zukkiniといいます。仕事の都合でアメリカに住んでおり、こちらの生活も4年目に突入、更に滞在延長ということでコロナ禍が落ち着いた今年の9月にビザ更新のため日本に一時帰国しました。久しぶりの日本は便利でキレイで何でもあって最高でしたが帰るまでには色んな事がありました。コロナに翻弄された数か月間のことを忘れぬよう記録に残すことにしました。

 

1. コロナ発生、オーバーステイの危機

この夏、僕のアメリカでの就労ビザが切れようとしていました。そしてビザを更新するには基本的には日本に帰る必要があります。そんな帰国直前に世界がコロナ禍に見舞われました。

3月末、日本へ出発する3日前に大使館から「来ないでください」のお知らせ。ここから全てが狂い始めました。決定までには何回も議論がありましたが、会社の決定はビザ更新セヨというもの。

 

3月末というのは、日本にコロナが急激に増えていた時期。日本は大変だな…などと言っているうち、アメリカでもガンガン感染者数が増えていきました。人がどんどん亡くなっていき、アジア人差別も見聞きするようになり、周囲の在米邦人もにわかにピリピリし始めた頃です。

アメリカ国内では中国がどうのと言っている場合ではなくなり、特に僕の暮らす州は、全米コロナ感染者数のトップ5の危険州の一つになりました。

 

職場が発行する外出許可証明書がないと罰金となり、いつもなら渋滞する通勤時間帯の高速道路もガラガラです。州境は軍に封鎖されている!などと激アツ・ガセ情報まで出たほどです。

 

Stay Home、非常事態宣言を知らせる通知が出ると町から人が消え、マスクやサニタイザーを買い占めて高値で売ろうとした人がニュースになり、食料品までもが品薄になりました。日本とあまり変わらないことがアメリカでも起きていたのが印象的です。

 

並んでいる人同士の小競り合いを目撃しましたし、マスクをつけろと注意した店員が客に射殺された事件も近所で起きました。

不安感が高まると拳銃の売れ行きが好調になり、スーパーでは食料が怒涛の品切れ。

 

公園遊具は使用禁止となり、

 

アメリカ人もつづりを間違う中、

 

公園の駐車場では車の中からお喋りするスタイルが流行。

全米各地で失業者が増えました。日本でもアメリカの失業者が1000万人!アメリカ終了のお知らせ!みたいなニュースが流れていたようですが、アメリカでは一時解雇が割と軽いノリで行われ、また景気が戻ったら優先再雇用しますから来てね、連絡するまで国からお金をもらってお家で待っててねという状態で皆悪い時が過ぎるのを待つのです。

 

従って、体感では景気はそんなに冷え込んでおらず通常よりも手厚い休業補償で購買意欲も高いままでした。

労働者も国や州から出る失業補償で困ることもなく、なんなら普段よりスゲー儲かった人も多いようです。6月あたりにアメリカの新車販売台数が伸び始め、貰った金スグ使ってんじゃねーよというツッコミをしたのを覚えてますが、景気は刺激され今に至るまで大きな落ち込みは無かったように思われます。

 

暇を持て余した皆々様、行き場を失いキャンプ場が例年になく混んでいましたが、失業補償が手厚すぎるのも少し問題だったかもしれません。

コロナが怖いのも勿論ですが休業補償が手厚いとなれば「戻ってきて」と言われても既読無視をカマし是が非でも出社したくない人が多くなり、労働者がいない、モノを作りたいけど供給が需要を満たせていないというのが、アメリカの製造業サイドから見たその当時の景気の状況かと思います。

 

一方僕のほうはというと、夏になってもビザ更新できずついにビザは切れてしまいました。大好きな「警察24時」で時々見かけるガサ入れ、強制退去のシーンが頭をよぎります。

 

「ビザが切れてもアメリカに滞在できるスゲエ書類」が全く届かず、弁護士から「何かあったらFedexの配達記録を証拠にして」とめちゃくちゃ不安な推奨を受けながら、僕のビザはある日静かに切れました。

僕のあだ名は「オーバーステイ・ガイ」になり、弁護士にお金を沢山積んで(家族一人当たりウン10万円)アメリカ滞在延長手続きをしてもらいました。書類が面倒でストレスで死ぬかと思いました。

アメリカで、駐在員や留学生がビザ問題から本国に戻る事態になりそうな事は日本でもニュースにもなったと思います。ビザ発給がここまで制限された背景はコロナ禍に加えて、アメリカ人ファーストのアピールが行われるなどした11月の大統領選挙も影響していたと聞きます。僕だけでなく沢山人が大変な思いをしたはず。

帰国前はそんな感じでものすごくシンドイ日々を過ごしていました。

 

2.状況よくなりようやく帰国

などなど、とにかく書いていると一人でキツめの酒が進みそうな色んな苦労がありましたが、詳細は割愛するとしてとにかく半年間の格闘の末「状況がいきなりよくなった」のでこの夏ビザ更新で日本に帰ることになりました。安心してください、どんな状況もいつかはよくなるのです。

 

高速鉄道がないアメリカでは移動は車か飛行機。空港の国内線ロビーや機内の混雑具合を見るとコロナ前と変わらない日常が戻ってきたように感じられ、

 

座席に座ると知らない人同士がお喋りをし始めるなど、全員がマスクをしていること以外は以前と全く変わらない光景。日常は新しいルールをまとって着実に戻ってきているようでした。

 

一方で国際線はこの通りガラガラ。ここはワシントンD.C.にあるアメリカ有数の国際空港で状況。各国の旗が寂しく見えます。

 

店にはシャッターが下り、出発ロビーに座る人は誰も居ません。日本行き便に乗る人は15人程度でしょうか。それも半分はアメリカ人で恐らく在日米軍基地の方だったかと思います。

 

出発直前でもこんな感じです。CAさんには「空いてるのでお好きな席を使ってください」と言われましたが、そのようなのびのびとした子供に育てられていない事もあり直立不動、頑なに自分の座席に座り続けました。

 

CAさんとはほぼマンツーマン状態です。

グラスが空いたらすぐに「おかわりは…」と来てくれるので「…いりますが」とドンドン飲んでしまいましたが、機内では常時マスク着用。その後自分の酒気を帯びた呼気を食らい非常に後悔をしました。

ともあれ日本行きを月、水、土の毎週3便に制限し運航してもこの僅かな乗客数です。大赤字でしょうが我々の為に飛行機を飛ばしてくれてありがとうございますとしか言えません。

 

3.日本到着、PCR検査、そして14日間の隔離…

着陸すると入国審査の前に空港内に用意された検査場でのPCR検査。

検査場は写真撮影禁止でしたが、想像していたようなピリピリした雰囲気ではなく全員で和やかに出迎えてくれえる妙にアットホームな雰囲気でした。事前に聞いていた鼻に綿棒を突っ込まれるめちゃ痛いPCR検査ではなく唾液で調べる簡単なもの。今は結果が出るまで1時間程度ですが、昔は1~3日かかり、それまでの待機も見張りつきのホテルで厳戒態勢の中だったそうですから楽になったものです。

 

こちらは検査終了後の待合所。スタッフの方の手際もよく、混み具合もコントロールされていたのが印象的です。

PCR検査はつい立てで仕切られた簡易的な唾液採取ブースで実施。ブース内にはサイズが引き伸ばされて画素の荒くなったレモンの写真が貼られており、「この写真を見てください」のコメント。≪そんな馬鹿な≫と思いましたが上の口は正直とはいったもので、画素の荒いレモンを見ているだけで唾液がジワリと出てくるのです。とても悔しい思いをしました。

 

結果は家族4人共に陰性。

電光掲示板に番号が出るとカウンターへ行き、ドキドキしながら待つと割と軽いノリで陰性の結果、そしてそれを証明する書類を渡されます。この陰性証明書とあわせ指定地域の滞在歴を示すピンクの紙をもらいようやく入国と手荷物の引き取りです。

 

14日間の隔離先となるホテルは、決められた幾つかのホテル以外に選択肢はありません。例え陰性でも公共交通機関は使用禁止。検疫指定のバスでの移動です。

「検疫指定のバス」と聞きあのE.T.なども乗った運転手が防護服を着ている特殊な白いバスを想像していましたが残念、バスは完全に普通のマイクロバス。装備はマスクだけの運転手が「アイ、ハッシャ、デフュー…」と意味不明のアナウンスをしたかと思うとめちゃくちゃ荒い運転、久方ぶりのジャパニーズ・バスの懐かしさに思わず笑みがこぼれました。

 

隔離ホテルは空港そばにある普通のビジネスホテルです。

狭く不便ですがここで家族4人、14日間を粛々と過ごすのです。食事を買うとき以外は基本的に外出は控え、公共の交通機関の利用は絶対禁止です。ビックリするぐらい誰も見張ってはいませんでしたが、何かあった時に自分を守るためルールはきちんと守るしかありません。

 

近所にあるセブン、ローソン、ファミマのローテーション。食器はありませんのでもらったスプーンやプラ容器を洗面所で洗って使いまわす忍耐の14日間でした。

 

4.隔離明け、東京の生活

隔離明け後は外国人向け長期ステイ用のホテルに。

ここからは完全に東京観光に来た田舎モンですが、目的はビザ取得と無事にアメリカへ出国することですから、マスクを着け手洗いうがい、検温を欠かさず、COCOAを入れ、必要以上に外出せずに過ごしました。

 

アメリカでは半年間外食をせず家と職場の往復生活をしていたので東京はとても刺激的でした。

昔住んでいた東京は良くも悪くも変わっておらず、

 

3年ぶりに高円寺で飲んだホッピーは昔住んでいた懐かしい東京の味。なぜ飲むのか聞かれると「安いから」としか答えられなかったホッピー。アメリカ帰りの僕にはとても美味しい飲み物になっていました。

 

日本の街中にある中華料理店のうまさは感動ものでした。こんなに美味い中華はアメリカにはありません。俺と一緒にアメリカで天下を取らないか。

 

こちらは死ぬほど食べたかった日本の焼肉。お前とも天下が取れそうだ。ステーキの厚みを競うアメリカでは薄切り肉という存在が理解されず、周りには焼肉屋がほとんどありません。サイズが正義というのならば、分かり合えるはずがありません。

 

滞在中にGo to travelが始まり、貰ったポイントでささやかながら東京観光。

浅草、変わらない昔ながらの東京を見て、

 

渋谷にて新しい東京も見てきました。

 

1か月間の東京生活はあっという間に過ぎ去り、アメリカの生活がまた始まります。今回で僕の就労ビザは無限に更新できる無敵のビザになりました。

帰国するまで紆余曲折ありましたが帰国中は何事もなく過ぎ、アメリカに戻った後も幸いコロナは陰性でした。今僕はアメリカでの14日間の隔離期間中にこの記事を書いています。皆がこのコロナ禍を無事に乗り越え何事もなく健康でまた自由に生活できる日を祈って、アメリカの片田舎で暮らしていきたいと思います。また、日本で会いましょう。