以前アルバイトをしていた会社のトイレで、トイレットペーパーをずっとカラカラ回している人がいた。
誰が、なぜ、そんなにカラカラするのか?
その謎を追っていくうちに、まるで知らない世界が見えてきた。
これはトイレットペーパーにまつわる、そんな小さな物語である。
(※プライバシー等の事情から、設定などに脚色を入れています。実話をもとにしたストーリーとしてお読みください。なおエイプリールフールとは無関係です。)
隣室から聞こえる音
その音を初めて聞いたのは、夏の終わりのこと。職場の個室トイレにいた僕は、用を終え、立ちあがろうとしていた。その時だった。
隣室から、トイレットペーパーを引く音が聞こえてきた。
当時バイトしていた会社は、もともと小さな法律事務所だった。
だがいろんな事業に手を出し始めて、人が急激に増えたことで、個室トイレの数が足りなくなった。だからこうして、誰かと隣り合わせることも多かった。
トイペ —— トイレットペーパーのことを以降そう呼ぶ —— の音が続く。僕は思わず息を潜めた。
個室を出るタイミングが一致して、鉢合わせてしまうのが嫌なのだ。なんか気恥ずかしくないですか?
それにしても、長い。
長さが増している。
僕は待つのを諦めて、先に出ることにした。ズボンを上げ、ベルトを締めている間も、隣室の音が止まることはない。普通はもっと、短いのではないか?
しかし普通とはなんだろう、と僕はまた考える。他人がトイペを使っている姿を、実際に見た事はない。トイペにルールがあるわけでもない。逆に自分の方が、おかしなトイペの使い方をしている可能性だってある。
僕は個室をあとにした。洗った手を乾かして、トイレから立ち去る際もなお、遠くから微かにカラカラ音が聞こえた。
夏の終わりの、セミの鳴き声みたいだと思った。
人はトイペをどれくらい使うのか?
帰宅したあとも、まだカラカラ音が耳に残っていた。
そこで試しに、自分のトイペの使い方と比較してみた。できるだけ、隣室で聞いた「カラカラ音」に近い勢いで引いてみる。
1、2、3と3回引いて、これくらいだろうか。僕はこの動作を2度繰り返すことが多い。
測ってみると、その長さは1度につき1.35メートルだった。2度繰り返すと、合計で2.7メートル。どちらかというと多く使う方なのかな、と自分では思っている。
ところで、トイペには「葉」という単位が存在するらしい。なぜ葉と呼ぶのかは知らないが(むかし葉っぱで拭いていたからだろうか?)、ミシン目のひと区切りを指す。メーカーによって異なるものの、1葉は20数cmに相当するようだ。
僕の引いたトイペは、ミシン目で数えると12葉だった。僕はいつもトイペをミシン目で区切るから、ぴったり割り切れる。
そして僕は先ほどのトイペ引きにおいて、一度につきカラ、カラ、カラと「カラ」を3回鳴らしていた。
1、2、3
これを二度繰り返しているので、カラカラ音は合計で「6カラ」だ。
つまり以下の図式が成立する。
ここから「彼」のトイペの長さを推計してみよう。
隣室の彼は、あの時最低でも50カラくらいは鳴らしていたように思う。すると45cm x 50カラで、22.5メートル。
少なくとも、20メートルを超えるトイペを使用していることになる。JRの在来線車両より長い。
次に、より客観的な視点から考えてみよう。
トイペに関しては、いくつかの統計がある。調査によって幅があるようだが、例えば日本トイレ協会の調査によると、男性が1回のトイレで使うトイレットペーパーの長さは平均3.15メートル(≒7カラ)だという。僕より長い。自分が「短い方」だと知って、ちょっとびっくりした。
ただし調査においては、「使用量には非常に個人差があり、最も短い人で20cm、最も長い人で12m」という記述もあった。トイペの使い方は、人によって60倍もの差があるのだ。
食事をするときに、そんな個人差は生まれない。食べる時はないのに、出る時に生じる差。やはり個室というプライベートな聖域だからこそ、生まれる個性ではないか。
ちなみに「トイペを何枚重ねれば、清潔か?」という研究が行われたこともあるらしい。その結果、必要なトイペは「8.1メートル(≒18カラ)」だそうだ。長すぎる。でもそれ以下だと、大腸菌がトイペを通過してしまうという。トイレの後には手を洗いましょう。
あの時、隣室でカラカラ鳴らしていた彼は、大腸菌の知識を持っていたのだろうか。
トイペのデータを調べるうちに、あの彼はどうやってトイペを使っているんだろう、と興味が湧いてきた。
トイペ窃盗疑惑の浮上
秋。
会社で総務の社員と立ち話をしていたところ、「オフィスのトイペの減りが早い」という話題になった。この総務は新しく転職してきた人だが、前の会社に比べ、トイペが異常な速さでなくなっていくのだという。
おかしい、おかしい、と総務は苛立った口調で繰り返した。トイペも会社の備品だから、不可解な減りを見逃せないようだ。
総務の話を聞いて、僕はすぐさま、あの時に聞いたカラカラ音を思い浮かべた。でもなんとなく、言う気になれなかった。それに会社の備品がどうなろうが、一介の事務アルバイトである僕にとっては、正直どうでもいいことだ。
「トイペだからって無駄使いしていいわけじゃない。社会人としてありえない」
話しているうちに、総務はヒートアップしはじめた。怒りながら「社会人」という単語を繰り返した。怒りに酔っているようでもあった。
そしてついには、
「勝手に持ち帰ってるんじゃないか?」
と言い始めた。
トイペの窃盗を疑い始めたのだ。なんでも前の会社で、レターパックを大量に持ち帰り、私的利用した人がいて、大問題になったらしい。
さすがにレタパ(レターパックのこと)とトイペでは話が違うのでは?とも思ったが、なんであれ備品を勝手に持ち帰るのは、ときに窃盗罪となるという。この会社は、法律好きが多いから厄介だ。
「だとしたら、ちょっと許せない。うちの弁護士にも相談してみようかな」
総務は、犯人探しを始めるつもりだった。会社に所属する弁護士の力まで借りるという。いくらなんでも大袈裟すぎる。
だが総務の眼には、とつぜんの正義に目覚めたような、危ない色が浮かんでいた。その眼を見て、トイペカラカラの「彼」に会わなければ、と僕は思った。
よくわからないけど、もしかしたら彼が、なんらかの冤罪を着せられてしまうかもしれない。彼に事情を伝えたいと思った。あと普通に、トイペの使い方も訊いてみたかった。
それから僕は、会社の個室トイレへ足しげく通うようになった。彼に会ったのは朝だったから、なるべく午前中に行くようにした。
ただ用もなくトイレに通うのも不道徳なので、きちんと朝に催すよう、食物繊維をたっぷり取ったり、サプリを飲んだりした。早寝早起きをし、適度な運動を心がけた。
その結果、健康になった。
でも彼とは、会えなかった。
外はすっかり涼しくなって、スズムシがコロコロ、と鳴きはじめた。カラカラ、の音が懐かしくなった。
カラカラ音の正体
冬。
当時バイトしていたその会社では、よく全社での朝会が開かれていた。バイトも対象なのは厄介だったが、コロナ禍以前にも拘らず、会議はオンラインでも参加できた。ただ先進的というよりは、単純に人が増えたせいで席が足りなかったのだ。そしてトイレも足りなかった。トイレのキャパシティは、仕事の生産性に深く関わるから問題だ。
そんな職場環境だったから、僕もこれまではリモート勤務することが多かった。だがトイペの件があって以降、僕の出社頻度は増えていた。もちろん、トイレに行くためだ。
その日も僕は、朝早くから出社していた。朝会にも、オフィスからオンライン参加した。そしたらなぜか、全員の前で「バイトなのに出社して偉い」的なことを社長から褒められた。
早朝からオフィスにいたのは僕と社長くらいだったから、その声ががらんどうの空間に響いて、余計に恥ずかしかった。バイトの同僚たちに、あとで絶対冷やかされる。
案の定、すぐにチャットが届いた。
※チャット画面は当時の文面を再現したものです
差出人は、元木(仮名)という後輩だった。職場の後輩でもあり、大学の後輩でもある、長い付き合いの男だ。
元木は最近、オフィスの近くに引っ越したらしい。徒歩10分っす!と自慢していたものの、一向に出社する気配はない。
その後も元木との無駄なやり取りを続け、10:30に朝会が終わって、すぐにチャット欄を閉じた。
カレンダーを開き、一日の仕事をざっと確認する。どれも退屈な事務作業で、ため息が出た。溜まったメールを10分くらいかけてダラダラ返信し、さあ朝飯の時間にしよう。コンビニへ行く前に、トイレに寄ることにした。
だがトイレに入った瞬間、異変を感じた。
早朝にも拘らず、個室の一つが、閉まっていたのだ。
いる。
本能が告げていた。この個室には、彼がいる。
僕は隣の個室に入り、そろりと便座に座った。しばしの静寂を挟んだのち、隣室からあの音が聞こえてきた。
僕は息を呑んだ。始まったのだ。あの音に、再び出会えた。
ずっと、待っていた気がする。
耳を澄ませる。鼓膜が振動を覚えていた。
聴きいるうちに、次第にカラカラ音は、音楽となっていった。カラカラ続く無機質な音が、無数のカとラに分解され、旋律として再構成される。
目を閉じると、頭の中で、カラカラが蠢き始めた。僕には見えないカラカラは、見えないからこそ、想像の中で自由に動ける。
カラカラが個室の壁に跳ね返って、縦横無尽に走り回った。
カラカラが、空を飛んだ。
カラカラが、波のように寄せては返した。
楽しかった。こんな時間が続けばいいと思った。
だが、その時だった。
水が流れた。
ついに彼が、水を流した。僕が入った時には、すでに終盤だったのだろうか。
僕は彼に会おうと、急いで自分のトイペを引いた。窃盗疑惑の件を、伝えなければいけない。
しかし、それは早とちりだった。
カラカラが、再開したのだ。流せば終わり、というのは僕の固定観念に過ぎなかった。
彼のカラカラは、流しても続く。不死鳥のように、何度でも蘇るカラカラだ。
カラカラはますます自由になって、どんな形をとることもできた。
カラカラが鳴く。不死鳥が鳴く。
薄々感じていたことを、このあたりで僕は確信した。この長さには、なにか事情があるのだろう。
例えば、潔癖症。あるいはそれが極端になると、強迫性障害。そこまでいかなくても、便座を拭いたり、便座にトイペを敷く人は珍しくない。彼もまた綺麗好きで、トイペをいろんなふうに使っているのかもしれない。
カラカラの雨が降り注いだ。個室で雨宿りしながら、僕は、一人の人物を思い浮かべていた。
社長だ。
社長は潔癖症で、いつも自前のアルコールティッシュを持ち歩き、会議の前後は必ず机を拭いて回っていた。「自分でもやりすぎだと思う」と本人が話していたのを、耳にしたことがある。
そもそも、今朝のオフィスで見かけたのは、社長くらいだった。
社長との思い出が、シャボン玉のように浮かんでは弾けていく。
社長のことは、決して嫌いではない。ちょっと面倒くさいところもあるけど、根は繊細でとても優しい人だ。自分の会社とはいえ、窃盗の疑いをかけられるなんて、あんまりである。
どうか社長が、傷つきせんように。
気づけば僕は祈っていた。
どうかこの問題が、穏便に解決されますように。
トイペが回る。音が回る。ぐるぐるぐる、終わりのない螺旋が渦巻く。
目を開けて、現実に戻った。ズボンを上げて、水を流した。これ以上追求するのはやめだ。仕事に戻ろう。
僕は個室を出た。手を洗い、朝飯なに食おうかなあ、とか考えていると、
背後から個室の鍵が外れる音がした。僕はギクリとした。
まずい。社長が出てくる。
なんと声をかければいいのだろう。鏡越しに、ゆっくりと個室の扉が開くのが見えた。
おはようございます、社長……振り返ってそう挨拶をしようとした矢先、鏡に映った姿を見て、僕は固まってしまった。
それは社長ではなかった。
元木だ。
さっきまで僕とチャットをしていた、後輩の元木が、個室トイレから出てきた。
元木は僕に気づいたのか、気づいてないのか、手も洗わずに、僕の後ろを通り過ぎて行った。鼻歌を歌いながら、そのまま廊下へ歩いて行く元木を、僕は鏡越しに眺めつづけた。