こんにちは、ペンギンです。

 

 

 

お昼ごはんを食べたい!

 

 

朝イチ、といっても10時半みたいなちょっと遅い時間に1人で客先へ直行する予定があって、通勤ラッシュをかわしながら都心の知らない駅で降りて、いつもよりキレイなオフィスビルのキレイなトイレ(個室のドアを開けると勝手に便座が開く)でうんこ(驚くほどバナナ)して、客先での打ち合わせが思ったよりうまくいって、会社に戻るまで2時間くらい余裕あるな~って時のお昼ごはんといったら、もう、最高ですよね。

 

何を食べましょうか。

 

うーん、NO。

これはスケジュールがギチギチに忙しくてしかもストレスフルな日にむさぼり食らう『解放の食』なので、今日は違うかな。

 

BARIO、NO。

 

YAPPARI STEAK、NO。

 

都会によくいるカラスみたいなハト。

 

中華料理、YES。

一度中華の口になったら、もう抵抗できません。今日はここにしましょう。

 

中華料理を食べよう!

中華料理屋さんって、選択肢が多くて溺れますよね。

五目そばも食べたい。レバニラも食べたい。チンジャオロースも食べたい。チャーハンも食べたい。

大量の選択肢という豊かな海に飛び込むことそのものが贅沢。これこそ中華料理です。

ランチを1日に1回しか食べられないことを、これほど悔やむ瞬間はありません。

 

でもやっぱり、今日はチンジャオロース(豚)定食かなあ。

 

おっ、ごはんを小チャーハンに変えられるのか。これならチャーハンも食べられますね。

 

ん?

 

ん????

 

 

 

ご飯のおかわり一回無料!
+50円(税込)でごはんを
小チャーハンに変更できます!
(炒飯はおかわり不可)
白米でのおかわりは可能です

 

 

なんだ、これは。

 

 

 

ご飯のおかわり一回無料!
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小チャーハンに変更できます!
(炒飯はおかわり不可)
白米でのおかわりは可能です

 

 

もう一回言ってもらって良いですか?

 

 

 

ご飯のおかわり一回無料!
+50円(税込)でごはんを
小チャーハンに変更できます!
(炒飯はおかわり不可)
白米でのおかわりは可能です

 

これは、すごい。

 

すごい文章に出会ってしまった。

 

ご飯のおかわり一回無料!+50円(税込)でごはんを小チャーハンに変更できます!(炒飯はおかわり不可)白米でのおかわりは可能です

まずは一旦落ち着いて、文章をちゃんと読んでみましょう。

 

 

ご飯のおかわり一回無料!
+50円(税込)でごはんを
小チャーハンに変更できます!
(炒飯はおかわり不可)
白米でのおかわりは可能です

 

やっぱりすごい。

 

一息で読み切ろうとすると圧倒されますが、こういう時は冷静に文章を要素分解していけば良いのです。

 

 

こういうことです。

一度読めばきちんと意味を理解できるし、1つ1つの文法や単語に狂いもありません。

(ニセアマゾンから届く迷惑メール「お客様の素敵なご注汶に異常が発生レませんでレた。」みたいなことが一切起きていない)

しっかりした文章です。

なんだ、普通の但し書きじゃないか。

 

しかし、これらの文章をつなげて読むと、

 

 

ご飯のおかわり一回無料!
+50円(税込)でごはんを
小チャーハンに変更できます!
(炒飯はおかわり不可)
白米でのおかわりは可能です

 

うわあああ!!!

 

その迫力に圧倒されてしまいます。

脳がもげそうになる。

 

僕が解説するまでもありませんが、この文章はこういう意味です。

 

 

フローチャートに落とし込むと、こうです。

 

 

たったこれだけの話です。

何を勝手に圧倒される必要があるのでしょうか。

 

 

ご飯のおかわり一回無料!
+50円(税込)でごはんを
小チャーハンに変更できます!
(炒飯はおかわり不可)
白米でのおかわりは可能です

 

ダメだ。やっぱりこの文章、すごい。

 

とりあえず定食を注文しつつ、僕がなぜこの文章に圧倒されるのか、一緒に考えていきましょう。

 

なぜこの文章に圧倒されるのか?

改めて言うまでもありませんが、僕はこの店や店員さんに文句を言ったり指摘したりしたいのではありません。

添削したいわけでもありません。

 

感動しているんです。

フラッと入ったお店の片隅で、こんなにワクワクする文章と出会えたことに感謝しなければなりません。

お店の方、ご迷惑はお掛けいたしませんので、ちょっとの間だけ一人で遊ばせてください。

 

① 同じことを2回言っている

まずは多くの方がお気づきのところですが、

 

 

ご飯のおかわり一回無料!
+50円(税込)でごはんを
小チャーハンに変更できます!
(炒飯はおかわり不可)
白米でのおかわりは可能です

 

最初と最後で同じことを言っています。

わずか70文字の中で、同じことを2回言っている。

 

実際の写真を見るとより一層圧倒されます。

 

2回目の「ごはんおかわりできる」が、2行目に小さい文字でねじ込まれている。

同じことを言うために、文字サイズを変えてまでねじ込んでいる。

1行に収まっていないのに、2行目にはみ出している部分の情報が全く必要ない。

 

「同じじゃなくない?」

そうなんですよね。この2つ、実は絶妙に違う情報なんですよね。

どういうことかというと、

 

 

最初の「ご飯のおかわり1回無料!」は、2杯だけごはんが食べられますという意味です。当然、3杯目以降は食べられません。

一方で、最後「白米でのおかわりは可能です」は、2杯だけごはんが食べられるという意味と、2杯でも3杯でも4杯でもごはんが食べられますという意味、どちらにも読み取れます。

つまり、わざわざ付け足した2個目の情報の方が薄いんです。

 

これはすごい。

情報は効率的に最小限の手数で伝えるべきという俗世のしょうもない常識に、真っ向勝負を仕掛けているんです。

 

② 表記がブレている

 

助詞や助動詞を抜いた単語の数は、わずか15個程度。

そんな短い文章の中で、ごはんで3種、チャーハンで2種の表記揺れが発生しています。

 

そうですよね。別に表記なんて揺れて良いんです。なぜならば、読み手(僕)にちゃんと伝わっているんですから。

「ご飯」と「ごはん」と「白米」なんて、店員さんに訊くまでもなく同じ意味の言葉に決まっています。

目くじらを立てる必要なんて一切ない、ちゃんと伝わる文章なんです。

 

ご飯のおかわり一回無料!
+50円(税込)でごはん
小チャーハンに変更できます!
炒飯はおかわり不可)
白米でのおかわりは可能です

 

ちゃんと伝わる文章なのに、圧倒されるんです。

一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、「白米って、ごはんだよな?」というワンクッションが挟まることによって、認知の揺れが発生する仕組みになっています。

これはすごい。

 

③ ギリギリ逆ではない意味の言葉が並んでいる

おかわり一回無料!+50円(税込)でごはんを

 

「無料!」のすぐ後ろ、直後も直後に「+50円」という逆の意味の言葉が登場します。

 

いや、ギリギリ逆ではない。

無料の対義語は+50円ではないし、+50円の対義語も無料ではありません。

絶妙に対になっていない単語が連続して登場することによって、頭からすらすら読んでいくと「無料!+50円(税込)」という部分で一瞬、ほんの一瞬だけまた認知が揺れるようになっています。

無料なのに50円?

 

わかります。わかってます、僕も。

「+(プラス)」ってちゃんと付いてるし、何の矛盾もない文章なんです。

無料ですがプラス50円でさらに、という読み下し方をすれば何の問題もない、メッセージとしてはよくある文章です。

問題がないのはわかっているからこそ、読めば読むほどこの文章に圧倒されるんです。

他のことなんて何も考えられない。

僕はこの文章に一目惚れをしている。

 

④ 「おかわり」と3回も言っている

この短い文章の中で3回「おかわり」と言っています。

 

15単語中3単語(占有率20%)、70文字中12文字(同17%)が「おかわり」です。

 

「②表記がブレている」のコーナーで「ご飯」が3回登場しているという話をしましたが、ご飯はギリ分かるんです。

1つの文章に何度も登場してもおかしくない、軽い単語なので。

(僕は、その単語の情報量の多さ少なさというか、その単語から想像される動作・状況・形状がハッキリしがちな単語を「重い」、ハッキリしながちな単語を「軽い」と呼んでいます。例えば「うんこ」はうんこという成果物なのかうんこするという動作なのか、色は、形は、匂いは、言っている人の性格は、等がハッキリしないので「軽い」単語です。「ビチグソ」はこれだけでかなりハッキリ色々想像できるので「比較的重い」単語となります。一般的に軽い単語は同じ文中に何度も登場することがありますが、重い単語は一発でインパクト十分なので一度しか登場しません)

 

しかし「おかわり」は、そもそも基本的に「もう一杯食べる、もう一杯飲む」という意味でしかほとんど使われない、つまり重い単語です。

お‐かわり〔‐かはり〕【▽御代(わ)り】  [名](スル)
1 「代わり4」に同じ。「御飯をもう一杯—する」

 ※引用者註:代わり4は「4 (多く「おかわり」の形で)同じものをさらに飲み食いすること。また、そのもの。「酒のお—を頼む」

2 犬などに、「お手」の芸をさせたあと、もう一方の前足でもその動作をさせる芸。また、それを命じる語。

3 俗に、同じことをもう一度おこなうこと。「面白かった映画を—する」

(goo辞書:デジタル大辞泉(小学館)より引用)

重い単語である「おかわり」は、1回言えば十分「ご飯か何かをもう一杯食べることについて言いたいんだな」と伝わるはずなんです。

そんな重た~い単語を、この短い距離の中で3回も言っている。

 

 

 

ご飯のおかわり一回無料!
+50円(税込)でごはんを
小チャーハンに変更できます!
(炒飯はおかわり不可)
白米でのおかわりは可能です

 

この文章が挑戦していることは、俳句のです。

1回言えば絶対十分なはずの「おかわり」を、2度ならず3度も言っている。

無駄が多すぎることによって、この句にとてつもない迫力が憑依している。

無駄を極限まで削ることが俳句の美学だとすれば、この文章は無駄が多すぎるという新たな美学を生み出しているんです。

 

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ご飯のおかわり一回無料!
+50円(税込)でごはんを
小チャーハンに変更できます!
(炒飯はおかわり不可)
白米でのおかわりは可能です

 

何度も繰り返しますが、この文章、おかしなことは何一つ言ってないんです。

もし仮にこれが、助詞の使い方も文構造も前後関係もぐちゃぐちゃな文章だったら、こんなに感動しません。

単語も文法も全く違和感なく、スッと読める文章です。

 

それなのに、ただただ圧倒されてしまう。

何も矛盾していないのに、矛盾している文章を読んだ時よりはるかに、脳が興奮する。

情報量が少ないのに、情報量が多すぎる時と同じ読後感を味わえるんです。これはすごいことです。

ごはんがおかわりできるという、素朴で粋なサービスを案内されるだけで、こんなに圧倒的な熱量を感じたことはありません。

 

同じテーマで僕が文章を書けと言われても、ここまで圧倒的なものは絶対書けない。

 

閑さや

岩にしみ入る

蝉の声

 

という俳句を初めて知った時、このテーマでこれ以上の句は絶対に書けないと絶望しました。

その時と全く同じ気持ちです。

 

 

丹念にこの句を眺めていると、どんどん新しい気づきを得ることができます。

 

たとえばこの「(税込)」

普通は、という言い方をするのも烏滸がましいですが、「+50円でごはんを小チャーハンに変えられますよ」と言われたらそれはまず間違いなく税込です。

それを敢えて「+50円(税込)」まで丁寧に書き切ることによって、また一段とこの文章の迫力が増しています。

ここまでくると、一体なぜこれほどまでに丁寧な文章にする必要があったのかを考えたくなってきます。

 

「なぜこの文章に圧倒されるのか」が明らかになったところで、次は「なぜ圧倒される文章に仕上がったのか」を考えていきましょう。

 

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