第10位

 

「13545個の中のベスト10が発表されると聞いたから来たのに、いきなりから『山田』かい。やる気はあるのか。」と思われるかもしれませんが、決して適当に選んだわけではありません。私は「山田」という苗字を、全ての姓のスタンダードであると考えるほどに評価し信頼しているのです。

もちろん、山田姓の人口の多さはスタンダードたる理由の1つではあります。しかし、「山田」という字面のシンメトリーで地に足ついた様子や、母音がaで統一された心地良い語感といった要素からは、単にありふれた苗字であるということ以上の安定感が感じられます。もし日本に山田姓が10人しか存在しなかったとしても、私はそれをスタンダードな苗字であると思うでしょう。

このようにシンプルで安定感があるからこそ、「山田」という苗字は下の名前を作るための場を整えてくれていると言えます。「場の空気は作った、あとは好きにやってくれ」と言わんばかりの心強さ。苗字が「山田」である時点で、人名としてある程度のクオリティは担保されているも同然なのです。でも、何を合わせてもいいからこそ最適解を見つけ出すのは難しい。

それで言うと「陶平」は、これが「山田」に対する最適解である、と断言することはできませんが、相当いい線いっているのではないでしょうか。まず「陶平」という名前単体で見ても、「陶」の字や「とうへい」という響きはやや珍しいものの、決して人名として無理のない範囲にとどまっているところに好感が持てます。この丁度いい温度感の遊び心と「山田」の安定感が、どちらがどちらの邪魔をするでもなく互いに引き立て合っているのです。ぜひ「山田陶平」と口に出して言ってみてください。どっしりとした「やまだ」の後に続く「とうへい」のやや気の抜けた響きは、まさに山中で頬を撫でる涼やかな風のようではありませんか。

しかしながら、「山田」という苗字のベーシックさはやはりネックにもなり得ます。13545個の中から10個を選出するとなると、やはりインパクトやオリジナリティも評価の基準となるため、そういう意味では頭一つ抜けきれなかった印象は否めません。それが10位に落ち着いた理由ではありますが、逆に言えばそれでもランクインするほどクオリティの高い名前だということです。

 

第9位

 

つい先ほど、ベスト10に選ばれる名前の条件として「インパクトやオリジナリティも評価の基準となる」と書きましたが、これはまさに「インパクトやオリジナリティ」の象徴のような名前です。「典征郎(てんせいろう)」なんて名前、想像したことありますか!?!?

私自身、「典征郎」をノートに見つけたときは「過去の自分、かましてるな」と思ってしまいました。しかし、頭の中で反芻するにつれ、ただ奇抜なだけではない味わい深い名前であることがわかってきたのです。

「てんせいろう」という軽やかで優雅な響きもさることながら、私はこの名前の一番の魅力は「そこに込められた意味や由来が一見しただけではわからない」ところだと考えます。もし「典征郎」という名前の人が実在したら、親はおそらく何らかの強い意志があってわざわざそんな名前を付けているわけじゃないですか。でもその意図は簡単に周囲には伝わらない。「典を征するってどういうこと……?」となってしまう。そのミステリアスさ、底知れなさこそがこの名前の妙味なのです。

(※なお私は名前を作る際、基本的に意味はそこまで重視せず、字面や響きの据わりの良さを優先するようにしています。そのため「典征郎」という名前にも正味特に意味はないのですが、こういう「推測の余地」がある、ということ自体が良いのです)

ミステリアスな名前が好ましいとは言っても、ただ難解で意味ありげな漢字を並べ立てればいいというわけではもちろんありません。それではただのキラキラネームと変わりがない。「典征郎」の目をみはる点は、「典」も「征」も「郎」も名前に使われる漢字として別段珍しいものではないということです。さらに言えばこれらは、私が特別に気に入っている字というわけでもありません。なのにこの3文字が一堂に会したことで、私自身も予想していなかった化学反応が生まれたのです。「かっこいい名前を作るにはかっこいい漢字を使わなければならない」という思い込みを打ち破るような、斬新にして痛快な一作です。

最後に、今まで触れてこなかった「小杉」について。「典征郎」と比べるとどうしても語ることの少ないこの苗字ですが、ただのバーターであるとは言い切れません。私は架空の人名を作る際、苗字から考え始めることがほとんどです。つまりこの名前も「典征郎」ありきなのではなく、ノートに「小杉」と書いたときにはまだ「典征郎」は生まれていなかったのです。「小杉」が「典征郎」を引き出した、と言ってもいいでしょう。このことを忘れないでください。

 

第8位

 

まず、この名前がベスト10に入るまでの経緯について説明させてください。私はこのランキングを作るにあたり、まず全てのノートを見返してピンときた名前を100個ほどピックアップした後、そこから少しずつ数を減らしていき、最終的に残った10個の中で1位〜10位の順位をつけるという方法をとっていました。しかし「正枝翌」は、実はその途中で一度脱落しているのです。かなり後半まで生き残っていたのですが、ベスト15くらいのところで選外となってしまいました。

そしてベスト10のうち9枠が決まり、残りはあと1枠という状況。私は最後に残った2つの名前のどちらを選ぶべきか迷っていました。両者の完成度はまったく拮抗しており、甲乙をつけるのは困難を極めます。2つの名前を見比べすぎて何がなんだかわからなくなってきた頃、私はふと「墓場」(脱落した名前がまとめてある場所)に目を向けました。すると、そこには死体の山に紛れて確かに生きた目をした者がいたのです。それが「正枝翌」でした。私はこいつこそが最後の一人にふさわしいと確信しました。

なぜ「正枝翌」を一度除外したのかというと、この名前が技術的な面においてやや至らない部分があると感じたからです。まず「正枝(まさえだ)」という苗字。私はこれを自然と「まさえだ」と読んでいましたが、一般的にはこの漢字の並びだと「正枝(まさえ)」という女性の名前に捉えられてしまうのではないでしょうか。このような誤読を防ぐためにも、あてる漢字は「政枝」の方が適切だったと思います。

また、「翌」と書いて「あくる」と読ませるのは当て字です。もちろん当て字が一概に良くないということではないし、そこまで無理のある読み方をしているわけでもないですが、ただでさえ「翌」という名前としては珍しい漢字が使われているのに、その上さらに当て字にするのか? という点が引っかかってしまいます。さらに言えば、名前に「あく」という音が入っているのもどうなんだ、と思えてくる。ベスト10を選ぶとなると、このような世間体もまるきり無視するわけにはいきません。こういった要因が重なり、「正枝翌」は墓場に送り込まれることとなったのです。

ではなぜこの名前はそこから復活を遂げたのか。先述した通り、「正枝翌」が一度選考から外れたのはテクニックの不足が原因でした。が、そこからベスト10に返り咲いたということは、テクニックに依らない「何か」がこの名前にはあったということに他ならないでしょう。しかし私には、その「何か」が何であるのかを説明することはできません。言い換えれば、その「説明できなさ」こそがこの名前の魅力なのです。

10/13545を選出するとなると、無理にでも粗を探し出しては足切りしていく必要があるので「よくわからないけどなんとなく気に入っている」というような名前は生き残りにくい傾向にあります。その結果、技術的に洗練された名前ばかりが上位に名を連ねることになります。もちろんそういう名前が評価されるのは何も間違っていませんが、果たしてこのランキングをスポーツの大会のような「選手権」にすることが私の目的だったのでしょうか。「正枝翌」を8位としたのは、あるいは私のエゴなのかもしれません。しかしそんなエゴが込められていないのであれば、こんなランキングを作る意味などないとも思うのです。

 

第7位

 

10000個を超える名前の中からベスト10を決めるにあたり、私はさまざまな評価基準を設けましたが、こと「文字の並びの美しさ」という観点ではこの名前が頭一つ抜けていました。「早水丘陽」、まるで清らかな自然の風景を表した四字熟語のようではないですか。

「早」「水」「丘」は、私が名前を作る上で気に入っている漢字をTier表にするならいずれもAランク以上には食い込むであろう字。「陽」はその時々で評価が変わる字なのですが、この名前においては十二分にそのポテンシャルを発揮していると言えます。

中でも注目したいのは、苗字の「早水」。「速水」でも「早見」でもなく、ここで「早水」を持ってきた過去の自分のセンスには我ながら感服します。「はやみ」はとにかく響きがかっこいい苗字なので、漢字のチョイスはそこまで重要ではないのかもしれませんが、だからこそ少し珍しい「早水」が光ってくるのです。「速水丘陽」や「早見丘陽」でも十分に良い名前ではあるけれど、「早水」というさりげない、しかし無視することのできないアクセントがこの名前をベスト10に導いた一因であることは間違いありません。

また「丘陽」という名前に関しても、「丘」を「たか」、「陽」を「あき」と読むのはいずれもやや変則的なものの、最終的に「たかあき」という堅実な響きに収まっているところが高評価です。私は名前を作るとき、響きよりも字面を工夫する(よくある音の名前にいかに意外な漢字をあてるか、など)方が好きなのですが、「丘陽」は”字面の工夫”の模範回答とも言うべき出来であると思っています。さらにただ字の並びが意外なだけではなく、「丘から太陽を見下ろす」というような詩的なイメージも連想できる。第9位の「小杉典征郎」の項目では「名前に込められた意味や由来がわからないのが良い」と書きましたが、この名前のように美しい情景が頭に浮かぶものも悪いわけがありません。

初めに書いた通り、「早水丘陽」は圧倒的に文字の並びが美しい名前です。しかしその美しさとは、単に見栄えが良いということではなく、「機能美」に近いものなのかもしれません。全ての漢字が収まるべくしてそこに収まり、あるべき響きとイメージを生み出している。その調和こそが、この名前の真の魅力なのではないかと思います。

 

第6位

 

ノートにこの名前を見つけたとき、私は思わず「友達になりたい」と心の中でつぶやいてしまいました。言うまでもなく「深沢一整」とは私が作り出した架空の人名であり、そういう名前の人と実際に会ったことはありません。しかしその前提を一瞬忘れさせるほど、「深沢一整」という名前には「人柄の良さ」が表れていたのです。

この名前の美点は、文字通り「整っている」ところだと思います。音といい字面といいとにかく淀みがなく、名前という文脈から切り離してもなお鑑賞に堪えうるほど落ち着き払っている。「深沢一整」という漢字の並びなど、達筆な毛筆で掛け軸に書かれ床の間に飾ってあったとしても違和感がありません。また「ふかさわいっせい」という、一度も唇同士がくっつかずに発音できる爽やかな響きは、さながら小川を流れるせせらぎのよう。このように、単に人名としての完成度が高いだけではない奥深さがあるからこそ、私は「深沢一整」に存在しないはずの人格を見出すことができたのでしょう。

そして、「深沢一整」という名前の長所として挙げた「整っている感じ」「淀みのなさ」は、人間に置き換えるとまさしく円満な人格の象徴となるわけです。考えてもみてほしいのですが、「深沢一整」という名前の人が人格破綻者なわけなくないですか? 「僕の名前は深沢一整、趣味は犬に磁石を食わせることです」みたいな奴が存在するわけないと思うんですよ。「深沢一整」は冷静にして温厚、人として一本筋が通っていながらも決して頑固ではないナイスガイであるはずなのです。

「深沢一整」が高校のクラスメイトであると考えてみましょう。「ふ」から苗字が始まるということは、彼の出席番号はクラスでも後ろの方であると考えられます。この時点ですでに良い(騒がしい生徒とかちょっとヤンチャな生徒って出席番号が若い方に集中してる気がしませんか?)。私と彼は家の方角が一緒なので登下校時の通学路では結構話をするのですが、私は基本的にめちゃくちゃ暗くて友達がいないので、教室で彼に話しかけると「深沢ってあいつと仲良いのかよ……」と周りに思われて彼自身のポジションまで下がってしまいそうなのが申し訳なくて学校内ではあまり関わらないようにしています(深沢も別にスクールカーストがすごく高いというわけではないんですけど)。でも体育の授業とかがある日の朝の通学中に「今日の授業、ペア組んでよ」と頼むとちゃんとその約束を果たしてくれて、そういうちょっとした優しさほどずっと覚えているものですよね。ところで深沢はバスケ部に所属していて部活のある日の帰りはだいたい18時半くらいなのですが、天文部の幽霊部員である私(活動日数が少なくて楽そうだから入部したものの、女子と上級生のオタクしかいなくて気まずくて行かなくなった)がその時間まで学校に残っている理由もないのでわざわざ待ってるのも変かなと思い、でもやっぱり学校の外でくらい話したいからそういうときは駅前のミスドで時間を潰してたまたま帰るタイミングが一緒になったみたいに見せかけたりすることもあります(こんなのって少し気持ち悪いですか?)。でもそんな深沢も最近ではバスケ部を辞めようかどうか考えてるらしくて、元々中学のときバスケをやってたからなんとなく高校でもバスケ部に入ったらしいけど、やっぱり高校の練習は厳しくて趣味(最近はBlenderの勉強をしてるらしい)に打ち込む時間もないし、周りとも話が合わないのでいっそもう退部しようかと考えているとのこと。だから私はこれが好機とばかりに「辞めちゃいなよ。あれだったら天文部来たら? 楽だし」と幽霊部員のくせに言って、そしたら深沢は「あー」と言って、その「あー」がやんわりとした否定を意味しているのではなく本当に検討してくれているときの「あー」だということがなんとなく伝わってきて、それだけでも私は嬉しくて、彼と別れた後コンビニに寄って、モンスターエナジーを、絶対そんなにいらないのに500mlとか入ってるペットボトルみたいな形の缶のモンスターエナジーを買ってしまった、「深沢一整」とはそういう名前なのです。

 

第5位

 

当然ながら私は、今までに作った名前の全てを覚えているわけではありません。しかし「これは良い名前ができたぞ!」という手応えがあったときのことは記憶に残っています。「星田大空海」は10年以上も前、私が中学生の頃の作ですが、今でもこの名前を思いついたときの興奮を思い出せるほどの自信作です。

「大空海」という字面の規格外の壮大さ、意外性と洒落っ気にあふれつつも遊びすぎてはいない漢字のあて方はあっぱれの一言。さらにそのような特別感に対し、読み方はメジャーで親しみやすい「たくみ」という音に落ち着いているバランス感覚もお見事です。しかもこの名前が生まれた時期を察するに、どうやら私は「架空の人名を作る」という営みを始めてから1年も経たないうちに「星田大空海」を考え出したようなのです。そんな早い段階でこんな名前を作れたら調子に乗ってしまいます。事実、私は名前作りという趣味について人に話すことはほぼなかったのですが、「星田大空海」に関しては「良い名前が作れた」と親に報告した記憶があります。普通に考えて、中学生の息子が家でノートに架空の人名を延々と書き連ねているということを知ったら親は困惑すると思うのですが、当時の自分はその懸念をしのぐほどの手応えを「星田大空海」に感じていたのでしょう。

しかし、そんな中学時代の自分の勲章とも言える存在であった「星田大空海」も、今改めて見ると多少の粗があることは認めざるを得ません。特に気になるのは、姓と名のシナジーのなさ。苗字に入っている「星」のせいで、せっかくの「大空海」のインパクトが薄れてしまっているのです。また、1つの名前に「星」「空」「海」と3つも自然的なモチーフが含まれているのもバランスが良いとは言えません。第9位の「小杉典征郎」の項目では「姓が名を引き出している」というようなことを述べましたが、それにしても「星田」は「大空海」のベストパートナーとは言い難い。「大空海」レベルの名が生まれたのであれば、その魅力を100%引き出せるような別の苗字をオーダーメイドしてもよかったかもしれません。

また、今まで褒め称えてきた「大空海」も、やはり完全無欠というわけにはいきません。この名前の唯一の弱点、それは平安時代の名僧である「空海」が連想されてしまう点です。空海という人物自体がどうというわけではなく、架空の名前を作る上では、実在する別の人名を想起させてしまうことは避けるべきなのです。まあ、「大空海」という名前に「空海」が含まれてしまう、というのは構造的に避けようのないことなので殊更にあげつらうのも酷ですが、もし「星田大空海」が実在したとして、小中学校の歴史の授業で空海が取り上げられた際、周りのクラスメイトから「だいくうかい、だいくうかい」と囃し立てられるさまを想像すると、ほんの少しだけいたたまれない気持ちになるのです。

なんだか途中から文句じみたことばかり並べ立ててしまいましたが、10年以上、13000個以上の名前を作り続けてなおこれほど印象に残っている名前もなかなかありません。今の自分の感覚からすれば突っ込みどころもあるけれど、だからといってこの名前の価値が下がるわけではないのです。13000個も架空の人名を作れば技術くらい身につくし、10年も経てば好みは変わるのが当たり前でしょう。それより私は、10年前にこの名前を思いついたときの喜びと感動を大切にしたいのです。多少拙くても、その時にしか宿すことのできない情熱が込められているものを、私は良い名前だと思いたいです。

 

第4位

 

実に切れ味鋭い、百戦錬磨の武士の太刀筋を眺めているような印象を抱かせる名前です。この名前の作者である私自身ですら、「野月容一朗」と向き合うには居住まいを正さなければならないような気分にさせられます。

まず、「野月(のづき)」という苗字のクールさは全名前の中でも随一。風流な字面と奇妙に色っぽい響きを兼ね備え、一発で「こいつは只者ではない」と思わせる風格があります。ちなみに調べてみたところ「野月」という姓は実在するそうですが、この名前を作った当時の私はそのことを知らなかったはず。自力で「野月」にたどり着いた己の力量も評価したいところです。

また「容一朗」も、苗字に負けず劣らずの切れ者。「野月」の緊張感にも気圧されることのない、飄々とした佇まいに惚れ惚れします。私はそもそも「〇〇朗(郎)」という名前が好きなのですが、「容一朗」はその中でも出色の出来だと思います。ここで注目したいのは「容」の字。小学校でも習う一般的な漢字であり、「包容」や「寛容」といった語にも用いられるなど意味合いも良さげでありながら、人名に使われることはそこまで多くない印象。この塩梅が実にちょうどいいのです。「陽」や「洋」ではありきたりだし、かといって「耀」とかまでいくとちょっとやりすぎな気もしてしまうのですが、「容」はこの名前にこれ以上ないほどぴったりフィットしています。今考えても、ここに入るのは「容」しかありえません。「容」の字こそがこの名前の中核を担っていると言ってもいいでしょう。

そして、そこに続く「一朗」。パーツとして見れば「太朗」の方がオールマイティーで合わせやすくはあるのですが、「容太朗」ではややパンチが足りないというか、「野月」に呑まれてしまいそうな頼りなさも感じてしまいます。その点「一朗」は少しクセが強い分、こういう名前に放り込んでもしっかり味がするのが良いところです。また、「一郎」ではなく「一朗」なのもポイント。「朗」の字を用いることで姓と名の両方が「月」で終わることになり、視覚的なリズムと統一感が生まれています。このように、「一朗」が最終的に名前を引き締めてくれているのです。

改めて「野月容一朗」という名前をフルネームで見てみると、一分の乱れもたるみもない、難癖のつけようのない名前であると思わされます。ですが決して四角四面というわけではなく、上品な色気と一抹の剣呑さを感じられるところが4位たる所以。もし「野月容一朗」という人が名前の印象そのままに存在したなら、それはきっと「普段は鷹揚に振る舞っているけれど、ふとした瞬間に非情な一面を見せる細面の男」でしょう。よく考えたらそんな人はちょっと嫌かもしれませんが、名前単体で見れば架空の人名作りにおける一つの到達点と言ってもいいくらいに完成された名前だと思います。

 

第3位

 

「今までに作った全ての名前からベスト10を決める」という企画を思いついたとき、真っ先に頭に思い浮かんだのはこの名前でした。それくらい、「二口公渡」という名前は私にとって代表作とも言うべきものであり、実際にその期待を裏切らない結果を残してくれたといえるでしょう。

この名前の魅力は、とにかく姓と名の両方が強いところまず「二口」という苗字ですが、漢字を習いたての小学生でも書ける超シンプルな字面でありながら、響きはいかにも曲者っぽく一筋縄ではいかなそうな雰囲気を醸しているギャップにしびれます。もし現実で「二口」という姓の人と出会ったら、それだけで好感を抱いてしまいそう。それどころか私は自分自身が「二口」になりたいとさえ思ったのか、「ポケモン LEGENDSアルセウス」をプレイする際主人公の名前を「フタクチ」にしてしまったほどです。

 

©2022 Pokémon. ©1995-2022 Nintendo/Creatures Inc./GAME FREAK inc./Pokémon LEGENDS アルセウス』より引用

 

「公渡」も、実直でありつつ退屈ではない気の利いた名前です。私は下の名前を作るとき、名前によく使われる音のパーツ(例えば「ゆう」「しん」「まさ」「ひろ」など)をストックしておき、そこから苗字と相性の良さそうなものを適宜組み合わせる、という方法をとることが多いのですが、その中でも「きみ」はいぶし銀のパーツ。普段はやや影が薄く使用頻度も高くないけれど、こうしてたまに使うと想像以上の働きをしてくれるのです。

そして極めつけは「渡(と)」。名前に用いられる「と」の漢字は「人」や「斗」が主流だと思うのですが、そこからさらに一捻り加えた“工夫”を感じられるところがたまりません。珍しい字ではないし読み方も標準的、なのに意外性があって意味も悪くない。私が名前作りで求める要素が全て詰まった1字と言っても過言ではありません。特にこの名前の場合、「二口公人」や「二口公斗」だと字面が簡素になりすぎてしまうので、ここで「渡」を持ってきたのは我ながらファインプレーだと思います。

また、改めて「公渡」という名前を見てみると、字面や響きの面白味があるだけでなく意味もしっかり通っていることがわかります。「公(おおやけ)に渡る」という字の並びからは、「世に広く知れ渡るような立派な人になってほしい」というような願いが読み取れます。まあ、実際のところ私はそこまで考えた上でこの名前を付けたわけではないので、こうしてわざわざ意味を見出すのはロールシャッハテストのようなものかもしれませんが、偶然とはいえ良さげな意味を読み取れたというのも高評価の一因です。

しかし、たった一点だけ惜しいところが。それは、姓と名をつなげて「ふたくち きみと」と言うと、頭の中で一瞬「2口、君と」という表記に変換されてしまうことです。「2口、君と」などというフレーズはこの世に無いのですが、なんというか「ちょっとありそう」な感じもしませんか? 存在しないお菓子のキャッチコピーっぽいというか。これが実に厄介で、「存在するフレーズ」に名前が似ないよう気をつけることはできるけれど、「存在しないけどありそうなフレーズ」に名前が似ないようにすることは原理的に不可能なのです。「二口公渡」の場合も、「二口公渡」という名前が生まれるまで「2口、君と」というフレーズもこの世には無かったわけで、事前に「この名前は存在しないお菓子のキャッチコピーっぽくなってしまうかもしれない」と予測しそれを回避することなどできるわけがありません。だから私もこんな揚げ足取りみたいなことはしたくないし、そもそもこの感覚がみなさんにどのくらい伝わっているのかもわかりませんが、これくらいのことも審査の対象としなければ順位が付けられないほどの接戦が繰り広げられているということなのです。

 

第2位

 

私が架空の人名を作る上で何かと頭を悩ませてきた長年の課題、それは「健一」や「信一」などのような「一で終わる名前」との付き合い方です。現実ではごく一般的なタイプの名前ですが、私はどうもこの手の名前を使いこなすことができずにいました。

率直に言うと私には、良い「一で終わる名前」を作る方法がわかりません。どうも字面に竜頭蛇尾な印象を抱いてしまうし、もっと言えば「いち」という響きで名前が締めくくられることすらどうもピンときません。これは完全に感覚の話でしかないのですが、同じく名前の締めに使われがちな音である「すけ」や「ひこ」などと比べても、なぜか「いち」には若干の違和感を覚えてしまうのです(なお、4位の「野月容一朗」や6位の「深沢一整」のように、名前の途中に入る「一」に対しては違和感はありません)。実際、私が今までに作った名前を見返しても、「一で終わる名前」は現実でのメジャーさに対し異様に少ない気がします。しかし、そんな私と「一で終わる名前」の冷え切った関係に一筋の光を灯してくれたのが「玉沼巡市」だったのです。

「一」という字が気に入らないから代わりに「市」を用いる、というのは別に名案でもなんでもない、簡単に思いつくようなことです。確かに「一」を「市」に変えれば字面のアンバランスさは解消されるでしょう。でも、それでは「市」が「一」の代用品であるという以外に何の意味も持たないことになってしまいます。それに「市」自体、そもそもが一般名詞であり文字そのものに特別前向きなイメージがあるわけでもないので、名前に使いやすい漢字ではありません。安易に「一」を「市」にするだけでは、かえって不自然な名前が生まれることになりかねないのです。

ですが「巡市」は、こうした問題点を華麗にクリアしています。「巡」という字を「市」の相棒とすることによって、「市(まち)を巡る」という意味のあるイメージが成立しているのです。この名前において「市」はただ「一」の代役として駆り出されたのではない、「市」そのものとしての役割を果たせています。また「巡市」という名前の、「優しい子になってほしい」や「健康に育ってほしい」といった漠然とした願いではなく、具体的な行動を示しているという独創性も高評価につながりました。

さらに、字面や意味の良さに引っ張られたためか、「じゅんいち」という響きすらもしっくりくるような気がしてきます。いや、実際に「じゅんいち」は「一で終わる名前」の中ではかなり親しみやすい部類かもしれません。「じゅん」というなめらかな音のおかげで「いち」の摩擦係数が下がっているというか。何にせよ、この名前は「いち」の響きの問題すら克服してしまったようです。

また「玉沼」も、「巡市」との相性が抜群の苗字。単体ではやや地味な印象を受けるかもしれませんが、「巡市」という旅情あふれる名前と組み合わせることでエキゾチックな雰囲気を醸し始めます。そして何より、「たまぬまじゅんいち」という姓と名の組み合わせの語感の良さ。まるで和菓子を口にしているような、軽やかで心地良い舌触りです。「語感の良さ」という基準で言えば、全名前の中でも1番かもしれません。「響きが気に入らない」という理由で敬遠していた「一(いち)で終わる名前」にそんな評価を下すことになるとは、私自身思ってもみませんでした。長く名前を作り続けていれば、こうしたミラクルも起こるということなのでしょう。

「玉沼巡市」という名前は、言わば突然変異的に生まれた傑作です。私自身なぜこんな名前を作れたのかわからないし、ここから良い「一で終わる名前」を作るための手法(ひいては、自分の趣味ではない名前を活かす方法)を得られたわけでもありません。こんな名前を作ろうとしたら、それこそ1/13000のようなわずかな確率で偶発的に生まれるのを待つしかないのかもしれません。でも、確率がゼロではないとわかったことに大きな価値があるのです。次の「玉沼巡市」は北極星のように遠く、しかし変わらない位置で私を待っているでしょう。そこに向かって再び走っていくのも悪くないと思えるのです。

 

第1位

 

まずはお祝いをさせてください。「豊井祥啓」、あんたが13545個の中の1位!!!!!!!!!!おめでとう!!!!!!!!!!

 

この記事をここまで読んでくれた方なら、私が架空の人名を作る上であらゆる要素を考慮し、「良い名前」を作ろうと努めていることをわかっていただけたかと思います。字面や響きの美しさにこだわったり、はっとするような意外性を追求したり、リアリティの有無に気を配ったり……架空の人名を考えれば考えるほど、「良い名前を作ろう」という意識は強くなっていきました。たくさんの名前を作り、良い名前とそうでない名前を見分ける審美眼が養われた結果、名前作りに競技としての側面が生まれたのです。もっと美しい名前を、もっと完成された名前をと研鑽を積んでいき、ベスト10に選ばれたのもその粋を極めたような名前ばかりです。もちろんそのことに今さら異議を唱えるつもりはありません。が、「豊井祥啓」にはそういった尺度では測れない何かがあるのです。

「豊井祥啓」が作られたのは2011年。ベスト10の中では最も古い名前であり、架空の人名作りの歴史全体で見てもかなり初期の名前です。そのため、この名前にアスリート的な価値観に依存しない素朴な良さがあるというのは至極当たり前のことで、今になってそんなことを特別に評価しているわけでは断じてありません。いたずらに年輪を重ねただけの過去の遺物が13545個の中のトップに選ばれるわけがないのです。

大前提として、「豊井祥啓」には今の群雄割拠の「架空の人名界」を勝ち抜くポテンシャルが十二分に備わっています。ベスト10の他の名前と比べるとやや地味で控えめな印象を受けるかもしれませんが、それはわかりやすいフックとなる字や音が含まれていないというだけのこと。珍しい漢字や独創的な響きを用いるのはそれ自体が目的なのではなく、「良い名前」の本質であるオリジナリティとバランスを生み出すための手段に過ぎません。「豊井祥啓」は、飛び道具を使わずともオリジナリティとバランスを表現できているという点で、他の名前より一枚上手なのです。

「豊井」という苗字の、ありきたりではないけれど確実に実在はするであろう塩梅の良さは、まさにオリジナリティとリアリティのバランスが均衡している理想的な状態。また「祥啓」という漢字の並びの端正さときたら、何度見てもため息が出てしまうほどです。「祥」「啓」はどちらも私の中で評価が高く、かつ組み合わせてもくどくならないギリギリのラインの字。読み方の面でも、「祥」は「よし」と読む漢字の中で最もちょうどいい「よし」、「啓」は「ひろ」と読む漢字の中で最もちょうどいい「ひろ」という気がします。「とよいよしひろ」という、スムーズでストレスなく発音できる響きも好印象。一切の過不足なく全ての要素が調和した、穏やかながらも全方位に隙のない完璧な名前です。

しかし、こうして「豊井祥啓」という名前の良さを鼻息荒く説明することはなんだか白々しく思えてしまいます。上に述べたような品評は、確かにこの名前の特長を説明できてはいるけれど、もっと深いところで的外れなような気がするのです。この名前を作った当時の私──中学1年生でした──は、完成度の高い名前を作ってやろうなどとは(少なくとも今よりは)考えず、ただひたすらに思いついた名前をノートに書き連ねていただけでした。意外に思われるかもしれませんが、当時の私には普通に友達がいたし、部活動にも所属し塾や英会話といった習い事にも通っていたのです。他にやることがなく時間を持て余していたわけでも、架空の人名を作ることしかアイデンティティがなかったわけでもありません。にもかかわらずあんなに大量の名前を作り続けていたのは、それが好きとか楽しいというのともまた違う、狂気じみた衝動に突き動かされていたからであるように思えてなりません。そしてその衝動は、良い名前を作ろうと努力「してしまっている」今の私からすると、ひどく崇高なものに見えるのです。今の私が失ってしまった狂気を、今の私が見ても美しいと思える名前に宿している。それこそが、私が「豊井祥啓」という名前を1位に選んだ理由なのです。

 


 

……いかがでしたでしょうか。果たして何人の人がこの記事に残っているのかわかりませんが、私が今までに作った架空の人名13545個の中で一番良い名前は「豊井祥啓」に決定しました。心から、おめでとうございます。

ランキングを振り返って思うのは、「最近の名前が強い」ということです。ベスト10に選ばれた名前のうち、4つが2022年に作られたものだという結果には私自身少し驚きました。2022年に私が作った名前の総数は、全架空の人名の中のわずか5%程度でしかないにもかかわらず、です。しかし数は少なくとも、最近に作られた名前の方が練度は高いはずですし、2023年現在の私が審査を行う以上、感覚の近い近年の作の方が評価されやすい傾向にあることは避けられません。だからこそ、12年前の作である「豊井祥啓」が1位に輝いたことは大きな快挙と言うべきです。昔の名前が不利という状況下でもベスト10まで勝ち残ったこと、そして何より12年前から今に至るまでその魅力が全く色褪せていないことを考えると、やはり「豊井祥啓」こそがトップにふさわしい名前に違いないと確信させられます。

 

最後になりますが、このランキングを作るにあたり惜しくもベスト10入りを逃してしまった名前も多くありました。そこで、ベスト10にはあと一歩届かなかったものの太鼓判を押せる名前をベスト50まで選出し画像ギャラリーにまとめてみましたので、よければそちらも併せてご覧ください。それでは、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。ライターの彩雲でした。