いつもシャワーだけで入浴をサッと済ませている。
引っ越したての頃は毎日お湯を溜めて浸かっていたが、
せっかく浴槽が備えられているのに、ちっとも“槽”
それをなんだか不憫に感じていた。
少し肌寒かった春の夜、
かわいそう。
僕が浴槽を使わないせいで、
スポンジを手に取り、洗剤をつけて浴槽を洗った。
きれいになったら栓をしてお湯を溜めた。
浴槽としてのアイデンティティは、お湯を入れ、
きっとそう。
浸かる。
気持ち良すぎる…
全身の血行が淀みなく流れだし、筋肉は解れ、脂肪が溶ける、そんな感覚。
最大の癒しだった。
やがてのぼせてきた。
ふと、風呂場の扉を開放してみる。
部屋内の冷たい空気が風呂場に入り、
まるで露天風呂だ。
風呂場を消灯してみた。
部屋の明かりが風呂場にそっと射し込む。
静かな月夜の露天風呂を独占。
温泉を独占したら、どうしても泳ぎたくなってしまうもの。
だがここは温泉ではない。
安普請な壁薄木造アパートに申し訳程度で備え付けられた浴槽に、
脚を曲げないと全身浸かれないし、視界に入るのも見慣れたタイルやカランのみ。
しかしそれでも、気分は温泉に浸かっているときと同じだった。
んっと息を止め、顔を湯船に沈めてみた。
鼻から出る空気が顔を撫でる。
おっ、楽しい。
ボコボコボコ……
ボコボコボコボコ………
風呂場に己の呼気が生み出す泡の音だけが響く。
狭い浴槽内で屈めつつ、手足をバタバタしてみた。
湯船が波立ち、溢れる。
水族館のイルカになった気分だ。
よりイルカになりきるため、
潜って体をグルンと一回転させてみよう。
窮屈だが、うまく体を丸めればいけるはずだ。
呼吸を整え、大きく吸い込んで潜った。
水中で膝を曲げて抱え込み、少し右に捻り、
ザリッ!
うまくいった!
うまくいったが、膝に激痛が走った。
痛い痛い痛い痛い痛い。
マジで痛い。
なんだ?
電気を点けてみると、膝に傷が出来ていた。
鎖だ…
栓に繋がった鎖で擦りむいてしまった。
しばらくすると血が滲んできて、湯船をうっすら赤く染めた。
なんか悔しくて、栓を抜いてお湯を流してしまった。
洗濯に使うつもりだったのに。
数ヶ月経ち、傷はかさぶたとなり、アザとなって未だに膝に残っている。
一生ものかもしれない。