安室奈美恵が引退した。

 

“安室奈美恵”という文字列を見ると、ある記憶が呼び起こされる。

 




 

 

僕は小さい頃から漢字が好きで、小学校に入っても授業で習う漢字はすでに全部知っていた。

同級生たちはこの日初めて覚えるであろう漢字を僕はもう知っている。
それが誇りだった。

 

先生が黒板に大きく書いた漢字を全員で読み、一緒にゆっくり空を描いて書き順を習う。

馬鹿馬鹿しすぎ。

漢字、ちょれ〜〜〜〜

 

 

2年生になり、ちょっと難しい漢字も習うようになった。

 

たとえば “園”。

「この漢字は“エン”のほかにも読みかたがあります。わかる人?」
先生が僕たちに尋ねた。

 

ここで漢字知識を披露し、こいつらより一歩抜きん出てやる。

僕は手を挙げ、「“その”」と答えた。

 

「正解!よく知ってるね!」

先生からの賞賛、友達からの崇敬の眼差しを受け、悦に入った。

 

僕は漢字博士の称号をほしいままにしていた。

 

 

 

別の日、“”という漢字を習った。

「この漢字は“しつ”のほかにも読みかたがあります。わかる人?」

 

先生の定型文質問には誰も手を挙げなかった。

僕もなんとなく他の読みかたがあるのは知っていたが確信が持てず、挙手しなかった。

 

「漢字博士ならわかるんじゃない?」
「漢字博士!」
「漢字博士、わかんないの?」

友達の期待の矢が飛んできた。

 

ここでわからないと言ったらこの称号に泥がつく。

 

急いで必死に記憶を辿ったら、
昔 大好きだった『マジカル頭脳パワー!!』に出ていた女性の名前に
”が入っていたことを思い出した。

 

それが安室奈美恵だ。

 

 

しかし、一つ問題があった。

“安室”と書いて「あむろ」と読むことはわかる。

それが「安(あむ)・室(ろ)」なのか
「安(あ)・室(むろ)」なのかがわからない。

 

“室”一文字で「ろ」はないだろう。
だったら“安”一文字で「あ」もない気がする。

どっちなんだ!

 

わずかな時間で正しい答えを導き出すのは自称神童の小2には厳しかった。

完全にテンパった僕は、「あむ……?」と答えた。

 

そんなわけない。

安室の室が「あむ」だったら安は何なんだ。
knifeのkみたいに発音しないやつなのか。

 

「あむ……?」
僕の回答を先生がおうむ返しした。

 

 

一瞬淀んだ空気が教室を漂ったとき、真鍋くんが口を開いた。

 

「むろ?」

真鍋くんは頭が良かった。

 

 

「そうだね!室町時代の“むろ”だね!」

室町…それがあったか……。

 

真鍋くんが賞賛を浴びる。

 

「じゃあ、書き順をなぞりましょう」

僕は治まらない心臓の鼓動を感じながら黙って右手を掲げ、“室”という漢字を空にゆっくり書いた。

 

 

漢字博士は引退した。

 

 

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