2~3月:二人の成長
年を越して、2月、3月。空白期間を経てトオルが選んだのは、真っ赤なバラだ。
お手本のようなセレクションである。ちなみにバラほどになると色だけではなく、本数によってもその意味が変わってくるらしい。組み合わせが膨大になってしまうので今回は避けたが、さすがは花の女王である。
そういえばかつて、青いバラというのはこの世に存在しなかった。技術的にも困難とされ、だから青いバラの花言葉は「不可能」だったという。それが2002年、長年の研究開発を経てついに青いバラが生み出された。そして青いバラの花言葉は「夢かなう」に改められたのだ。
花言葉には文化と歴史が、誰かの空想した物語が、あるいは人の願いが込められている。そんな背景に思いを馳せながら、残り3ヶ月を追っていきたい。
赤いバラ以外に2月、3月とトオルが選んだのは「熱愛(スプレーカーネーション)」に「輝かしい未来(ストレリチア)」。空白期間を挟んでも「情熱(バーゼリア)」は変わっていなかった。呪詛に近しいねっとりとした言葉はなくなり、「純粋な愛(レモンリーフ)」を胸に、自然体でアオを愛しているように見える。
という花言葉は、彼がそうやって成長した証かもしれない。「才能(テマリソウ)」あふれ、「善行(カンヒザクラ)」を重ねてきたトオルだからこそ至ることのできた境地である。いまだ「秘密の思い(エリンジューム)」があったとしても、些細なことに過ぎなかった。
そしてそんなトオルに対して、アオの心はこんな気持ちで満たされている。
「永遠の愛(センニチコウ)」「愛の告白(チューリップ)」が並び、これまで毎月のように登場したお茶目や個性といった花言葉はもう出てこない。未練や失意といった花言葉もない。
気持ちの浮き沈みが激しく、良くも悪くも自分中心だった彼女が、他者に対して「君を愛する(アネモネ)」心を咲かせている。私は私でありたいと願った強い自我は、今では「私を見て(トキワガマズミ)」とトオルの方へ向けられている。
彼女もまた、恋を通して成長を遂げたのだ。幼い彼女は「忘却(白のポピー)」され、そこには大人になったアオがいた。
2021年4月:物語の終わりは
また春がやってきた。記録をとり始めてちょうど1年。延べ122の花言葉が集まったこの物語も、今月でおしまいだ。
トオル。一年を通じて愛を捧げてきた彼は、「清らかな心(かすみ草)」で「前向き(白いガーベラ)」に、そして「陽気(ルスカス)」に生活している。かつては身を焼き尽くすような姿に心配になったりもしたが、今では「幸福な愛(ブルースター)」で包まれている。そんなトオルを見れて、僕は嬉しい。まさしく愛の「勝利(ヤシ)」だと言えよう。
そしてアオ。深い喪失感に沈んでいた彼女は、初期こそトオルのアプローチを不審に思ったものの、それから徐々に心を開き、ついには相思相愛となった。「究極の愛(黄色のガーベラ)」や「平和(グレビレア)」といった花言葉にはその変化が端的に表現されている。僕もこの物語をそうやって締め括りたい。
ただ丸く咲いた紫の花を、無視することはできない。アリアムというこの花は、アオが最後に選んだものだ。
その花言葉は、
やりやがった。ここにきて、一年間で最も悲痛な言葉が登場してしまった。一体アオに何があったのか。ハッピーエンドではなかったのか。そんな結末を迎えて欲しくはなかった。
しかし僕は信じている。それでも「一緒に踊りましょう(オンシジューム)」とささやく彼女の天真爛漫な心を。一年前のトオルを真似するように「私を信じて(黄色のクロッカス)」と呼びかける彼女の愛を。
どんな困難が待ち受けようと、また長い空白期間が訪れようと、寝室を介して2人が「夢で逢えたら(クロタネソウ)」。
122の花言葉の先にそんな未来が待っていることを、願わずにはいられない。
◇
その晩、寝つけなかった。2人の物語は終わったはずなのに、心にひっかかるところがあった。いばらのようにチクチクと刺さるそれは、僕が見て見ぬふりをしていたものだ。
前述した通り、花言葉は複数の意味を持ち、決まった正解があるわけではない。大抵は似たような意味が並んでいるが、たまにかけ離れた表現が並列していることもある。その中で僕は知らず知らずのうちに、恣意的に花言葉を選んでいたかもしれない。2人が幸せであって欲しくて、都合の悪い花言葉を無視していたかもしれない。
トオルはどんな秘密を抱えていたのか?
なぜアオは無限の悲しみにくれたのか?
透明の花瓶と青の花瓶が、じっと佇んでいる。愛の部屋であり、禁秘の部屋でもある寝室で、花瓶たちは何を見たのか。
2つ、気になっていた花があった。一つはスプレーカーネーション。この花が通常のカーネーションと異なるのは、枝分かれ(スプレー)するように、一つの茎から複数の花びらが咲いていることだ。このスプレーカーネーションについて、僕は「熱愛」という花言葉を引用していた。
だが白状しよう。どの本を調べても、実は最初に出てくる単語は熱愛ではなかった。スプレーカーネーションの花言葉としてまず挙げられるのは、こういう意味なのである。
集団美。聞き慣れない単語だ。辞書にすら載っていない、花言葉のための言葉。一対一の恋愛関係で用いるには、どうも不適切に思える。それよりも「熱愛」の方が、トオルの気持ちを代弁するのにぴったりだと思った。
だがこのスプレーカーネーションは、トオルが最も頻繁に選んだ花でもある。一方のアオには一度も登場しない。もし「集団美」がトオルを読み解く上で重要な意味を持っていたとしたら、どうなるだろうか。
そして最後にもう一つ。3月に届いたブーケに、細長い枝が添えられていた。この花の名は、サンゴミズキ。
珊瑚のように可憐な枝は、冬の訪れとともに赤く染まっていく。ほかの花とのコントラストがよく映えるため、生け花にも人気らしい。
このサンゴミズキの花言葉の中から、僕は「成熟した精神」という意味を選んだ。トオルが一年間を通じて大人になり、成熟した愛を育んだ象徴として解釈した。
だがサンゴミズキには、もう一つの花言葉がある。僕は恐れていた。その意味を選んでしまったが最後、花瓶たちのロマンスは大きく変化してしまうから。
トオルの秘密。アオの悲しみ。
「罠」。「追憶」。「愛国心」。「一緒に踊りましょう」。
「私は私でありたい」。
窓辺に並ぶ2つの花瓶。花言葉と花言葉が繋がって、寝室に別の物語が姿を現す。
4月:桜木トオル
「僕を信じて、なんでも話してください」
診察室で、桜木トオルはいつものように切り出した。カウンセリングの際は、決まってこう言うようにしている。それを聞いた茨野アオは顔をあげ、にっこり笑った。
「信用してますよ。先生は優しいし、かっこいいし」
その返事に、トオルは苦笑いした。アオの無邪気でお茶目な性格には、少し心配なところがある。
「本当に、困っていることはないですか?」
トオルがそう念を押すと、アオは途端にうつむいた。ほら。こうやって感情の起伏が大きいのも、好ましくない傾向だ。
「実は、踊りを続けようと思ってるんです」
アオはぽつりと言った。トオルが顔を強張らせたが、アオは構わず話し続ける。
「踊りは私の生きがいだから、この身を捧げたい」
顔を上げたアオの言葉が、次第に熱を帯びていく。
「反省してないって思われるかもしれません。でも私は、ダンスで自分を表現したいだけなんです。誰にも迷惑はかけないから」
すがるような目で見つめてくる。仕方ない。トオルは椅子から身を乗り出した。
「僕はあなたの新しい門出に、誠実に向き合いたいと思っています。だから一つ、伝えたいことがあるんです」
5月:茨野アオ
茨野アオはひとり寝室で困惑していた。この気持ちにどう整理をつけたらいいかわからない。
通院を始めてしばらくが経った。トオルに会うたびに、輝きを取り戻していく実感があった。思いやりと包容力のあるトオルに、どんどん惹かれていた。恋の訪れさえ、ほのかに感じていた。だけどあくまで治療の一貫なのだと自分に言い聞かせて、アオはその想いにそっと蓋をしていた。なのに。
一連の出来事を思い出すたび、身体が熱くなる。デートに誘われ、突然の愛の告白、そしてはじめてのキス。急展開に頭が追いつかず、はじめアオはトオルを拒絶した。軽蔑すらも抱いた。しかしトオルは彼女に変わらぬ愛の言葉を投げかけた。清らかで純粋な心に思えた。暖かくて深い愛情が、傷ついたアオを蘇らせてくれるようだった。
必要なのは適度に抑制された生活だ、とトオルは言った。確かに自由奔放に生きてきた。たくさんの人に迷惑をかけてしまった。ダンスに未練がないと言えば嘘になる。だけど、果たしてそれが本当の幸せなのだろうか。度重なる警告を受けて、身を危険にさらして、それでも続けるべきだろうか。アオは一人、頭を抱えた。
8月:桜木トオル
「ねえ、アオ。なにか隠してない?」
トオルの言葉に、アオはさっと視線をそらした。
二人が付き合い始めて三ヶ月が経っていた。時にまとわりつくほどのトオルの言葉を、アオは暖かな愛情として受け入れた。渇きを潤すように二人は仲を深めた。だが無邪気に振る舞うアオの瞳に、時折暗い影が走るのを、トオルは見逃してはいなかった。
「僕は君の痛みを癒したい。閉じてしまった心を開きたいんだ」
トオルの真剣な問いかけに、アオはためらいがちに口を開いた。
「私、まだこっそり踊りの練習を続けているの」
杞憂ではなかったとトオルは悟った。アオは情熱に燃える瞳で続ける。
「だっておかしいじゃない?ダンスが禁止されるなんて。私は私でありたいだけなのに」
そこまでだ、とトオルは制した。
「ルールはルールなんだよ」
うつむくアオの頭を、トオルはそっと撫でた。
「僕は君を愛している。死んでも離れたくないし、君だけを見つめている。だから考え直してほしい」
トオルの真摯な言葉に、アオの心はまた揺れているようだった。
「トオルの方こそ、なにか秘密はないの?」
話題を変えるようにしてアオが言った。
「あるわけないよ」
トオルはすぐさま答えた。
11月:茨野アオ
アオは靴を撫でている。履き古したダンスシューズ。
当時は随分と牧歌的だった。自由に踊って歌って、そんなことも許されていた。確かに今より喧嘩や衝突も多かったけど、今のように息苦しくはなかった。
しかしそんな追憶は、トオルの言うように、美化された思い出に過ぎないのだろうか。変わらない個性が大切だと信じてきたけど、日々は移ろい、時代は変化している。自分もそろそろ無邪気な考えから卒業すべきなのか。それともこの情熱を貫くべきなのか。問答を繰り返して、アオは疲れてしまった。何が正解で何が間違っているのか、もうどうでもよくなっていた。
唯一変わらない真実は、トオルを愛しているということ。会えない時間を過ごして、アオは痛感していた。誰もが羨む永遠の愛。幸せを得るために、ほかに何を望む必要があるのか。
トオルのためなら、すべてを捨てられる。
静かな想いを胸の奥にしまい込んで、アオはシューズをゴミ箱へ放り投げた。
2月:桜木トオル
桜といえばソメイヨシノ。この花はかつて人工交配で誕生し、接き木という増殖技術によって全国に広まった。つまりすべての花が、同じ遺伝子を持つクローン個体なのである。だから同じ環境下では一斉に同じ色の花を咲かせ、また一斉に散っていく。
花とはかくあるべきだ、と桜木トオルは思う。花は一輪では儚い存在であり、集団として調和することで真価が発揮される。皆が協力して与えられた役割をこなす。この国は、そういう集団美によって発展してきたのだ。
だがまれに、異分子が生まれることがある。あのバラさえも、青くなる可能性を秘めている。茨野アオはそんな存在だった。禁止された踊りに興じるのは、ほんの兆候に過ぎない。無邪気で強い個性を放つ危険因子は、社会に亀裂を生みかねない。
青いバラの誕生を未然に防ぐのが、トオルの秘められた役割だった。カウンセラーを隠れ蓑として、身を投じて彼らの更生にあたる。ただひたすら、心を込めて愛の言葉を投げかける。トオルには他者を魅惑する天賦の才があった。この役割が善行であり、ひいては社会に輝かしい未来をもたらすと、トオルは信じて疑わなかった。
4月:茨野アオ
茨野アオはステージの袖に立っている。動悸が速まり、指先は震え、胸が苦しい。逃げ出したくなったところで、出番が訪れる。無意識に身体が動き出し、光の満ちた壇上へと走り出す。足を上げ、手を振り、全身を揺らす。私を見て。私を知って。世界にそう叫びながら、夢中で踊り続ける。
目を覚ますと、診察室だった。机に突っ伏したまま眠ってしまったらしい。いつもの風景を見渡して、平和な日常に安堵する。
全身が汗でびっしょりだ。恐ろしい夢だった。かつてあんな景色を見た気もするけど、思い出せない。思い出したくもない。落ち込んだり、泣いたり、もがいたり。そんなのは異常だとアオは思う。今日も陽気に笑って一日を過ごす。それ以上の幸せがあろうか。
白衣の襟を正し、カルテを確認する。トオルと付き合って一年が経とうとしている。永遠の愛に満たされて、アオは感謝していた。彼から紹介してもらった役割も、順調そのもの。国のために役立てるというのは、何ものにも代え難い喜びだ。
ノックの音がし、扉が開いた。アオは椅子を回転させ、患者に向き合ってこう告げる。
「私を信じて、なんでも話してください」
※本記事は、本日11/25発売の書籍『10年間飲みかけの午後の紅茶に別れを告げたい;部屋をめぐる空想譚』(岡田悠著、河出書房新社)に収録されています。他にも様々な観察エッセイが掲載されているので、よければ是非ご覧ください。