結婚してもうすぐ10年近くになるが俺はいまだに妻の前でオナラをしたことがない。知り合ってから数えると更にそれ以上の年月、俺はただの一度もこの女性の前でオナラをしたことがないのである。
「妻の前でオナラをしない」
これが当たり前の事なのかどうか分からないが色んな人の話を聞くと夫は妻の前で割りと平然と屁をコくものであるように思われる。心を許している証、秘密の共有と良くとるべきか単純に緊張感の欠如ととるべきかは分からないが、俺の父親もそういえば母親の前では平然と屁をコいていたものである。
テレビを観ている最中、突然「イタタタタ」などと苦しみだし、突き指をしたから指を引っ張ってくれと苦悶に満ちた表情で母親に懇願する父親が、その指を引っ張られたのと同時に「ぷう~」などと放屁し母親が「だまされた~」などキャッキャと爆笑していたのを遠くから眺めていたもの、屁はかすがいである。
しかし俺はそうはいかない。10年以上も守り貫いた己の屁を、守れば守るほど強固になるこの操(ミサオ)をである。今更その神秘に満ちたおくゆかしいサウンドを一体どんな表情で聞かせられるというのか。
いやまたれよ、或いはすでに妻は俺の屁を聞いたことがあるのかもしれない。明け方半分寝ぼけて「プ~?」と疑問系で放屁した刹那、「アッーー!」と言いながら起きたら妻はスヤスヤ寝ていたが、実は起きていたのかもしれない。息子を呼び寄せ、このスイッチを押してみろと言っては手の平にマジックで描いたスイッチ押させ「ぷ~」と自分の父親の二番煎じでもって姑息に笑いをゲットしているその背中を、妻には軽蔑の眼差しでジッと見られていたのかもしれない。
それならそれでもいい。結構である。しかし俺は一度たりとも正面切って堂々と、明らかな意図をもって妻の前で「聞け!ワシの屁を」とばかりにオナラをしたことはないのである。それは紛れもない事実である。それが俺の誇り。
一方で、先ほど書いたとおり結婚して10年近く、年を重ねるに従いますます屁を聞かせることへのハードルは高まるばかり。それはそれで辛いことなのかもしれない。ここまで隠し通した己の放屁、もし意図せずにオナラが出てしまったら一体どんな空気になるのか。まあ臭い空気でしょうね屁だし。
そして時々思うのである。この辺でしとかないといよいよ後戻りできないよと。冗談の通じるうちにオナラ、しといたほうがいいじゃない?と俺の中の有村架純がそうたずねるのである。
世の皆さんは一体どのようにして最初の一発目をカマしたのだろうか。俺はそれが気になってならない。