第四章 縛られた家
片淵家は、古くから織物業で栄えた名家だった。

しかし、8代目当主の片淵嘉永という人物が、家業を「時代遅れ」と切り捨て、貿易・不動産・鉱山、果ては製薬など、多方面に手を広げた。
家の伝統を破ったことで、親族からの反感は買ったが、折しも一次大戦による好景気のあおりを受けて事業は拡大。

群馬県八ツ枝周辺に広大な土地を得るに至った。
しかし、第二次大戦前夜の1938年、嘉永は持病が悪化し、死期を悟る。
彼は早急に跡継ぎを決める必要に迫られた。
彼には、二人の子供がいた。

長男・宗一郎。長女・清子。
兄妹の性格は真逆だった。
嘉永の言葉によると、宗一郎は「女のように生っちろく、部屋で人形遊びばかりしよる」……そんな内向的な青年だった。
対して妹の清子は活発で頭もよく、誰が見ても跡取りは清子がふさわしかったという。
しかし「女に家は継がせられない」という伝統的な理由から、嘉永は宗一郎を当主に選ぶ。

そうと決まると、嘉永は事業と財産のほぼすべてを宗一郎に託し、清子には規模が小さく、利益を生んでいなかった製薬業だけを、まるで負債を押し付けるかのように引き渡した。
ショックを受けた清子は、片淵家の屋敷から出て行ったという。
潮
余命短い嘉永にとって、あと一つの心配事は、宗一郎の後継問題だった。

そこで、関係企業の社長と話をつけ、彼の娘である高間潮という女性を家に迎える。
宗一郎と潮の結婚を見届けると、嘉永は間もなくこの世を去った。

宗一郎は当初、潮に優しく接した。
しかし、父親の死を境に、徐々にその本性を露わにしていく。
宗一郎は潮を部屋に幽閉し、毎晩、人形のように扱った。
具体的な『遊び』をすべて明言することは控えるが、たとえば人形の部品を吟味するかのように、体中の関節をはずしたり、あるいは髪の毛が気に入らないと、それを抜いて好みの糸を植えこんだりといった拷問を繰り返した。
潮は叫び声一つ上げなかった。
彼女は父親から「片淵さんから縁を切られたらうちの会社はひと月も持たない。くれぐれも粗相のないように」と言い含められていた。
無垢な箱入り娘だった潮は、その言葉を守り抜き、ひたすら耐え続けた。
しかし、半年を過ぎるころ、彼女の心は限界を迎えた。
顔からは表情が抜け落ち、口は半開きで、着物はいつも唾で濡れるようになった。
誰の言葉にも反応せず、時折思い出したかのように、すーすーと喉から空気が抜けるような音を立てて笑った。彼女は宗一郎に何をされても叫ばぬよう、自ら声帯を潰したという。
そんなある日、悲劇が起きた。
潮におやつの柿を持って行った女中が、不注意にも果物包丁を置き忘れた。
しばらくして宗一郎が部屋に行くと、そこには惨状があった。

部屋の真ん中に横たわる血まみれの潮。そして、畳にいくつも付着した真っ赤な手形。
潮は、自らの左手首に包丁を突き刺し、その後、何度も何度も畳に打ち付けたのだ。
骨は折れ、肉は千切れ、手首は皮一枚でつながっているような状態だったという。
潮は手当てを受けたが、感染症により数日後に息を引き取った。
このことは、宗一郎の心に深い傷を与えた。

世話役の述懐によると、それは罪悪感やトラウマというより『自分の大事な人形が、生身の人間だった』という事実への恐怖のようだった、とのことである。
時代

潮の死から数か月後、太平洋戦争が開戦する。
瞬く間に激化し、片淵家の土地にも火が降り注いだ。
これにより事業の大半が壊滅。従業員や屋敷の従事者も、その多くが徴用された。
一方そのころ、妹の清子には追い風が吹いていた。

彼女が唯一受け継いだ製薬事業は、戦争によって急拡大。
力を付けた彼女は、あの手この手で片淵家を吸収していった。
やがて宗一郎はほぼすべての財産を奪われ、彼に残されたのは群馬県の屋敷と、その背後に立つ八ツ枝山の所有権のみとなった。
そして1945年8月。

長い戦争が終結すると、宗一郎のもとに一人の従者が帰還した。
偶然にも、彼は戦地で左手を失っていた。それを見た宗一郎は、ある考えに憑りつかれた。

潮の霊が彼から左手を奪ったのだ、と。
しかし、これは妄想でしかない。
あるデータによれば、戦場では左手を失う割合が高いという。
多くの人が右利きであるため、利き手ではない左は無防備になりやすいのだ。
そして、潮が左手を切りつけたのも、利き手である右手で包丁を持ったからに過ぎない。
だが、宗一郎にそのような知識はなく、彼は本気で潮の呪いに怯えた。

『このままでは亡霊に殺される』
そう信じた総一郎は『蘭鏡』という占い師からの助言で、片淵家が所有する八ツ枝山の中腹に奇妙な屋敷を建てた。
仏壇を奥に配置した、左右対称の建物。

片淵家は、左手を失い、左右非対称の体で死んだ潮を供養するために作られた巨大な仏間だったということだ。
宗一郎はこの屋敷に引きこもり、二人の養子を迎える。

その片方が、柚希さんの祖父・重治さんだ。
重治さんは宗一郎の死後、片淵家を引き継いだ。しかし、もう一人の養子の行方は書かれていない。
宗一郎は死に際、奇妙な遺言を残している。

『左手供養、要請に応じて執り行う旨、孫(子に)受け継ぐべし』
儀式
栗原:『左手供養』ですか。
雨穴:宗一郎はもう一人の養子を幽閉して、来客を殺害させて左手を奪い、仏壇に供えることで潮の霊を鎮めようとした……ってことなんでしょうかね。
栗原:合理性のかけらもない奇行ですが、儀式やまじないなんてたいていはそんなものですからね。
しかも厄介なことに、その儀式を子供に遺した。
雨穴:柚希さんのお祖父さんが家族を築く裏で、もう一人の養子は幽閉されたまま左手供養に利用され続けた。
ようちゃんの事件が起きたとき、子供部屋にいたのは、子供ではなくおじいさんだった……。
栗原:しかし、老人にいつまでも殺人を続けさせることはできない。世代交代の必要が出てきた。

栗原:柚希さんの父親は、第一候補のようちゃんを殺害することで、その役割を綾乃さんに移した。
雨穴:綾乃さんは失踪したわけではなく、子供部屋に幽閉された……か。
ただ、分からないのがその後ですね。

雨穴:幽閉されたはずの綾乃さんは、遅くとも2016年には家族を築いていた。
この間に何があったのか……。
栗原:Aくんでしょうね。

栗原:綾乃さんは、自分の身代わりを連れてくることで、子供部屋から解放された。
Aくんがどこから来たのかはわかりませんが、いずれにせよ暗い想像しか浮かびません。
雨穴:……綾乃さん一家はどこに行ってしまったんでしょうね。
栗原:どこかに新居を建てて、相変わらず平穏に暮らしているのかもしれません。
雨穴:「平穏」って……。
約束
―――数日後、とある出版社から『一連の話を書籍化しないか』と打診された。
編集者が私の記事を読んで、興味を持ったという。
迷ったが、最後に柚希さんが言った「おおやけにしてください」という言葉を思い出し、引き受けることにした。
被害者の正体
時は過ぎ、原稿が完成に近づいて来た頃、思いもかけないニュースが舞い込んできた。

狛江・バラバラ事件の犯人が自首したのだという。
逮捕されたのは、片淵慶太容疑者……綾乃さんの夫だ。

「やはり」というべきか。
栗原さんの推測通りの結末ではあったが、私が驚いたのは被害者の正体だった。

片淵清嗣……ようちゃんの父親だ。

片淵慶太さんは、義理の伯父を殺害したことになる。片淵家の中で何が起きたのか、この時点では想像すらできなかった。
ひとまず、続報を待つことにした。

当初、慶太さんは埼玉・狛江の殺人を認めながらも、その詳細や動機については黙秘を貫いていた。
しかし逮捕から一か月後、拘置所内で突如、手紙を書いたという。

彼の文章と絵は一般には公開されなかったものの、出版社の手配で特別に読むことができた。
今回、記事公開にあたって許可をいただき、はじめてその全文を記載する。
※直筆の原稿はこちらに公開しております。
片淵慶太の手紙
この事件の顛末を僕の口で語れば、きっと真相の1割も理解してもらえないと考え、筆をとりました。
僕はしゃべることがとても不得意なのです。
大事なことほど声がつまってしまい、何も言えないのです。

そのせいで、子供の頃から友達ができず、小学校ではひどいいじめを受けました。
両親がおらず、養護施設の子供だったから、というのも1つの理由かもしれません。
そんな中で唯一、僕を人として扱ってくれたのが、片淵綾乃さんだったのです。

彼女は僕が言葉につまっても、言い終えるまで、待ってくれました。
笑うこともからかうこともせず、長い時間をかけて、会話をしてくれました。綾乃さんは、はじめてできた友達でした。
ところがあるとき、彼女は突然いなくなってしまったのです。
転校したわけではありません。担任の先生は「親御さんから突然、退学願いを渡された」と、納得できない様子で話していました。
僕は心配になり、綾乃さんの家に行きました。
緊張しながら呼び鈴を押すと、彼女の母親・喜江さんが出ました。

喜江さんは僕の言いたいことをはじめから察していたように「 綾乃のお友達?あの子はもういませんよ」と吐き捨てるように言うと、ドアを閉めてしまいました。
綾乃さんが幸せにしていれば、お別れでもよかった。でも喜江さんはっきりと「あの子はもういませんよ」と言いました。
親の言葉としてあまりにも不自然です。きっと辛い目にあっているに違いないと思いました。

それから僕は毎日、彼女の家に通い続けました。あるときから喜江さんは扉を開けてくれなくなりました。
それでも呼び鈴を押して、ポストに「綾乃さんはどこですか?」と書いた紙を投函しました。
僕はこれを5年以上続けました。それほど綾乃さんは特別だったのです。
そして6年目に差し掛かったある日、喜江さんがドアを開けてくれました。
そして僕をじっと見つめたあと、だまって1枚のメモを渡しました。そこには住所が書かれていました。

「群馬県」からはじまるその住所がどこなのかは分かりませんでしたが、僕は翌日、電車を乗りつぎ、その場所へ向かいました。
そこは山の中腹にあるぼろぼろの古民家でした。

なぜかドアは開いており、中に入ると長い廊下の奥に大きな仏壇が見えました。
そのとき「おい!」と後ろから声をかけられました。
ふりかえると40代半ばくらいの男性が立っていました。

僕は直感的に「もう終わりだ」と思いました。
しかし、男性の次の言葉はとても意外なものでした。
「慶太くんだな。俺は片淵清嗣という者だ。入れ」と言うのです。
なぜ僕の名前を知っているのか、そのときは不思議でしたが、あとから考えればあまりにも簡単な理由です。
きっと喜江さんが僕にメモを渡したあと、清嗣さんに電話したのでしょう。すべては通達済みだったということです。
家の中に案内されると、奥の座敷に綾乃さんがいました。

年齢相応に大人になってはいましたが、体はやせ、肌は青白く、髪の毛はところどころ地肌が透けて見えました。
彼女は時折、吐き気をこらえるように、これまでの話を聞かせてくれました。
綾乃さんは座敷に閉じ込められ、お達しのあった日、来客の左手を奪う「左手供養」という恐ろしい行為を強いられているのだと言います。
それがもしも他の誰かから聞かされた話であれば、少しも信じなかったでしょう。
しかし、綾乃さんの言葉に嘘は少しも混じっていないと思いました。
彼女がすべてを話し終えたあと、清嗣さんが僕に厳しい口調で問いました。「君は綾乃が好きか?」
率直な質問に僕はためらいましたが、ここでひるんではいけないと思い「はい」と答えました。
すると彼は「見ての通り綾乃はもう儀式をできる精神状態じゃない。君に綾乃を救えるか?」と。
それはつまり、僕が代わりに左手を奪えるか、という問いでした。
「嫌だ。怖い。今すぐ逃げ出したい」そんないくつもの本音を飲み込んで「はい」と答えました。
逃げ帰ったところで、僕に「おかえり」を言ってくれる人など一人もいないからです。
警察に頼ることもできません。
綾乃さんはすでに、罪を犯してしまっていたのですから。

それから僕は綾乃さんと同じ座敷に閉じ込められ、清嗣さんから言われたとき、左手を奪いました。
はじめて包丁を入れたときの、あのごりっとした硬い感触は一生忘れることはできないでしょう。
とはいえ、儀式があるとき以外は何もすることがなく、僕はひたすら、ぐったりと沈む綾乃さんを介抱し続けました。
そんな中、ある変化に気づきました。

綾乃さんのお腹がだんだんと膨らんでいくように感じたのです。
彼女は妊娠していました。
僕が清嗣さんにそれを告げると、彼は下衆な顔で「お前、大胆なことをやったな」と言いました。
しかし、それは誤解でした。
僕たちはそのような行為は一度もしたことがありませんでした。

数日後、僕ははじめて綾乃さんの祖父母と会いました。
二人ともかなりの老齢でしたが、清嗣さんが珍しく緊張しているのを見て、この家の力関係を知りました。
清嗣さんは丁寧な言葉で「慶太が綾乃を妊娠させた」と告げました。そして「こうなったからには責任を取らせる。慶太を婿入りさせたい」と。
言いたいことは山ほどありましたが、立場の弱い僕たちは黙って従うしかありませんでした。

結局、その翌年に僕と綾乃さんは籍を入れ、夫婦となり翌年、長男が生まれました。
その顔を見て がく然としました。清嗣さんに似ていたからです。

同時にすべての辻褄が合いました。
きっと彼は、力ない綾乃さんにひどいことをしたのでしょう。
そのことが家族にバレたらまずいと考え、僕を「身代わり」に利用することにしたのだと思います。
僕には両親もなく、同時に、綾乃さんに強い執着を持っていました。ちょうどいい人材だったはずです。
問い詰めると、彼は悪びれる様子もなく「金がほしいのか?」と問いました。
僕が強請りをしようと思っているのだと、彼は考えたのです。心底、軽蔑しました。
しかし、無駄に彼と戦うよりも、この状況を利用すべきだと思いました。
「僕たちをこの家から解放してほしい」そうお願いしました。
彼はその場では答えませんでしたが、翌日、願いは正式に受け入れられました。
代わりに、3つの条件が出されました。
1つ。僕らが住む家は片淵家が建てること。
2つ。今までどおり、左手供養には協力すること。
2つ目の条件に僕がためらっていると、彼はそっと耳打ちしました。
「これ以上は譲れない。いざとなれば、俺は自滅覚悟ですべてを公にすることもできる。そうしたら、お前と綾乃の『前科』も世に知られることになるぞ」と。僕は毒を飲む思いで、受け入れました。
そして2013年、僕と綾乃さん、そして長男(片淵家は彼に、桃弥という名前をつけました。)は、埼玉の新居に引っ越しました。

その家には恐ろしい仕掛けがありました。
桃弥くんを一室に幽閉し、彼に左手を奪わせるというものです。
「左手供養は桃弥にやらせる」これが3つ目の条件でした。
僕たち夫婦だけでなく、桃弥くんにも「前科」という首輪を付けたかったのでしょう。
ただし、警察の皆様にご理解いただきたいのは、桃弥くんは一度も罪を犯していない、ということです。
埼玉に移ってから、左手供養の要請が一度ありましたが、実行したのは僕です。綾乃さんが産んだ子供を、汚れた儀式に巻き込むわけにはいかないと思ったのです。
そしてできるかぎり彼を普通の子として育てようと努力しました。
むろん、戸籍がありませんから、学校に行かせることはできませんし、常に清嗣さんの監視があるので、外に連れ出すこともできません。

しかし、毎日彼の部屋に行き、会話をしたり、ゲームをしたり、勉強を教えたり、できるかぎりのことをしました。
そんな中、僕たち家族に一つの変化が起きました。
僕と綾乃さんの間に、はじめての子供が生まれたのです。

「浩人」という名前を付けました。
桃弥くんには浩人が生まれたことは伝えましたが、二人を会わせることはしませんでした。
それが、お互いのためだと思ったからです。

2020年、片淵家の都合で僕らは東京の新居に引っ越しました。
生活は比較的平穏なものでした。
浩人はのびのびと成長し、桃弥くんも同い年の子たちと比べても遜色ないほど賢くなりました。
唯一、いつ来るか分からない「左手供養」の要請に怯えること以外は、幸せな日々だったと思います。
ところが、そんな生活は長くは続きませんでした。
ある夜、清嗣さんから電話が来て「今から俺のマンションに来い。綾乃と二人でだ」と呼び出されました。
浩人と桃弥くんが心配ではありましたが二人とも、すでに熟睡していたので、少しの間なら大丈夫だろうと二人を置いていくことにしました。

到着すると、彼は相変わらず下衆な表情で出迎えました。そしてこう言ったのです。
「良い報せだ。今日でお前らを片淵家から解放してやる」と。
しかし、それに続く言葉は、あまりに恐ろしいものでした。
「桃弥を片淵家で引き取ることになった。前回の供養でお前が言いつけを守らなかったことが親父にバレてな。俺は見逃してやったが、あの人に知られたら終わりだ。実はな、今日「左手」の要請が入ったんだ。いい機会だ。このあと桃弥を片淵家に連れて行く」
清嗣さんは有無を言わせず僕らをバンに乗せ、家へと向かいました。
到着すると「10分以内に連れてこい。大人しく引き渡せば手荒な真似はしない」と。

暗い気持ちで車を降りると、2階の窓に明かりがついていることに気がつきました。
家を出るとき、電気はすべて消したはずです。浩人が起きたのだろうか。
僕たちは2階へ上がり、寝室に向かいました。
部屋に入ると、思いがけない光景が飛び込んできました。

なんと、浩人のベッドの上に、桃弥くんがいるのです。
そのとき、ひとつの予感が脳裏に浮かびました。
桃弥くんの部屋は外から鍵がかかっています。
しかし、部屋から出る方法がないわけではないのです。
子供部屋と浴室をつなぐ通路がありました。
その通路を通れば外に出ることは可能です。
もしかしたら桃弥くんは、それに気づいていたのではないか。
そして、僕たちがいなくなったすきに、部屋から抜け出て、浩人に危害を加えたのではないか。
血の気が引きました。
しかし、ベッドにかけよったところ、どうも様子が違うのです。

浩人のおでこの上には、濡れた布がのせてありました。ようやく状況を理解しました。
浩人はたまに急な高熱を出すことがありました。
僕たちが家を出たあと、それが起こったのでしょう。浩人の泣き声を聞き、異変を感じた桃弥くんは、様子を見に行き、タオルをしぼり、看病をしてくれたのです。
話を聞くと、桃弥くんは以前から、ときどき夜中に部屋を抜け出して、浩人の顔を見に行っていたそうです。
僕は後悔しました。
一瞬でも桃弥くんを疑ってしまったこと。
そして、片淵家の言いつけどおり、彼を一室に閉じ込め、窮屈な生活を強いてきたこと。
彼はそのような扱いを受けるべき人間ではありません。
僕は何度も謝りました。
綾乃さんも涙を流していました。そのとき、玄関から苛立った声が聞こえました。
「おい、いつまで待たせる気だ!」

清嗣さんは階段を上がり部屋に入ってくると、桃弥くんを強引に抱いて連れ出そうとしました。
このまま見送れば、桃弥くんは二度と外には出られないだろう。そんな気がしました。
も(原文ママ)考えている時間はありませんでした。
僕は、自分の人生と引きかえに、すべてを終わらせることを決意しました。
長々と、無駄の多い文章を読ませてしまい、申し訳ありませんでした。今、綾乃さんと浩人と桃弥くんは■■区のアパート、■■■の■号室に暮らしています。
きっと僕には重い刑が下されるでしょう。当然のことです。
ただどうか、綾乃さん、浩人、桃弥くんの三人に温情を与えてくださいますよう、心からお願い申し上げます。
片淵慶太
不可解な結末
―――この手紙により、八ツ枝山に捜査が入った。

結果、片淵家周辺から左手のない白骨遺体が15体発見された。
そのほか、片淵清嗣さんの妻・美咲さんの遺体も見つかったという。
柚希さんの祖父母、片淵重治・とよ夫妻は任意同行の後、逮捕。
重治さんはその後、警察病院で心不全により死亡。妻のとよさんは認知症の進行が深刻で、おそらく完全な真相の解明は難しいとされる。
片淵綾乃さん、桃弥くん、浩人くんの三人は警察によって保護された。
その後、綾乃さんは起訴されたものの、慶太さんの手紙により情状酌量が認められ、執行猶予付きの判決が下された。
現在は母親の喜江(よしえ)さんと復縁し、子供たちとともに暮らしている。
なお、桃弥くんの戸籍取得手続きはすでに完了したと聞く。
事件の決着が付いていく中、
唯一、片淵柚希さんの行方だけが分からなかった。
第五章 終わらされた家
―――2021年7月、一連のできごとをまとめた書籍「変な家」が出版された。
予想を超えた売れ行きとなり、様々な対応に追われる中、久々に栗原さんから電話が来た。
栗原:本、売れてるみたいでよかったですね。
雨穴:おかげさまです。
栗原:読みましたけど、結構脚色してますよね。
雨穴:実在の事件をそのまま書く度胸は、やっぱり私にはなくて、半分くらいは創作になっちゃいました。
栗原:ルポライターの寿命は短いですから、それくらいがちょうどいいのかもしれません。
雨穴:ただ、片淵家の恐ろしい因習と、慶太さんと綾乃さんがそこから逃れるために戦ったという事実はしっかり書きましたよ。
栗原:そこも読みましたよ。『利用されてたんだな』ということは伝わりました。
まあ、文章の甘さは気になりましたけど。
雨穴:文章は大目に見てくださいよ…。はじめて書いた本なんですから。
栗原:ベテラン作家の本より値段が安ければ、その言い訳も成り立ちますけどね。
雨穴:厳しいな……。
でも『綾乃さん夫婦が片淵家から利用されていた』ってことがちゃんと伝わったならよかったです。
栗原:いえ、彼らのことではありません。
雨穴:え……?
栗原:利用されたのは片淵家です。
雨穴:……どういう意味ですか?
栗原:一連の話、なんか色々と不自然だと思いませんか?嘘くさいといいますか。
雨穴:今さらそんな。栗原だってノリノリだったじゃないですか。
栗原:たしかに、推測や妄想なら面白いですよ。
でも現実的に考えて『左手供養』なんて儀式が、何十年にもわたって続いたのはおかしいと思うんです。
雨穴:いや、だからそれは因習にとらわれた一族が……
栗原:人間、そこまで馬鹿じゃありませんよ。
それに、財産と事業の大半を失った片淵家が、どうして新築の家をポンポン建てられたのか、というのも疑問ですし、これまで彼らの犯行がバレなかったのもおかしい。
であればこう考えるべきです。
片淵家よりももっと大きな存在が、彼らに儀式を続けさせた。
雨穴:大きな存在って……潮の亡霊とか?
栗原:そんなもの、はなから存在しません。
雨穴:じゃあ……
栗原:八ツ枝山から発見された15体の白骨遺体、ほぼ身元が特定されたそうですね。

栗原:それによると1950年代から現代にかけて、断続的に儀式が行われたことがわかります。
ただ気になるのが、周期がまちまちなんですよ。

栗原:これがたとえば5年に一度、とかならいかにも儀式っぽいんですけど。
雨穴:私も、周期については説明できないなって思ってました。どういう基準で行われていたんでしょうね。
栗原:ヒントは清嗣さんの言葉にあります。

栗原:『要請が来た』……つまり彼らは、誰かから頼まれたときに儀式を行っていたということです。
では依頼主とは誰なのか。
この不規則な周期をもとに不眠不休で調べたところ、一つの会社が浮かび上がりました。
群馬県にある『喜多蔵製薬』という製薬会社です。
雨穴:……その会社がどうかしたんですか?
栗原:左手供養が行われた数か月後に、必ず喜多蔵製薬が新薬の申請を行っているんです。
雨穴:え……?
栗原:新薬開発には治験が必要です。
治験とは、生きている人間に開発中の薬を投与し、その効果や副作用を調べること。
ただ、法律や安全を守るため、あまり強い成分は投与できず、それが開発の足かせになることも多い。
逆に言えば、生きている人間に自由に薬を投与できれば、新薬開発のスピードは飛躍的に上がるということです。
雨穴:栗原さん……まさか……
栗原:一方、左手供養について考えてみましょう。
片淵家は来客から左手を奪い、仏壇に供えていた。
言い換えれば左手以外は余るということです。
雨穴:……片淵家と喜多蔵製薬は、人体を分け合っていた……と?
栗原:慶太さんの手紙を読んでいて、ひっかかる部分がありました。

栗原:彼は「左手を奪う」とは書いても「殺す」とは一言も書いてないんです。
我々は大きな勘違いをしていたのかもしれません。
片淵家は、来客を殺していない。

栗原:彼らは来客の左手を切り取り……

栗原:『残り』を生きたまま喜多蔵製薬に渡していたのかもしれません。
雨穴:いや、それはさすがに憶測が暴走しすぎじゃないですか?
製薬会社が人体実験なんて……
栗原:今の医療がすべて、清く正しい研究の上に成り立っているとでもお思いですか?
雨穴:……でもですよ。……百歩譲ってそれが事実だとして、片淵家と喜多蔵製薬はどうしてそんな気色悪い関係になったんですか?
栗原:喜多蔵製薬の創業者の名前を見ればわかります。
―――ホームページを開き、会社概要を探す。


雨穴:喜多蔵清子……清子って、もしかして……
栗原:片淵嘉永の長女…そして宗一郎の妹です。

栗原:彼女は片淵家のお荷物だった製薬事業を押し付けられ、一人家を出た。
その後、戦時の需要拡大を追い風に急成長。
戦後、医学者の喜田蔵真造という男と結婚し、社名を『喜田蔵製薬』に変えたそうです。
彼女は当時「これでようやく片淵の名を捨てられた」と喜んでいたようですね。
順風満帆なように見えて、胸底ではずっと、自分を邪険に扱った片淵家への怒りがあったのでしょう。
彼女はそれだけでは飽き足らず、宗一郎を洗脳することで復讐しようとした。
雨穴:洗脳……?
栗原:『左手供養』に至る経緯が、なんか不自然だと思いましてね。
そこで喜多蔵家の人脈を細々と調べていたら、清子の義理の妹が、芝居小屋所属の役者だったことがわかりました。
雨穴:役者がどうかしたんですか?
栗原:彼女の当たり役が『怪しげな占い師』だったそうです。
雨穴:それってまさか……

『このままでは亡霊に殺される』
そう信じた総一郎は『蘭鏡』という占い師からの助言で、片淵家が所有する八ツ枝山の中腹に奇妙な屋敷を建てた。
栗原:潮の仏壇も、シンメトリーの家も、左手供養も、すべて喜多蔵家が仕掛けたフェイクだったのかもしれません。
清子は適度に資金援助をしながら、片淵家から左手のない体を引き取り、新薬の実験に使った。
使い終わったら片淵家の近辺に埋めればいい。
遺体が発見されても、あの屋敷がある限り「片淵家が狂った因習のために人を殺した」と解釈される。
まさに、雨穴さんが書いた本のようにね。
雨穴:…………
栗原:要するに、片淵家は清子から汚れ役を担わされていたということです。
雨穴:……まあ、大昔の話なら、まだ分からなくもないですけど、現代の日本でそんなことをするのはリスクが高すぎません?
栗原:だから時代を経るほどに頻度が低くなっているじゃないですか。

栗原:特に、法改正で厳密な治験管理が必須になった1990年以降は激減してます。
―――結局、釈然としないまま通話は終わった。
栗原さんの説がどこまで正しいかは分からない。
とはいえ、財産も事業も失った片淵家が、危険な儀式を続けながら、長年存続できたのはたしかに不自然だ。
バックに大きな存在が付いていた……その考えには納得感がある。
喜多蔵製薬……喜多蔵家……なぜだろう。
栗原さんからその名前を聞いたとき、一瞬、なつかしさを感じた。
その響きをどこかで聞いたことがあるのだ。
記憶をたどるように、何度かつぶやいてみる。
喜多蔵、喜多蔵、キタクラ……
胸がざわつく。
いつかの、柚希さんの言葉がよみがえる。
柚希:私以上に、母は娘のことを嫌っていたようです。表札も旧姓の『キタクラ』になっていて……
内通者
栗原:旧姓?
雨穴:はい。柚希さんのお母さん……喜江さんの旧姓がキタクラなんです。偶然とは思えないというか。
栗原:偶然ではないとしたら、片淵家に喜多蔵家の人間が紛れ込んでいた、ということになりますね。
雨穴:ええ。それで……思い返すと喜江さんの行動って、なんかずっとおかしいんですよね。
左手供養に綾乃さんを平気で差し出したり、今になって復縁したり。
何より不可解なのは、ずっと無視し続けた慶太さんに、ある日突然、片淵家の住所を教えたことです。
人間性が見えないんですよ。なんか、人っていうより『役割』って感じがして。
栗原:『役割』ですか……雨穴さん、ときどき冴えてますよね。
雨穴:割といつも冴えてるとは思ってるんですけどね。
栗原:もしかしたら彼女は内通者だったのかもしれません。
雨穴:内通者?
栗原:喜多蔵は長年、片淵家を利用してきた。裏を返せば、秘密を握られているということです。
片淵家が存続するかぎり、つねに人体実験の事実が世間にバレる危険がある。

栗原:だから縁者を片淵家に嫁がせ、内側から葬ることにした。
雨穴:内側から葬る……家を殺すってことですか?
栗原:はい。まあ、実際に殺したのは慶太さんですが、彼を片淵家に紹介したのは喜江さんでしたよね。

栗原:綾乃さんに熱烈な愛情を向ける慶太さんを、鉄砲玉として利用したわけです。
雨穴:だけど……慶太さんの手紙を読むと、彼の行動は彼自身の意志のように思えるんですが……
栗原:手紙の内容がすべて事実ならね。
雨穴:え?
栗原:あそこに書かれていたことが正しいと証明する手立てはありますか?
雨穴:つまり、慶太さんは嘘を書いた……?
栗原:あるいは、喜多蔵家にとって都合の良い筋書きを書かされた。
―――綾乃さんに惚れこんでいた彼は、喜江さんと綾乃さんに利用され、彼女たちの命令で清嗣さんを殺害し、自首をして偽りの手紙を書いた。
信じがたい話だが、どこか腑に落ちている自分もいた。なぜなら……

慶太さんの絵には、説明書きが付いているものがあった。

それを読むと、手紙の文体と明らかに異なるように感じるのだ。同じ人物が書いたとは思いづらい。
もしや、彼は文章を暗記させられたのではないか。
雨穴:だけど……どうして慶太さんは逃げなかったんでしょう。
栗原:逃げられなかったんじゃないですか?
狛江の家の一階にある寝室、小窓が付いていましたよね。

栗原:あれ、もしかしたら外から中を監視するためのものだったのかもしれません。
雨穴:慶太さんは、あの部屋に監禁されていた……?
栗原:なんにせよ「逃げればよかったじゃないか」というのは第三者の理屈です。
当事者は逃げられないんですよ。特に『家』からはね。
雨穴:……このことを公表すべきでしょうか?
栗原:もう遅いです。雨穴さんの本、今、何冊売れてるんですか?
雨穴:先週、10万冊を超えたそうです
栗原:すでに10万人が『都合の良い筋書き』を読んでしまったわけでしょ?
雨穴:今から重版分で追記するとか……。
栗原:無駄ですよ。一度売れてしまったものは、作者でもコントロールすることは不可能です。
雨穴さんも、まんまと利用されましたね。
―――『喜多蔵家に利用された』…その言葉を突き付けられ、私はある可能性を思いついた。
何者
翌日、私は狛江に向かった。
バスを降りてしばら歩くと、例の家が見えてくる。
事件当時は野次馬や記者で溢れたというが、今は誰もいない。
私は空き家を通り過ぎ、隣の家の呼び鈴を押した。
ドアが開き、女性が顔を出す。
50代半ばの気のよさそうな婦人……以前、桃弥くんが窓際にいたことを教えてくれた人だ。
彼女は私を見るなり「あら、お久しぶりね」と笑った。
雨穴:覚えていてくださったんですか……
婦人:あなた、割と特徴的なお顔だからね。今日はどうしたの?
雨穴:実は、見ていただいものがありまして……。
―――それは以前、レンタルスペースで栗原さん・柚希さんと話した日、別れ際に三人で撮った写真だった。
柚希さんは手で顔を隠そうとしている。
だが、シャッターに間に合わなかったのか、目から鼻の頭あたりまでは写っている。
雨穴:この女性に見覚えはありませんか?
婦人:あら……
―――婦人は意外そうな表情で言った。
婦人:あなた、やっぱりお知り合いだったのね。
この方、片淵家の奥さんよ。
原作:「変な家」(飛鳥新社)
著:雨穴
書籍編集:杉山茂勲
雨穴「変な」シリーズ最新作 10月31日発売


雨穴
山口むつお
原宿
かまど
みくのしん
ヨッピー
上田啓太
たかや

めいと

オモコロ編集部






