桜。美しく咲いてくれても素直に褒められないのは、どうも急かされている気分になるから。
儚いようでいて、毎春きっちり咲いている。貴重なようでいて、割とそこら中で見ることができる。
季節の花の中では結構カジュアルな存在だが、通勤中に車の中から満開の桜を眺め、「ハー、今年もそこそこ綺麗やね。春完成!」と思うだけでは奴等は許してくれない。
「おいおい、ちょっと待てよ。通りすがりにリコール面ぶらさげて眺めるくらいで春のノルマ達成した気になってちゃしょうがねえな。
オレたちの下にビニールシート敷いてさ、気の置けない仲間集めて、オードブル食べながら、なっちゃんを飲まずに春を終わらせて本当にいいのか?
もしかしてお前、来年もまた見られるからいいだろ、なんて舐めた考え持ってちゃいねえか?
メメント・モリ(死を忘れるな)
俺たちは春を繰り返すけど、お前らの終わりは避けられないんだからよ」
そうやって心の中へ語りかけてくる。やたらと早口で、すぐ散るというお前らの都合だけ考えて。
桜が言ってるのか僕の被害妄想が言わせてるのかは分からないが、鬱陶しいことこの上ない。
その声を黙らせる手段が現代科学をもってして見つからないから、僕たちは毎年律儀にお花見を開く。なっちゃんを飲む。オードブルに箸を伸ばす。肉団子をつまむ。レンコンの煮物が余る。フリスビーが飛んでくる。突風に捲れ上がったビニールシートがなっちゃんのボトルを倒す。犬が濡れる。ビニールシートの四方を押さえるのに手頃な石を慌てて探す。
石を必ず現地調達するのは、そんな桜の圧力に対するささやかな抵抗の表れかもしれない。
そもそも、桜が咲き始めてから散り終わるまでをきっちり見届けた後に死んだとしても、今度はヒマワリや紅葉や萌え袖が見られないのだから、桜だけを特別扱いする理由はない。全くもって図々しい。
さて、20年ほど前に発売されたマリオゴルフというゲームは、ゲームボーイで育てたキャラをニンテンドウ64に持ち込んでプレイすることができた。なんとも素晴らしいシステムだ。この程度の融通を、少しは桜も効かせてくれればいいのに。
しかし、毎年こんなに振り回されているのに、何故か僕らは桜を見限ることをしない。
もしかするとそれは、ただ美しいからというだけではなく、散った後にアスファルトの凹凸に張り付いて離れないあの花弁の未練がましい姿が、僕らに同情の念を抱かせるからだろうか。
だとすると、桜というのは植物界きってのメンヘラと言える。そんな気がしないか。しないか。