

ゲームでキャラクターがしゃべるときにさ、テキストに合わせて「ピピピピピッ」って音が鳴ってセリフを表現することあるでしょ?
ん? まあ、ボイスが実装されてないゲームだとそういう演出はよくあるかな
俺にとって、「文字だけのセリフ」ってこのイメージなんだよ。「人が喋ってる」という情報しか入ってこなくて、声色とか表情がイメージできない。このせいで字を読むのが苦手だったんだよな
そんなこと考えたことなかったけど……なんとなく言ってることは分かる気もする

でも、「……」みたいな記号があると、ちゃんと人の声で再生されるんだよ。息遣いとか表情をイメージする余裕があるからかも
それが「文字を読むエネルギーを使ってないのに、伝わってくる情報がある」ってことか。なるほどなぁ
ごめんね。なんか関係ないことをいろいろしゃべりすぎちゃった
そんなことないだろ。こういうことが聞けるから、人の読書に付き合って楽しいんだし
「やっぱり……。何か、お家に怖いものでもあるのかなって思ったんですが……」
その言葉を聞き、直美の胸に鈍痛が走った。昨夜のことを思い出す。
「……先生、実は昨日……」

ん? 直美は「怖いもの」に思い当たるフシがあんの……?
直美は、落書きの件で優太をきつく叱りすぎてしまったことを話した。
事実だけを伝えるつもりが、話しているうちに、だんだんと感情が高ぶり、気づけば自分を責める言葉ばかりを吐き出していた。

落書きのこと? そんなちっちゃい親子ゲンカは、いま関係ないでしょ
親からすると、「子どもにとっては大きい出来事だったのかも……」って不安になっちゃうんじゃない?
そういうもんなのかなぁ。でも、この絵で問題になってるのは自分たちの部屋でしょ

ほら。母さんのことめっちゃニコニコに描いてんじゃん。絶対ケンカは関係ないだろ
細かいところまでよく見てるなぁ
もし、俺が叱られたことを根に持ってたら、こんな風に描かないもん。母さんをちょっと太らせて描いたりすると思う
報復の発想が幼稚園児すぎる
すべてを聞き終えた後、春岡は直美の目を見て、優しく言った。
「……そうだったんですね。でも、その後で仲直りはしたんですよね?」
「はい……」
「優太くん自身、どうして叱られたのか、ちゃんと理解していますよね?」
「それは……はい。叱るときは、必ず理由を伝えるようにしています」

こういうことも正直に話せるんだね。先生といい関係が築けてるじゃん
「だったら、たぶん、原因はそれじゃないと思いますよ。ほら……」
春岡は画用紙に描かれた『ママ』の絵を指差した。
「ママの顔、とってもかわいく描いてるじゃないですか。
叱られたことを気に病んでいたら、こんなふうには描かないですよ」

だよね! 俺も全く同じこと思った!
みくのしんのようにたっぷり時間かけて読むスタイルは、ミステリーを読み解くのに向いてるのかもね
こんなの優太の気持ちになったらすぐ分かるだろ。パズルのときも、全然怒ってなかったじゃん
「そうでしょうか?」
「ええ、ですから、その点については心配しなくていいと思います。
もう少し、様子を見ましょう。今日だけの気まぐれかもしれませんし」

春岡、優しいな〜! 俺、春岡好きです! この先生のクラスに入りたいです!
35歳の大人が言うにはキモすぎるセリフだ
「ありがとうございます……。そう言っていただけると、気が楽になります」
「……って、私なんかが偉そうに語っちゃってすみません!
そうだ、ちょっと待っててください」

なんだろ。おまんじゅうでもくれんのかな?
この状況で、おすそ分けを期待するやつがあるかよ
僕は相手が「あ、ちょっと待ってて」と言って、カバンの中をゴソゴソしてる時間が好きなんです。「期待してません」って顔を保つのに大変なんだ、これが!
春岡は優太の絵を持って立ち上がり、プリンターでそれをコピーした。
「一応、この絵は『母の日のプレゼント』なので、母の日直前までこちらでお預かりすることになっているんです。
ただ、やっぱり気になるでしょうから、コピーしたものをお渡ししておきますね」

ああ、写しをくれるのね。たしかに、おまんじゅうよりはこっちのほうが大事だな
そもそも、なんでこの状況でおまんじゅうもらえると思ったんだ
常に「もらえるかも」と思っておかないと、もらい物って自分に回ってこないからね
「ありがとうございます。お気遣いいただいて……」
「いえいえ……あと、今日この絵をお見せしたことは、優太くんには内緒にしておいてください。サプライズプレゼントなので」
「あ、そうですよね。サプライズか……。 ふふ……驚く練習しておかないと」

いいねえ〜! もう、こういうシーンだけ続いてほしいです
直美は、手渡されたコピー用紙の絵をまじまじと見つめる。
そして、あることに気がついた。

なに……? まだ何か変なところあんの?
「この字、優太が書いたんですか?」

久々の「ティーン♪」がきましたね。これは事件のカギになりそうです!
ミステリーの音、だいぶ鳴るなぁ
「そうですよ」
「いつの間に漢字を……」

まあ、漢字くらい俺も書けるけどね。なんなら「優」も書けますよ
35歳が6歳相手に対抗意識を燃やしてどうする
「実は先週、自分の名前を漢字で書く練習をみんなでしたんです。
来年には小学校に上がりますから、そろそろお勉強の準備を始めよう、ってことになりまして」「そうなんですか……!」
「優太くん、覚えるのが早くてびっくりしました。
さすがに画数の多い『優』はまだ難しいけど、それ以外の漢字は、お手本がなくても書けるようになったんですよ」「……すごいなあ……」
優太はどんどん大人になっていく。嬉しくもあり、ほんの少し寂しくもある。

分かる……! こういう「成長を実感するとき」って、切ないよなぁ〜!!
子どもって、1日ごとにドンドンできることが増えてくからね。俺は子どもいるから分かるけど、みくのしんもこの感覚に共感できるんだね
そりゃあ、分かるよ。こないだスーパーでベビーリーフを買ったときもさぁ……

昔の俺は、めっちゃ悩まないと買えなかったのに、そのときは何も考えずにスッと買えたんだよ。変わった自分が嬉しくもあり、同時にさみしくもあったんだよな
まさか自分の成長の話してたとはね
あんなに小さかった俺が何でも買えるようになって……と思ったし、「あの頃の俺を置いていかないで!」と焦りもしたんです
自分で自分を子育てしてんのか?
二人が保育室に戻ると、優太はすでにパズルを完成させて、自慢げな顔をしていた。
春岡と直美はオーバーリアクションで褒める。
優太は照れながら、嬉しそうにはにかんでいる。
いつもと変わった様子はない……直美は少し安心した。

いい光景だね……。大人がわざと驚いたフリしてるってうすうす気付いてるのに、体は喜んじゃう気持ち……分かる分かる……
やっぱり優太もケンカのことを根に持ってるわけじゃなさそうだね
でも……じゃあ、あのグチャグチャは何? って話になるよな……

見れば見るほど、わけわかんないな……。「もし、自分がこれを描くとしたら、どういう気持ちか」すら掴めない
みくのしんって徹底して自分目線でミステリーを読み解こうとするんだね。俺にはない視点だから新鮮だな
「もう、この家にいたくない!」みたいな気持ちの絵なのかなぁ……? 親子がニコニコしてるのも、「引っ越しできて嬉しい」って表情に見えるというか……
保育園を出ると、空は夕焼けで真っ赤に染まっていた。
「お腹すいたね」と優太がつぶやく。直美もぺこぺこだった。
だが、今日は家事をする気力は残っていない。

おぉ……いいぞ……! こういう日は外食してもいいよ……!
外食の気配を感じて嬉しくなってんの? 子どもみたいな奴だな
自炊率100%なんて、縛りプレイでしかないからね。毎日をリアルに生きてるんだから、たまには外食してもいいし、レトルトの具材も使っていいんです
「優ちゃん、外食しちゃおっか」

これこれぇ!!!
みくのしんが連れてってもらえるわけじゃないんだぞ
ここで「外食しちゃお」って言葉が出るのがいいね! 文章が生活に根付いてる感じがする!料理をファッションでやってる人にはこれは書けませんよ
二人は帰り道にある、ファミレスに寄ることにした。

平屋のファミレスだろうな。これは1階部分が駐車場になってて、2階に店舗があるタイプじゃないと見た
どこで推理力を働かせてんだよ
食事を終え、店を出ると、あたりはすっかり真っ暗になっていた。
二人は手をつないで歩き出す。

おぉい……! なに、もう食べ終わってんだよ! 外食のシーンをカットすんなって!
ワガママ言うなぁ。今は、そこに重きを置くような場面じゃないってことでしょ
だからだろ。楽しい外食シーンをスキップするってことは……このあと、何か不穏なことが起こりそうじゃん……

頼む!! 何も起きるな!! 2人ともこのまま幸せになってくれ……!!!
大通りを抜け、路地に入ると、遠くにマンションが見えてくる。
直美の体が無意識にこわばる。

ほら〜!! 絶対このあと嫌なこと起こるじゃん!!!
昨日の車のことを思い出す。
(大丈夫……だよね。まさか、四日続けて……)

そっか……! そもそも、不審者の件が気がかりだったんだ……!
そのとき、二人の遠く後ろで、かすかなエンジン音が鳴った。

やめてくれぇ……
自分の身に起きたかのように読むなぁ
低く不気味なその音は、背後にゆっくりと近づいてくる。
直美は、まっすぐ家に帰らなかったことを後悔した。
この暗がりでは、何があっても、誰も気づいてくれない。

これ以上、嫌なこと起きんでくれ……!
直美のことを考えると、そう言いたくもなるか。ミステリー作品で、「何も起きないでくれ」という祈りは実ることないだろうけど
こっちは、スーパーのクレームババアだけでもう疲れ切ってるんです……! そこに、変な絵が出てきて、さらに不審者までやって来ても背負いきれません!
「ママ、後ろ車来てる」
「わかってる。振り向いちゃダメだよ」
「なんで?」
「ダメなものはダメ」

優太もかわいそう……。せっかくの楽しい外食デーだったのに……
みくのしんが言ってた通り、外食の幸せが「不幸の前フリ」になっちゃったね
レジ横のおもちゃも我慢したのに……
そんなことは書いてなかっただろ
タイヤが地面をなでる音が、すぐ後ろで聞こえる。
ヘッドライトが二人を照らす。
大小の影が地面に落ちる。

なんだこの文章……! 急にカッコいい表現が出てきた。雰囲気あるなぁ……!
「ママ」
「優ちゃん、走るよ」
直美は優太の手を握り、小走りに駆け出す。
すると、車は明らかに速度を上げた。

とりあえず、コンビニかどっかに避難しよう。そこで落ち着いて、助けを求めるなり、警察呼ぶなりすればいいしね
(どうして……? 誰が……何のために……?)
恐怖と不安で泣きそうになる。
一刻も早く部屋に入って、鍵を閉めたい。
安全な場所で落ち着きたい。

……それでも、家を目指すんだ。近くにコンビニとかないのかな?
こういうときは冷静な判断ができなくてもしょうがないんじゃない?
そっか……。突然こんな目にあったら、視野を広く考えるなんて余裕もないか……
マンションの入口が見えてくる。
「優ちゃん、足元、気をつけて」
段差を駆け上がり、ガラス戸を押し開け、エントランスに飛び込む。

あ、もう家の近くまで来てたのか! じゃあ、これで一旦、安心だね
世界が明るくなる。
蛍光灯をこんなにありがたく思ったのは初めてだ。

分かる! 夜の蛍光灯の安心感ってすごいよな〜! 「セーブポイントに来た!」って感じするもん
さすがに、ここまで入ってくることはないだろう。
震える膝を落ち着かせ、呼吸を整えながらエレベーターの『▲』ボタンを押す。
『6』の数字が光る。
ゴンドラが6階にあるということは、1階に降りてくるまで十秒近くかかる。

安心するのはいいけど……ここで油断すると、次の日に風邪ひくぞ……! 気をつけないと……
ここにきて、何を心配してんだよ
こういうドキドキが終わると、知らないうちにドッと疲れがきて、体にガタがくるんだよ! 今日はもうビオスリー飲んで寝よう!
おそるおそる入口を振り返る。
おかしなことに気づく。

……?
ガラス戸の外がぼんやりと明るい。

外が明るい……? なんだ……?
車のヘッドライトだ。

ハイビーム飛ばしてきてんじゃん!
マンションの前に停車しているのだ。

最悪の出待ちか???
「出待ち」て。熱心なファンじゃあるまいし
俺が知らないだけで、直美ってめちゃくちゃ有名人だったりする? これ、週刊誌がスクープを狙ってるとかじゃないの?!
そのとき、外でかすかに「ガチャ」という音が聞こえた。

ひぃ……
車のドアを開ける音だ。
まさか、降りてくるのだろうか?

もう警察を呼びましょう。建物に入ろうとしてたら、それはもうアウトです
それはそうなんだけどね。直美はそこまで頭が回ってないんじゃない?
そっか……。俺は安全圏にいるから好き勝手言えるけど、いま直美は冷静に判断できる状況ではないもんな……
エレベーターはまだ4階を過ぎたばかりだ。
管理人室に逃げ込むことも考えたが、非常駐の管理人は、この時間にはもういないことを思い出した。
逃げ場はない。

別の出口とかないの? こうなったら一旦、外に出た方がいい気がするんだけど……
「優ちゃん、こっちで行かない?」
エレベーターの隣にある『階段』と書かれた扉を指差す。

階段でマンションの6階まで?! それは無茶では……?
どうなんだろうね。エレベーターで不審者と一緒になるよりはマシ、とは言えそうだけど
優太は不服そうに「えー? 6階までのぼるの大変だよ」と抗議した。
たしかに、直美だって震える膝で階段を駆け上がる自信はない。

こういうときこそ、子どもののんきな声が恐怖を際立てるよな
もう一度ガラス戸を見る。
そういえば、あれから少し経っているのに、ドアを閉める音が聞こえない。

……?
ということは、ドアを開けたままこちらをうかがっているのだろうか……?
気味が悪いが、今すぐ襲ってくることはなさそうだ。

何してんの……? 直美の郵便物とかチェックしてんのか???
そこまでは分からないけども。ただ、不審な動きではあるね
悪いことしようとしてたら、すぐに建物に入ってくるはずだよね? なんだ……?
数秒後、エレベーターが到着した。
優太の手を引いて駆け込み、急いで「6」のボタンを押す。

カチャカチャカチャカチャカチャカチャ……
ボタンを連打すな
俺はもうダメなんだよ……! こういう「追いつかれるかも……!」って緊張感に耐えられなくて……
扉がゆっくり閉まり出す。
(早く……早く!)

ターミネーター2みたいなことになったらどうする!??!
なに? ターミネーター2?
この不審者がT-1000みたいに、体が液体金属になっててさ!! エレベーターが閉まったと思ったら……

モワァン!!!! って無理やりドア開けたりしたらどうする!??
どうすると言われても。そんな大胆に物語のジャンルが変わることないだろ
ここにはシュワちゃんもいないし!! 直美がショットガンぶっ放すしかないんじゃない!???!
そのときだった。

嘘でしょ? さすがに、エレベーターには乗ってこないよな……
閉まりかけた扉の隙間から、直美ははっきりと見てしまった。
ガラス戸の外に立つ人影を。

こっわ……!! こんなんもうホラー映画じゃん……
よくもまあ、こんなに臨場感を伴って読めるもんだな。さっきまでターミネーターがどうのこうの言ってたくせに
でも、なんとか、先にエレベーターに乗り込むことはできたんだよね……? 間に合ったってことでいいんだよね?
全身、灰色のコートを着ていた。
顔はフードで隠していたが、体格から、男だとわかった。

男……? つまり犯人は……
(……誰なの……?)

米沢じゃないの?? ほら、あの保育園のおすべりパパだよ
なんて失礼な覚え方してんだ
でも、男の登場人物なんて、米沢くらいしか出てきてないよね?

「いやあ、米沢牛持ってきましたよお!!」って出てきて、安心させてほしい
この状況でそいつが出てきても、怖さのジャンルが変わるだけで安心はしないと思う
違うか!! ンハハハハハ!!!!
6階に到着する。
あとほんの数歩で我が家だ。

間一髪だったな〜。さすがに家の中までは入ってこないだろ
緊張がほどけていく。廊下を歩きながら、優太に話しかけた。
「優ちゃん、いきなり走っちゃったりしてごめんね。
汗かいたでしょう?帰ったらすぐお風呂入ろうね」「その前にユーチューブ見たい」

優太は可愛いなぁ。何が起こったのかよく分からないままだったんだね
直美も「不審者がいるから逃げるよ!」とかいちいち説明してる暇もなかっただろうしね
とりあえず、この日は一安心だね。このあと、落ち着いて警察呼べばいいし
「えー?お風呂上がってから見ればい……」

?
そう言いかけたとき、突如、背後に異様な気配を感じた。

もう、休む暇もねえのかよ……!!
次々と展開が起こって、目が離せないよな
このシーンを見てる間、リビング静かだろうな〜!! 親父も冷蔵庫に飲み物取りに行くのも忘れて見入っちゃってると思う!!
家族とテレビで見てる感覚なんだ
気配……というより、それは『音』だった。
「ママ……どうしたの?」
「ごめん、優ちゃん。ちょっとだけ静かにして」

音……?
耳をすます。
『ぜー……ぜー……』
まるで、荒れる呼吸を必死に抑えるような……低い、男の息。

……嘘でしょ?
その音は、エレベーターの隣にある『階段』と書かれた扉の向こうから聞こえている。

マジ……?! まさか階段を登って追いかけてきたってこと???
鼓動が一気に高まる。
(まさか……階段で追ってきたの……?)

カンカンカンカン!!!!
階段を登る音を再現してる?
軽自動車から逃げてたときより、緊迫感増してんじゃん!!! 怖ぇ〜!!
こんな迫真の演技を伴ってたら、そりゃ怖いだろうよ
直美たちがエレベーターに乗り込んだ後、コートの男は階段を駆け上がり、この階で待ち伏せしていたというのか……。

待ち伏せ? それは変じゃない?
ほう……。なんでそう思うの?
だって、それだと犯人は直美の家が6階にあるって知ってたってことになるじゃん。そもそも尾行しなくても突撃できたってことにならない?
しかし、なぜ直美たちの部屋が6階にあると知っていたのか……。

俺とおんなじこと言ってる!! 直美もこれが気になったんだ!
そうだね。夢中になって読んでるわりに、察しがいいなぁと思って聞いてたよ
俺が見破った違和感が、すぐに文字になって出てきてんじゃん! もう、それが一番怖いだろ!!
そこで直美は、はたと気づいた。
先ほどの優太の言葉……。

優太の言葉? 何か言ってたっけ?
『えー? 6階までのぼるの大変だよ』

……。
そんな顔で見られても
これを聞かれてたんだ……。だから、部屋がバレたんだ……
……聞いていたのか……? 外から……。
どうするべきか。
エレベーターに引き返し、1階まで降りて外に逃げるか……しかし、そのためには、あの扉に近づかなければいけない。
それは……いやだ。どうしても体が拒絶した。

丁寧に、見取り図まで書いてある……。こうして見せられると臨場感あるな〜! 監視カメラ越しの衝撃映像を見てるようなドキドキ感があるわ
部屋はもう目の前だ。
逃げ込むしかない。
カバンから鍵を取り出す。
手が震えている。

なんだよ、この畳み掛け……! 緊迫感がありすぎる……ッ!
数秒かかって、ようやく鍵穴に差した。

手が震えて、うまいこと鍵穴に刺さんないんだよな……。こう、ガチャガチャ鳴らしながら……
焦る直美の表情と、鍵穴のアップが交互に映し出されて……
緊張感のあるBGMがだんだん大きくなって……
そのとき、

なんちゅうところでページまたいでんだよ!!!!
これはすごいな。それこそ衝撃映像で「次の瞬間!」って煽るナレーションみたいだ
こんなことされたらページをめくる手が止まらなくなるだろ!! やめろよ!!!
いいことだろ
階段のほうでギーという音がした。

やばい……! いよいよ犯人がフロアに入ってきた……ッ!
重い扉をゆっくり開く音。
(来る……!)
直美はすべての神経を指先に集中し、鍵を回した。

はやく……ッ! はやく……ッ!
ノブに手をかけ、全力で開ける。
まず優太を中に入れてから、続いて、自分の体をドアの隙間にねじ込んだ。

どう……?! 間に合った……?!
大急ぎで閉め、まだ震えている手で、鍵とチェーンをかける。
ドアスコープから外をのぞく。

……ッ!!
男の姿は見えない。

逃げ切った〜!!!!

なんだよこの逃亡劇は!!!! 見応えありすぎるだろ!!!
あんなリアクションを伴いながら読んでたら、そりゃ見応えもあるだろうな
金曜ロードショーの当たり回を観てんのかと思った!!! CMに入った途端、照れ隠しみたいにおしゃべりしたくなる気分まで全く同じ!!!
ここでCMに入ったイメージなんだ
それからしばらくのぞき続けたが、男が来ることはなかった。

危なかったね〜! とりあえず2人とも無事でよかったわ!!
「はあ……」
全身の力が抜けたように、膝から崩れ落ちる。
「ママ……大丈夫……?」
「うん……もう大丈夫……たぶん」

相変わらず、優太は何が起きたかよく分かってないっぽいね。まあ、その方がいいんだけど……
具体的に怖い思いをさせるよりは、まだマシだもんな
冷静になるにつれ、心の中で違和感が膨らみ始める。
男は、何のために待ち伏せしていたのか……?

何のために……って、2人を襲おうとしてたからでしょ? 違うの?
直美たちがエレベーターから降りて部屋に入るまで、しばらく時間があった。
その間に襲うことはできたはずだ。
しかし、男はずっと扉の向こうに隠れていた。

たしかに……。犯人からしてみれば6階に着いた時点で、もったいぶらずに突撃することはできたのか
そいつも目的地は6階って知ってたわけだからね
こいつがゼエゼエ言ってるのを聞いてたけど、そもそもそれが聞こえる余裕があるのがおかしいもんね。本当なら、とっくに襲われてもおかしくないのに
ふいに、今さっき聞いた『ギー』という音を思い出す。
なぜあのタイミングで扉を開けたのか……?

たしかに、意味分かんないなぁ……。タイミングも目的も、誰なのかさえも全く検討がつかんぞ……
今のところは、分からないことだらけだね
そうなんだよ。でも、同時に「すぐに分かるだろうな」という信頼もあるんだよな
信頼?

いつもの俺だと、読書中に「なんで?」と思ったら、その疑問が解消されるかどうか分からなくてソワソワするんですよ。だから、読書が苦手だったんだけど……
たしかに、いつもだったら、本を読んでて分からないことがあると、俺に「これどういうこと?」って聞いてくるもんな
今でも、まだ読書に慣れてないから「俺が読めてないのか?」とか「今、理解してないのは俺だけ?」ってすぐ不安になっちゃうんだよな

でも、これはミステリーだから、「今は分からなくていい」「あとで答え合わせがあるはず」って思えるんだよ。だから、いつも感じる置いてけぼりにされる感覚が、今日はないのかも
なるほどな。ミステリーは「謎があって当然」だから、読んでて多少分からないことがあっても不安にならないのか
みんなって、本が読めない人に「分からなくても、気にせず読んでいい」って、よく言うじゃん。でも、本が読めない側からすると、「そうは言っても、みんな分かってるんでしょ?」って劣等感があるんだよ。でも、ミステリーは「みんなも分からないことを楽しんでる」って知ってるから、俺も気にせずに読めるような……そんな感じがする
へえ〜。ミステリーって情報が多いから勝手に「読書初心者にはハードルが高い」と思い込んでたけど、案外そうでもないのかもね
「……そうか」
直美は、重大なミスを犯したことに気づいた。

ミス……? 直美って何かミスってたっけ?
どうだろうね。気になるなら続きを読んでみたら?
なんだよ……。ちゃんと逃げ切ったのに、ミスも何も──
男は、二人がどの部屋に入るか見ていたのだ。

!
「部屋を……知られた……」

あーーーー!!!!
なんて抜けのいい悲鳴だ
一回声に出しとかないと、体ン中に「怖い」が溜まりすぎるだろ!! 長時間座って作業したあとに、思いっきり背伸びをするのと同じ!! 直美も一回これやっとけ!!
だからって、そんなストレッチ感覚で悲鳴あげちゃダメだろ
その晩、直美は明け方近くまで眠ることができなかった。

そりゃそうだ……。自分の家がもう安全な場所じゃなくなったんだもんな……
リビングのソファに座り、ずっと玄関を気にしていた。
バールでドアをこじあけ、包丁を持った男が入ってくる……そんな想像を何度もしてしまう。

めっちゃ分かるわ……。俺も工事業者がいつ入ってくるか分からなくて、ずっと怖い思いしてたし……
えっと……。ちょっと説明がややこしいんだけど、みくのしん家の合鍵が知らん人の間でシェアされてて、不法侵入し放題になってるんだっけ?
【編集部注】
今年の9月、みくのしんの家は局所的豪雨に見舞われ、家の一部が水没してしまった。
浸水直後の家の様子
この復旧のために、工事業者が出入りしていたのだが、なぜか合鍵が業者間で出回っていたらしく、2ヶ月の間、様々なトラブルが起きていた。
・工事業者のグループが、毎日勝手にトイレを使って汚していた。
・なぜか勝手に風呂の水を出しっぱなしにされていて、水道代が爆上がりした。
・なぜか養生シート無しで工事が始まり、かろうじて無事だった居住スペースがおがくずまみれになった。
などなど……なんかもう、めちゃくちゃだったらしい。
※現在では復旧済み。
最悪でしたよ。夜中に突然、業者が玄関のカギを開けて入ってきたから、不審者だと勘違いして警察を呼んだこともあったからね
そりゃあ、今のみくのしんは「自分の家が安全じゃなくなった」というストレスにめちゃくちゃ共感できるよな
うん。あのときは、マジでハゲるかと思うくらいしんどかったです。毎日いろんなところに「どうにかならないんですか!?」って電話してて、疲れ切ってました
警察に電話すべきか。
しかし、まだ具体的な被害を受けたわけではない。
事件として取り扱ってくれるとは思えない。

直美は悠長なこと言ってるなぁ。あんな目にあっといて、まだ通報しないつもりなの?
まあ、「警察は具体的な被害がないと手が出せない」って、よく聞く話だけどね
それでも、一旦110番すればいいじゃん。俺の不審者騒ぎのときは、警察も「結果、勘違いでもいいから、まず通報するのが正解ですよ」って言ってくれたよ?
経験者の声は参考になるなぁ
そして何より直美には、警察に相談したくない、一つの事情があった。

ん? 警察が呼べない事情……? そんなこと言われたら……直美にも何かやましいところがあるとしか思えないんだけど……
「もう……色々どうすればいいの……?」
力なくうなだれる。

「変な絵」に「不審者」に「警察に言えない事情」……。こうも、いっぺんにいろんなことが起きちゃうと、そう言いたくもなるよな〜!!
そういうもんだよな。ひとつひとつは対処可能でも、それが重なるとどこから手をつけていいか分からなくなるし
俺も、浸水した直後は、「水害ゴミどうすればいいの?」「保険ってどうなるの?」「どこに何を連絡したらいいの?」ってパニックになってたな〜。考え事が多いというのは、それだけで毒なんですよ
ふいに、机の上に置いた紙が目に入る。
春岡がコピーしてくれた優太の絵だ。

あんなことが起きた直後だと、この絵もやけに怖く見えるな……
『何か、お家に怖いものでもあるのかなって思ったんですが……』
もしかしたら優太も、あの男の存在を、どこかで感じ取っているのかもしれない。
そのストレスが、この絵に表れたのではないか。

やっぱり「もう、この家にいたくない!」って気持ちを伝えたかったのかな……
みくのしんも、初めにそう推理してたもんね
でも、犯人が部屋を特定したのは、ついさっきのことでしょ? なんかしっくりこないんだよなぁ
だとしたら、今の状態が続くのは、あまりにもかわいそうだ。早くなんとかしなければ……。
(武ちゃん……私たちを守って……)
直美は武司の仏壇をすがるように見つめた。

それを心の拠り所にするのはいいんだけどさぁ。それはそれとして、警察に電話しようよ……
午前4時を過ぎると、だんだん空が白み始める。
二時間後には、いつもと同じ忙しい一日が始まる。

全然寝れない! 今の直美なんか、一番寝なきゃいけないのに……
いつも以上に気苦労が重なってるもんね。だからこそ眠れなかったんだろうけど
若い頃ならまだしも、もう俺たちの年齢になったら、睡眠時間が2時間じゃ無理なんですよ……
(少しだけでも眠らないと……)

ただでされ、直美の一日って大変なんだよ??? 優太のご飯も作んなきゃいけないし、保育園の送り迎えもあるし、休憩しようと思って入ったトイレには落書きの跡が残ってるし、職場には嫌なババアもくるし……
その上に「優太が描いた変な絵」と「住所を突き止められた不審者」まで、のしかかってきてるからね
そんなの疲れるって……。残り物の麻婆豆腐と2時間の睡眠では、とても立ち向かえないだろ!!
直美は鉛のように重い体をひきずり、寝室に入った。
優太の乱れた掛布団を直し、隣の布団になだれ込む。
アラームを6時にセットし、目を閉じると、意識は数秒で消えていった。

はやく警察を呼んで安心すればよかったのに。なんで一人で抱え込もうとしてんの?
しょうがないよ。直美は警察を呼びたくない事情があるんだから
その「警察が呼べない事情」って何? 俺が知らないだけで、直美も何か悪いことしてるってこと? 俺と直美の仲で隠し事はナシだろ

もしかして、家の中に、警察に見られたらやばいものを隠してるとか……? それこそミステリーらしく死体を隠してる……とかさ
もしそうだとすると、優太があの「変な絵」を描いた理由も納得できるしね
でも、直美もあの絵を見て「なにこれ!?」って言ってたっけ。もし、死体を隠してたらそんなリアクションにはならないよな〜

あとは……「警察を信用できない過去がある」とか? 例えば、武司が亡くなったのが警察のせいで、今でもそれを恨んでるとか……
……。
何も教えてくんないな。とりあえず、続きを読むしかないか……
目を覚ました瞬間、嫌な予感がした。

なんだよ……不穏だなぁ……
窓から差し込む朝の光が、普段よりも明るい。

やばい! 寝坊してる!!
もうこの一行だけで「やっちまった!」って分かるよな
目をつぶってても、朝日の角度だけで「あ、終わった」って思う瞬間あるよな〜!!! これ焦るんだよ……
時計を見ると、7時半を過ぎていた。
「まずい……」
布団から飛び起きる。いつもなら家を出る時間だ。

でも、寝坊したときの朝って気持ちよくない? 油断してるからぐっすり寝てるし、皮肉だけどスッキリ起きれるんだよな
直美にしてみれば、そんなことは言ってられないと思うけど
でもほら! 寝坊したこと自体は、もうどうしようもないから! 体が必要な分の休みをとってくれたと考えよう!
「優ちゃん、起きて!寝坊しちゃったみたい!」
隣の布団を見た瞬間、ヒヤリとした。

おいおい……。また面倒なことが起き──
優太がいない。

ええぇええ!?
派手なリアクションだな〜。俺、読書中にこんな声あげたことねえよ
おおごとじゃねえか!! てっきり「優太がおねしょしちゃった」とかそういう文章が続くと思ったのに!!!
そういう意味で「ヒヤリとした」と思ってたんだ
「……トイレ……だよね」
自分を落ち着かせるようにつぶやき、トイレに向かう。
しかし、優太はいなかった。

もうやめてあげてよ……。直美もハゲちゃうよ……
「も」て。
なんで悪いことしてないのに、こんな目に合わなきゃいけないんだよ……
リビングにも、台所にも、ベランダにも、クローゼットにも……どこにもいない。
心臓が口から飛び出そうになる。
(まさか……外に? そんなはずは……。一人で出かけたことなんて……今まで一度も……)

この、直美の「優ちゃーん」って呼ぶ声だけが、むなしく響いてる感じ……。不吉すぎて怖ぇよ……
サンダルをひっかけ、ドアを開けようとして、気づいた。

ドアを……?
鍵がかかっていない。
ドアチェーンも外れている。

おいおいおい……
下を見ると……優太の靴がない。

もうやめたげて!!!!
直美は、声にならない悲鳴を上げた。

あーーーーーーーー!!!!
「声にならない悲鳴」って書いてあるだろ
僕が直美の分まで声出します!! もういやーーーーーーーー!!!!!
悲鳴代行すんな

もう無理だよ直美……。このあと絶対風邪ひくだろ……
こんなの心身ともにズタズタになるよなぁ。もし、俺が寝てる間にうちの子が消えたら……風邪ひく程度じゃすまないと思う
次から次へと悪いことばかり起こって……。最悪のピタゴラスイッチを見てるみたいだ
春岡美穂
今度は保育園の先生の視点に変わるのか……。こんな気になるところで……
直美視点の続きが気になるのは分かるけどね。別視点になることで、物語の見え方も変わったりするからさ
「……はい……はい……」

電話のシーンから始まってんじゃん。映画みたいでニクい演出だな〜!
この一行だけで「電話で受け答えしてる」って分かるのも不思議だな。もうちょい先まで読まないと、その光景もイメージできなさそうだけど
いや、もう分かるだろ。情報が少ない分、めっちゃイメージしやすいと思う

まず、真っ黒の画面に縦書きで 春岡美穂 って文字が出てるイメージね。で、だんだん音声がフェードインして、電話のアップから映像が始まってる感じ
いくらなんでも見えすぎだろ
「こちらでも、できることがあれば何でもご協力しますので、いつでもご連絡ください。
ご無事でいること願っております。……いえ、……大丈夫ですよ。……はい……では、失礼いたします」春岡美穂は受話器を置いた。

でも、春岡は優しいし、観察力があるからね。事件解決の糸口を見つけるのはこいつだと思う
みくのしんは春岡に全幅の信頼をおいてるんだね。人によっては、「こいつも犯人かも……」って慎重に読む人もいそうだけど
いやいや、春岡は悪いやつじゃないでしょ。これでもし春岡が犯人だったら、俺の生き方ごと見直さなきゃいけないと思う
そこまでの覚悟で読まなくていい
「春岡先生、何かあった?」
横から、同僚のベテラン保育士、磯崎が尋ねる。
「実は……」

磯崎! また新しいやつが出てきたね。こいつは信用していい奴か……?
みくのしんにとっては、新しい容疑者候補になるよな
これだけじゃ、まだ分からないけどね。でも、「イソザキ」って名前はどっちもありそうなんだよな〜。冷静にアドバイスをくれる人でもありそうだし、黒幕っぽい響きもあるし……
数分前のことだった。
いつものように出勤し、忙しく朝の雑務を片付けていると、職員室の電話が鳴った。
今野優太の保護者、直美からだった。

直美も大変だなぁ……。本当は自分のことで手一杯なのに、保育園にも連絡しなきゃいけないのかよ……
事情はどうあれ、まずは「お休みします」と伝えないといけないからね
でも、それができるなら警察にも電話できるだろ、と思っちゃうけどなぁ……
〈今野です! お忙しいところ申し訳ありません!
優太……今野優太は、そ、そちらに行っていませんでしょうか?〉パニック状態にあることは、電話越しにもよくわかった。

こんなときでも「お忙しいところ申し訳ありません」って言えるのすごいな……。俺だったらパニックになって、こんな丁寧な言い方できないと思う
春岡は、保育士学校で習った対処法を実践した。
「今野さん? 大丈夫ですか? まずは落ち着いて、深呼吸をしてください。
……吸って……吐いて……吸って……吐いて……何があったか教えていただけますか?」

春岡は頼りになるね〜。俺だったら、一緒に「え!? マジすか?! ヤバいじゃん!!」って一緒にパニックになると思う
さっきも直美よりでっかい声で悲鳴あげてたもんな
この対処法もすげえリアリティあるね。本を読んでいてこういう「現実にも本当にあるんじゃないの?」ってシーンが出てくると引き込まれるんだよな〜
分かる分かる。細かい描写に現実感があると、物語に没頭しやすくなるよな
直美は興奮しながらも、しっかりと順序立て、優太が家からいなくなったことを伝えた。
「それは心配ですね……。
優太くん、今のところ、こちらには来ていないようです」

春岡からしたら、これを伝えるのもツラいよな〜。相手が絶望するようなことを言いたくないって
〈やっぱり……。本当に、どこ行っちゃったんだろう……〉
「警察には、連絡されましたか?」

やっぱり、そう思うよね。春岡も、まずはそこが気になったんだ
〈警察……〉
なぜか直美は口ごもる。

これなんだよなぁ……。こいつ何を隠してんだよ……
〈いえ……これからするつもりです。
……あの、そういうことですので、本日は、保育園はお休みします。
見つかったらすぐに連絡します。ご心配かけてすみません!)直美は慌ただしく電話を切った。

もう春岡が代わりに通報してあげたら? 優太がいなくなったことは心配だけどさ。このまま直美を応援していいか迷っちゃうよ
「そうか……。心配だね。何かあったら言って! じゃあ、私行くから!」
春岡の話を聞き終えた磯崎は、短い言葉だけを残し、慌ただしく職員室を出て行った。

なんかこの人、冷たくない? 関わり合いになりたくないのかな
どうだろうね。たしかに、ここだけ見るとドライな反応に見えるけども
もしかして、こいつにも何かやましいところがあるのか? ……ダメだ。みんな怪しく見えてきたな
他人が見たら、薄情だと思うかもしれない。
しかし、そうでないことを、春岡は重々わかっていた。

春岡は分かってるんだって! やっぱり、頼りになるねぇ!
磯崎の担当する『乳児クラス」は0〜2歳児を預かる、いわば『赤ちゃんクラス』だ。
数秒の油断が、園児の命に関わる。
他のクラスのことに親身になる暇などなくて当然なのだ。

別のクラスの先生なんだ。たしかに、この年齢のお世話をしてたら、他のクラスのことを心配してる暇もないか
一人になった職員室で、春岡は優太のことを考える。
彼を受け持って、もう二年になる。自分のクラスの園児に対しては、たとえほんの数年で巣立っていくとしても、やはり我が子のような思い入れを持ってしまう。
本当は、今すぐ外に出て、走り回って優太を捜したい。

いい先生だな〜! やっぱり俺、春岡先生のクラスに入りたいです!
再び、キモいこと言うなよ
しかし、もうじき他の子供たちが登園してくる。プロとして割り切らなくてはいけない。
春岡は立ち上がり、保育室に向かった。

春岡も大変だね。優太のことは心配だけど、それだけ考えてればいいわけでもないのか
切り替えて他の子どもの相手しなきゃいけないからな
しかも、「優太が行方不明」ってことは、子どもたちに知られないようにしなきゃいけないしね……
春岡が担任を務める『年長クラス』には、現在、22人の園児が在籍している。今日来ているのは、優太を除く21人だ。
全員がすでに5歳を迎えているこのクラスは、磯崎の『赤ちゃんクラス』に比べれば、ずっと手はかからない。
しかしその分、園児個々人のエゴは強くなり、大人顔負けのズルさや悪知恵を発揮する子も出てくる。

まあ、そういう子もいるよな。だったら、あのぐちゃぐちゃの絵は、「別の子のイタズラじゃないの?」って思っちゃうけど……
……でも、春岡は「それはない」って言ってたからな〜。その可能性は考えなくていいか
春岡の言うことは聞くんだ。素直な生徒だな
ただの『優しい先生』では務まらない。
仏の顔と鬼の顔を、京劇の面のごとく、せわしなく使い分ける必要がある。

「京劇の面」? 急に賢い言葉が出てきたな、なんだこれ……
中国版の歌舞伎みたいなやつだよ。多分、テレビとかで見たことあると思う

音楽に合わせて、一瞬でお面が変わるパフォーマンスとか見たことない?
あ〜! 知ってる知ってる! なんかキンタロー。がネタでやってたの見たことあるかも!

こう……顔を隠したら、一瞬で別のお面に変わってるやつでしょ?
わざわざ実演してみせなくても分かるよ
なるほどね。言葉は知らなかったけど、なんとなくイメージはできるよ
「はーい、みんなおしゃべりやめてー!お名前呼んでいくから、呼ばれたらお返事ねー」
そんな春岡の声をわざと無視して、数人のやんちゃな男子たちがはしゃぎ続ける。

要は、こういうときに、一瞬で「怖い先生」の顔にならなきゃいけないってことか
優しい先生のままじゃ、言うこと聞かない子もいるだろうしね
でも、怖い顔のままでいると、他の子が怖がっちゃうからね。ちゃんと叱ったあとは、一瞬で「優しい先生」に戻らなきゃいけないのか
(これは鬼の出番かな……)


こういう感じね
遊んでないで続きを読めよ
そう思った瞬間、彼らの声をかき消すような大声が、部屋に響いた。
「ねえ! 先生!なんで優太くんいないの!?」
米沢美羽だ。

美羽って……あの、おすべりパパのお子さんか
なんちゅう覚え方してんだ
美羽は優太と隣の席同士ということもあり、普段から彼のことを気にかけている。
優太はそのおせっかいに、ときどき迷惑そうな顔をすることもあるが、だからといって嫌がることもなく、仲良くしている。

昨日も、最後まで一緒だったもんね。それくらい仲良しだからこそ、優太がいないことに気づいたんだろうな
「えーと、優太くんはね……今日はお家の用事があってお休みなの」

そう言うしかないか〜。美羽にまで心配かけさせるわけにもいかないもんな
「えー? 昨日、優太くん、そんなの言ってなかったー。
明日、来たら聞いてみよー!」

そうか……。昨日、ギリギリまで遊んでたから……
「明日、また遊ぼうね」とか言ってたのかもね。だから、優太の欠席にも敏感に気付いたんだろうな
そう思うと切ないな。みんな、いつも通りの明日がくると思ってたのか……
しまった、と思った。うかつに嘘をつくべきではなかった。
しかし『行方不明』と伝えて子供たちを動揺させるのもよくない。
こういう場合、なんと言えばいいのだろうか……。

春岡も難しい立場だね……。これを「嘘をついた」って言うのも酷な話だろ……
まあね。でも、子どもって、こういう大人のごまかしも、すぐに見通してくるから油断できないんだよ
いま一番大変なのは直美なんだろうけど……。先生は先生で、子どもの前で顔に出せない苦労があるんだな……
今野直美
また今野直美の視点だ! いよいよ事件が転がり始めた感じがするなぁ……。箸休めに、あのクレームババアの視点とかも見せてくれ。関係ない話で一息つきたいよ
優太が行方不明なのに、あのおばさんの話を読んでもしょうがないだろ
そっか。どうせ「割引ラッキー♪」とか「お水おいしー♪」くらいしか言ってないもんな
そんなのんきなおばさんかどうかは分からないけども
春岡と電話で話したことで、直美は少しだけ落ち着きを取り戻した。

やっぱり春岡の人を落ち着かせる力はすごいね。保育士として、すごい才能があると思う
直美もずっと一人で抱え込んでたから、話して楽になったんだろうね
まずは落ち着かないといけないからね。直美が焦る気持ちは分かるけど、パニクってもしょうがないから
そして、自分がまだパジャマを着ていることに気づいた。
急いで着替え、1階の管理人室に向かう。
太った50過ぎの管理人は、受付の中で、眠そうにパソコンを打っていた。

管理人……。この人が、優太の姿を見てたら話は早いよな……
「あの、失礼します。602号室に住んでいる今野と申します。
今朝、うちの息子が一人でどこかに行ってしまったみたいで……。
防犯カメラの映像を見せていただけませんか?」

なるほど! たしかに、マンションに住んでるなら、まずはこれをチェックしたほうがいいのか
優太が何時に誰と出ていったのか、が分かるからね
直美も3時間しか寝てないのに、よくここに気付いたな。意外と頭回ってるじゃん
直美の顔をちらりと見ると、管理人は面倒くさそうに言った。
「いいけど……うちのマンション、管理費が低いんで防犯カメラは、そこの入口にしか付けてないんですよ。それでもいいですか?」

こいつ態度悪くない??? 何だよ、この言い方
まあまあ。他人からすると、そういうもんなんじゃない?
「息子がいなくなった!」って騒いでるお母さんを前に、何を面倒くさがることがあるんだよ

ただまあ……嫌な奴ではあるけど、怪しくはないかな。こいつはどうせ犯人じゃないと思う
へえ、なんでそう思うんだろう。こういう、さりげなく出てきた人物とかいかにも怪しいけどな
勝手な偏見だけどさ。こういう管理人って、ただ嫌な奴ってだけで、な〜んにもしてくれないじゃん
普段ならそんなこと言わないんだろうけどね。ただ、今のみくのしんは、「管理人」ってワードに敏感になってるから……
【編集部注】
今年の9月、みくのしんの家は局所的豪雨に見舞われ、家の一部が水没してしまった。
家から床が撤去され、剥き出しの地面の中
放心状態のみくのしんその後の管理会社の対応がひどく雑で、みくのしんも管理人にだいぶ舐められていたらしく、2ヶ月の間、擦り切れた生活をしていた。
・水害の対処のために連絡をしても、毎回面倒くさそうにあしらわれる。
・なぜか会うたびに自分が買ったポルシェの自慢をしてくる。
・水害で住めなくなった分の家賃は減額される決まりだが、みくのしんがその話を進めようとすると「こっちもいろいろやってあげてるんだから……」と聞く耳を持たなかった。
・実は大家さんはすでに家賃を減額してくれていたが、なぜか管理人がそのことを隠していたので、みくのしんは通常通りの家賃を管理会社に支払い続けていた。
・工事業者が不法侵入した際、警察に呼び出されて「こんなことあるんスねwww」と爆笑していた。
……などなど、なんかもう、めちゃくちゃだったらしい。
※現在は解決済み。多分。
あいつも「何かの犯人か?」ってくらい、嫌な奴だったんだよ……。結局、ただの嫌な奴だったけど……
家賃の件に関しては、多分「ただの嫌な奴」では終わらない話だと思う
直美の顔をちらりと見ると、管理人は面倒くさそうに言った。
「いいけど……うちのマンション、管理費が低いんで防犯カメラは、そこの入口にしか付けてないんですよ。それでもいいですか?」
で? この管理人も、この態度? あいつと同類じゃねえか
落ち着け落ち着け。私生活のストレスのせいで、読み方に歪みが出てるから
こいつは嫌な奴ってだけで、何かの犯人になれるような度胸はありません!! この物語に参加する資格もナシ!!!
八つ当たりで容疑者リストから外すなよ
「ええ!もちろん構いません」
「……わかりました。ちょっと待っててください」
管理人はパソコンのキーボードをカタカタと叩く。

どうせ片手でキーボード打ってんだろうな。シフトとエンターを、こう……横着しながら押してそうだ
「えーと、息子さんがいなくなったのは、何時頃ですか?」

子どもが行方不明なのに、なんだその態度は!!!
落ち着いて。顔がもう、京劇の面みたいになってるから
普通、子どもが消えたって聞いたら、もっと焦るだろ!!!! 異常だろコイツ!!!
「朝7時半より前、というのは確実なんですが、詳しい時間はわかりません」

そっか。直美は寝坊したから、優太がいなくなった正確な時間はわからないのか
直美が寝た直後に失踪してる可能性もあるもんね
でも……少なくとも、いなくなって数時間は経ってるってことだよね? さすがに焦るよなぁ……
「7時半より前ね。……ん?もしかして、この子ですか?」
直美は受付の外からディスプレイをのぞき込む。
そこには、一人で外に駆け出していく優太の姿が映っていた。

あ、一人で出かけたんだ。じゃあ、ちょっと安心だね
少なくとも、知らない奴に連れ出された……とか、そういうわけじゃないからね
物騒な事件に巻き込まれてないことが分かっただけでも気が楽になるよな。だから一件落着ってわけでもないけど……
「そうです!この子です!」
直美はひとまず胸をなでおろした。
優太は一人ででかけた……ということは、昨夜の男は無関係だ。

なるほど! 直美は、昨日の不審者が誘拐したと思ってたのか。たしかに、そりゃ焦るわ!
昨日の今日だから、そう思っても無理ないよな
よく考えたらドアチェーンも外れてたし、優太が自分で出てったことは分かってたのか。俺も、直美も、冷静じゃなかったね
みくのしんは冷静でいてくれなきゃ困るよ
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「いや、別に忙しくはないんですけどね」

何を偉そうに。そっちがめんどくさそうにしてたから、直美を気を使って言ってんだろ!
まあまあ。みくのしんが遭遇した管理人と違って、この人はちゃんと協力はしてくれてるんだからさ
でも、子どもがいなくなったのにこの態度はないだろ。どこまでも他人事でいようとしてるよな
「……そうですか。こんなに小さいお子さんなんですね。
そりゃあ心配だ。警察に電話しましょうか?」

警察ねえ……。やっぱり、管理人の立場からしても、これが気になるよな〜
ほら。管理人も親身になってくれてるじゃん。別に嫌な人ではないんだよ
たしかに、この人は思ったほど悪い人ではないのかもね
ただ、あいつは許さないけどな
みくのしん家の管理人の話は一旦、後にしてくれ。それは別件で事件ではあるから
「いいえ……大丈夫です」

何でだよ、直美……! 警察に連絡してもらえよ……
頑なに通報を避けてるね。それだけの事情があるんだろうけど
これがずっとひっかかってる! 正直、管理人のおじさんよりも、直美のほうが怪しいだろ……

直美のことを心から心配してるのに、なにか隠し事されてると気になっちゃうな
いずれ分かるんじゃない? みくのしんも「ミステリーには答え合わせがある」って言ってたじゃん
それはそうなんだけど、その答え合わせが、いいものか悪いものかまでは分からないでしょ。この事情が明らかになったとき、俺が直美のことをどう思うのかまでは予想できないというか……
春岡美穂
次は、春岡の視点か。春岡はやましいところがないから安心して見れるね
ミステリーだから、やましいところがないかどうかは読み終わるまで分からないと思う
いや〜。春岡は大丈夫でしょ! 俺は信じてるぞ!
保育園の午前中は、いつものように慌ただしく過ぎ去っていった。
給食を食べ終わると、園児たちはお昼寝の時間だ。

保育園ののどかな日常って感じだね。直美の心境とは、ずいぶんギャップのある光景だ……
見守り当番以外の保育士は、ほぼ全員職員室に戻る。
落ち着いて自分の仕事をできる、ごくわずかな時間だからだ。
春岡もデスクに戻り、事務作業を始めた。

保育園の先生って、お昼寝の時間に一緒に寝たいと思わないのかな
思うだろうけど。仕事もいっぱいあるし、そうもいかないんじゃない?
俺だったら我慢できないと思う。仕事中に、子どもたちがスヤスヤ寝てたら「いいなぁ〜〜〜〜!!!!!」って思うもん
しかし、どうしても集中できない。
優太のことが気になってしまう。

いいね。「この人は犯人じゃない」って信じられるから、春岡のパートは安心感があるなぁ
もうすっかり春岡はシロ認定してるんだね
だって、本人が「優太が心配」って言ってんだよ? これって、心の声だから嘘のつきようがないでしょ?

正直、ミステリーだから、疑い出したらキリがないんだけどさ。でも、春岡だけは心の中でも心配してるから、「少なくともこの人は犯人じゃない」って信頼できるじゃん
ミステリー作品によっては、その信頼を逆手にとったトリックがあったりもするけどね。「信頼できない語り手」って手法もあるし
何だ、その「世にも奇妙な物語」のタイトルみたいな手法は
※「信頼できない語り手」とは……
主人公や地の文など、物語の語り手が嘘をついたり、重要な事実を隠すことで、読者をミスリードする手法のこと。
・主人公は記憶喪失で、自分が事件を起こしたことを覚えていなかった。
・作中の登場人物は、実は主人公の妄想で実在しなかった。
……など、読者が信じてきた前提が覆されることで驚きを生む。
みくのしんも見たことあると思うよ。映画の『◯ー◯◯◯◯・◯◯◯◯◯』とか『◯◯◯◯・◯◯◯』とかも、この一種と言えるんじゃないかな
あ〜!「実は、主人公が犯人でした」みたいなやつね! あのやり方って小説でもできるんだ。そういう作品も読んでみたいな
「そういう作品だよ」ってオススメするとネタバレになっちゃうから、なかなか薦めづらいんだけどね
要は、ミステリーの世界だと、心の声や地の文ですら、真実を言ってるとは限らないってことか……

でも、かまどがそこまで説明してくれたってことは、ここではそのトリックは使われてないってことでしょ。ネタバレになることを言うはずがないしね
メタ推理すんなよ。俺、何も喋れなくなっちゃうだろ
メタ推理って何?
いやもう、怖いから何も言わない
朝からずっと、夢中で子供たちの世話をすることで、多少、気が紛れていたのだと気づく。
あれ以来、直美から電話はない。まだ見つかっていないのだ。

もうお昼寝の時間なのに、まだ見つかってないのか。優太がいなくなってから、ずいぶん時間経ってるなぁ
朝7時頃にいなくなったわけだから……だいたい5〜6時間は経ってそうだね
一人で家出してたとしても、かなり不安になる時間だ……。大丈夫か……?
ふと、昨日の絵のことを思い出す。
ファイルから優太の絵を取り出して眺める。
灰色で塗りつぶされたマンションの部屋。
この絵と、今朝の失踪。何か関係があるのではないか。

春岡も「変な絵」が手がかりになると思ってるんだ。直美もそんな感じのこと言ってなかった?
優太が「変な絵」を書いた翌日に、この失踪事件が起きてるからね。どうしても、関連は疑っちゃうんじゃない?
それもそうか。そもそも、「なんであのグチャグチャを描いたのか?」の謎も解けてなかったしね
『自分の住む部屋を塗りつぶす』……いったいどんな心理だろう。
春岡は、保育士学校時代のことを思い出す。

いいねぇ。子どもたちがお昼寝してる横で、考えにふけってる感じ……。絵になる光景だなぁ
発達心理学の授業で、一度だけ、特別講師が来て『絵』に関する講義をしたことがあった。
その講師は、老年の女性心理学者だった。
彼女は、子供の心を読み解くうえで、いかに「絵」が重要か力説していた。

春岡は『絵』の読み解き方を勉強してるんだ。やっぱり頼りになりますね
「この話をすると、みなさん、びっくりした顔をするんですが……」と言って、講師は黒板にチョークでひし形を描いた。
「これは、ひし形。またはダイヤ形とも言いますね。
さてみなさん、ご自分のノートに、この図形を描いてみてください」

ひし形ね。いつも「そもそも『ひし』って何?」 って思うんだよな〜
「菱」って植物があるんだよ。その実が◇っぽい形だから、それが由来になってるんだって
よく知ってんなぁ〜。俺、ずっと「皮脂」のことかと思ってたわ
◇にそんな気持ち悪い由来があってたまるか
なぜそんなことをさせるのか、といぶかしく思いつつも、学生時代の春岡は、ルーズリーフの端に、ひし形を描いた。
「できましたか?『難しくてできないよー!』って人いる?」
講師がおどけた調子で言う。教室内で乾いた笑いが起こる。

いいねえ。いかにも先生のユーモアって感じだ
「いませんよね? 大人なら簡単にできることです。
では、同じことを小さな子供にやらせるとどうなるでしょう」

これは、中学とか高校の授業じゃないんだろうね。多分、大学での思い出なんだろうな
多分そうだと思う。俺も大学で心理学専攻だったから、こういう講義は受けたことあるよ
講師は、黒板に一枚の紙を貼った。
「これは私の親戚の子供、ケンスケくんという3歳児が描いた『ひし形』です」

3歳で◇は難易度高くない? うまく線が閉じれなかったり、直線が書けなくて丸になったりしそう──

……え?
どよめきが起こる。
そこに描かれていたのは、ひし形とは似ても似つかない、ギザギザの線だった。

なにこれ!? やばい絵が出てきたぞ!!!
聴講生と同じ反応だ
優太の絵もまだ謎が解けてないのに!! もう次の変な絵が出てきたんだけど!?
「これ、ひし形に見える人いますか? いませんよね。
ケンスケくんは『ひし形』の絵を見ながら、そっくりそのまま模写しようとしました。
その結果、このギザギザの線が仕上がったんです。

お手本を見ながら書いてこれなの??? ヤバくない???
……。
こんなこと言っちゃうとアレだけど……大丈夫? この子にだけ、違う世界が見えてるんじゃない???
彼は決してふざけたわけではありません。
また、彼には発育上、何の問題もありません。
実は、ひし形をこのように描く子供は、とても多いんです」

……マジ? 別にやばいことは起きてないってこと?
これ自体は「変な絵」ではないってことだね。子どもなら、誰でもこう描く可能性があるんだろうな
なんで……? 俺みたいに「ヒシ」を知らないとか? 元ネタを知らないから、自由な線を書こうとしちゃうのかも……?
学生たちの関心が、講師の言葉に集まる。
講師は気をよくしたように、得意げな顔で話を続ける。

わかるわ……。俺も、いま集中して聞いちゃってるもんな……
「ケンスケくんは、ひし形の絵を見てこう思ったんでしょう。
『これ、触ったら痛そう』って。

触ったら……?
「ほら、ひし形って、先っぽの部分が鋭く尖ってるでしょ?
彼はまず頭の中で、尖った部分を指で触る想像をしたんです。子供は想像力が豊かですからね。
そして、触ったときに感じるチクチクとした『痛み』も想像してしまった。
彼はその『チクチクとした痛み』を絵で表現したんです」

マジで? 本当にそういうことが起きるの?
本当なんだろうね。この本の巻末に、参考文献が書いてあったし
本を書くために本を読んでるんだ……。かっけぇ……
※参考文献……鈴木忠「チャイルド・アートの発達心理学ー子どもの絵のへんてこさには意味がある」(新曜社)

じゃあ、これって本当にあることなんだね。どおりで作り話じゃ出せない説得力があると思ったわ
実際、そういうものなんだろうな〜と思うよ。子育てしてると、「子どもって、大人よりおおらかな感覚で物事を認識してるんだな〜」と感じることあるし
へえ〜。かまどのお子さんも、ひし形をこうやって描いたりするのかな
まだ絵は描けないから、分かんないけどね。でも、うちの子も、注射のイメージがあるからか、折れた枝とか、チクッとしそうな尖ったものを全部「びょういん」って呼んだりするよ
講師は、ギザギザの絵を指差す。
「私たち大人は、目に見えるもの……『実物』を絵に描くことができます。
しかし子供は、頭に浮かんだ『イメージ』を描くんです。まるでアーティストですね。
『子供はみんな芸術家』などと言ったりしますが、それはあながち間違いではないんです」

すごい話だな〜! いかにも、このエピソードがヒントになりそう〜!!!
優太の絵を見つめながら、春岡は、講師の言葉を思い出す。
子供は目に見える『実物』ではなく、頭の中に浮かんだ『イメージ』を描く……この絵を描いたとき、優太の頭には『灰色のぐちゃぐちゃ』が浮かんでいた、ということだろうか。

このグチャグチャも、優太が「見た何か」じゃなく「感じた何か」の可能性があるのか
だからこそ、見たままの情報から優太の伝えたいことを読み取るのは難しいってことだね
最初は、俺も「血痕なんじゃないか」とか言ってたけどね。でも、そんな具体的なものを描いたわけじゃないんだろうな
優太の気持ちが知りたい。
春岡は絵を持って、保育室に向かった。
誰もいない保育室で、春岡は職員用デスクから、クレヨンと画用紙を取り出した。

どうなるの……? これ、直美より先に春岡が真相を暴いちゃうんじゃない……?
そして、優太の絵を見ながら真似して描き写してみる。
それをしたところで、何がわかるわけでもない。
しかし、実際に手を動かすことで、この絵を描いたときの優太の心境に、少しでも近づきたいと考えた。

地道な作業だなぁ〜。でも実際に手を動かしてみることが大事か
結局、「これを描いた優太の気持ちになること」ができたら、すぐに謎は解けるだろうしね
黒いクレヨンを手に取る。まずは画用紙の中央にマンションを描く。
続いて灰色のクレヨンで、6階の真ん中の部屋を塗りつぶす。
春岡が描いた絵すると、先ほど黒いクレヨンで描いた線がにじんで、灰色のクレヨンと混ざり合い、不気味な色合いが生まれる。

懐かしいな〜。そういえば、クレヨンって塗りつぶすとヌチヌチになってたなぁ
春岡は違和感を覚えた。
何かが違う。

これは「ティーン♪」ですね
久しぶりにミステリーの音が鳴ったなぁ
春岡がもう何かを見つけたそうです。保育士にしとくにはもったいない推理力してるな
優太の絵と自分の絵を見比べる。
そして奇妙なことに気づく。

何だ……? 俺はまだ何も気付いてないけど……
優太の絵は、黒と灰色が混ざっていない。
灰色で塗りつぶされた部分に、黒い線がくっきり残っているのだ。

あぁ……まあ……。言われてみれば……そうだけど……?
みくのしんにはピンときてないみたいだね
いや、分かるよ。でも……それのどこが奇妙なのかが分からな──

いや、違うな。たしかによく考えたら変だ。マンションの絵をグチャグチャにしたのなら、部屋の線も塗りつぶされてるはずだもんね
これほど強く塗りつぶせば、下に描かれた黒い線は、にじんで灰色と混ざるはずだ。
なぜ、混ざっていないのか。

春岡も、こんなちっちゃな違いによく気づけたなぁ。見比べてみると、たしかに違うけども……
そういう微かな違いから、何かが読み取れることもあるんじゃない?
見た感じ、フォトショップで言うところの「レイヤー」の順番が違うよね。線と塗りつぶしの順番が逆というか……
順番……が……
……。
……あ

俺、分かったかも
嬉しそうな顔してんなぁ〜。人が謎を解いたときってこんな顔になるんだ
謎、解いちゃったかも……。めっちゃ嬉しい! これがミステリーの面白さか!

これ、春岡と優太とで、描いた順番が違うんじゃない?!
ほう。描いた順番?
春岡は、”マンションを描いてから、グチャグチャを描き足した”けど、優太はその逆なんだ! ”まずグチャグチャを描いてて、その上にマンションを描いた”んだろ!
春岡はしばらく考え込み、そして、あまりにも単純な答えに行きついた。
「そうか、マンションを後から描いたんだ」

余計なことを言うなよ。俺が導き出した答えを「あまりにも単純」とか言いやがって
まあまあ。推理が的中してたんだからよかったじゃない
みんな分かって当然の流れだったってこと!? あんなに、はしゃいでた俺がバカみてえじゃねえか!!
優太は、マンションに灰色のクレヨンを塗ったのではない。
まず、画用紙の一部を灰色で塗りつぶし、その上にマンションを描いたのだ。

でも、この順番で描いたんなら、話が変わってこない? 優太は自分の家に何も不穏なメッセージを込めてないってことにならない?
どうだろうね。最初に感じた不気味な印象とは、ちょっと事情が違ってはきてるけども
それに、これが分かったから何? って話でもあるよな。そもそも、なんでグチャグチャを描いたのかが分からないし
黒い線は、灰色の上に描かれた……そう考えれば、線がにじんでいないのも納得できる。
しかし……。

絵を描いた順番は分かったけど……。優太は、どうしてそんなことを……?
「優太くんは、どうしてそんなことを……」

春岡は俺か?
登場人物と全く同じセリフを口にしてるな。物語に没頭しすぎじゃない?
俺、もうこいつとコンビ組もうかな。一緒に事件を追いかけようぜ
もう一度、絵をじっくりと見直す。
そして、ある一点に目が留まった。

また、何かを見つけてるな。春岡が探偵としての才能を開花させてるぞ
灰色がほんの少しだけ、マンションの輪郭線を越えて、外にはみ出している。
そこだけは、なぜか黒い線がにじみ、灰色と混ざっているのだ。
つまり、輪郭線だけは、灰色が塗られる前に描かれたということだ。

ん??? だとすると……つまり、どういうことになるんだっけ?
春岡は、混乱した頭を整理する。

よかった。春岡も混乱してくれてる。俺だけじゃなかったんだ
優太は、まずマンションの輪郭となる、縦長の長方形を描いた。
その後、長方形の上の部分を灰色で塗り、最後に『部屋』を描き込んだ。

図まで書いてくれてる。さすが、春岡! 気が利くな〜!
こうやって図解されると、推理が分かりやすくなるよな
俺を置いていかずに、丁寧に整理してくれてる……。めっちゃ優秀な助手じゃん
春岡をワトソン扱いすんな
輪郭→灰色→部屋。
この不可思議な順番は何を意味するのか。

マンションを描いて、グチャグチャッとしてから、細かいところを描き始めたってこと?
春岡の推理によると、そうなるね
なんでそんなことすんの? もしかして、これ「最初はマンションの色を塗ろうとしたけど、途中で飽きちゃった」ってオチじゃないよね?

俺の子どもの頃がそうだったんだよ。「建物をコンクリート色に塗っちゃお!」と思っても、集中力もないしうまく塗れないから途中で諦めちゃうんだよ
みくのしんが「この絵を描いたときの優太の心境」を考えたら、そういう推理になるんだね
でも、優太はお絵かきが好きなんだよな〜。穴開き定規を使いこなせるくらい器用だし、そんなことはない気がする……
そのとき、突然、保育室の扉が開いた。
見ると、磯崎が立っていた。

な〜んか怪しいタイミングで登場したなぁ! 俺たちが真相に近づいてるのを見て、焦って近づいてきたんじゃないの〜?
ずいぶん楽しそうに読んでるなぁ
いきなり、この画用紙をひったくって、丸めて飲み込んだりするんじゃない?
そんな見え見えの証拠隠滅を図るわけないだろ
「お取り込み中ごめんね。優太くんってさ、もう見つかったの?」
「いえ、まだだと思います」
「そうか。あのさ、警察って来ないのかな?」
「え?」

警察……ね。やっぱり普通はそう思うよな
「いや、実はね。
私が以前に勤めてた保育園で、同じようなことがあったのよ」

磯崎も似たような事件に巻き込まれたことがあるのか。これってよく起きることなのかな?
滅多に起きることじゃないと思うけど。何にしても、磯崎にはこの手のトラブルの経験があるってことだね
なるほどね。こいつ、前作の主人公みたいな立ち位置だったのか
そのときは6歳の女の子だったんだけどね。
突然、家からいなくなっちゃって、警察騒ぎになったんだ。

これは……まさに今起きてる状況と同じだね
まあ、結局はすぐに見つかったんだけど。
隣の区に住んでるお祖母ちゃんに会いに行こうとしたんだって。無事でなによりだったんだけどさ。

このときは、笑い話ですんだのか。優太もそうだったらいいな……
まだ分からないからね。もしかしたら、優太も同じパターンかもしれないし
まあでも、優太の場合は会いに行ける距離におばあちゃんいないんだろうね。 もしいたら、不審者に追いかけられた時点で、直美が助けを求めるはずだもん
その日は午前中から、保育園にお巡りさんが来て、色々聞かれて大変だったのよね。
今回は、そういうことないのかしら?」

大丈夫です。僕がついてます
みくのしんがついててどうにかなる問題じゃないだろ
警察を呼ばないなら、もう俺が代わりに事件を解決するしかないだろ。優秀な助手もいるしね
「……そういえば、そうですね」
「まあ、警察署によって方針が違うのかもね。ごめんね、忙しいところ声かけちゃって」
「いえ、気にかけていただいて、ありがとうございます」

いっそ、俺が代わりに警察に電話しようか? ついこないだまで、業者の不法侵入の件で警察とやり取りしてたから、やり方も分かるし
悲しい経験則が溜まってるなぁ
「ところで、それ、何やってるの?」
「ああ、これは……」
春岡はこれまでの経緯を説明した。
「……で、優太くんがどういう気持ちで、この部分を塗りつぶしたのか、考えているんです。
磯崎先生、どう思いますか?」

磯崎に聞いても分からないでしょ。俺と春岡でようやく真相が見えてきたところなんだから
「そうね……。
『修正した』って可能性はないかしら」

修正?
「修正?」

春岡は俺か?
ここまで同じセリフ吐くことある?
俺たち名コンビすぎるだろ! もう、カギカッコも2つ書いといていいんじゃない?
急に「「修正?」」って書かれても、誤植としか思えないだろ
「クレヨンってさ、色鉛筆と違って消しゴムで消せないでしょ?
だから、絵を失敗すると、失敗した部分を上から塗りつぶして消そうとする子がよくいるのよね」

こいつ……今すごいこと言わなかった?
みくのしんも何かに気付いたみたいだね
いや、正直まだ何も気付いてない。でも、なぜか「これが特大ヒントになりそう」って気配だけはすごく感じる
「あ…………」

春岡も気配を感じ取ってんじゃん! そうだよな! これ、明らかに捜査の手助けになる一言だよな!
映画でも、脇役の何気ない一言を聞いて、主人公が答えをひらめくシーンとか、よくあるもんな
今まさにそれが起きてるだろ! まさか、俺がそれを体験できるとはね……!
「ごめん!もう行かなきゃ。何かあったらすぐ教えてね!」
磯崎は廊下を駆けていった。

磯崎ごめん! 正直、お前のこと疑ってたわ!!!
さっきは、「画用紙を丸めて飲み込みそう」とか言ってたもんな
貴重なヒントをありがとう! おかげで、春岡と二人三脚でちょっとずつ真相に近づいていけそうです!
一人残された春岡は、しばらく呆然としていた。
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。
「自分の家を灰色に塗る」という行為の異様さに気を取られすぎていたのかもしれない。

コイツ、先に答え出てそうじゃない? 二人三脚はどうしたんだよ
それは、お前が勝手に言ってただけの話だろ
肝心の俺がまだ分かってないのに! 助手が探偵より先に気づいちゃダメだろ!
そういう関係性をイメージしてたんだ
『失敗した絵を、塗りつぶして消した』
……その可能性はある。

要は、あのグチャグチャがミスを修正した跡なんじゃないか……って思ってるんだよね?
でも、そうなると……
クレヨンケースに目を落とす。
子供が、失敗した絵を消そうとするとき、何色のクレヨンを使うだろうか。
考えるまでもない。白だ。

そうだよね? でも、優太が塗ってたのは『灰色』じゃなかった?

ミスを修正するときに、灰色のクレヨンで塗りつぶすことはないでしょ。それは不自然だと思うんだけどなぁ
これは大人の感覚でも理解できる。
たとえば、書類にペンで文字を記入している最中、書き間違えた字を、白い修正液で消すように、子供も描き間違えた絵を、白いクレヨンで消そうとするのだ。

それは俺も分かるよ。でも、あの絵に描かれてたのは『灰色』で……
しかし、クレヨンは修正液とは違う。
上から別の色を塗れば色が混ざり合ってしまう。

……?
つまり……、優太は『灰色』のクレヨンを塗ったのではなく、黒いクレヨンで描いた絵を、白いクレヨンで消そうとしたのではないか。

ぁ……ぁあああ!!! そういうこと!??!?
景気のいいリアクションだなぁ。ゲーム実況を見てるみたいだ
『灰色』は塗ったんじゃなくて、修正した後にできあがった色ってこと!??!
その結果、黒と白が混ざり、灰色のぐちゃぐちゃが生まれたのではないか。

あの磯崎の一言で、春岡は、ここまで分かったんだ。さすがは俺の助手だな……
だから、助手ではないんだって
春岡は保育室の後ろにある、子供たちのロッカーまで走った。
そして、優太のロッカーを開け、クレヨンケースを取り出す。

もし、色が混ざったとしたら……優太のクレヨンを見れば……
蓋を開け、白いクレヨンを見ると、
その先端が灰色に変色していた。

チェックメイトですね
ずいぶんノッてるなぁ。ミステリー読んでてここまで探偵になりきる奴も、そういないだろ
優秀な助手の助けもあって、僕が答えを導き出すことができました。春岡クン、よくやった
春岡の手柄を横取りすんなよ
やはりだ。
黒を塗りつぶしたとき、混ざった色が付着したのだろう。
春岡は今一度、情報を繋理する。

情報を整理してくれるんだって! 助かるなぁ……春岡も優秀な探偵に育ってきたぜ
「優太くんはまず、マンションの輪郭を描いた。そして、その中に黒いクレヨンで、何かの絵を描いた。
それは優太くんにとって『失敗』だった。だから、上から白いクレヨンで塗りつぶして消した。
白と黒が混ざり合って、灰色のぐちゃぐちゃができてしまった。
その上から『部屋』を描き加えて、マンションの絵を完成させた……」

ってことは、優太からしてみれば、このグチャグチャは特に意味のあるものではないってこと?
ミスを修正した結果、たまたまできあがっただけだもんね
でも……だとすると、別の意味も出てくるよね。春岡クン、分かるかい?
では、失敗した絵とは何だったのか。
それがわからなければ、この絵の真相にたどり着けない。

そうそう。そういうこと。キミも分かってるじゃないかぁ
センパイ探偵ぶってるなぁ。肝心のみくのしんには見当がついてんの?
今はまだ分かんない。でも、このあと春岡クンが考えを整理してくれたら、自ずと答えが導き出せるはず
要は「春岡に任せる」ってことね
「私がもっと優太くんをしっかり観察していれば……」

まあまあ。今、そこを責めてもしょうがないから。一旦キミの考えを整理して聞かせてみ?
言いかけてハッとした。

ん?
……いる。

なんかコイツ、俺を上回り始めてない?
あんなにワーワーはしゃいで読んでたら、そりゃ先を越されるだろうよ
待ってよ春岡! 今まで俺たち二人三脚でやってきたじゃん!! 今さら、一人で答えにたどり着かないでよ!!

ちょっと待って! 俺も春岡に追いつきたい!!
今さらだけど、みくのしんはミステリー小説を丁寧に読み込むんだね。続きを読めばすぐに答えが分かるのに
そりゃ、読めば答え合わせできるのは分かってるけどさ〜! せっかくなら、自分でも推理してみたいじゃん!

映画だと、自分で考える前にどんどん進んじゃうから、推理のしようもないけどさ。本は一時停止しなくても待っててくれるから、自分のペースで推理ごっこができてすげえ楽しいんだよ
羨ましい読み方してると思うよ。俺はもう、先に先にと進んじゃって自分で推理すること忘れちゃうからなぁ。後出しで「はいはい、俺もそれ分かってた」みたいな顔してることが多い気がする
よしよし……落ち着いて、もう一回読むか。ここで分からないまま先に進んだら、春岡に置いてかれちゃうから
「私がもっと優太くんをしっかり観察していれば……」
言いかけてハッとした。
……いる。
この「いる」って何だ……? 誰がいるんだ……?
春岡が「もっと優太を観察しとけばよかった」と思ってて……そこで「あ! いる!」って気付いたってことでしょ?
つまり、「自分以外にも優太を見てる人がいる」ってことで……
それは……

分かった……!! なるほど、そういうことね!!!
楽しそうだな〜。俺、ミステリー小説好きだけど、こんな腰を入れて推理に参加したことないかも
よかった……。これで、俺も春岡と肩を並べて捜査ができるぞ……
優太のことを、普段からよく気にかけ、観察している人物が、この保育園にいる。

そうだよね……「あいつ」がいるよね! 僕も覚えてますよ
もうみくのしんの中では、目星がついてるみたいだね
そりゃ分かるよ! 先生以外に、優太をよく見てると言ったら「同級生」しかいないだろ!!!
その人物に会うため、春岡は『お昼寝部屋』に向かった。

米沢美羽!!! お前だーーーー!!!!!!
そのセリフは犯人を言い当てるときに使うんだよ
お昼寝中ごめんねーーーー!! ちょっとお話きかせてくださーーーーーーい!!!!
昼寝の時間はまだ二十分ほど残っているが、数人の園児はすでに目を覚まして、布団の中でゴロゴロしていた。
米沢美羽も、その中の一人だった。

ネタはあがってるんだぞ! いさぎよく白状してもらおうか!
犯人を追い詰めるような迫り方すんなよ。美羽ちゃんビックリするだろ
そっか、美羽はお絵かきに関する情報を知ってるだけで、別に悪いことはしてないのか。探偵ごっこに熱が入りすぎて、ゴチャゴチャになってた
春間は、見守り当番の保育士に了承を取り、美羽を隣の部屋に連れ出した。
「ごめんね、美羽ちゃん。お昼寝の途中に声かけちゃって」
「ううん。もう眠くないから大丈夫」
「ありがとう。あのさ、昨日、みんなでお絵描きしたの覚えてる?」
「うん!ママの絵描いた」

やっと新しい局面にたどり着いたね〜! ゲームの難関ステージをクリアして、ようやく次に進んだ気分だ
「そうだね。それでね、先生、優太くんがどんな絵を描いてたのか、思い出したいんだけど、忘れちゃったんだ」
「えー? 忘れちゃったのー?」
「うん……。美羽ちゃんは覚えてる?」

くるよ……。優太がクレヨンで塗りつぶしてまで、消さなきゃいけないと思う絵の正体が……
ちなみに、今のところ優太は「何を描いてた」と思ってるの?
正直、一つだけ心当たりがあるんだけど……。でも、そうだとしたら切ない話だから、あまり考えたくないんだよな

これ、亡くなったお父さんを描こうとしたんじゃないかな…… 。優太は「親子3人の幸せな姿」を描こうとしたんだよ
なるほど……。それはたしかに、切ない話だ
でも、お母さんがその絵を見たら、悲しむかもしれないじゃん。だから、塗りつぶして、2人だけの絵に描き直したのかも……

あ、でも優太は最初に四角を描いてたんだっけ? だとしたら、これはお父さんの絵ではないのか……?
どうだろうね。俺からは何も言えないけど
春岡も、この「?」が何なのか見当がついてるわけじゃないんだよね? じゃあ、今のところは分からなくて当然か……
今この場で、消された「何か」について知ってる可能性があるのは、美羽しかいないもんね
「うん!あのね、マンションのところに、優太くんと、優太くんのママが立ってる絵だよ!」
「よく覚えてるね!」
「ふふん!」
「それでさ、先生、優太くんがその絵をどうやって描いたのか知りたいんだ。美羽ちゃん、優太くんがお絵描きしてるところ、見てた?」
「うん!見てた!」

いよいよ答え合わせか……。何がくるんだ……?
──鼓動が高鳴る。

僕も高鳴ってます!
「優太くんがどうやって描いてたか、先生に教えてくれる?」
「いいよ!えーとねー、最初はー、優太くん、クレヨンでおっきい四角描いてた」

四角ね。もうそこは分かってるんですよ。肝心なのはその次に何を描いたかなの!
で? で? その次は……?
「おっきい四角ね? その次は?」
「その次はねー」

うん……うん……
「ちっちゃい三角描いてた」

ちっちゃい三角???
「ちっちゃい三角?」

春岡が俺すぎる
お前ら、ずっとおんなじセリフを吐いてるな。横で聞いてると、どっちがどっちのセリフか分かんないよ
でも、ここは誰でもこの反応になるよな。完全に予想外の答えだったもん。ちっちゃい三角? なにそれ???
「うん!おっきい四角の中にちっちゃい三角描いてたの。それでね、その後ね……うーん」
そこから先は、美羽自身、自分の絵に集中していたこともあり、よく覚えていないらしかった。

もっと、「人に見られたらヤバい!」ってものを描いてると思ったんだけどな〜
ただの図形を描いただけなら、塗りつぶしたりしなくてよかっただろうしね
普通に「あっ、描き間違えた! クレヨンで消しちゃえ!」ってだけの話だったりするのかな。まさか、ここまできて、それはないと思うけど……
春岡は美羽にお礼を言ってお昼寝部屋に戻し、保育室に戻った。
彼女のおかげで、重要なことがわかった。

どんどん真相に迫ってる感じがする! 今はまだ何もわからないけど、読み進めればどこかに連れてってもらえる感覚がある!
人って変わるもんだな〜。本が読めなかった頃のみくのしんは、その「本を読んでるのに、何もわからない」って状態に強くストレスを感じてたのにね
たしかにそうだったな〜! 俺が読書に慣れたのもあるんだろうけど……多分、「わからないことを楽しむ」ミステリーが肌に合ってるんだと思う
「優太くんはまず、大きな長方形を描いた。その中に、小さな三角形を描いた。
それを白いクレヨンで塗りつぶした。その後『部屋』を描き足して、マンションの絵を完成させた」

また図で説明してくれてる。丁寧な仕事だ……。春岡って職場でもデキる人で通ってるんだろうな
この一連の行動から、一つの事実が浮かび上がる

もう浮かび上がってんの!?? こいつすごいな!!!
磯崎と美羽の一言をヒントにして、どんどん推理が進んでる感じがするよな
春岡を推しててよかった!!! 発想力も行動力も、頭もキレるし……見事な推理じゃん!

もう小説家になったほうがいいんじゃないですか?
そのセリフ、犯人以外が言うことあるんだ
優太は最初、マンションではなく、別の何かを描こうとしていた。
大きな長方形の中に小さな三角形のある図形……ここに何か描き足すことで、その絵は完成するはずだった。
しかし、優太は途中でそれを描くことを断念した。

だんだん分かってきたね……。最初は「マンションに描かれたグチャグチャの正体」を探ってたのに、いつの間にか、「マンションではなく何だったのか?」を推理してるもんな……
画用紙に残された、未完成の図形を前に、優太は考えたはずだ。
「これに部屋を描き足して、『マンションの絵』ということにしてしまおう」と。
いわば、書き間違えた文字の一部を無理矢理変形させて、正しい字に書き直すような行為。

わかる! 俺も、書き間違えたときによくやるもん!「を」を書こうとして、途中まで「お」で書いちゃったときとか!
あ〜。
→
みたいにごまかす人いるよな
そうそう! あと、2を4に書きかえたりね!
なぜ、優太はそんなごまかしをしたのか。

つまり、優太が四角と三角に続けて、何を描こうとしてたのかを推理しなきゃいけないのか……
そうそう。今は、「マンションになる前の元絵が何だったのか」を読み解こうとしてる場面だね
面白くなってきたなあ! 同じ絵を見てるはずなのに、推理の内容がドンドン変わっていくじゃん!
春岡のクラスでは、園児が絵を失敗したら、新しい画用紙を渡すようにしている。
優太もこれまで、何度か画用紙の『おかわり』をもらいにきたことがある。
なのにどうして昨日に限っては、ここまで強引な描き直しをしたのか。

そっか。絵を描いててミスったら、新しい紙と取り替えてもらうのが普通だよね。なのに、優太はそれをしなかったと……
……考えられる理由は、一つしかない。

一つしかないの???
いよいよ、春岡の推理に置いてかれ始めたな
助手が優秀すぎる。もう少し俺のペースに合わせてくれ

なんだろ……その紙が大事だったとか? もしくは、もったいなくて、捨てたくなかったとか……???
ダメだ……分かんねえ……
優太は、隠したかったのだ。
最初に『別の絵』を描こうとしたことを。
その絵を描こうとしたという事実そのものを、春岡に知られたくなかったのだ。

なるほど……。その絵を人に見られることも嫌だったと……
画用紙を取り替えるだけだと、先生に元の絵を見られることになるからね。だから塗りつぶして、なかったことにしたんだろうな
でも四角と三角の絵がそんなに大事? 別に見られてもよくない?
では、優太がそこまでして隠したかった『別の絵』とは何だったのか。
春岡は一度、根本に立ち返って考えてみることにした。

的確に整理してくれるなぁ。俺の生活の問題も春岡に整理してほしいな。床上浸水の保険っていつ降りるの? とか、引っ越し費用ってどこかで保証されないの? とか
浸水のゴタゴタについては、春岡より行政を頼ったほうがいいと思う
そもそも、この絵は『お母さん』をテーマに描かれたものだ。
実際、画用紙の右端には、優太と手をつなぐ、直美の姿が描かれている。

そうだね。「母の日」のプレゼントのために描いたって言ってたもんな
……と、ここで春岡は、初歩的な疑問にぶつかった。
はたして優太は、『人間の絵』と『図形』、どちらを先に描いたのか。

それは「図形」が先じゃないの? 当然そうだと思ってたけど
先ほどの、美羽との会話を思い出す。美羽はたしか、こんなことを言っていた。
「えーとねー、最初は、優太くん、クレヨンでおっきい四角描いてた」
『最初は』
……つまり、『図形』を先に描いた、ということだ。

美羽のお陰でどんどん話が進んでいくね。この子も、俺たち探偵グループにいれていいんじゃない?
みくのしん探偵団の規模を大きくしようとするな
だとすると、違和感が生じる。
優太は『お母さん』というテーマに対して、最初にこの奇妙な図形を描いたのだ。

あ……。たしかに……。そもそも、おかしな話じゃん……
優太は、先生に「お母さんを描こう」と言われて、これを描いたってことだもんね
なにそれ……。なんでそんなことしたの……?
どういう意図があったのだろう。

なんか怖い話になってきてない?
はじめから、「変な絵」をめぐる不穏な話ではあっただろ
でも、「思ったより不気味な絵じゃないかも」とか思い始めてたんだよ。なのに……ここにきてゾッとしたわ。これ何の絵なんですか???
考えを巡らせ、春岡は、不可思議な結論にたどり着いた。
この図形は、母親の絵なのではないか。

これが「お母さん」……??? それはないと思うけど……
一見するとそう思うよな。だからこそ、春岡も「不可思議な結論」って言ってるんだろうしね
逆に「父親の絵」って可能性はありそうだけどね。むしろその方が自然かも

だって、ほら。これ「遺影」に見えない? やっぱり「亡くなったお父さん」を描いたのかなって
なるほど。この四角が、遺影の額縁だと思ったのか
三角も額縁に垂れてるリボンに見えるような……。いや、それなら「Λ」になることはあっても、「△」にはならないか。やっぱ違うのかな
まあ、「お母さんを描こう」と言われて、父の遺影を描くのもちょっと変だしね
一見、直美とは似ても似つかない、無機質な図形だ。
しかし……

にしても、「お母さんに見える」って方が無理があると思うけどなぁ
『私たち大人は、目に見えるもの……「実物」を絵に描くことができます。
しかし子供は、頭に浮かんだ「イメージ」を描くんです』

そうでした!!! 俺もあの授業聞いてたのに!!!
「いかにも、このエピソードがヒントになりそう」って言ってたのにね。物語を読んでると、そういうヒントもつい忘れちゃうよな
遺影のような「具体的な何か」を描いてるとは限らないのか! お母さんという「感覚」を描いてるんだから!!
優太は『お母さん』の絵を描こうとして、おそらくは無意識的に、この図形を描いてしまった。
それが、頭に浮かんだ『お母さん』のイメージだったからだ。

でも、これって優太がお母さんに対して、四角で三角なイメージを持ってるって話にならない?
春岡の推理が正しければ、そういうことになるね
四角で三角なイメージって何? ロボットみたいな奴ってこと???
そしてそれは、優太にとって、なんとしても隠さなければいけない、禁忌だった。

たしかに、これを直美には見せられないよなぁ。ビビると思うし……
この気づきをきっかけに、春岡の脳内で、バラバラに散らばっていた情報の処片が、一気に組み合わさっていった。

え……
それはまるでジグソーパズルのように、一枚の恐ろしい絵を描き出した。

名探偵の俺より先に?
名探偵の気分だったんだ
これはもうコンビ解消のときかもしれん。春岡が立派な探偵として独り立ちする日がきました
初めからコンビ結成してないんだよ

まあ、こっちは読みながら推理してるわけだしね。遅れを取るのもしょうがないか
で? 春岡はどういう推理を──

?!
なに? どうした?
次の一行が目に入っちゃった……。えぇ……そんなこと……???
『今野直美は、優太を虐待した』

なんでそうなるの!?!?!?
信じたくはない。思い違いであってほしい。
職員室に続く廊下を歩きながら、春岡は頭の中でパズルを組み直した。
しかし、何度やっても、同じ絵ができてしまう。
今の状況を総合すると、それ以外、考えようがない。

マジ? それは早とちりというか……考えすぎじゃない?
今はまだ、あくまで推測の域を出ないけどね。ただ、春岡が持ってる情報を総合したら、この結論に至ってしまったと……
でも、俺の話は聞いてないでしょ。一回、俺の「お父さんの遺影」説も考えてみない?
なぜ、警察から連絡が来ないのか。
……直美が通報していないからだ。

そうだ……! たしかに、直美は俺たちにずっと隠し事してたけど……それが虐待ってこと?!
直美には、警察に関わりたくない、後ろめたい事情があるのだ。

もしそうだとしたら……警察が来たら困るのはたしかだけど……。だからって、その事情が虐待とは限らないんじゃない……?
なぜ、優太は何も言わずに家からいなくなったのか。
……彼は、直美から逃げたかったのではないか。

たしかに……。優太は自分の意志で家を出て行ったんだ……
誰かに連れ出されたわけじゃないことは、監視カメラのシーンを読んだみくのしんなら知ってるもんな
これって、つまり「直美が寝静まるのを待って1人で家出した」ってことだもんね。そう言われたら、たしかに母親から逃げようとしたと考えるのが普通か……
そしてなにより、優太の描いた図形……春岡はここから、あるものを連想した。

春岡は、これが何か分かってるんだ……。いつの間に……
三角形の穴が開いた長方形……『お絵描き定規』だ。

……!!!
そんな目で見られても
そういえば直美が言ってたわ……。油性ペンで落書きしたことを怒っちゃったんだっけ……
一昨日の夜、優太はお絵描き定規でイタズラをして、直美にきつく叱られた。

優太にとっては、それがめっちゃキツかったのかな……。だから、家出したのかも……
そして昨日の午後、お絵描きの時間に『お母さんの絵』を描くことになった。
優太はイメージしようとしたはずだ。直美の笑顔、優しい声、安心できる匂い……。
しかし、それに反して彼の頭に浮かんだのは、お絵描き定規のイメージだった。
それほどまでに、直美に叱られた記憶は、激しいトラウマとして優太に染みついていたのだ。

そんな悲しいこと言うなよ……ッ!!
だからこそ、春岡も「信じたくはない。思い違いであってほしい。」って言ってたんじゃない?
直美も1人で頑張ってるのに……。そんな中で、たった一度だけ間違いを犯したからって……それをトラウマとか言うな!!!
しかし……叱られただけで、そこまで心に傷を負うだろうか?

そうだよ。あれはただの親子ゲンカでしょ? トラウマってのは言いすぎじゃない?
そうかもしれないね。ただ、「どんな叱り方をしたのか」は、作中で描写されてなかったでしょ。だから、ただの親子ゲンカかどうか、本当のところは俺たちには分からないんだよ
そういえばそうか……。俺たちが知ってるのは、優太がソファで泣いてるシーンからだもんね……
そう思ったとき、春岡の脳裏に、昨日の直美の様子がよみがえった。
涙ながらに、自分の行いを悔やむ姿……懺悔といってもよかった。
子供を叱ったことを、あそこまで後悔する保護者は見たことがない。
叱るたびに泣いていたら、小さい子供を持つ親など、数日で干からびてしまうだろう。

たしかに……。直美が泣きながら、自分を責める姿を、春岡も実際に見てたもんね……
それを見てた分、「あんなに動揺してたってことは、相当なことをしてしまったのかも」と思うのは自然だよな
でもなぁ……。親からしたら、ちょっとしたことでも大袈裟にとらえてしまうものなんじゃない……?

俺の親父もさ……。子どもの頃、俺が初めてメガネをすることになったときに「息子にメガネをさせることになるとは……」ってめっちゃ凹んでたもん。俺は別に何とも思ってなかったのに
あ〜。うちの親もそうだったな。メガネ程度のことでも、親にとっては一大事なんだ……って思った記憶がある
親父も次の日から「みく、これでお揃いや!」つって、サングラスをかけるようになったからね。あれも親として何か思うところがあったんだろうな。当時の俺は、何も分からずに「なんで親父だけカッコいいの選んでんだよ」って笑ってたけどね
おそらく、叱る以上のことをしてしまったのだ。

つい手が出ちゃったのか……。でも、あの直美がそんなことするかなぁ……
とはいえ、あの子煩悩な直美が、優太を殴ったり蹴ったりするとは思えない。
少し強めに叩いた、程度のことかもしれない。

まあ、それくらいはあるかもね。殴る蹴るじゃなくて、ついこう……パシッと……
とはいえ、親からすると、力加減の問題じゃないんだろうね。もし自分が……と考えると、衝動的に子どもに手をあげてしまったこと自体にめちゃくちゃ動揺すると思う
そっか……。だから、直美は「とんでもないことをしてしまった」と思ったのか……
それでも、信頼するママから初めて受けた暴力は、優太の心を深くえぐった。
そのつらさと、お絵描き定規のイメージが頭の中で結びついてしまったのだろう。

それもあるなぁ……! 大人の冗談も、子どもにとってはショックだったりするもんね……!
それが分かってるから、親はちょっとしたことで「これがこの子のトラウマになったらどうしよう」って動揺するんだよなぁ
お父さんがいてくれたら……。優太の味方になってくれて、直美の気持ちも分かってあげられる人がいたら、こんなことにならなかったのに……
だが、この仮説が事実だったとしても、春岡は直美を責める気にはなれなかった。

そりゃあ、そうだよ。直美も疲れ切ってるのに、毎回正しい選択ばかりできるわけじゃないよな……
働きながら、一人で子供を育てるのは、並大抵のことではない。日々、苦労の連続だろう。
疲れ、不安、孤独、それらが溜まりに溜まった結果、つい手をあげてしまった……。
誰にでも起こりうることだ。

悲しいことだけど、悪いことじゃないと思っちゃうな……。これを虐待と呼ぶのは悲しいよ……
そうかもね。でも、優太の気持ちになったら、また別の言葉をかけたくなるんじゃないかな?
そうだけどさあ!!!!! じゃあ、直美はどうすればよかったんですか??? 誰が直美を助けてくれるんですか???
しかし、問題なのは、それが発覚するのを恐れて、直美が警察に連絡できないでいることだ。
その間に、優太が事故や誘拐に遭う危険がある。

たしかに、それとこれとは話が別だもんね。別に警察を呼んだからって、逮捕はされないでしょ
春岡は、今すぐ直美に言ってあげたかった。
「大丈夫ですよ。誰もあなたを責めたりしません。
だから、安心して警察に相談しましょう。そして、優太くんを一刻も早く見つけ出しましょう」

それが一番大事かもね……。今の直美は「誰も味方がいない」って思ってるんだよ……。だから、そういう一言を言ってあげてほしい
それこそ、武司が生きてて、両親ともに健在だったら、こんなこと考えなくてよかっただろうしね
俺も、家が水に沈んで心がめちゃくちゃだったときに、かまどとかみんなが「手伝うから、いつでも呼んでよ」って言ってくれたもん。そういう一言がなかったら、今もまだ家は湿ってると思う
職員室に入ると、春岡は直美の携帯に電話をかけた。

この真相に辿り着いたのが、優しい春岡でよかった……。他の人だったら、直美をつい責めちゃうと思うし……
何にしろ、これでようやく、話が先に進むね
直美も、電話越しでもいいから、人に話して楽にならないとね。今まで「私、一人で考えすぎてたかも」って気付く余裕もなかったわけだし
今野直美
「もう二度と電話をかけてこないでください!」

?!??
「あなたみたいな人とは一生話したくない!」

急に何!??! 直美がブチギレてんだけど!??!!
春岡の推理が外れてたってこと?? 直美が図星をつかれて逆ギレしたってこと??? 何が起きた!??!
今いる場所が、静かな住宅街であることも忘れ、直美はありったけの大声で怒鳴った。
そして、全身の力を親指に込め、『切』ボタンを押した。
それでもまだ足りなかった。
本当は携帯を地面に叩きつけたかった。

すげえ怒ってる……。どうした、直美!?
春岡に虐待を疑われたことがよほどショックだったんじゃない?
でも……この感じは、虐待がバレたから焦ってる……ってことではなさそうだな……
直美は朝からずっと、近所をかけまわり、優太を捜していた。
付近の家を一軒ずつ訪ね、情報を聞いて回った。

直美は直美で、本気で捜してたのか。まあ、それはそうなんだろうけど……
その途中、保育園から電話がかかってきた。担任の春岡からだった。
春岡は、直美にとって、この上なく侮辱的な言葉を口にした。

でも怪しいのも事実だからなぁ〜!!!
結局、まだ警察を呼ばずに一人で捜し続けてたわけだしね
「虐待」呼ばわりしたのはごめん! でも、警察を避けてたり、ちょっと気になるところもあるからさ〜!
(あのクソ保育士!)

えぇえ?!?
一行ごとに表情がコロコロ変わるなぁ。読書中に、ここまで表情筋が駆動することないだろ
だってお前……なんちゅう言葉を吐いてんだよ!!
(私が優太を虐待した、ですって……?)
悔しくて仕方がなかった。信頼していた先生に『暴力ママ』扱いされたのだ。

本人はこう言ってるけども……。正直、まだ信用できてはいないんだよなぁ……
(そんなわけがない!ありえない!
優太が生まれてから今まで、一度だって手をあげたことはない)

どこまで信じていいの? もし、暴力をふるってても、本人の中で「これは教育だから」と思ってたら、これも嘘は言ってないことになるよね?
まさに「信頼できない語り手」だね
でも、こんな状態の直美を疑わなきゃいけないのもツラいよ……。いっそ、俺たちの勘違いであってほしい……
(たしかに私が小さい頃は、親が子供を殴るのは当たり前だった。
母親にはしょっちゅう暴力を振るわれた。
だからこそ、自分が親になったとき、子供に同じことはしないと誓った)

直美もツラい幼少期だったんだね。だからこそ、自分もそんな母親と同じ扱いをされたのがめっちゃイヤだったのか
令和の今と比べたら、子どもに手を出すことも珍しくなかった時代だしね
そうは言うけど、俺たちの子どもの頃も、すでに「体罰はダメでしょ」って雰囲気じゃなかった? 俺、親から叩かれた記憶ないもん

直美の親は厳しかったんだろうね
(自分が完璧な親だとは思っていない。
でも、優太の体を傷つけるような真似は絶対にしない。
それだけは言い切れる。神に誓ってもいい)

神に誓ってんじゃん!! じゃあさすがに違うだろ……!!!
ここまで言ってたら、さすがに春岡の推理が外れていると考えるのが妥当だろうね
もういい!!! わかった直美!!! 俺は信じる!!! お前は虐待なんかしてない!!! 俺たちが間違ってました!!!!
頭の中で叫び続けた。
知らぬ間に涙があふれていた。
自分の人生がすべて否定された思いだった。

泣くなよ!!! 俺まで悲しくなるだろ!!!
春岡の早とちりでした!!! 俺の助手が失礼なこと言っちゃってすみません!!!!
お前らコンビ解消したんじゃねえのかよ
しかし皮肉にも、春岡のおかげで、優太が今どこにいるのか、見当がついた。

なんだ……? 直美には何かピンと来るものがあるのか……?
(長方形に三角……。お絵描き定規の絵なんかじゃない。きっと……)

直美にはこれが何か分かるのか!??
携帯電話のアドレス帳を開く。
下へ下へとページを繰り、もう何年も目にしていない番号に電話をかけた。
優太はきっと、この場所にいる。

アドレス帳……? 連絡先まで知ってるってこと……?
数回のコール音の後、しわがれた声の男性が出た。

だれだ……?
「お電話ありがとうございます。
こちら、さくら霊園でございます」

霊園……! これって、つまり、お父さんが眠ってるところじゃない……!?
冒頭の回想シーンで、お墓参り行ってたもんね。そのときの霊園じゃないかな
やっぱりそうじゃん! 優太は親父に会いに行ってたんだ!!!
「あの、ちょっとお伺いしたいのですが、そちらに、小さい男の子が来ていませんでしょうか?」
「ああ!もしかして、ユウタくんの保護者さんですか?」
「はい……!そうです!」
「よかった!ご安心ください。今こちらでお預かりしてますよ」

よかった……!!!!
直美くらい安心してんなぁ。それだけ物語に没入できてるってことだろうけど
虐待もない! 優太も無事! もうこれ以上言うことないです……! 最後に親子3人揃ってハッピーエンドで締めよう!
朝からずっと張りつめていた心が緩み、直美は立っていられず、その場でしゃがみ込んだ。
「あ……ありがとうございます……。すぐに向かいます……」

じゃあ、あのブチギレも、本当に「虐待」呼ばわりされたのがイヤだっただけか……。それにしては、大げさだったと思うけど
気持ちは分かるけどね。もし俺が「あなた、虐待してませんか?」とか言われたら、たとえそれが親切心だったとしてもめっちゃショックだし
それもそうか……。俺も春岡も、ちょっとデリカシーがなかったね……
さくら霊園……直美たちのマンションから、徒歩十分ほどの場所にある墓地だ。

そんなに近い場所だったんだ。そりゃ、優太も一人で行こうという気になるよな
散歩ついでに行ける距離だが、直美はこの数年間、一度も行ったことがなかった。
それどころか、付近を通ることさえ避けていた。
因縁の場所だったのだ。

……因縁? あれ? 直美って武司のことが嫌いなんだっけ?
いや、そんな描写はなかったはずだよ
だよね? 写真に向かって「武ちゃん」って言ってたし、因縁も何もないと思うんだけど……
霊園の入口にある小さな事務所に入り、受付に座る初老の男性に声をかけた。
「あの、失礼します。先ほどお電話をした今野と申します」
直美を見ると、男性はにこやかに笑った。
「おお! お待ちしてました」

まあ、何の因縁なのかは分からないけど、「一件落着」の文字が見えてきた気がするね
「本当に、ご迷惑をかけて申し訳ありません……」
「いえいえ、とんでもない。優太くん、今、奥の部屋にいますから、ご案内しますね」

優しいねぇ……。あのときのマンションの管理人も見習ってほしいよな
ずいぶん根に持ってるなぁ
だって、優太がいなくなったのに、ひどい態度だったろ。普通は、このおじさんみたいに丁寧に対応するもんだよ
部屋に向かう途中、男性はこれまでの経緯を話してくれた。
「一時間ほど前だったかな。お墓参りにいらしたご婦人が教えてくれたんですよ。
『墓地の中を小さな男の子がずっとうろうろしてる。もしかしたら保護者とはぐれちゃったんじゃないか』って」

すごいな。優太は本当に1人でここまで来たんだね
徒歩10分と言っても、子供の足からすると大冒険だもんな
でも、優太くらいになると余裕なんじゃない? 穴開き定規も使いこなせるってことは、相当な優等生だしね
「それで私、墓地に行ってみましたら、小さな男の子が何か捜し物でもするみたいに、きょろきょろ歩いてましてね。
どうしたんだろうと思って、声をかけたんですよ」

あ〜、墓地までの道は覚えてたけど、どこにお父さんのお墓があるかは覚えてなかったのか
場所にもよるけど、霊園ってデカいからね。子どもの足じゃ、探すのも一苦労だろうな
それに、お墓ってだいたい同じ見た目だもんな〜。そこで、お父さんのお墓をピタリと探し当てるって相当難しいよ
そしたら『お母さんのお墓を捜してる』って言うもんでね。

うん……うん……

……うん?
今、なんか変なこと言わなかった?
そしたら『お母さんのお墓を捜してる』って言うもんでね。

「お母さん」のお墓???
うん。そう書いてあるね
「お父さん」じゃなくて??? なにこれ、印刷ミス???

なんで直美のお墓があるんですか??? 春岡!! これどういうこと!?!?
ここにきて春岡を頼るなよ
何が「ジグソーパズルのように」だよ!! いま一気にバラバラになってんじゃねえか!!!
「いやあ、事情はわからないけど感心しましたよ。あんなに小さいのに。
一人でお墓参りなんて……立派なもんだ」

一気にわからなくなったんだけど?!? なにこれ?? どういう……?? ええ??
落ち着いてくれ。気持ちは分かるけども
お母さんの目を盗んで、お母さんの墓参りにきたってこと!??
(やっぱり……)
直美は思った。

じゃあ、直美は何者なんですか??? なんかすげえ怖いんだけど!??
そう言いたくもなるか。急にハシゴを外されたようなものだもんな
今、どうなってんの??? 直美はもう死んでるってこと???
優太は、本当のお母さんに会いに来たのだ。

「本当のお母さん」とか言ってますよ?!!
うん。そう言ってるね
「そう言ってるね」じゃねえよ!!!! じゃあ、俺たちが見てた直美はニセモノだったの?!??
『長方形の中に小さな三角形』……優太が描こうとしたのは、墓だ。

ん? お墓……?

まあ……たしかに、そう見えなくもないか。でもお墓に△なんて書いてないと思うんだけど……
おそらく、縦長の墓石に『今野』という苗字を書こうとして、途中でやめたのだろう。

ああああああ!!! そういうことか!!!!!
やっと△の謎が解けたね。結局、これは穴開き定規じゃなくて──
あの「△」は「今」の上部分なのか!! よく気付いたな、そんなこと!!!

でもさぁ! 優太はまだ6歳とかでしょ? 漢字なんて書けないし、読めないと思うんだけど……


あっ………………

っっツーーーーーー……
昇天した?
気……ッ持ちいい……。これがミステリーか……! これが楽しくて、みんなミステリー小説読んでんのか……!
俺、ミステリー小説読んでて、成仏しそうになったことないよ
米沢美羽は『今』の上半分を見て三角形だと勘違いしたに違いない。
すると、優太は……。

美羽は「今」の字を知らなかったんだろうね。だから「ちっちゃい三角を描いてた」としか言えなかったのか……
今野優太
すげえ!! ここにきて、優太本人の視点になるんだ!!
ここが分からないから、今までみんなが振り回されてたわけだもんな
こんなの、絶対すべての真相が明らかになるだろ!!
記憶の中で、蝉の声だけが、うるさく鳴り続けていた。
カンカン照りの青空の下、麦わら帽子をかぶった優太に、父親の武司は優しい声で何かを言った。
それがどんな言葉だったのか、優太はずっと思い出せずにいた。

一番最初のシーンだ!! やっぱり、最初に重要な情報が隠されてたんだ!!! 俺の言った通りじゃん!!!
えっと? そんなこと言ってたっけ?
読み始めたときに言ってただろ! なに忘れてんだよ!!!
忘れもするだろ。何時間前の話だと思ってんだ
※この時点で、本を読み始めてから4時間経過しています。
しかし、二人の前に、大きな石があったことだけは覚えていた。
縦長の石だった。そこには、六つの記号が書かれていた。

ん? これ、お墓のことじゃないの? そう思ってたんだけど
『お墓』という言葉を知ったのは、ずっと後だった。
4歳の頃、保育園で先生が読み聞かせてくれた絵本の中に、その絵は出てきた。
縦長の石……それを見たとき、優太は知った。
あの日、父と見たものが『お墓』だったことに。

やっぱりお墓だったんだ。じゃあ、6つの記号ってなに? お墓に記号なんか書かないだろ
どうだろうね。少なくとも、優太にはそう見えたってことじゃない?
そっか。まあ……なんか、こう……変わったお墓なんですかね? 独特な宗教というか……
精一杯配慮した言い方をしてるなぁ
先生は、『この石の下には亡くなった人が眠っている』と教えてくれた。優太は思った。
あのお墓には、誰が眠っていたのだろう……。

そう言えば、「お父さんの他に、誰か別のお墓がある」って始まりだったもんね。それが「本当の」お母さんだったってことか……
その疑問が解けたのは、つい先日のことだった。
保育園の教室で、先生は言った。
「みんなは、4月から『年長クラス』になったよね。この保育園で一番のお兄さん、お姉さんだ!
それでね、もう知ってると思うけど、来年はみんな保育園を卒園して、小学校に通うことになるの。
小学校には、今よりももっと楽しいことがいっぱいあって、新しいお友達もいっぱいできるんだけど、そのぶん、やらなきゃいけないこともいっぱい増えるんだ。

年長クラスになるとこういうこと言われてたよな〜。俺は「小学生になりたくない!」って思ってたもん
そうなんだ。小学校を楽しみにする子の方が多いと思ってたけどな
俺は、その時点で「どうせ落ちこぼれる」って確信してたからね。「ドラえもん」とか見てたから、俺は絶対のび太側の人間になると思ったよ
なんて悲しい園児なんだ
たとえば、今はみんな、自分のお名前をひらがなで書いてるでしょ?
だけど、小学校に上がったら『漢字』で書けるようにならないといけないの。
だから今日は、来年のために、漢字でお名前を書く練習をしようと思います!
今から一人一枚紙を配るね。みんなのお名前が漢字で書いてあるから、一回指でなぞってみよう」

なるほど! これで、自分の漢字が書けるようになったわけね!
優太の受け取った紙には今野優太と書かれていた。
このとき、優太は初めて自分の名前の漢字を見た

まあ、それまではひらがな表記しか見たことないだろうしね
……はずだった。

ちょっと〜〜〜!ここにきて、揺さぶってくるなよ!
こんなに揺さぶりがいのある読者もいないだろ
これから、ほのぼの回想シーンが始まると思ってたんですけど??? 違うの???
しかし……。
『今野』……この形に、なぜか見覚えがあった。
突然、頭がくらくらして、遠い記憶がよみがえった。

自分の名前だし、どこかで目にしててもおかしくはないけど……
蝉のうるさい鳴き声。暑い日差し。隣には父親がいる。
彼が指差した先にはお墓があった。
そこには六つの『記号』が書かれていた。

さっき言ってたよね。お墓に記号があったって……
あれは、『漢字』だったのだ。

なるほど!! そのときの優太は「漢字」そのものを知らないから、「記号」にしか見えなかったんだ
大人だったらそれが文字だと分かるけどね。それを知らない子どもからしたら、△とか□と同じようなマークにしか見えないんだろうな
子どもの目線で読んでたら、これも分かったのかな……。でも、「漢字」の第一印象まではさすがに覚えてないよなぁ〜!
最初の二つが『今野』だった。

お墓に「今野◯◯之墓」って書いてあったんだろうね。そこで、「今野」を見たことがあったのか
そのときは読めなくても、形は覚えてたんだろうね
保育園で自分の名前を漢字で見たときに、この思い出がブワッと蘇ったのか……。切ないな……
父の声が聞こえた。懐かしくて、優しい声だった。
「ここに、優太のお母さんが眠ってるんだ。
優太が生まれる前に死んじゃったんだよ」

問題はこれだよな。結局、優太と直美の関係が分からないままだけど……
「え? ママ生きてるよ」
「うん。『ママ』はね。
でも、優太には『お母さん』がいるんだ」『ママ』と『お母さん』……自分には二人の母親がいることを、優太はこのとき、ぼんやりと理解した。

あぁ……再婚してるってこと? 生みの親が亡くなって、その後に、直美が新しいお母さんになったのか……
『ママ』は、いつも優太のお世話をしてくれる、優しくて、楽しくて、ときどき怖い、そして優太が世界一大好きな『ママ』だ。
ママは『ナオミ』という名前であることも、すでに知っていた。

うんうん。直美のことは俺もよく知ってるよ。「料理も上手」も言ってあげてほしいけどね
そして『お母さん』は……よくわからなかった。
優太はその人の顔も名前も知らなかった。
しかし、自分にとって、そして父にとって、とても大切な人なのだろう、ということはわかった。

そういうもんなのか。まあ、優太は会ったこともないし、仕方ないか……
麦わら帽子の上から息子の頭をぽんぽんと触りながら、父は言った。
「だけどね、優太。ママのいるところで、『お母さん』のお話はしないでほしいんだ。約束してくれるかな?」
「……うん」

優太の中で『ママ』と『お母さん』は違うんだね。なるほど……使い分けてたってことか……
実際、ここまで優太は直美のことを一度も「お母さん」とは呼んでないからね
そんなの気付かないよなぁ。ただのママ派だと思ってたし……
「ありがとう。もし『お母さん』のことがもっと知りたくなったら、いつでもパパに言いなさい。
色んなこと、教えてあげるから。約束だよ」

小さい子どもに、ヘビーな約束させてるなぁ……。優太もよくこれを守って生活できたね……
しかし、その約束を果たす前に、父は死んだ。

そうだよね。だから、優太の目的地は親父の墓だと思ってたんだよな〜
当たらずとも遠からず、ではあったけどね。図形を見たみくのしんが「遺影じゃないか」と言い出したときは、ギクッとしたし
そういえば言ってたな〜! あのとき、冷静に考えたらこれ当てられたんじゃない?
だから、優太にとって『お母さん』の記憶は、その日見た、お墓だけになってしまった。
そしてその記憶すらも、いつの間にか心の奥底に押し込めていた。
『ママ』に対する気遣いがそうさせたのかもしれない。

まだ小さいのに……。やっぱり、優太はしっかりしてるなぁ……
しかし、数年の時を経て、優太は思い出した。
自分には『お母さん』がいることを。
そして、その人はお墓に眠っていることを。

この6年の間に、お母さんが亡くなって、再婚して新しいママがきて、お父さんが亡くなったってことか……
優太もまだ短い人生なのに、いろんなことがあったんだろうね
漢字を習ってから、数日後のことだった。
お絵描きの時間に、先生は言った。
「もうすぐ母の日です。今日は、お母さんにプレゼントする絵を描きましょう!」

きた!! 俺たちが一番気になってたところ!!!
いよいよ、このシーンが本人の視点で語られるんだね
やっと、あの「変な絵」の真相が分かるぞ!!!
優太はあまり気乗りしなかった。
前の晩、お絵描きのことでひどく叱られて、ママと少しだけギクシャクしていたからだ。

優太も気にしてはいたのか。でも、トラウマとかそういうことではないみたいだね
春岡が「虐待」って言ってたのは、やっぱり勘違いだったってことだね
どんどん真相が明かされていくなぁ……。これ書いてる方も楽しいだろうな〜
クレヨンを手に取ったとき、胸に何かが湧き上がってきた。
ちょっとしたイタズラ心だった。
ママではなく、『お母さん』の絵を描いてみようと思った。叱られたことへの、小さな反抗だった。
優太はお墓の絵を描こうとした。それが唯一の『お母さん』に関する記憶だったからだ。

ちょっとしたイタズラ心だって! やっぱりただの親子ゲンカだったんじゃん!
だが……途中でやめてしまった。
『ママ』に対して、とてもひどいことをしている気分になったからだ。
必死に考えた工夫で、絵はなんとかごまかした。

やっぱり頭のいい子だなぁ。「これはよくないことだ」と自分で分かるし、イタズラをごまかす工夫もできるし……
その結果、大人が何人かかっても解けない謎になってたんだね
まさか、それがただのイタズラだったとは……
しかし、それからずっと『お母さん』のことが頭から離れなくなった。
その夜、布団の中で考えた。

これって、あの不審者に追いかけられた日の夜だよね? じゃあ、優太はあの逃走劇も怖い思い出になってないのか。不幸中の幸いだね……
そんなことより、優太は、「お母さん」のことで頭がいっぱいだったんだろうね
(お母さんに会いたい)
(もう一度、あの場所に行きたい)

かわいそう……。6歳の子どもに思わせる内容じゃないだろ……
翌朝、優太は初めて、一人で外出をした。

お母さんに会いに行こうとしてたんだ……。そりゃ、直美には内緒で行くしかないよな
別に直美から逃げ出そうとしたわけではなかったんだね
でも……これはこれで、直美はショックだよな……
お墓への道のりは、よく覚えていなかった。
父に連れられて歩いた、かすかな記憶をたよりに歩き続けた。
迷子になることなく、誰の助けも借りず、ほんの数十分でたどり着くことができたのは、ほとんど奇跡としか言いようがなかった。
優太はまだその言葉を知らなかったが、まるで「何かに導かれるよう」だった。

これあるよな〜! 俺も子どもの頃に、親と一度だけ行ったことのある公園に1人で行った記憶があるもん
へえ〜。実際、こういうことってあるんだな。それって何歳くらいの話?
それこそ、優太と同い年だったかも。今の俺でも歩いて20分くらいかかる公園に、なぜか一人で行けちゃったんだよ。いまだに「なんで子どもの力だけでたどり着けたんだろう」って不思議なんだよな〜
到着したとき、霊園の門は閉まっていた。
開くまで、近くの公園で待つことにした。
いけないことをしている自覚があったので、誰にも見つからないよう、トンネル遊具の中に身をひそめた。

ずっと隠れてたんだ。どおりで大人にも見つけられないはずだ
人生でもっとも長く、不安な数時間が過ぎた。

分かる! 俺が恐竜博物館で1人で過ごしたときの時間も、すげえ長かったもんな〜!
優太の記憶に引っ張られて、みくのしんの幼少期の記憶が溢れ出してるな
退屈だったから、俺だけ「外で待ってる!」つって先に出ちゃったんだよ。家族が出てくるまでの時間が、めっちゃ怖くて「早く迎えに来てくれ!」って泣いてたな〜
あのときの俺はたった数十分でそうなったんだから。優太の数時間なんか、想像するだけでゾッとするわ……
午前10時。門が開いたのを確認すると、一目散に駆け込んだ。
ドキドキする胸を押さえて、あのお墓を捜す。
だが、墓地は思ったよりも広く、複雑に入り組んでおり、なかなか見つけられなかった。

子ども1人でよく、この時間を耐えきったなぁ……。こんなの大人の俺でも不安になるし、近くのドトールとかで時間潰すと思う
ずいぶん長い時間、ぐるぐると歩き回った。
足が疲れた。お腹がすいた。喉が渇いた。
でも、帰りたくなかった。
帰ったら、またママに怒られる。絶望的な気分になった。

悪いことしてる自覚もあるんだな……。ドトールに寄る気にもならないか……
そこで、大人に「家出した子どもがいる」とバレたら、親に報告されちゃうもんね
いや、子どものうちはそういう理屈までは考えてないと思う。「これだけ悪いことしてるから、自分はツラい思いをしないといけないんだ」と思って、シリアスな方を選んじゃうんだよ
そのとき、前からおじさんが歩いてきた。
「ぼうや、どうした? お父ちゃんお母ちゃんとはぐれちゃったか?」

優しいおじさんでよかったね……。これで悪い大人だったら、と思うとゾッとするわ……
おじさんに連れられるまま、優太は霊園の入口にある建物に入った。
案内された部屋で、おじさんは優太の名前を聞いた後、麦茶とせんべいを出してくれた。
今日初めてのご飯だった。渇きを癒やすように、むさぼった。

こういうときに食べたせんべいの味って、一生忘れないよな……。優太が大人になっても、お土産でせんべいをもらうたびに、この日のことを思い出すんだろうね
「優太くん!親御さんと連絡ついたよ。よかったなあ!すぐ迎えにくるって!」
おじさんが嬉しそうに話すのを聞いて、優太の気持ちはどんよりと曇った。

……そっか。こんだけ迷惑かけといて、感動の再会ってわけにもいかないよなぁ……
家出の事情もママには言いづらい内容だしね
しょうがないよ、優太。ちゃんと「ごめんなさい」しよう。俺も一緒に謝ってやるよ
もうすぐママが来る。絶対に怒られる。
怖い。逃げたい。
優太はママにぶたれたことが一度もなかった。
だが、今回ばかりは覚悟した。それほど、悪いことをしたという自覚があった。

うん……うん……
だから……部屋に入ってきたママが、

うん……
何も言わずに自分を抱きしめたときは、

……。
嬉しさよりも、驚きが勝った。

ックウ……

よかったねぇ……
(めっちゃ号泣してる……)
直美も怒ってなかった……優太も恨んでなかった……よかった……

直美もずっと疲れてたもんなぁ……。こんなの疲れるよなぁ……
俺、本を読みながら、こんなに号泣したことないよ
スーパーのババアにも嫌なこと言われて……春岡にも虐待呼ばわりされて……。それでもずっと一人で頑張ってたもんなぁ……

だから……もう……

こんなの……

めっちゃ疲れるよなぁ……
どこからティッシュが出てきたんだ

正直、優太の視点になってからずっと涙腺がやばかったんです……。頑張って泣かないようにしてたんだけど、本当はずっと泣きたかったんです……
亡くなったお父さんとの回想もあったしね
だって、こんなのすげえ疲れるもん……。優太……お前もすごいよ。その年齢でどんな体験してんだよ……

泣くポイントが「会えてよかった」じゃなくて「疲れる」なのは珍しいな。疲労に感動してるわけじゃないんだろうけど……
いや、もちろん、「会えてよかった」もあるよ? でも、この一瞬で直美の疲れる毎日が報われた気がして……それが本当に嬉しいんです……

「不幸」とか「悲劇」みたいな大袈裟な言葉だったら、ここまで刺さってないんだと思う。でも、リアルな生活の「疲れ」の話になると、それに引っ張られて、俺もしんどい気持ちになっちゃって……
そこまで共感できた直美が、ハッピーエンドを迎えたから、自分ごとのように嬉しくなったってこと? ……そういう単純なことでもないんだろうけど
うん。そういうことじゃなくて……。なんだろ……なんか、こう……。ごめん、俺もうまく説明できないんだけど……
だから……部屋に入ってきたママが、何も言わずに自分を抱きしめたときは、嬉しさよりも、驚きが勝った。

これってよく考えたら、ハッピーエンドじゃないでしょ。そもそも優太が家出しなければ、こんな思いもしなくてすんだし、この後も直美の疲れる毎日は続くわけでさ……
? ……まぁ、そういう捉え方をすると、そうかもね。劇的なシーンだけど、マイナスがゼロに戻っただけではあるのか
ここでのハッピーエンドって何かを考えると、お父さんが生き返ってみんな幸せに過ごしました……とか、宝くじに当たってお金の悩みが吹き飛びました……とか、そういう絶対手に入らないものを想像しちゃうんだよ
う〜ん、幸せの理想を言い始めるとキリがないのは分かるけど。もし、物語がそんな結末だったら、リアリティも納得感もないだろうしね
だから、ずっとしんどかったんです。俺も、「頑張ってる人がハッピーエンドになったら自分の未来も信じられる」とは言ったけど、心のどこかで「そんなことはあり得ないし、疲れっぱなしのまま妥協するしかない」って思ってたから

でも、疲れきった毎日の中でも、フワッと気持ちが明るくなる瞬間は確実にあるじゃん……。それなら信じられるよなぁ……
なるほど……。直美と優太の再会シーンに、その瞬間を感じたということか
たった一瞬だけど「このまま生きててもいいんだ」と思えることって、たしかにあるよな……と思って。その結果マイナスのままでも、「これを続けていれば、いつかプラスにつながるかも」って信じられるから……

そう言えば、俺の家が浸水したときも、そうだったな。あの頃は、ベッドも水没しちゃったから、慌てて災害用の簡易エアーベッドを買って、その場をしのいでたんだけどさ
でも、そんな状態なのに、太陽の光が気持ちよくて、変にすっきり目覚めた朝があったんだよ。そのとき、「いろいろ疲れるのに、いい朝を迎えられるのかよ」って自分でも笑っちゃって……
そのときの俺は、別に幸せになったわけでもないのに、「こういうことが続けば、いつか元の生活に戻れそう」って、すんなり信じられたんだよ

なんとなく分かったかも。みくのしんにとって、ハッピーエンドは遠すぎて現実味がないけど、そこに続く道が見える瞬間は実感できるってことか
うん……なんか……そういう感じかも。ハッピーエンドじゃなくて、ハッピー中間地点というか……。俺も、そういう瞬間に、何度も助けられてきた気がする……
正直、そんな深さまで感じ入るシーンだとは思ってなかったな。みくのしんだからこその読み方なんだろうけど

ごめんごめん。ずっと泣いててもしょうがないよな……。続きを読みましょう……
みくのしんの読書なんだから、好きなペースで読めばいいのに
メソメソ泣いてるおじさんばっか見せるわけにもいかないだろ。肝心のお話を先に進めないと……
「優ちゃん……よかった……よかった……生きててくれてよかった……」

もうダメだぁ……
引き続き、号泣じゃねえか
直美の声を聞いちゃったらダメです……。そうだなぁ……直美が一番疲れたよなぁ……
ママの涙声を聞きながら、優太もいつの間にか泣いていた。

俺も仲間にいれてくれ……。一緒に泣かせてくれ……
走れメロスのエンディングか?
お前ら最高だよ……。俺も事件を追ってきてよかった……
今野直美(4)
叱るつもりだった。
『心配かけるんじゃないわよ!』
『事故に遭ったらどうするの!』
『危ない人に攫われたらどうするの!』

そりゃ、そうですよ。優太までいなくなったら、直美は本当に一人ぼっちになっちゃうんだから
……しかし、すべての言葉は、優太の顔を見た瞬間、頭から消え去っていた。

それもそうなんです……。この瞬間があれば、それで十分なんです……
抱きしめることしかできなかった。
優太が生きている。それだけで幸せなのだと気づいた。

こんな幸せな終わり方になるとは思わなかった……。本当によかったね……。無事に会えて……
「いやあ、よかったですね。無事に会えて」

俺のセリフ書いてあんじゃん!!
どんだけ物語と呼吸が合ってんだよ
男性の言葉で、ようやく我に返った。

俺の言葉で直美が我に返ってる……。ここにきて、俺の言葉が届いてよかったです……
無粋なこと言って申し訳ないけど、これは霊園のスタッフのセリフだよ
うるせえ!!! これは俺だ!!!
「本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「全然いいんですよ。あ、そうだ。話は変わりますけど、優太くんのお母さんは何てお名前なんでしょうか?」
「名前……」
「はい。さっき調べましたら、こちらの霊園には『今野さん』という苗字のお墓が三つほどありまして、どれかわからなくて、まだ優太くんを案内できていないんですよね」

まだ、お母さんのお墓は見つけられてなかったんだね。まあ、霊園の人も分かんないし、しょうがないか
「……優太の母親の名前は……由紀……今野由紀です」

「ユキ」……なんだっけ、この名前。どこかで聞いたような気がするけど……
これは、第1章で登場する名前だね。今回は第2章だけ読んでるから、このお話の中では初登場の名前じゃないかな
なるほど! そういうことか! 第1章はだいぶ前に動画で観てたから、なんとなく覚えてたのかも
男性は、直美と優太を墓の前まで案内した。
『今野由紀之墓』
……この文字を見るのは、一周忌の法要以来、およそ五年ぶりだ。

直美は5年前から、このお墓を見てなかったのか。……でも、優太が最後にお墓参りに来たのは3年前じゃなかったっけ?
そのときは、お父さんと2人でお参りしてたけどね
あ〜、そっか……。じゃあ、あのときは直美にも内緒で来てたのかな………
『今野家之墓』としなかったのは、由紀を一人、この場所に置き去りにしたかったからだ。
二度と関わりを持ちたくなかった。
それほど、直美は由紀に怯えていた。いつも呪われているような気がしていた。

直美にとっては、いい思い出の場所ではないんだね。多分、優太をここに連れてきたこともないんだろうな
本人が「因縁の場所」って言ってたしね
再婚相手からするとそういうものなのかなぁ。俺にはそういう関係性は分からないけど……よっぽど仲が悪かったんだね
武司が死んだとき、電車で一時間もかかる遠い墓地を選んだのは、武司と由紀の魂が近づくことを恐れたからだ。
今だって、すぐにでも優太の手を引いてここから逃げ出したい。

めっちゃ怖がってるなぁ。ここまで言うってことは、関係性だけの話じゃないのかもね
まあ、単純な前妻と後妻の関係だったら、こうはならないだろうね
武司をめぐっていろいろあったんだろうな。それをあれこれ聞き出そうとするのも野暮な話か……
しかし、懐かしそうに墓を眺める優太の顔を見ると、そんなこと、できるはずもなかった。
どんなに忌々しくても、由紀はたった一人の、優太の母親なのだ。
直美は、小さな声でささやいた。
「優ちゃん、お墓におててを合わせて。そう。目をつむって、心の中でお話ししなさい」

その因縁が優太に飛び火してなくてよかったね。直美も、優太には普段から100%の愛情で接してるもんな
二人がさくら霊園を出たのは、午後2時過ぎだった。
「優ちゃん、これから保育園に行くよ。心配かけてごめんなさい、って二人で先生に謝ろうね」
「……うん」
直美には、もう一つ謝らなければいけないことがあった。

そっかそっか。春岡とも仲直りしなきゃいけないよね
電話越しにブチギレてからは、連絡できてないもんな
無事見つかったことも報告しなきゃいけないしね。春岡も心配してくれてるわけだし
先ほどは感情に任せて怒りを爆発させてしまったが、考えてみれば、春岡なりに優太のことを思って言ってくれたのだ。
これからも世話になる関係だ。ケンカしたままではいけない。
二人は手をつないで歩き出した。

ここを乗り越えてこそ、正真正銘のハッピーエンド! 直美も、早く家に帰りたいだろうけど、もう一息頑張ろう!
春岡美穂
大丈夫か……? 春岡もブチギレてる可能性あるから……
春岡に限って、そんなことはないんじゃない?
そう思うけどさ。でも、あの電話のあと、春岡がどう思ったかは聞いてないから……
「本当に、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
職員室で、直美は何度も頭を下げた。

直美からすると、優太の家出騒動と電話の態度とで、二重に謝らなきゃいけないもんな
春岡も、あの電話以来、ずっと気に病んでいたことを伝えた。
「こちらこそ、勝手な思い込みで失礼なことを言ってしまい、すみませんでした」

どっちも大人だなぁ〜! お前ら、2人ともいい奴だよ……!!
春岡も春岡で、「虐待」呼ばわりしたことを謝りたかったんだろうね
これで、もう心残りは何もないですね!! いろんなことがあったのに、こんなに爽やかな後味で終わるのが嬉しいよ
「そんな……もとはといえば、私の責任です。……ほら、優太も先生にごめんなさいって言わなきゃ」
「……先生、ごめんなさい」
優太は小さな頭をペコリと下げる。

いいねえ〜! もうエンディングテーマ流れてそう!! もう、この3人がペコペコしあってる姿にスタッフロールがかぶって見えるもんな!!
「いいんだよ、優太くん。でもね、もうママに黙って一人でおでかけしちゃダメだよ」
厳しい口調で言うつもりが、最後のほうは声が震えてしまった。

みんないい人でよかった!!!
直美も優太も、ひどく疲れているらしく、今日はそのまま帰ることになった。

2人とも疲れたよな〜! 俺も、すっげぇ疲れたもん。お前らが頑張ってるの見てたからさぁ……
あんなに大はしゃぎして読んでたら、そりゃ疲れるだろう
2人も今日はあっついお風呂に入るだろうし、布団に入ったらスッと寝れるんだろうな……

明日も遅刻確定!!!!!
勝手に寝坊をスケジュールに入れるなよ
今日はもう、誰にも邪魔されずにぐっすり寝てくれ!!! 明日が土曜日でありますように!!!!
春岡は二人を門まで送り届けた。
「それじゃあ、優太くん。また明日ね。バイバイ!」
「先生、バイバイ!」
手をつないで歩いていく二人を、春岡は穏やかな気持ちで見送った。

めっちゃハッピーエンドじゃん。夕焼けの街を2人が歩いててさ……直美が「外食しちゃおっか」つって、優太が「うん」って頷いて画面がフェードアウトする映像が見えるわ……
毎回、感心するけど、そこまで具体的なイメージが見えてるんだね。どこまでも映像的な感覚で文章を読む男だなぁ
で、急に大きい音で「来週の金曜ロードショーは?」ってナレーションが入って、俺が慌ててテレビの音量を下げるところまで見える!!
テレビで観てた気分だったんだ
あんなに仲のいい二人に限って、虐待なんてあるはずがない。
「私もまだまだだな……」
独り言のようにつぶやく。

春岡もまだ若いからね。こういうのを積み重ねて、ベテランになっていくんだろうな
保育室に戻る途中、廊下で磯崎に声をかけられた。
「春岡先生! 優太くん、見つかったんだってね。よかったじゃん」

いや、ほんとによかったよ〜!! 磯崎が別クラスを担当してる間、こっちはマジで大変だったんだから!
「はい!今日は朝からご心配かけました」
「いやいや、私なんてなーんにも協力できなくてごめんね!」

そんなこと言うなって! 磯崎もちゃんと力になってたって!
磯崎の一言で、「あのグチャグチャは修正した跡だった」って分かったわけだしね
物語のメイン役ではなかったけどさ! 打ち上げがあったら絶対呼ぶから!
「それで、二人はもう帰ったの?
優太くんとおばあちゃん」

うん……?

おばあちゃん???
「それで、二人はもう帰ったの?
優太くんとおばあちゃん」

このおばあちゃんって誰ですか??????
直美のことでしょ
直美はママだろ???? おばあちゃんって……え?? は??? 直美って何者?????

なんで俺は直美のことを二度も見失うんだよ!!!!!
「お母さん」だと思ってたら、実は「ママ」で。「ママ」だと思ってたら、次は「おばあちゃん」って言われてるもんね
どうなってんだよ!!! 家系図であみだくじでもやってんのか!??!
二転三転する物語で、ここまで転がされる奴もなかなかいないだろ
春岡は一瞬、返答に詰まった。
そのとき、会話を聞きつけたらしく、保育室から美羽が駆け出してきて、磯崎に抗議した。

美羽、頼む! 説明してくれ!!
園児に助けを求めるな
もう頼りになるのはお前しかいない!!! 解決してくれ!!!!
「イソザキ先生! 違うよ!
『おばあちゃん』じゃなくて、優太くんの『ママ』だよ!」

そうだよね? やっぱ、磯崎が言ってることが変だよね?
「ママ? でも……」
不思議がる磯崎に、春岡は事情を説明しようとした。

もう、地の文で「おばあちゃんではなかった」って書くんじゃない? いっそ「すみません。さっきのは書き間違いでした。お詫びして訂正します」って書いてくれよ
ミステリーで「読者への挑戦状」は見たことあるけど、「謝罪状」は見たことないな
しかし、どうやって今野家の複雑な家庭環境を伝えるべきか迷う。

まあ、複雑なのは間違いないよな。『お母さん』は亡くなってて、再婚した直美が『ママ』になってるってことでしょ?
……。
でも、それが、どうなったら『おばあちゃん』になるんだよ。わけ分かんないって
春岡の様子を見て、美羽が『やれやれ』という感じで助け船を出した。
どこで覚えたのか、大人びた言葉で、しかし、あまりにも簡潔にすべてを言い表した。

ぉ……わ……!!
なんちゅう顔してんだよ
次の行に何か一言書いてあるんだけど……

怖ぇ〜!!! 何て書いてあるんだろう?!?!
指で隠しながら読んでんの? 器用なことしてるなぁ
こうしないと、勝手に次の文字が目に入っちゃうだろ!!

せっかくだったら、「せ〜のっ!」で読みたいでしょ! ヌルっと読んじゃったらもったいないって!!
だからって、その答えが「指で隠しながら一文字ずつ読む」になるとはね
だって、美羽が「簡潔にすべてを言い表した」んだよ……? 何を言うか気になるじゃん……!!

いい……? 読むよ……?



バカラでトランプ絞ってんじゃねえんだぞ
「あのね、イソザキ先生。」

うぉお……何かすげえこと言おうとしてる……!!!!

「そ」!? 「そ」って何!??!

いい!? もう見るよ!??!

見るぞ!!!!!!!



「それぞれ色々あるんだよ」

そりゃそうだよな

ヒヤヒヤした〜!! なんかもっととんでもないこと言い出すんじゃないかと思った
何を言い出すと思ってたんだよ
指の下から「そいつは、おじいさんだよ」とか出てきたら、どうしようとか思ってたわ!!
そこまでいったら、もうめちゃくちゃだろう

まあ、直美がちょっと老けてるからってこの幸せは崩れないもんね。ハッピーエンドの後にクスッとさせるオチがついた……みたいなもんか!
……。
磯崎も、最後の最後に変なこと言うなよ〜! あいつ、打ち上げで説教しなきゃいけないな
その打ち上げ、どこでやるつもりなの?
今野直美
その夜、直美は洗面所の鏡の前に立ち、今日一日、すっぴんで過ごしたことに気がついた。
朝起きてから、優太を捜すのに必死で、化粧などしている余裕もなかったのだ。

なるほど! お化粧してる余裕もなかったのか!
起きてすぐに優太の失踪に気付いてからは、ノンストップで走り回ってただろうしね
磯崎も、すっぴんの女性をおばあちゃん呼ばわりは失礼すぎるだろ! 直美本人に聞かれなくてよかったね
仕方がないとはいえ、この顔をたくさんの人に見られたのはショックだ。
同年代と比べて、あまりに老けていることを直美は自覚していた。

そう言うなって。マジのおばあちゃんってわけでもあるまいし
まるで老婆のようだ。

???
とても64歳とは思えない。

マジのおばあちゃんなの????
うん。直美はおばあちゃんです
え?!? 最初から?!!? ずっと直美は64歳だったの??!!? 俺と同世代じゃなかったっけ!??!

嘘だろ……。おばあちゃんなんて……そんなこと一言も言ってなかったじゃん!!!
「若い」とも言ってないからね。みくのしんが勝手に「若いお母さん」だと思い込んでただけだよ
何これ……?! 何この……すげえなぁ!! もぉ!! 俺はずっと直美のこと読んでたのに、一度も見たことはなかったのか!!!
小説は文字しか情報がないから、こういう大仕掛けができるんだよ。いわゆる「叙述トリック」ってやつだね
叙述トリック……! 単語は知ってるけど、内容はイマイチ分かってないやつだ
※「叙述トリック」とは……
文章の「見せ方」や「語り方」を工夫することで、読者に「何かしらの思い込み」を作り上げて、真実を覆い隠すという技法。
・まるで男性のように描かれていたが、実は女性だった。
・まるで同一人物のように描かれてたが、実は別人だった。
など、重要な情報をあえて明言しないことで、「作者」が「読者」を騙す試み。
要するに、俺は、作者の雨穴に「直美は若いお母さん世代」だと思い込まされてたってことか……。まんまと騙された……。こんなの映画でもドラマでも見たことなかったから……
実際、どうだった? 今まで同世代だと思いこんでた直美が、突然「実は64歳だった」って事実が明らかになったわけだけど
いや……そりゃもう……

今まで、タメ口つかってごめんなさいって思った
まず思うことがそれかよ
あと、「俺しか驚いてない」ってのがすごいね! 春岡も優太も、みんな当たり前に知ってたことを、俺だけが知らなかったってことでしょ?
たしかに、叙述トリックの衝撃って登場人物は知る由もないもんな
こんなにビックリしてるのに、誰にも共有できないし、俺だけの驚きになってるってのが……なんかすごく嬉しいし、ちょっと寂しかったな

なんかこう……サプライズで誕生日を祝ってもらったときに似てるのかも。純粋に「え〜! 全然気づかなかった!」って驚きと、「俺も仲間に入りたかった」って寂しさがあるのかな
珍しい感想だなぁ。みくのしんは登場人物の一員になったように、没頭して読んでるからそういう感覚になるんだろうね
それにしても、ビビったな……。これって、オモコロでもできないのかな
俺が本を読む記事だって、文字でできてるわけじゃん。じゃあ、叙述トリックを仕掛けたりできるんじゃない?
無邪気な顔して、とんでもないこと言ってんな。でも、まぁ……できないことはないんじゃないかな

マジ? もし、できるなら読んでみたいけど……どうやったら叙述トリックになるの?
例えば……今ここには3人いるけど、記事の書き方を工夫して、この場に2人しかいないように見せかけたりはできると思う
ここに、俺とかまどしかいないように思い込ませるってこと? そんなことできんの?
できないことはないと思うけどなぁ……

雨穴はどう思う? そんなことって可能なの?



かなり大変だけどできる気はします。WEB記事には無限の可能性があるので。……まあ、書くのはかまどさんですが
できるんだ……。最初からず〜っと雨穴は一緒にいたのに?
この本を読み始めてから、かれこれ5時間は一緒ですもんね
それはマジでごめん
大丈夫ですよ。仮面をかぶり続けたせいで、酸欠で朦朧としてますけど大丈夫です
それはもう大丈夫じゃないだろ
マジでごめんとしか言えないわ
とあるジャンルって何? 俺が本を知らないのをいいことに、とんでもないものを読ませようとしてる?
ジャンル名がネタバレになることがあるからね。今の段階では伏せたほうがいいと思って
前情報があると、それに引っ張られることもありますしね。まっさらな状態で読んでいただけたら嬉しいです
事前にそう言われると、いろいろ考えちゃうな。「コメディだと思ったら実はホラーだった」みたいなこと起きそう……
例えば、今日の読書風景をそのまま書いたら、「みくのしん・雨穴・カメラマンのかまど」の3人が話してる記事になるでしょ?
そりゃそうだよね。雨穴をいなかったことにはできないでしょ
でも……
とあるジャンルって何? 俺が本を知らないのをいいことに、とんでもないものを読ませようとしてる?
ジャンル名がネタバレになることがあるからね。今の段階では伏せたほうがいいと思って
事前にそう言われると、いろいろ考えちゃうな。「コメディだと思ったら実はホラーだった」みたいなこと起きそう……
雨穴が映らないように写真を切り取ったり、雨穴のセリフと俺たちの相槌をあえて伏せるように書けば、「この場に雨穴はいない」と誤認させることはできると思う
なんかズルくない? そんなの読んでる人は気付きようがないじゃん
まあね。ヒントがなかったり、読み返すと破綻してる叙述トリックは「アンフェアだ」なんて言われがちだし
なので、読み返したときに、「その気になれば、ここで気付けたのか!」と思えるような仕掛けを作ってる作品が多いんですよ
え〜? この「変な絵」にも、そういうヒントあった? 自分で言うのもなんだけど、かなり時間かけて読んできたから、ヒントがあったら気付くと思うんだけど……

思い返してみて、どうですか? みくのしんさんはここまで読んでいて何か違和感とかありませんでしたか?
違和感も何も……。変な絵とか、推理そのものに気を取られて全然意識してなかったな……
そうなんだ。横で見てた分には、ところどころで、「あ、気付いたかも……」って緊張する瞬間あったけどなぁ
あ! そういえば、直美が「私が小さい頃は、親が子供を殴るのは当たり前だった」って話してたよね。今思うと、あれおかしいよな! 感覚が古すぎるもん!
直美もツラい幼少期だったんだね。だからこそ、自分もそんな母親と同じ扱いをされたのがめっちゃイヤだったのか
令和の今と比べたら、子どもに手を出すことも珍しくなかった時代だしね
そうは言うけど、俺たちの子どもの頃も、すでに「体罰はダメでしょ」って雰囲気じゃなかった? 俺、親から叩かれた記憶ないもん
あのときは、30歳代だと思って読んでたから、「ん?」と思ったけど。直美が64歳だとしたら、この感覚はおかしくないよね
そういえば、あのときのかまどさん、口が滑りそうになってましたよね
うん。俺はもう直美がおばあちゃんだと知ってるから、うっかり「その世代では当たり前だった」という感覚でしゃべっちゃった
全然気付かなかった……。「直美の家は厳しかったんだな〜」って勝手に納得しちゃってたな
俺は、みくのしんの初めての叙述トリック体験を台無しにしたかもしれないと思って、心臓が止まりそうだったよ

すげえなぁ……。「読み返したときに気付けるように」って言うけど、それが最初から気付かれたらおしまいじゃない?
そうなんですよ……。なので、初稿ではかなり遠回しにヒントを出していたんですが、編集者から「基本、読者は細かい情報は読み飛ばすから、気づかれないですよ」とアドバイスをいただいて、大胆に書きなおしたりもしました
実際、俺も初見では気づけなかったもんな〜。作中で、「ここを注意深く読んでたら分かったかも」って大ヒントになってる箇所とかあるの?
一番は管理人のおじさんとのやりとりですね
あぁ〜あの嫌な奴? 優太がいなくなったのに最悪な態度をとってた……
「あの、失礼します。602号室に住んでいる今野と申します。
今朝、うちの息子が一人でどこかに行ってしまったみたいで……。防犯カメラの映像を見せていただけませんか?」
直美の顔をちらりと見ると、管理人は面倒くさそうに言った。
「いいけど……うちのマンション、管理費が低いんで防犯カメラは、そこの入口にしか付けてないんですよ。それでもいいですか?」

そっか! 64歳のおばあちゃんが「息子が一人でどこかに行った」と言っても、そりゃ「あぁ、そっすか」って反応になるよな! 管理人からしたら、おっさんが一人で出かけただけに聞こえるもんな
ここはかなりスレスレのシーンだよな〜。俺も、最初に読んだときは「監視カメラの情報」に気を取られて、全然気付いてなかったけど
みくのしんさんは「なんだ、こいつの態度は!」と怒ってたので、さすがに違和感があったのかなと思いましたが……
いや、てっきりただの嫌な奴なのかと……。管理人も、6歳の子どもとは思わなかったのか。そうとは知らずに、態度悪いとか言ってごめん!
「……そうですか。こんなに小さいお子さんなんですね。
そりゃあ心配だ。警察に電話しましょうか?」

監視カメラを見て、小さい子どもだと分かってからは、おじさんも親切な対応をとるようになってるんです
こういう箇所があると、読み返したときに「ちゃんと書いてある!」と思えて、叙述トリックの満足度があがるよね
なんかおかしいとは思ってたんだけどな〜! でも、ここで「さてはおばあちゃんなのでは?」とまでは思えないよな〜!
私もドキドキしながら聞いてましたけど、みくのしんさんの管理会社に対する恨みのほうが強かったので、なんとか見逃してもらえました

個人的に、「みくのしんが初めて叙述トリックに出会う瞬間にはぜひ立ち会いたい」と思ってたんだよ。みくのしんの読書って「文章を読みながら、具体的に映像をイメージする」でしょ? 視覚的な感覚で本を読んでいるというか……
そうじゃないと本が読めないからね。一回、映像にしないと文字が頭に入っていかないんだよな
それはそれでいいと思うよ。でも、だからこそ、文字を映像化しながら読むみくのしんが、映像化不可能の叙述トリックと出会ったらどう読むのかがずっと気になってて
……で、たまたま、私がその手の作品を書いたことがありまして。いつかみくのしんさんに読んでほしいと思っていたので「じゃあ、この『変な絵 第2章』はいかがですか?」と、かまどさんに提案したんです
そういうことか。お前らグルだったのかよ
グルって言い方があるかよ

実際、どう感じました? 叙述トリック、初見の衝撃って私はもう覚えていないので、ぜひみくのしんさんの話を聞いてみたいです
勝手なイメージだけど、急に直美が別人になったりするのかな。みくのしんの中で、演じる人が変わるというか、作画が変わるというか
う〜ん。そう言われると……なんか不思議なんだけど、映像は全く浮かんでなかったなぁ。今そう聞かれて、ようやく「あ、頭の中で映像にするの難しいな」って気付いたくらいで
さすがのみくのしんでも、具体的な映像をイメージするのは難しいのか。実写化不可能なトリックだし、そりゃそうか

なんだろうね、この感覚。言葉にするのは難しいけど……人と話してるときの感覚に近いかも? 言葉として分かってるから、わざわざ映像化する必要もないというか
まあ、「おはよう」って言われたときに、朝日をイメージしなくても「おはよう」って伝わるもんな
あ〜! そうそう! そんな感じ!

それと似てる感覚なんだよな〜。読んだ文字を、そのまま言葉として頭の中に入れてるというか。それで理解してるから、映像にしなくていいというか
……?
……?
……なに?
いや、なんかその……
みんな、それを「読書」と呼んでるんじゃないの?

え? これが?
聞いている分には、一般的な読み方だなとは思いましたが……
この数年、みくのしんの読書にずっと付き合ってきたけど……「文字を読んでも、文字にしか見えない」「一度映像にしないと頭に入ってこない」って言ってたのに……
いやいや! そりゃたしかに、いつもだったら映像にしないと頭に入ってこないけどさ。今はそんなことしてる場合じゃないだろ!
同年代と比べて、あまりに老けていることを直美は自覚していた。
まるで老婆のようだ。とても64歳とは思えない。
だって、この文章はそれが通じないんだから。これで文字を読みながら、頭の中で映像化するなんて……そんな器用なことできたらビックリするって
俺はそれをずっと言ってたんだよ
叙述トリックを通して「読書」にたどり着いた……?
そっかぁ、「これ」が読書なんだ。まさか、こんなところで出会うことになるとはな……

でも、みんなは全部の文章で「これ」をやってるんだね。それは無理だな〜! そんなの、目隠しのまま外を歩くみたいなものじゃん
文字を読むこと自体には、相変わらずそういう感覚があるんだね。劇的に読み方が変わった……ってわけでもないのか
だって、意味は分かるけど、イメージは見えないからね。ずっとこのままだったら、さすがに不安になるし、何も見えないまま読み続けることはできないと思う
そのままでもいいと思いますよ。むしろ私は「文章から世界を想像する」というのが苦手なので、みくのしんさんはすごいなと思っていたんです
それでも叙述トリックの1行分くらいは、文字を文字として読めるようになったわけだしね
なにそれ。特殊能力みたい

なんにしろ、「みくのしんが叙述トリックを読むと、読書になる」ということが分かったよ。自分でも言っててよく分かんないけど
すごいなぁ〜。この本を読んでる間にいろんなこと起こりすぎじゃない?
こっちのセリフだろ
でも、まだ肝心の「変な絵」は読み終わってないからね。これは、まだ続くよね?
はい。もう後は、エピローグのようなものですから。もう少しだけお付き合いください
寝室をのぞくと、優太はすでに寝息を立てていた。
相当疲れたのだろう。直美も同じだった。
リビングに戻り、ソファに腰掛ける。
長い一日だった。

本当に長かったね〜! この一日だけで、いろんなものが何度も何度もひっくり返されてきたもんな
なんせ俺たちですら、派手にひっくり返されたからな
お疲れ様でした。本当に、全員お疲れ様でした!
仏壇に目をやる。
写真立ての中で微笑む息子に向かって、直美はつぶやいた。
「武ちゃん……今日ね、あの人のお墓に行ってきたの」

この「武ちゃん」ってのも、夫じゃなくて、息子のことだったんだね
そうですね。どちらにしても違和感のない言い方ではありますから
種明かしされた今なら、全部意味が分かるのに……。すっかり騙されてたな
由紀……二度と耳にしたくない名前だった。
武司の妻。そして、直美の義理の娘。

でも、これでようやく全員の関係性がわかったね! 直美は、母親代わりになってるおばあちゃんで、武司の再婚相手じゃなかったのか!
普通は「再婚相手」と考えますよね。そこを逆手に取りました
たしかに、美羽の言う通り「それぞれ色々あるんだよ」状態だな!

よくここまで真相を隠しながら書けたな!! なんで最後までバレなかったんだよ!!
努力……ですかね。でも、みくのしんさんは一文ずつ噛みしめるように読むので「もしかしたらバレるかもな」と覚悟していたんですが、なんとか隠し通せました
携帯電話を取り出し、とあるウェブサイトにアクセスする。
生前、武司がやっていたブログだ。
『インターネットで個人情報を出すのは危ない』
直美の言いつけを守り、武司は本名ではなくハンドルネームを使っていた。

ブログ……これは第1章の話かな? 今回の事件とは直接関係ない話だよね?
そうですね。ここも、続けて読んでいたら、ちょっとしたアハ体験ができる仕掛けです
『レン』……どうしてそんな名前にしたのか聞くと、武司は恥ずかしそうに教えてくれた。
『これにはある仕掛けがあるんだ。僕の名前を……』

こうなってくると、第1章から読み直したくなるなぁ
ぜひぜひ! 伏線たっぷり用意してますので、たんとお読みください
ピンポーン。

……!!!
思い出に浸っていた直美を現実に呼び戻すように、インターホンが鳴った。
時計を見ると、10時を過ぎている。
こんな時間に来客など、おかしい。

これって……
背筋が冷たくなる。
足音を忍ばせ、玄関に行き、ドアスコープをのぞく。

あいつ来たんじゃない???
あいつ……というと、あの「直美たちを付け狙っていた男」のことですよね
ハッピーエンドすぎてすっかり忘れてた……! そう言えば、この不審者の問題が片付いてない……!!
ドアの前には、灰色のコートの男が立っていた。

来てんじゃん……!!!
(ついに……部屋まで……)

こんなのもう64歳には無理ですよ……。直美さんは横になっててください……
いつの間にか、直美を労るような読み方になってるな
今までは、同い年くらいの感覚だったから……。でも、俺の母さんと同世代って考えたら、これ以上無理させられないだろ
この男が誰で、何のために直美たちをつけ狙うのか、わからない。
しかし、放っておけば、優太に危害が及ぶ可能性は高い。
その前に、なんとかしなければ。

こうなっても、まだ警察呼ばないつもりなの? 直美、お前何があったんだよ???
そういえば、「直美が警察を頼れない事情」については、まだ明かされてないよな
なんで隠すんだよ。こっちは、もう年齢まで知っちゃってるんだから、それくらい教えてくれてもいいだろ
直美は、すり足で玄関から離れ、寝室のドアをそっと閉めた。
そして台所に向かい、握りしめた包丁を体の後ろに隠した。

包丁???
……。
どの方向に思い切ってんだよ。それで何しようとしてんの???
「はーい、今開けまーす」
わざとらしく明るい声を出し、今度は足音を気にせず玄関に向かった。

声色、怖……ッ! わざとよそ行きの声を出して、油断させようとしてんじゃん……
ドアチェーンを外し、鍵を開ける。

なんでこっちから開けるんだよ……。急に直美が何を考えてるのか分かんなくなった……。最初からこいつとグルだったってこと?
どうだろうね。でも、グルだったら、あんなに必死になって逃げたりしてないんじゃない?
そうだけど……じゃあ今、この場面を誰かに見られたらどうすんの? 「あいつ、怪しい男を家にあげてたぞ」って思われたら、直美も疑われることにならない?
「うちのマンション、管理費が低いんで防犯カメラは、そこの入口にしか付けてないんですよ」

あのバカ……
さっきは管理人もいい奴だったって言ってたのに
前言撤回だろ……。あの管理人め、余計なこと言いやがって……
廊下にカメラはない。

直美に余計な情報を教えんなよ!!!!!
今、この部屋の前に男がいることは、本人と直美以外には知られていない……ということですね
そんなこと直美は知らなくてよかっただろ!!! そのせいで、変な方向に思い切っちゃったじゃん!!!
ゆっくりドアを開ける。
目の前の男は、体はそこまで大きくないが、異様な威圧感があった。
直美は足がすくみそうになる。しかし、負けてはいけない。

そういうことか……。直美はこいつに立ち向かおうとしてるんだ……!
無理に笑顔を作り、男に言った。

無理に笑顔作ってるなぁ
「どうぞ、お入りください」

なんで普通に部屋に入れるの? この2人は顔見知りってこと?
……。
そもそも、直美はこの不審者とつながりがあって……だから、警察に通報できなかったってことなのか……?
男は従うように、玄関に入ってくる。

揉めたりもしないんだね。やっぱり初対面じゃないのかな
どうだろうね。少なくとも、お互いに「何か」を知ってそうではあるけども
ドアが閉まる。
今、この部屋で何が起きたとしても、誰も見ていない。

優太は……? この家にはもう一人いるだろ!?
もう遅い時間ですし、寝室で寝てるんでしょうね
いやでも! 寝てるとはいえ、孫の近くで物騒なことしないほうがいいって! もうこれ以上、優太に何も背負わせるなよ!
直美は隠した包丁を、男に突き付けた。

なるほどね。「これ以上つきまとわないでください」って警告するんだ
わっ。目の前に包丁を突きつけられると怖いですね
自分で書いといて何を言う
男は動じない。刃先を前に、無言で直立を続けている。
直美は不気味に感じた。

いや……直美もたいがい不気味なんだけど……
男の目的がわからない。
これから何をするつもりなのかも……。

あなたもそうですよ?
あんなに一心同体だった直美を信用できなくなってしまった
急にどうしたんですか?? もうハッピーエンドでよかったのに、これ以上何をやろうというんですか???
だが、やるなら今しかない。

やるんだ……
決意まで時間はかからなかった。
包丁を両手で握りしめ、男に向かって突進した。

……。

……!!!
格闘になると思っていた。
しかし意外にも、相手は抵抗しなかった。

……なるほど。じゃあ現実として、ここに男がいるんだね
幻覚だと思ってたんですか?
もしかしたら、そういうこともあるのかなって……。「全部直美の妄想で、この男は実在しないのでは?」とか思ってたけど……
俺も最初読んだときはそう思ったな。直美しかこいつの話をしないから、いかにも被害妄想っぽいな……と思って
そういうミステリー作品もありますよね。なので、あえてそういう疑念を持ってもらうために色々工夫しました。直美以外の人物はこの男に言及しない、とか
二重三重にトリックを仕込んでるんだ……。すげえなぁ……
包丁の刺さった腹からあふれ出す血を手で押さえながら、男は苦しそうに倒れる。

てか、刺されてんだけど???
事件を目撃したギャル?
こんなことしたら、もう本当に警察に頼れない生活になっちゃうだろ!??
フードがめくれ、顔があらわになった。

誰? 誰!? 誰!?
しわだらけの、初老の男の顔だった。

マジで誰???
その顔を、直美はどこかで見たことがあった。

米沢パパ……? でも、初老ってことは、あの管理人の可能性も……
しかし、どうしても思い出せない。

焦らすなぁ……
第二章「部屋を覆う、もやの絵」おわり

ええぇええ!?? すげえところで終わったんだけど!!!
はい。第2章はここで終わりです。この先の真相については、第3章以降を読んでいただければ……


読み終わってお互いに拍手をおくる2人
ということで、みくのしんの読書はここで終了しました。
読了までにかかった時間は、5時間以上。ここまで読んでくださったみなさんも本当にありがとうございました!

面白すぎる。いまどきの小説って、ここまでのものを作らないといけないの?
よかった……。みくのしんさんって、この「読書シリーズ」を通して、数々の純文学作品と真剣に向き合ってきたじゃないですか。文学に対する見識はかなり深まっていると思うんです。そんなみくのしんさんから「面白い」って言っていただけたのは光栄ですし……ホッとしました
こんなの……読む方は簡単だよ? でも、これを作る側はどんだけ大変なんだよ
「読む方は簡単」って言えるようになったんだ。ちょっと前まで本が読めなかったのに、すごい成長っぷりだな

面白かったけど、ここまで全部無料で公開しちゃっていいの? 第1章は動画でも観れるから、これで半分くらい出しちゃったことにならない?
むしろ、ここまでしかお見せできなくてすみません。宣伝のようになったら嫌ですが、ここからもっと面白くなるんです!……いえ、この際だから宣伝させてください! ここから! もっともっと! 面白くなります……!!
そこまで言わなくても読むって。直美をこのままにして終われないもん
「変な絵」全体のストーリーでいうと、まだ半分も終わってないよね。なんなら、「ここから『変な絵』が始まる」って言ってもいいくらいだと思う
第1章と2章はあくまで「短編」ですが、第3章からは「変な絵」という大きな一つの物語になっていきますよ
これが最後には、キレイに一つにまとまるのか。……文字ってそんなレゴブロックみたいに、カンタンに組み合わせられるものだっけ???

叙述トリックも初めての体験だったな。俺も、いろいろ本を読んできたけど、まだまだ知らない面白があるとはね
私も、叙述トリックの味を覚えたときは、そればかり読んでいました。ジャンルの開拓も、読書の楽しさのひとつですよね
それでいうと、他にも読んでほしいジャンルはいっぱいあるけどね。SFとか恋愛とかホラーとか……
今のところは、「叙述トリックをもっと読んでみたい」って思うな〜。この経験を活かして、次こそは見破ってやりたい

そもそも、この「変な絵」が映像作品っぽかったんだよな〜。読んでて、物語のイメージがすぐ浮かんでくるから、まんまと騙されちゃった
もしかしたら、それも叙述トリックを成立させる大きな要素なのかもね。まず映像としてイメージしやすい作品だからこそ、映像化できないような叙述トリックが刺さるのか
これも、「変な家」みたいに映画になったりするのかな。そしたら、「俺は原作から読んでたんだぜ」って自慢できるね
どうだろう。この作品を映像化するのは相当難しいと思うけど
今この本のコミカライズが連載中なんですが「例のシーン」をすごく見事にビジュアル化していただいたんです。「漫画だとこういう見せ方ができるのか」と感動したんですが、実写映像だとたしかに難しいですよね

そっか……! これを映像で見てたら、最初から「おばあちゃん」って分かるから、成立しないのか
映像化してる例もあるにはあるけど、それでも叙述トリック自体の驚きを再現するのは至難の業だからな〜
こんなに面白いのに、映像化できないってひどくない? 本が読めなかったら、これが楽しめないなんてもったいなさすぎるだろ
なので、できるだけ多くの人に読んでもらえるように頑張りました
カンタンに言うなぁ。そんな一言で済むような頑張りじゃなかったはずなのに……本当に「本」って贅沢品なんだな

本当に、書いてくれてありがとうございます
いえいえ、今回は私のわがままを聞いてくださり、ありがとうございます。今日の思い出を家宝にします

以上、みくのしんの初めての『叙述トリック』でした。
とてもとても長い記事でしたが、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

雨穴の「変な絵」は大好評発売中です。
作者の雨穴が言う通り、「ここから! もっともっと! 面白く」なるので、この機会にぜひチェックしてみてください。
……さて。
この記事では、演出の都合上、みくのしんとかまどの会話だけでお送りしていましたが、実はずっと雨穴が一緒でした。
その道中では、たくさんの見どころがあったのですが、雨穴の存在を伏せるために、泣く泣くカットしています。
雨穴もいっぱい話してくれたのに、申し訳ない……。

なので、次ページに「雨穴がいるver.」をご用意しました。
雨穴の存在を伏せることなく、はじめから「みくのしん・雨穴・かまど」の3人でお送りしています。
みくのしんの読書内容自体は変わりませんが、各所に雨穴のセリフを追加し、3人のやりとりも書き足しました。
・雨穴視点のコメント
・制作上の裏話
・途中でトリックが見破られそうになって焦る様子
・友人同士の他愛もない会話
など、このページではお届けしきれなかったシーンがお見せできると思います。
自分の本を真横で読みあげられて、照れたり焦ったりする雨穴をぜひご覧ください。

「もう一度、読み返したくなる作品」って、ありますよね。
しかし、そう言いつつも、同じ内容をもう一度読み返すのは、なんだかんだで後回しにしちゃいがち。
そこに込められた作者のこだわりや、張り巡らされた伏線。そして、それらを読んだときの”自分”と出会うことなく、本を閉じる──そんなことも珍しくありません。
本当は、もう一度読んでほしい。
でも、この忙しい毎日を生きる人々に、「同じものをもう一回読んで!」とは、なかなか言いにくい。
なので、今日は、同じ内容にちょっとだけ味変を加えたバージョンをご用意しました。
あなたの「もう一度、読み返したい」という気持ちを、そっと後押しできていたら幸いです。
もちろん、とてもとても長い記事になりますので、お時間に余裕のあるときにどうぞ。

かまど
みくのしん
雨穴

















