太郎は、寄せては返す白波を眺めていた。蟹と。
へんぽん、というか、つくねん、というか、そのような佇まいであった。
昨日、今日の境目もなく、ただひたすら無為に時を過ごしていた。今現在の言葉で表せばいわゆる「ニート」であって、周囲からは「ごくつぶし」「雑巾」「人蟋蟀(ひとこおろぎ)」などと呼ばれて蔑まれていたが、どこ吹く風であった。海辺の集落に生まれ、通常であれば水産業に従事、イワシを獲ったり小エビを獲ったりしたのを売り捌いて糊口をしのいでいるところ、太郎は自分一人が死ぬるまで生きていければいいさ、と家に財産を納めることもせずに、父母兄弟の獲ってくる海産物を食って働かずに過ごしていた。体たらくだった。
全く呑気もいいところだったが、現代のように「こんなことをしている場合ではない」というような焦燥感とは無縁の時代であったので、「生きていければそれでよし」と考えるのもそれはそれで至極まっとうであり、食うわ食わざるやの状況に陥ってから本気を出せばいいや、と考える人間も広い日本(という呼び名が生まれる遥か前の話であるが)には少なからず存在していたし、周囲に甘えられるうちは甘えられるだけ甘え、蜜を吸い尽くしたのちに別のコミュニティに移動するパラサイトもいるにはいたのだった。
太郎もその典型的な一例であった。将来のビジョンなんぞいっさい見据えていなかった。将来のビジョンを見据えている人間のほうがむしろ少なかったのだが。ともかく、毎日を鷹揚に過ごしていた。
或る日、例のごとく昼過ぎにのっそりと目覚め、少し離れた浜まで出てみるか、と足を伸ばして波打ち際で蟹と戯れていたところ、離れたところから騒がしい声が聞こえてきた。太郎はちらりと声のする方向を向いた。
「目障りなんだよお前は!俺たちの縄張りでうろつくんじゃない」
複数人の若者が、寄ってたかって海亀を流木で殴ったり、甲羅を踏んづけたりとやりたい放題しているのだった。こいつらも暇である。亀を殴るな。働け馬鹿者共。
亀を囲んで袋叩きにするような頭のおかしい連中と関わり合いたくない太郎は見て見ぬふりをしつつ家に帰ろうとしたのだが、運悪く輩のひとりと目が合ってしまった。
「おい、お前。何か用でもあるのかよ」
「うん?いや、近くを通っただけだよ。ぜんぜん君たちに用事なんかないよ。ぜんぜん」
「近くを通っただけ?なんでだよ。俺たちのこと知らねえの?」
「知っているような。知らないような。知らない、といえば嘘になるというか。ともかく俺はずらからせていただきますから、どうぞ続きを」
雰囲気が悪いな。いかん、脱兎のごとく逃げるのみだ。と、太郎は右側の足底腱膜に力を込めた。
「あれ?お前、太郎じゃねえか?」
うちの大柄な一人が、まじまじと太郎を見つめながら近寄ってきた。
「うわ。三次くんじゃん。久しぶり!」
幼少の頃、太郎の村から何処かへと家ごと移り住んで以来会っていなかった、三次だった。
「なにしてんの?全然連絡くれないじゃん」
「いや、なにもしてないんだよそれが。笑っちゃうことに」
「笑ってる場合じゃねえだろ。相変わらずだな太郎は」
三次は大きな口を開けて野放図に笑った。太郎はこの三次の暴力性に内心は恐れ慄いていたのであるが、「やる時は俺もやるよ」感をいい具合に醸し出すことにより力関係の対等を演出し、妙に気に入られているポジションをキープして彼の暴力から身を守っていた。太郎も太郎でそのあたりの世渡りは本能で心得ていたのである。
「三次くんはなんで亀なんかいじめてんの?」
「理由なんかねえよ」
そうそう。いつも彼の暴力性に理由なんかなかったのである。おそらく、周りの輩も逆らうと何をしでかすかわからない彼にただ付き従っているだけなのだろう。わかるよ。俺も子供の頃そうだったし。「縄張りが」みたいなのも後付けだと思う。と太郎は同情を禁じ得なかった。
「太郎もやる?」
「いや、俺は遠慮しておくよ」
「そう?太郎がやらないんなら、じゃあ俺もやめとこ。そういえば腹減ったな。昼飯まだだったわ。ウチ帰ってイワシの干したのでも食うか。じゃあな太郎。気が向いたら連絡よこせよ」
と、三次は流木をほっぽり出し、家に帰ってしまった。後に残され、詮方なくなってしまった輩連中は、頭を掻いたり咳払いをしたりしながら何処かへと消え去っていった。
俺のほうこそ消え去りてえよ。と太郎は海を見つめていた。すると、先ほどまで袋叩きにされていた亀が足元に近寄ってきた。
—
「すみません。あの、先ほどは助けていただきましてありがとうございました」
最初、幻聴?と思った太郎だったが、明らかに足元の亀が言葉を介し意思を疎通しようと試みているのだった。
「え?お前喋れるの?」
「はい。長生きしてますから。結構語学の勉強とかやる時間もあったんで」
「じゃあお前、いじめないでくださいよ、とか、殴るならあそこに突っ立ってる阿呆を代わりに殴れ、とか、ともかくおのれを守るための意思をあいつらに伝えろよ」
「まあ、そうしてもいいんですが、結局黙って飽きるまで無抵抗でじっとしてるのが一番なんですよ。自分だけが被害を受けていれば済むか。みたいな。長く生きてますし。ああいう目にあったこともないわけじゃないんです」
「でもさ、もったいないじゃん。話し合いで解決したらいいんじゃない」
「いいですいいです!いいんですいいんです!いいんですって!」
亀から唐突に大声でコミュニケーションを拒否された太郎は怯んだ。
「お前がそういうんなら無理強いはしないけど。ともかく、怪我もひどくないみたいでよかったよ。じゃあ俺は帰るから」
「ちょっとお待ちください」
「なんだよ」
「あの、お礼と言ってはなんですが、せっかく助けていただきましたし、ぜひ我々の暮らす海の世界をご案内したく」
「海の世界?どういうことだよ。お前は平気かもしれないけど、俺は溺れてあの世行きだろう。遠慮しとくわ。気持ちだけもらっとくから。そもそも助けようとしたわけじゃないし。成り行きみたいなところがあるから。大層なことはしてないよ」
「いや、その辺りはご心配なく。私の甲羅からドーム状の特殊な油膜が張られる仕組みになってまして、いわばバリアみたいなものなんですが。酸素も片道分くらいは供給できますし、耐水圧性も保証されていますので」
「なんて?」
「ともかく、海の中でも貴方をお守りする手筈は整っていると考えていただければよろしいかと」
どうせ今日、明日、再来週も暇であることだし、言葉を喋る亀の提案に乗るのも一興かと、太郎は誘いを受けた。いざなわれるままに甲羅を股ぐらに挟み込むと、亀はのしのしと海へと進み、潜り、悠々と泳ぎ始めた。たしかに亀の言うとおり、溺れたり、息苦しくなったりすることもなく、蒼々とした海の底へとぐんぐん向かうのだった。
「すご。うわ。真珠?あれ。山積みになってるけど」
「そうでございます。一粒持ち帰れば、親子三代は食うに困りませんよ」
「まじで?それなら一粒欲しいんだけど」
「まあまあ、こんなものじゃないんで。お楽しみはこれからです」
先ほどまで流木でどつき回されていたとは思えないほど余裕たっぷりに、亀は笑みをたたえながら太郎を目的地まで案内するのだった。太郎は、いやあ生きてみるものだね。と呑気に構えながら、市松模様に張り巡らされた珊瑚礁や、極彩色に輝く体のぺらぺらした魚を眺めていた。太郎の住んでいる近辺には棲息していない、味の想像できないド派手な生き物がうようよしていた。
「見てください。あれがこれからご案内する、竜宮城です」
仄暗い海中にけばけばしい七色の光がほとばしり、「竜宮城」のネオンサインと昆布がゆらめいていた。無数の提灯が、海の暗がりの遥か遠くまで照らしており、軒先には太郎の背の高さの倍ほどもある珊瑚礁があつらえてあった。太郎はむろん、ネオンサインの明かりを見るのは生まれて初めてであったが、めくるめくすばらしき体験がこの奥で待っているのだろうと直感していた。
「では、私はここで。竜宮城の半径1キロメートル以内であれば、私の甲羅から出ているものと同じ性質のバリアで守られておりますので。楽しんでいってくださいませ」
亀の背中から降りると、太郎は小躍りをした。道すがら亀を成り行きで救い出したのがきっかけで美味しい思いができるらしいと浮かれながらツイストを躍った。1960年代に、日本で正式にツイストが流行り出すよりおよそ八百年前の出来事だった。
玄関で草履を預け、招かれるがままに階段をあがると、髷を結わえ、絢爛たる着物を身に纏い、艶めかしく座布団の上にひざまずいた女性が居た。太郎の村の女どもが束になってかかっても叶うわけがない、極上の美人だった。朱塗の食卓には、スモークサーモン、ビシソワーズ、伊勢海老のグラタン、牛ほほ肉の赤ワイン煮込み、クロワッサン、渡り蟹とうにのパスタ、レアチーズケーキなどなどが並べられていた。どれもこれも太郎にとって初めて目にする料理ばかりであったが、ここぞとばかりの厚かましさで太郎はそれらを貪った。空ける側から赤ワインがどぼどぼ注がれ、太郎は女性の膝小僧のらへんをさすりにさすりまくった。
「あなた、お名前なんておっしゃるの?」
「太郎だけど。君はなんていうの?」
「乙姫」
「名前かっけー。俺の周りの女なんて、ハツだのヨネだのばっかりだよ。たいがい二文字ね」
「うふふ。おもしろーい。芸人さんみたい」
実際まったくおもしろくなかったのだが、中身のいっさい詰まっていないやり取りが愉快でたまらなかった。太郎は生きてきてよかったと思った。俺のようなろくでなしでも報われる日がやってくるのだ。一体何が報われたのかは知らないが。亀?細かいことはいいや。
締まりなくげらげらと笑いながら、太郎は骨の髄まで酩酊した。