元木の知られざる真実

翌々週。

会社の飲み会で、元木と同じテーブルになった。
遅れてきた元木は、僕の前にどかんと座り、「レモンサワーおなしゃす!!!」と大声で注文した。あいよ!と食堂の奥から、同じくらい威勢のいいおばちゃんの声が届いた。この中華料理店は会社でもよく利用する、馴染みの店だ。

元木:「マジ寒いっすね!」

コートを脱いだ元木は、冬なのに半袖一枚だった。


半袖の元木(当時の実際の写真がいくつか残っていた)

元木の服装に、そら寒いやろ、と向かいのNさんがツッコんだ。Nさんは、僕らの先輩社員だ。東大卒のキレキレの弁護士だが、そうは見えない柔らかな物腰と関西弁で、バイトからも慕われている。

元木:「いや、服装ミスりました!」

元木はウヘヘと笑った。Nさんも笑った。元木は元気で明るくて、ちょっと抜けている。そんな親しみのあるキャラクターを、Nさんはとても可愛がっていた。

でも表では明るい人ほど、内面は繊細なのかもしれない。

元木には訊きたいことがたくさんあった。でもとっかかりが見つからない。元木とは長い付き合いだし、普段からよく無駄話をしていたけど、一体何を話していたか、思い出せなくなっていた。

困った僕は、

—— 最近どう?

と漠然とした質問を投げた。

元木:「元気っすよ!」

こいつは返事がめちゃくちゃ早い。

—— 週末とか、なにしてるの?

合コンか、と自分で思う。しかし元木は気にしていない。聞いてくださいよ、と前のめりになって語り始めた。

元木:「いま、車にめっちゃハマってて!前から好きでしたけど、最近レースとかにも出ようと思って。改造とかやっちゃって。土日はもうほとんど車いじりっす、ちょっと見てくださいよ」

そう言ってスマホを机に置き、愛車の写真をスライドショーさせた。ええやん、とNさんが食いついた。そう言えば、この人も車好きだった。

元木とNさんが、車の話で盛り上がっている。免許のない僕は、黙って見守る。ようやく話題が一服したところで、僕は気になっていたポイントに切り込んだ。

—— そういえばこの間、トイレで会ったよね?

元木:「あ、会いましたね!!!」

僕の質問に、元木はまた瞬時に答えた。背後を歩いていった彼も、僕のことには気づいていたらしい。

おかしい。

あの日、たしかに元木は、自宅から朝会に参加していた。なのに10分後には、オフィスのトイレにいた。いくら徒歩圏内に引っ越したからと言って、元木の家から会社まで、10分以上はかかるはず。計算が合わないのだ。

また僕がトイレから戻ったあとも、オフィスで元木を見かけることはなかった。元木がトイレにいたとしたら、そのあと自分の席に戻るはずだ。だが元木はその午後も、普通に自宅からリモートワークをしていたのである。つまり朝のトイレの時間帯だけ、オフィスにいたことになる。

手を洗ってなかったでしょ、と元木に言うと「やべ、忘れてましたw」と笑っていたが、僕の関心はそこにはない。

元木は、どうやって10分でオフィスに辿り着いたのか?

—— もしかして、実は朝会の時からオフィスにいたの?

僕は元木に仮説をぶつけた。元木が、実は最初からオフィスのどこか別の場所 —— たとえば会議室からオンライン会議に参加していたのではないか、と考えたわけだ。リモート環境を利用したトリックである。

だが元木はすげなく答えた。

元木:「いや朝会は、普通に家からっす」

全然違った。トリックとか言って調子乗った。

考えあぐねていた時、突然元木の先ほどのセリフがフラッシュバックした。

“いま、車にめっちゃハマってて。”

僕はハッとして尋ねた。

—— もしかして、車で来てた?

元木は照れくさそうに頭をかいた。

元木:「ちょっと、途中でもよおしちゃって

元木の語った真相は、次のようなものだった。

元木はあの日、家から朝会に参加したあと、休憩がてら車に乗りたくなって、ドライブへ出かけた。
しかし出発直後に腹の調子が悪くなったため、職場に寄ってトイレだけ借り、再びドライブに戻ったというのだ。そしてドライブを終えたあと、またリモート勤務を再開した。

 

車だから速い。ただトイレを借りただけ。

すっかりミステリー気分でいたのが恥ずかしい。現実なんてこんなものだ。

なに仕事中にドライブしとるねん、とNさんからまたツッコミを受け、元木は「サーセンw」と笑っていた。

しかしまだまだ気になることはある。僕は質問を続けた。

—— なんでわざわざ職場のトイレに?途中でコンビニとかもあるでしょ。

元木:「家に戻るのも面倒だったし、いつも使ってるトイレの方が、落ち着くじゃないですか。知らないトイレだと、なんかあったら不安だし」

なんかってなんや、とNさんが合わせる。
トイレの話題で盛り上がってきたので、僕は酒の勢いも借りて、思い切って本題へ切り込むことにした。

—— そういえば元木、結構トイペ使うよね? いや、隣室で音が聞こえて。まあどうでもいいんだけど。

ああ、訊いてしまった。僕は薄暗い気持ちになった。
安直だったかもしれない。トイレという極めて個人的な事情を、あっさり訊いてしまった。一線を、超えてしまった。大学から続いてきた元木と僕の関係性が、この一言で変わってしまうかもしれない。

だが当の本人は、あっけらかんとしていた。元木は笑いながら答えたのだ。

元木:「いやいや、めっちゃ普通ですよ! 」

トイペのことは、隠したいのだろうか。それにしては、自然な反応に見える。

—— いや、まあ人それぞれだけど。僕よりはトイペ長いな、と思って。

元木:「なんすか、トイペ長いって。トイペなんてみんな一緒でしょ!

なんか爆笑している。どうやらツボに入ったようだ。


ウケる元木

この辺りから僕は、あれ?と思い始めた。
元木には、トイペが長いという自覚が、本当にないのかもしれない。

僕はビールジョッキから手を離し、身振りを交えて説明を始めた。

—— たとえば、ここにトイペがあるとするじゃん。で、僕の場合は、こう引いて……カラ、カラ、カラ……使うのはこれくらいかな。

元木:「嘘でしょ!?」

元木が大声をあげた。

元木:「なにそれ!?」

相当驚いているようだ。逆に僕がおかしいのではないかと不安になってきた。

—— Nさんはどうですか?

横で聞いていたNさんにも尋ねてみると、「俺はもうちょっと長いかもやけど、まあ似たようなもんやな」と僕に同意した。

元木:「……ガチ?」

元木は目を見開き、口をあんぐり開けている。

先に結論から述べよう。

元木は、トイペの使い方を、勘違いしていたのだ。

 

元木のトイペの流儀

元木が、トイペのロールを手にしている。店のおばちゃんに許可を得て、 トイレから持ってきたものだ。

—— いま用を足し終えたとしたら、このトイペをどう使う?

僕はトイペを指差して尋ねた。百聞は一見にしかず。元木に、トイペの使い方を見せてもらうことにしたのだ。

元木:「そうっすね。よーし……」

元木はやる気を表現したいのか、腕まくりのそぶりをした(元木は半袖である)。

Nさんが支えるトイペを、元木が引っ張っていく。

このトイペはホルダーに入ってないから、実際には音は鳴らない。だが何度も所作を想像し、焦がれてきた僕には、たしかに聞こえるのだ。元木の、カラカラ音が。

元木の手に、トイペが巻きついていく。その様子を見て、僕はなんだか興奮していた。

耳で想像していた光景が眼前に広がっている。これか。これが元木の、トイペの流儀か。やはり、いや、想像以上に多い。元木の右手がトイペで、どんどん膨らんでいく。

黙ってみていたNさんが、ぼそりと「多っ」と突っ込んだ。そうなんです、Nさん。こいつ、多いんです!

 

 

手に10周ほど巻いた頃だろうか。ようやく元木がトイペをちぎった。僕はすでに満足していた。

だが、元木の独特な巻き方は、ここからだった。

元木は、よし、と言って、まずトイペの輪っかを手首にたぐり寄せた。

 

そして手首にトイペを巻いたまま、また新しいトイペを引き始めたのだ。

僕とNさんは目を合わせた。見たことのない使い方だ。思わず元木に待ったをかける。

—— え、ちょっと待って。なにやってんの?

元木:「え、二巻目ですけど」

元木はさも当然、といった調子で答える。その瞳に、一切の迷いは見えない。自分のトイペの引き方に、彼は絶対の自信を持っている。

僕はすこし気圧されながら、おずおずと尋ねた。

—— いま手首に巻いてるトイペを、一旦流してからってこと?

元木:「どっちも一緒に使いますよ!」

なに言ってんだか、みたいに呆れている。僕は絶句した。まったく話が噛み合っていない。

僕がNさんに目で助け舟を求めると、Nさんは腕を組み、「最後までやらせてみよう」と言った。さすがは先輩社員。後輩をどっしり見守る器量がある。

—— ごめん、じゃあ続けてみて。

元木:「ここに二巻目を巻いて…」

……そのあと判明した元木の巻き方は、衝撃的だった。

元木が「二巻目」と呼んだトイペは、一巻目をずらして空いたスペースに、10周ほど巻かれた。そしてまた二巻目を手首側に引き寄せて、今度は三巻目を巻いていく。
これを、右手が完全に覆われるまで、繰り返していくのだ。

つまり、右手が完全に覆われるまで、分割しながら、何度もトイペを引き続けるのである。元木の右手は、トイペでパンパンに膨らんでいった。

異様な光景に、いつの間にか隣のテーブルの社員や、店のおばちゃんまでが立ち止まって、元木の手元を覗き込んでいた。元木は店内の注目を浴びて、なんか嬉しそうである。

元木:「こんなもんすかね。で、あとは拭きます」

元木は、立ち上がり、中腰になって、尻を拭く仕草をした。それは紙で拭くというよりは…..まるで手そのものを尻になすりつけているようであった。

手の平も、甲も、拳まで、手の全てを使いながら、くまなく擦り付けていく。360度がトイペで防備されているからこそ、なせる技術である。

状況に応じて手のすべての部位を活用する様子は、まるで空手の技みたいだ。

元木:「拭き終わったら流して、あと1回か2回、これを繰り返すって感じっすね」

あんた、変だね。

僕とNさんが反応する前に、店のおばちゃんが言った。おばちゃんまで〜!?と元木がまた驚いている。

—— なんでそんな拭き方を?

元木:「なんでって言われても……これが当たり前だと思ってたんで……

今度は元木が困惑する番だった。

—— たぶんだけど、トイペは手で持って、こう拭く人が多いんじゃないかな。

僕はトイペの短い束を持ち、元木と同じポーズになって、拭き方の手本を見せた。皆の視線を感じるが、興奮で恥ずかしさどころではない。

元木が驚き、手の甲を見せて反論する。

元木:「え、でもそれだと、こっち側で拭けなくないですか!?

Nさん:「そっちでは拭かんねん」

Nさんが素早く言って、元木はまた目を丸くした。

話が噛み合わないはずだ。そもそもの前提が違ったのだ。
僕には、トイペを手の甲、あるいは拳で使う前提がなかった。

たしかにこの方法なら、大量のトイペが必要になる。紙の束が多いとか少ないとかの話ではなく、僕と元木では、トイペのシステムが根本的に異なるのだ。
僕はトイペを「束にして使うもの」と考えていた。だが元木にとってトイペとは、拳を守るためのグローブなのだ。

僕はちょっと感動していた。わずかトイレの薄い壁一枚を隔てた先に、こんな未知の光景が広がっていたとは。まるでふしぎの国のアリスになったような気分だった。ワンダーランドとは、意外と身近なところにあるのかもしれない。

Nさん:「でも、どうせ手に巻くなら、わざわざ分割しなくていいんちゃう?」

唐突なNさんの指摘に、感慨に耽っていた僕は我に返った。

その通りだ。トイペを手に巻くだけなら、わざわざ複数回に分けて巻く必要はない。
むしろ一回で、手にぐるぐると、包帯のようにまとめて巻きつけてしまった方が、手間が省けるし、強度も増すだろう。

元木:「いやいや……」

その指摘に、元木は大袈裟にかぶりをふった。

元木:「分割しないと、流れないでしょ」

騒がしかった中華料理店が、静寂に包まれた。

元木のユニークなトイペの流儀は、巻き方と拭き方だけに留まらない。流し方もまた、独特なのだ。

 

元木のトイペの流し方

元木:「そもそもトイペで拭く前に、一旦先に水を流して、と……」

元木は右手に「グローブ」を巻いたまま語る。僕らは真剣に話を聞く。

元木:「で、便が全て流れたあとに、初めてトイペを引き始めるんです」

—— なぜ便とトイペを一緒に流さないの?

元木:「万が一、トイレが詰まった時のリスクヘッジっすね。トイペが詰まって、便まで溢れてしまったら、悲惨なことになる。その点、トイペだけならマシでしょう」

水が勿体無いが、たしかに道理は通っている。

元木:「トイペは、さっきやったみたいに、分けて巻いていく。はい、こちらには予め、完成させといた右手がありまして」

料理番組みたいに言う。解説するのが楽しくなってきたようだ。

元木:「ここからがポイントで……まず、先頭の”巻き”をシュルシュル解いて、流す。そしたら、その隣のを解いて、流す。今度はまた隣。要は巻いた時と逆順に、分けて流していくんです

—— 複数に分ければ詰まらない、と?

元木:「その通りっす」

元木は胸を張る。

元木:「だから巻く時点で分割しといたほうが、スムーズに進みます」

元木には、元木なりの一貫した論理がある。水も紙も勿体無いけど、そういった事情は元木にとっては論理の外側にあるわけで、元木としては、このやり方がベストなのだ。だからこその自信だった。

巻き方から拭き方、流し方まで、元木の流儀には、一本の太い芯が通っていたのだ。トイペだけに。

元木:「むかしはNさんの言うように一巻きでやってて、実家では問題なかった。でも一人暮らしをはじめた最初の家で、紙が詰まっちゃったんすよね。それからっすね、分割流しを始めたのは」

もう随分経ちましたねえ、と元木は懐かしんでいる。

—— そもそもトイレはよく詰まるの?

元木:「トイレによりますね。水圧が弱いと、ダメっすね。だから引っ越すときは、まずトイレの水圧を見ます。

—— 水圧の見分け方がある?

元木:「弱いやつって、ほんとにチョロチョロ……って感じなんすよ。でも、強いと、シュゴォォォォォォみたいな。まず音が違う。トルネードの音。すぐ違いはわかります」

音で水圧を聴き分ける。元木はトイレソムリエでもあった。元木が会社のトイレを、わざわざ立ち寄って使うほど好む理由も、それで分かった気がした。

—— もしかして、会社のトイレは詰まりづらい?

元木は力強く頷いた。

元木:「会社のトイレは、今まで見た中でも、トップクラスっすね。家庭用のトイレとは、違う部品を使ってるのかな?とにかく安心して流せるトイレっす」

元木が会社のトイレのことを「安心できる」とわざわざ立ち寄っていたのには、こういう背景があったのか。

元木:「その点、海外は厄介なんすよね……ちゃんとしたホテルでも、水圧が弱い。やっぱ日本のトイレって優秀なんだって思います。以前アメリカのホテルで詰まらせちゃったことがあって、それ以来海外がトラウマになって……」

—— じゃあ海外旅行とかは行かないんだ。

元木:「国内旅行のほうが断然、好きっすね。で、日本中を旅するならやっぱ車だなって。それで車にハマってるところもあります」

車好きが、まさかここにも繋がってくるとは。

元木:「ていうか岡田さん(※筆者のこと)、よく海外行ってるじゃないですか。トイレ困りません?」

—— 困らないけど……というか、詰まったことがない。

元木:「まじっすか!?なんで?」

元木はたまげている。

僕とNさんは目配せをした。そして改めて僕らのトイペの使い方……「紙を引いて、束にして拭く」という、おそらくより一般的な手法を、元木にレクチャーすることにした。

 

元木のトイペのルーツ

元木:「は〜〜〜〜」

僕らの説明を一通り聞いた後、元木は大きく嘆息した。

元木:「それだけでいいんだ。ガチか。それだけでいけるんだ」

ひどく感心している。

元木:「こっちの方が、楽じゃん」


驚く元木

元木の流儀は独特なので、強いこだわりがあるのだと思っていた。だが元木は、僕らのトイペの使い方を、意外にもあっさりと受け入れた。仕事でも評価される元木の素直さが、発揮されたのかもしれない。

元木:「俺、今日めっちゃいいこと知りました」

こちらが拍子抜けするくらいの、受け入れ方である。むしろ自らのオリジナルを、こんなに簡単に捨てていいのだろうか。

—— でも僕らのやり方だと、衛生的に気になる、とかはないの?元木のやり方の方が……面倒だけど、衛生的ではある気がする。大腸菌って、トイペを突き抜けるみたいだし。

元木:「まあ、そうですけど……手を洗えばいいし。俺、そういうのはあんま気にならないんっすよね。回し飲みとか全然いけるタイプだし」

トイペをずっとカラカラする人の中には、潔癖症の人もたくさんいるだろう。
だが元木に限って言えば、ただ特殊な使い方をしていただけだった。そういえば、そもそも元木は手を洗うのを忘れるような人間だった。

肩の力が抜けた僕は、総務が窃盗を疑っていた件についても、元木に教えてあげた。

元木:「窃盗!?危ねえ!教えてくれてありがとうございます!」

元木はペコリと頭を下げた。

—— これからはトイペの使い方を変えるの?

元木:「うーん、使い分けっすね。岡田さんたちのやり方は楽でいいっすよね。でも僕のやり方のほうが、痒いところに手が届く、って気もします。とりあえず会社では気をつけます。マジありがとうございます!」

元木は何度もお礼を言った。トイペ窃盗疑惑は、これで完全に解消された。まさかこんなに簡単に解決するとは。

ついでに僕は、元木のルーツについて掘り下げてみることにした。

—— そのトイペの使い方は、どこで覚えたの?

元木:「いやあ、ずっと前からこれなんで……いつ拭き方を覚えたかとか、みんなわかんなくないっすか?」

—— まあそうだね。やっぱり親なのかな。ほら、幼い時にトイレの練習をするじゃん。あ、でもそういう意味だと、保育園とかもありうるのか……

元木:「うーん。全然覚えてないっすね」

—— ご家族もそういう拭き方を?

元木:「いやいや、知らないっす!家族にトイペの拭き方なんて、訊かないし。両親は綺麗好きではありましたけど。でもトイペは知らないっす」

そうなのだ。僕だって知らない。どれだけ一緒に生活しても、トイペの使い方を共有する機会なんてない。

元木:「兄貴とか、どうしてんのかな。今度聞いてみようかなあ。」

元木がそう呟いたとき、しばらく黙って聞いていたNさんが、急に口を開いた。

Nさん:「俺さあ……実は……」

どこか思いつめた口調に、場の視線がNさんに一斉移動する。

Nさん:「実は……大学まで、トイレで裸になってた

思いがけず、Nさんの告白が始まった。

 

Nさんの告白

—— 裸….というと?

僕は当惑する全員を代弁した。

Nさん:「あ、下が裸ってこと。パンツとかズボンを、全部脱いどった」

—— えっと、別にそれは普通ですよね。ズボンを下ろさないと、用が足せない。

Nさん:「下ろすんやなくて、脱ぐねん。パンツとズボンを完全に脱いで、その辺にかけとく。あと靴下と靴も脱いで、一緒に置いとく。」

—— 靴下も?

Nさん:「そう。完全に下半身は、なんもつけてない状態になるわけ。その格好になったら、やっと用が足せる」

 

—— なぜですか?

Nさん:「大学まで、それが当たり前やと思っててん。元木の話を聞いて、急に思い出したわ。なんか懐かしいなあ。」

懐かしそうに目を細めた。

—— 幼い子なら、全部脱ぐこともありそうですが……

Nさん:「そうなんよ。母親曰く、ちっちゃいころの俺は、おしっこが下手で、いっつもズボンを濡らしてたらしい。だから全部脱ぐように教えた、って」

—— その教えが、そのまま定着してしまった、と……

Nさんは大きく頷いた。

—— どこでみんなと違う、と気づいたんですか?

Nさん:「大学生のとき、足を骨折して、ズボンを脱ぐのが大変になって。それである日ズボンを全部脱がずに、下ろしたままで用を足してみたら……できるやんけ!と」

—— 驚きました?

Nさん:「そりゃもう。大学の友達にも自慢した

—— 自慢?

Nさん:「ズボンって、下ろすだけでええんやぞ!って。そしたら『普通そうだよ』って言われて」

Nさんは遠くを見るような目をした。

Nさん:「衝撃よね…..」

—— Nさん、東大でしたよね。

Nさん:「東大でいちばん衝撃的な学びやったな」

ここで「そうそう!」と元木が入ってきた。

元木:「いま俺も、当時のNさんとまったく同じ気持ちっす!自分の世界が当たり前じゃないって分かる衝撃。ショック超えて、清々しいっす」

元木はなんか興奮している。

元木:「やっぱりトイレって、あるんすよ、そういうの。自分だけの勘違いというか、スタイルというか。岡田さんも、なんかありますよね。ちょっと今からトイレ行きましょう」

—— 嫌だよ。

そう返しながらも、僕はひとつの記憶を思い出していた。

—— ……そういえば、うちの実家には、普通の便器の横に、小便器もあった。

元木:「まじっすか!家でそれってちょっと珍しいっすね」

流れに乗って、僕も語り始める。

—— なんか父親のこだわりだったらしい。田舎の戸建だったんだけど、家にトイレを1箇所しか設けない代わりに、小便器を置いたって。

元木:「普通の便器が2箇所あったほうが、便利そうっすけどね」

実家のトイレ近影

—— で、学校でも公園でも、施設の男子トイレには大体、小便器があるじゃない? だから大は大、小は小で便器を使い分けるのが当たり前だと思ってた。

元木:「やっぱ実家の影響ってでかいんすねえ

—— それで、ある日親戚の家に行ったら、小便器がなくて……どうしたらいいのか、わからなかった

元木:「やば!

元木が大袈裟にのけぞったが、Nさんは腑に落ちない顔をしている。

Nさん:「でもさ、どのみち実家でも座って大をするときには、ついでに小も出るやん?そしたら、座って小をする使い方も、わかるんちゃうの?」

さすがNさん。トピックはどうしようもないが、質問は鋭い。

—— それが、家で大と小の両方をしたい時は、分けてやってたんですよ。まず小便器で小をしてから、移動してた。

Nさん:「分割式……!」

元木が僕の肩をバシッと叩いた。

元木:「岡田さんこそ、変な分割してるじゃないすか!」

そうかもしれない。トイペについて、さんざん元木を追求してきたが、振り返れば自分にも似たような経験がある。Nさんにだってある。

いや、トイレに限らず、誰しもひとつくらいあるのではないか。

隠してないけど別に言わない、だからこそ育まれた、天然の秘密が。

自分ですら知らない、自分にすら秘められた、自分だけのトイレットペーパーが ——

 

 

元木:「俺、今日の飲み会、ここ数年で一番楽しかったっす」

帰り道、イルミネーションで彩られた池袋の街を歩きながら、元木がそう言った。その後もトイレの話で大いに盛り上がって、盛り上がりすぎて元木がテーブルのグラスを倒して、拭くのにトイペが役立った。

元木:「岡田さんとか、Nさんのことを、知れた気がします。みんな、もっとトイレの話をした方がいいのかも」

—— でも、個人的なことでもあるしなあ。

僕は言葉を濁した。

—— 今日はたまたま盛り上がったから良かったけど、なんというか、本来デリケートな話題でしょ。まあ僕が言えることでもないんだけど……

確かにっすねえ、と元木は頷いた。

Nさん:「あえて言わんとくのも、素敵やん?」

Nさんが急に紳助みたいに呟いたので、僕は思わずその横顔を見た。Nさんは、どこか感慨深い表情をしていた。
いつも冷静な人なのに、今夜はなんだかセンチメンタルだ。

Nさん:「あの人もこの人も、みんな見えないところでは、想像もつかんことをやってる。日常のすぐそばに、きっと不思議な世界がある……そう考えたら、ちょっと面白くない?」

Nさんの目は、どこまでも遠くを見ていた。その瞳には、どんなトイペが映っているのだろう。

—— そうかも、しれないですね。

僕は頷いた。

現実世界では、大掛かりなミステリーなんて起きない。でも小さな不思議なら、きっとたくさん溢れている。

元木:「まあ、窃盗はダメですけどね!」

元木が茶化した。みんなが笑った。

火照った三人分の頬を、ひんやりとした風が撫でた。新品のトイペみたいに、柔らかな風だった。

その日以降、会社であのカラカラ音を聞くことは、二度となかった。

 

そして現在

2024年1月。

中華料理店でトイペの話をした夜から、それなりの年月が経ったある日。

 

 

僕は元木の結婚式に参加していた。バイトはあれからじきに辞めてしまったし、元木に会うのは久しぶりだった。
そもそもこの記事を書こうと思ったきっかけも、元木から結婚式の招待がきて、トイペの件を思い出したからだ。

元木は式最初の挨拶でいきなりセリフを全部すっ飛ばして、会場の笑いを誘っていた。元木もサーセンと笑って、嬉しそうだった。身体は前より貫禄がついたものの、人懐っこい雰囲気は当時のままだ。

結婚式は終始和やかで、久しぶりの再会もたくさんあった。社長はまだ元気そうに社長をやっていたし、Nさんには2人の子どもがいるという。最近、下の子のトイレトレーニングを始めた、とNさんは言っていた。全部脱がせては、いないらしい。

式も中盤を迎え、お色直しで新郎新婦が一旦退場することになった。新婦は、新婦にそっくりなお父さんと。そして元木は元木にそっくりな元木のお兄さんと、それぞれ腕を組んで、会場をゆっくり歩いていく。みんなが幸せそうに笑っていた。

拍手で新郎新婦が見送られたあと、歓談の時間となった。僕はそっと会場を抜けた。ワインをハイペースで飲みすぎたせいか、お腹の調子が悪かったのだ。

 

個室トイレに入って、ズボンを下ろし、ふう、と息をはいた。

 

その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

隣室から、迫力のあるトイペ音が聞こえてきた。僕は思わず息を止めた。そういえば、僕が入った時、隣の個室はすでに埋まっていた。

 

 

 

 

 

懐かしい。むかしの記憶が鮮明に蘇ってくる。しかし、これは……

 

 

 

 

これは、当時より凄まじい引きだ。聴いたことのない引きだ。

まさか元木のやつ、あれから進化を遂げたのだろうか。

 

 

 

いや、違う。よく考えれば、元木はお色直しの最中のはず。和装だったし、着替えには時間がかかるだろう。

 

では、一体誰が……?

 

 

 

 

 

 

……どれくらいの時間が経ったろう。

ようやく水の流れる音がして、隣室のドアが開いた。
僕は思わず自分の扉を少し開き、隙間からそっと覗いた。

 

 

元木にそっくりな元木のお兄さんが、ハンカチで手を拭きながら、悠々とトイレを出ていくのが見えた。