聖地へ降り立つ

 

 

ガタガタと、荷台の軋む音。揺れによる乗り心地の不快さは、肌にあたる生ぬるい風が和らげてくれる。僕はこの国の伝統的なタクシーであるオンボロのトゥクトゥクに乗って、無秩序で雑多な街を横目に見ながら、とある通りを目指していた。

 

 

ここはタイの首都、バンコク。経済成長が著しい東南アジアの中において、特に目覚しい発展を遂げた場所である。バンコク経済の中心に位置するスクンビットエリアには、複合商業ビルが立ち並び、BTSスカイトレインと呼ばれる高架鉄道がエリアをまたいで人の往来を活発にしている。初めてスクンビットエリアを訪れた時、その様相は発展途上国といわれていた東南アジアのイメージから、洗練された大都市へと、受ける印象を一変させられることとなった。

 

 

しかしスクンビットエリアを少し離れると、この国が未だ発展途上国に分類されていることが窺い知れる。多種多様な露店が軒を連ねる食堂街では、この暑い気温の中で冷蔵もせず大きな器に入れられたお惣菜、山盛りに積まれたマンゴーや見たこともない野菜などが台車に並べられていて、食べ終わった屋台の食器は洗剤と水が混じった大きなタライに投げ込まれ、後部にリヤカーを付けた移動式のアイスクリーム屋のご主人は、自転車をこぎながら歌を歌っている。トゥクトゥクに揺られながら見るその光景は、スクンビットエリアにあるような洗練された、それでいてどこか虚像のようなビル群とはうって変わり、この国の人々が醸し出すリアルな日常の雰囲気を垣間見ることができる。

 

 

そうした光景にどこか懐かしさを感じていると、トゥクトゥクが見覚えのあるロータリーに差し掛かったのに気付いた。聖地はもう目と鼻の先だ。僕は胸に溜まった不安をかき出すように大きく息をはき、自分のバックパックに手をかけた。

 

 

 

 

 

 

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バックパッカーの聖地、「カオサンロード」

 

 

小説家・沢木耕太郎が自身の旅を記した「深夜特急」において、「アジアを旅するなら、カオサンに行けばいい」と著述したことでも有名なカオサンロードは、直線300メートルほどの小さな通りの名称である。

 

 

通りを覗くと、多くが現地語で「ファラン」と呼ばれる白人達や、日本や韓国、中国といったアジア系の人種でひしめき合い、現地民であるタイ人は、店員以外にはほとんど見かけない。通りにはこういった外人旅行者のためのホテルやレストラン、カフェ、旅行代理店、土産物屋、マッサージ屋、タトゥーショップなどが立ち並び、表記もほとんどが英語である。バーの音楽はレゲエの神様ボブ・マーリーが流れていて、革命家チェ・ゲバラが露店のTシャツに描かれている。

 

 

カオサンロードに集まる様々な人種の旅行者、とりわけバックパッカーと呼ばれる流浪の若者達にとってこの場所は、90年代以降、聖地と呼ばれてきた。バックパックと呼ばれる大きなリュックをかついで移動し、自ら交通手段を手配し、食べ物や宿も自分で見つける。お金は極力使わない。そんな貧乏だけれど自由気ままな旅人にとって、安宿が多く、旅の情報が集まり、各地への移動もスムーズにできるカオサンロードは旅の拠点として最適であった。

 

 

 

ここは世界中の旅行者のための一大拠点なのである。

 

 

 

 

 

この旅の目的

 

実を言うと、僕はかつてカオサンロードを訪れている。2年前、旅の初めにこの場所を訪れ、東南アジアをバックパッカーとして旅した。その時は多くの旅行者と同じように旅の中継点としてこの安宿街を利用していた。しかし今回、この場所を訪れたのには別の理由があった。

 

その理由とは、この場所で出会ったある人を探しに来たのである。僕は彼にもう一度会うために、この場所へ来た。連絡先も、住所も何も知らない。唯一彼について知るのは名前のみである。

 

 

名前はたけしくん

 

 

彼は僕と同じ時期に、カオサンに滞在していた。しかし、彼の出発と僕の到着がほとんど同時期であったため、一緒に過ごした時間はわずかである。そして僕にとって、彼を探す手がかりは、このカオサンロードしかないのだ。限りなく可能性が低いことはわかっていた。しかし僅かな可能性に希望を抱き、僕はこの地に降り立った。

 

 

 

 

 

 

 

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僕が目指したのはカオサンロードとラムブトリー通りをつなぐ路地の中間にある、A.Tゲストハウスという名称の安宿である。A.Tゲストハウスのドミトリーと呼ばれる相部屋は、1泊100バーツ(約350円)。1階がバーになっており、入口の奥にフランス人のオーナーが座っていた。ドミトリー部屋は3階にあり、2階はシングル・ダブルの個室で、少し割高な料金となっている。

 

 

 

以前カオサンに訪れた時、僕もたけしくんも、このA.Tゲストハウスに滞在していたのである。

 

 

 

受付で手続きを済ませると、フランス人のオーナーはタイ人の従業員を促し僕を部屋に案内するよう言った。彼の後について階段を上がり部屋に入ると、5つの粗末な2段ベッドが、窮屈そうに並んでいた。タイ人の従業員がシーツを取り替え、布団もないベッドを指差し、ここがお前のスペースだと言う。部屋には、数人のバックパッカーが気だるそうにベッドに寝転んでいた。

 

 

 

 

 

 

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たけしくんと出会った時の話をしよう。

 

 

 

あの時、この狭いドミトリーの部屋には収容人数ギリギリの9人が滞在していた。彼らの熱気が部屋に備え付けられた扇風機の風を押し戻し、日中は部屋にいるだけで汗が滲んできた。このゲストハウスがあるゾーンは日本人バックパッカーが多く滞在するゾーンとしても有名で、その時は9人のうち僕を含め5人の日本人が滞在しており、その他はフランス人やドイツ人などの欧州人であった。わざわざ異国の地に来てまで快適さのかけらもない安宿のドミトリーを求めるバックパッカーたちであるから、多分に漏れず個性的な面々であった。その中においてさえ、たけしくんは異彩を放っていた。

 

 

 

 

 

写真に映った、右の彼である。

 

 

 

 

 

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名前はたけしくん。

 

 

 

 

 

 

 

 

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彼の名前はたけしくん。それ以外の情報はない。

 

 

 

業を背負った旅人である。僕は彼を見た瞬間、聞きたいことが山のように浮かんできた。しかし僕の心に溢れるように湧いてくる疑問に対し、たけしくんのその毅然とした態度は質問をするのは野暮だと感じさせるには充分であった。僕は「なんでその髪型にしたの?」と聞くのが精一杯で、動揺を紛らわそうと、荷物を降ろしてシャワーを浴びるために着替えの準備に取り掛かった。たけしくんは一言ぽつりと、「友達がやってくれたんだ」とつぶやいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ゲストハウスのドミトリー部屋は、一人旅の孤独なバックパッカーたちにとって、仲間を作る格好の場所である。いつの間にか皆一様に床に座り込み、お互いに簡単な自己紹介を終えると、自然と語り合うこととなる。皆お金はないが、時間だけはたっぷりとあるのだ。初対面にも関わらず不思議なことに話は尽きない。話題はもっぱら旅についてだ。

 

 

口々にどこから来たのか、どこへ行くつもりなのかを語り合った。ある者はタイ南部のパンガン島という島で、フルムーンパーティーを見てきただとか、ある者はこれからインドを3ヶ月かけて周るつもりだなどと言うと、既にその場所に滞在したことがある者が口を挟み、旅の苦い経験や、あの場所は必ず行っておいたほうがいいなどと現地情報を得意げに語る。彼らの話を聞くのも楽しかったが、そんなことより僕はたけしくんのイケてる髪型について語り合いたかった。しかし人見知りの僕は話題の持っていき方がわからず、中々言い出せずにいた。当のたけしくんはというと、話の輪に入ることなく、ベッドに寝転び時間をつぶしていた。

 

 

たけしくんとの出会いから数時間。夕方になって、屋台でご飯を済ませ、カオサンロードを散策し、宿に帰った。たけしくんは、いつの間にか宿からいなくなっていた。別れの挨拶もできないままだったが、多くの者が無計画の旅の途中であるため、突然いなくなる。ここではそんなに珍しいことではない。

 

 

しかし僕は後悔した。たけしくんに言えなかった言葉がある。たった一言、言いたかった。「友達になろう」と。

 

 

僕はたけしくんに友達になってほしくて、唯一の手がかりがあるかもしれない場所、カオサンを再び訪れ、彼を探しに来たのである。

 

 

 

 

 

 

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