『宮江柚希』と名乗る人物は何者なのか。

メールに書かれていた「伝えたいこと」とは。

行くべきか。それとも。

考えがまとまらないまま、待ち合わせ場所の喫茶店に到着した。

時刻は午後2時50分。約束の10分前。
まだ引き返せる。

しかし、このまま逃げれば真相には一生たどり着けないだろう。
それにここは公共の場。さすがに危害を受ける心配はない。

意を決して、ドアを開ける。
店内を見渡す。
客は数人いたが、一目でわかった。

奥のテーブルに座るショートヘアの女性。
顔や服装というより、彼女がまとう暗い雰囲気は、電話越しに聞く『宮江柚希』のイメージそのものだった。

彼女も私に気づいたらしく、その場で立って会釈をした。

緊張しながらテーブルに着く。

軽い挨拶を終えたあと、あえてそのことには触れず、まずは栗原さんの推理を話すことにした。

子供が二人いること。

夫婦がひろとくんを溺愛していたこと。

その裏で、Aくんに恐ろしい行為を強いていたこと。

二重扉の本当の意味。

話しながら様子をうかがった。
最初は相槌を打ちながら、興味津々で聞いていたが、話が進むにつれて、だんだんと顔がこわばっていくのを感じた。

そして一家が突然、家から去ったところまで来ると「すみません」と言って、逃げるように席をはずした。
ずっと感じていた違和感が、このとき確信に変わった。

彼女があの一家に向ける感情は、夫を殺された怒りなどではない

しばらくして戻ってきた彼女は、落ち着いてはいたが、目の周りが赤かった。泣いていたのだろうか。

 

雨穴:大丈夫ですか?

宮江:すみません……。

雨穴:あの……宮江恭一さんとは、どういうご関係だったんでしょうか。
先ほど、恭一さんに奥さんはいなかったという話を聞きまして。

 

―――少しの沈黙のあと、彼女は何かを諦めたように、小さな息を吐いた。

 

宮江:……知ってらしたんですね。騙すようなことをして申し訳ありませんでした。

雨穴:では、やっぱり……。

宮江:はい。私は……宮江恭一さんとは何の関係もない他人です。

雨穴:じゃあ、あなたはいったい……?

宮江:私の本名は……

 

―――彼女はカバンの中から免許証を取り出した。思わず息をのんだ。そこに書かれていた名前は……

 

『片淵柚希』

 

彼女はあたりを見回したあと、小さな声で言った。

 

「私は、ひろとくんの母親 片渕綾乃の妹です」

 

姉妹

状況が把握できなかった。
目の前にいる女性は、あの家の住人の妹。
その人がなぜ……?

彼女は「少し長くなりますが」と前置きして、これまでの経緯を話してくれた。

それは、あまりに奇妙な物語だった。

 

柚希:姉は二つ年上の、優しい人でした。
私たちはあまり似ていませんでしたが、比較的、仲の良い姉妹だったと思います。

でも私が9歳の夏、姉は突然いなくなってしまったんです。

雨穴:失踪ですか…

柚希:はい。ただ、普通の失踪事件とは明らかに違いました。

 

柚希:ある朝起きると、姉のベッドが無くて、彼女の部屋ももぬけのからになっていました。
びっくりして母に尋ねると「お姉ちゃんは今日からうちの子じゃなくなった」とだけ……。それ以外は何も教えてくれませんでした。

雨穴:それは……不可解ですね。

柚希:父も母もそんな様子だから、警察に連絡することもなく、幼かった私は、その状況を受け入れるしかありませんでした。

姉がいなくなってから、なぜかうちは不幸が続きました。

父は仕事をやめて、お酒ばかり飲むようになって、肝臓を悪くして亡くなりました。
母は再婚しましたが、相手の男性がひどい浮気性で…………母が私に手を上げるようになったのはそれからです。私はグレて、16歳で家を出ました。

数年後、先輩のつてで就職してからは、生活も安定して、家族を思い出すことはなくなりました。
というより、思い出さないようにしていたんです。辛い思い出が多すぎましたから。

ところが今年の7月、一通の手紙が届いたんです。

姉からでした。

長いこと音信不通だったので、本当に驚きました。
手紙には「あなたと会えなくて寂しかった」「一度電話で話したい」と書かれていました。
半信半疑で、書かれていた番号にかけると、少し鼻にかかった、優しい声の女性が出ました。
間違いなく、姉の声でした。
私の住所は、共通の幼馴染から教えてもらったそうです。

それから、身の上話で数時間が過ぎました。
姉は色々なことを……結婚して、今は子供がいること、婿養子なので苗字は変わっていないこと、以前は埼玉に住んでいたこと、今年、東京の狛江に引っ越して、新築の家を建てたことなどを教えてくれました。

でも、私が一番知りたかったこと……あの日、なぜ突然家からいなくなったのかについては、何度聞いても、絶対に教えてくれませんでした。

雨穴:言いたくなかったんでしょうか…?

柚希:もしくは、言えなかったのかも……。直接会ったときですら、だんまりでしたから。

雨穴:お姉さんと会ったんですか!?

柚希:はい。電話の最後に「今度、新居に遊びに来てね」と言ってくれたんです。さっそく、翌週訪問しました。

久しぶり会った姉は、昔の面影は残しつつも、すっかり綺麗なお母さんになっていました。
ご主人の慶太さんはすごく優しそうな人で、浩人(ひろと)くんも姉にそっくりでかわいくて、私の目には理想的な家族に見えました。

でも、今考えればおかしな点がいくつかありました。

 

柚希:「部屋を修理しているから、二階へはあがれない」と言われたんです。新築なのに修理だなんて、変だなと思いました。
それから……なんといえばいいのか、姉夫婦がずっと、何かに怯えているような、緊張しているような感じがしたんです
あの違和感を見過ごしてしまったことを、今でも後悔しています。

それからしばらくして、連絡が取れなくなりました。

何度電話をかけてもつながらず、LINEも未読のままで、何かあったんじゃないかと心配になって、狛江の家に行ってみました。
そしたら玄関に「売家」の看板が立っていて。

途方に暮れていたとき、あの家の付近でバラバラ遺体が発見されたというニュースを見ました。先週のことです。
「左手が見つかっていない」という情報を知って……心臓が止まるかと思いました。
姉が関係しているに違いない…と。

雨穴:え……?どうして「左手」からお姉さんを連想したんですか?

柚希:……心当たりがあったんです。
群馬県にある父の実家……つまり、お祖父ちゃんの家に大きな仏壇があって、そこに人間の左手を象った鉄製の仏具が置かれていました。

雨穴:左手の仏具……だいぶ珍しいですね。

柚希:しかもそれ、大人の手より少し大きいくらいで、記憶によると……真ん中に切れ目がありました

雨穴:真ん中に切れ目……それってつまり……

柚希:たぶん、蓋が開くようになっていたんだと思います。要するに、入れ物です。

 

―――柚希さんははっきりとは言わなかったが、嫌でもその想像が頭に浮かんだ。

犯人は、左手首を別の場所に埋めたのではなく、持ち帰ったのではないか

左手を仏壇に供える……そんな呪術的な意図があったのだとしたら……

 

柚希:それからニュースを漁ったところ、埼玉県でも似たような事件があったことを知りました。

雨穴:宮江恭一さんの事件ですね。

柚希:はい。姉一家が以前住んでいたのも埼玉だったことを思い出して、これはただ事ではない、と。

雨穴:なるほど。

柚希:だけど「もし姉が犯罪に関わっていたら」と考えると、警察に頼るのが怖くて……自分の力で行方を調べようと思いました。
情報収集のために狛江の家に行ったとき、偶然、柳岡さんに会ったんです

雨穴:私たちが内見に行った日ですか。

柚希:住人の関係者だと知れたら警戒されるだろうと思って、とっさに「宮江」と名乗ってしまったんです。
雨穴さんと柳岡さん、そして亡くなった宮江恭一さんに対して、本当に失礼なことをしたと思っています。申し訳ありませんでした。

 

―――彼女は深く頭を下げた。

 

雨穴:いえ……仕方のないことだと思います。……もしお役に立てることがあるなら、お手伝いしますよ。

柚希:本当ですか…!?

雨穴:ええ、乗りかけた船ですし。
今一番知りたいのは、お姉さんの居場所ですよね。

柚希:はそうですね。一度会って、話をしたいです。きっと姉には、言わずにこらえてきたことがたくさんあると思うので。

 

発端

雨穴:今のお話を聞くと、お姉さんが実家から失踪したことが発端になっているような気がします。
ご両親が当然のようにそれを受け入れたというのもおかしいですし。

柚希:私もそう思います。

雨穴:お姉さんがいなくなる前、何か前兆のようなものはありませんでしたか?

柚希:……関係があるかは分かりませんが、その年の夏休みに、父の実家に里帰りしまして……

雨穴:お父さんの実家って、先ほど言っていた『左手の仏具』がある?

柚希:はい。群馬県の片淵家です。
そのとき、いとこが事故死したんです。「ようちゃん」という男の子で、当時まだ5歳になったばかりでした。

雨穴:そんなに小さな子が……

柚希:しかも、その事故が妙に不自然で……

 

―――店員が空いたコップを下げに来たので、柚希さんは話を止めた。
何気なくスマホを見ると、栗原さんからメッセージが届いている。

「無事ですか?生きてたらこのあと話を聞かせてください」

ふと思い立ち、店員が去ってから柚希さんに提案した。

 

雨穴:今から栗原さんと会いませんか?

柚希:栗原さん……設計士の方ですよね

雨穴:はい。彼にその話をすれば、何か手がかりを見つけてくれるかもしれません。

柚希:ご迷惑でなければ、ぜひ。

 

―――店を出ると、栗原さんに電話をかけ、その旨を伝えた。
彼は快諾してくれたが「私の汚い部屋に女性を呼ぶわけにはいかないから」と、梅が丘のレンタルスペースを指定した。

 

第三章 記憶の中の間取り

―――レンタルスペースに到着すると、すでに栗原さんが待っていた。
丸眼鏡に短く刈った髪、よれよれのジャージ。いつ会っても同じ見た目だ。

彼に案内され、小さな貸し会議室に入る。

 

栗原:えーと『片淵さん』とお呼びすればいいんですかね?

柚希:『片淵』でも『柚希』でも、どちらでもかまいません。

栗原:では『柚希さん』とお呼びしましょう。またいきなり苗字が変わったら困りますからね。

雨穴:栗原さん、いじわるですよ。

栗原:はいはい、どうも。
で、お祖父さんの家で死亡事故があったという話でしたね?

柚希:はい。ただ、これをお話しするには、家の造りを知っていただく必要があって。でも、あいにく図面がなく……

栗原:間取りは覚えていますか?

柚希:完全ではないんですが、だいたいの部屋の配置は分かります。写真も何枚かありますし。

栗原:口頭で伝えてもらえれば、私が間取り図を描きますよ。

 

―――20分ほどで間取り図が完成した。
それは、見たこともないような奇妙な形の家だった。

 

雨穴:左右対称……?

柚希:変な家ですよね。

栗原:シンメトリーはアート建築ではときどきあるんですが、民家では珍しいです。
柚希さん、この家どんな場所にあったんですか?

柚希:山の中腹を切り開いた、広い敷地にぽつんと建つ古民家でした。

 

柚希:まわりにはペンションが数軒あるくらいで、人はほとんど住んでいなかったと思います。
毎年、夏休みに帰省するのが恒例になっていたんですが、私はここに行くのがあまり好きではありませんでした。

 

柚希:玄関に入ると、正面に薄暗い廊下が伸びていて、奥に大きな仏壇がぼんやりと見えるのが子供心に不気味で……。

雨穴:そこで事故が起きたんですよね。

栗原:ではさっそく、事故について教えてください。

 

開かない襖

柚希:その日、片淵家にいたのは全部合わせて9人です。

 

柚希:私祖父祖母
そして、祖父母と同居していた伯父の清嗣さん。奥さんの美咲さん。長男の洋一君……みんなからは「ようちゃん」と呼ばれていました。

栗原:祖父母と清嗣さん一家がその家に住んでいて、柚希さん一家が帰省したわけですね。

柚希:仰る通りです。

栗原:部屋割りは覚えていますか?

柚希:まず、向かって左奥は祖父母の部屋でした。

 

柚希:祖父は足が悪くて、ずっとこの部屋に寝たきりで、祖母も一日のほとんどをこの部屋で過ごしていたと思います。

 

柚希:そして、廊下を挟んで右側が私たちの部屋です。

 

柚希:それぞれ六畳の和室でしたが、④の部屋だけがなぜか板敷きでした。

 

 

柚希:①は父が、②は私と姉と母が寝泊りするのに使っていて、③は清嗣さん一家の寝室です。

ここ、ちょっと不思議なところがあって……

 

柚希:①と④を仕切る襖が開かなかったんです。
鍵が付いているわけでもないのに、びくともしないんです。

栗原:他の襖はどうでした?

柚希:問題なく、すべて開け閉めできました。

雨穴:じゃあ、どこかの部屋に入れないということはなかったんですね。

柚希:ええ。ただ……

 

柚希:④に入るには、②と③を経由しなければいけなくて、それが不便なためか④はずっと使われていなかったみたいです。
何度か入ってみましたけど、妙な圧迫感があって、なんか気持ち悪いなって思いました。

栗原:しかも、窓がないんですよね。

雨穴:え!?

柚希:そうなんです。④を含めて、右側の四部屋はどれも窓がなくて、昼間でも電気を消すと真っ暗でした。

 

―――開かずの襖、窓のない部屋。
この二点が、死亡事故の謎に深く関わることになる。

 

ようちゃんが死んだ場所

柚希:事故が起きたのは、私たちが泊まりに行って二日目の朝でした。
たしか午前5時頃だったと思います。

 

柚希:トイレに行きたくなって廊下に出ると、仏壇の前に何かが落ちているのが見えました。
近づいてよく見ると、それは仰向けに倒れたようちゃんでした。

顔が真っ白で、濁った目がこぼれそうなほど大きく見開かれていて……直感的に「もう生きてない」と分かりました。
赤黒く固まった血が、頭に付いているのに気づいたのはそのあとです。

それから、かかりつけの先生が来て、正式に死亡診断を受けました。いつもは大人しい美咲伯母さんが、駄々っこみたいに泣きじゃくる声が、今も耳に残っています。

雨穴:状況から考えると、ようちゃんは仏壇から転落して亡くなった……ということでしょうか?

柚希:みんな、そう言っていました。「いたずらで仏壇に登ろうとして、足を踏み外したんだろう」って。
でも私には、それがどうしても不自然に思えたんです。
というのもその仏壇、子供が自力で登れるような高さではなかったから。

栗原:そのことは指摘しましたか?

柚希:はい。だけど母から「取手に足をかけたんでしょうね」って一蹴されてしまいました。

雨穴:取手?

 

柚希:仏壇の下の扉に、小さな取手が付いていたんです。そのときは納得しましたけど、小さな子供が夜中に仏壇にのぼるなんて、やっぱり不自然だな…って思って。

栗原:警察は何と?

柚希:来ませんでした。誰も呼ばなかったんです。

雨穴:え……?

栗原:家庭内であっても。死亡事故が起きた場合は、通報するのが普通なんですけどね。

柚希:美咲伯母さんが一度だけ電話をかけようとしてましたけど、みんなから反対されて、結局は諦めたようでした。

雨穴:こういうときに母親の意向が無視されるのっておかしくないですか…?

栗原:警察が来ると困る事情でもあったんでしょうかね。

 

―――家族の態度は明らかにおかしい。
事故と信じて疑わない……というより、事故だったことにしたい

そんな意図すら感じる。

 

移動

栗原:しかし柚希さん、ずいぶん記憶力が良いんですね。子供の頃のことをここまで覚えている人は少ないと思うんですが。

柚希:うちの小学校、夏休みの宿題で日記を書かないといけなかったんです。
性格が細かいもので、起きたことや見たものは全部書き留めていて……。
だから覚えているのかもしれません。

雨穴:そうだったんですね。栗原さん、穿った見方しすぎですよ。

栗原:別に怪しんでいるわけじゃないですよ。
では柚希さん、事故の前後のことも覚えていますか?

柚希:はい。……前の日は、午後からみんなでお墓参りに行って、帰ってきたのは夕方でした。

 

柚希:それからみんなで夕飯を食べて、順番にお風呂に入って、そのあとは各自、部屋で過ごしました。

 

柚希:私と姉と母、そしてようちゃんは②の部屋でトランプをしていましたが、しばらくすると、ようちゃんは眠くなったようで、自分の部屋に戻っていきました。
それが……生きている彼を見た最後でした。

栗原:何時ごろだったか覚えていますか?

柚希:たしか……テレビで845が流れていたので、9時少し前だったと思います。

それからすぐに私たちも布団に入ったんですが、私は目が冴えて眠れなくて、朝の4時ごろまで布団の中で起きていました。

栗原:夜中、何か異変はありませんでしたか?
たとえば、誰かが部屋の中に入ってきたりとか。

柚希:いえ、私が起きている間は何もありませんでした。

栗原:すると、おのずと事故が起きた時間帯が見えてきますね。

 

栗原:①と④の襖は開かず、窓もないので、ようちゃんが仏壇の前に行くには柚希さんのいる②を通らないといけない。

 

しかし、柚希さんが眠りについた午前4時まで、誰も部屋を通らなかったとなると、事故が起きたのは4時以降ということです。

 

栗原:遺体が発見されたのが5時ですから、死亡推定時刻は4時から5時までの間といえます。

雨穴:ちょっと待ってください。それ、矛盾してます。

栗原:なぜですか?

雨穴:柚希さん、  さっきこう仰ってましたよね。

 

柚希:それは、仰向けに倒れたようちゃんでした。
でも、顔が真っ白で、濁った目がこぼれそうなほど大きく見開かれていて―――

 

雨穴: 濁った眼……それはたぶん『角膜混濁』という死後反応です。

 

雨穴:人は目が開いた状態で死亡すると、おおむね三時間ほどで眼球が乾燥して、濁っていくんです。

栗原:死後三時間……すると……

 

雨穴:ようちゃんが死亡したのは、発見される3時間以上前……少なくとも、午前4時より前だったはずです。

栗原:柚希さん。本当に午後9時から午前4時までの間、誰も部屋を通らなかったんですか?

柚希:はい。それは確かです。

雨穴:ようちゃんは柚希さんに気付かれずに、どうやって仏壇の前に行ったんだろう……。

 

―――しばし沈黙が流れたあと、栗原さんがぽつりと言った。

 

栗原:一つだけ方法があります。
ようちゃんが亡くなったのが部屋の中だったとしたら、どうでしょう。

雨穴:……ん?

栗原:つまりこういうことです。

 

栗原:深夜、ようちゃんは自分の部屋の中で、頭を打って死亡した。
そして柚希さんが眠った4時以降、誰かが彼の遺体を仏壇の前に運んだ。これなら辻褄が合います。

雨穴:たしかにそうですけど……誰が何のために?

栗原:犯人が死因を偽装するためです。

雨穴:……事故ではなく、事件ということですか。

栗原:確証はありませんが、そう考えるしかないでしょう。
ようちゃんは殴られて死亡した。そして犯人は、彼の遺体を仏壇の前に置くことで転落死に見せかけた。

雨穴:でも、それおかしくないですか?

栗原:なぜです?

 

雨穴:犯人は深夜、柚希さんに気づかれずに③の部屋に侵入したってことですよね。
すると犯行が可能なのは、最初から③の部屋にいたようちゃんの両親だけです。

栗原:実の親だから子供を殺さない、とはかぎりません。

雨穴:いや、でも……

柚希:私も、その推理には少し違和感があります。

栗原:柚希さんまで?

柚希:仮に伯父さんか伯母さんが犯人だったとして、③あるいは④の部屋でようちゃんを殴ったら、さすがに音がすると思うんですよね。
私が起きている間、そんな音は聞こえませんでした。

栗原:たしかに、一理ありますね。

雨穴:うーん……とはいえ、犯人が誰だったにしても、音がしないっていうのはおかしいですよね。

栗原:柚希さん、家族の中で誰か『音を聞いた』という人はいませんでしたか?

柚希:音……音……あ、そういえば……!

 

隣室

柚希:祖母が「夜中に隣の部屋から『ガタ』と音がした」と言っていました……!

雨穴:本当ですか!

柚希:はい。起きて様子を見に行ったらしいんですが、何も変わった様子はなかった、と。

そのとき、仏壇の前にようちゃんはいなかったそうなので、それなら事故には関係ないと、あまり気にしていなかったんですが、栗原さんのお話を聞くと、重要な証言に思えてきました。

雨穴:すると、ようちゃんが殺されたのは……

 

雨穴:お祖母さんたちの隣室……居間ってこと?

栗原:だとすると、少し不可解ですね。

雨穴:どうしてですか?

栗原:なぜお祖母さんはわざわざ廊下を通ったんでしょう

 

栗原:お祖母さんは、仏壇の前にようちゃんがいないことを確認している。
つまり、一度廊下に出たということです。

 

栗原:部屋と居間の間には襖があるのだから、そこを通ればいいのに。

柚希:たしかに……言われてみれば。

雨穴:じゃあ「隣の部屋」って言うのは、お父さんが寝ていた①のことなんじゃないですか?

栗原:それなら、おばあさんの発言に対して、お父さんが何か言うはずだと思うんですよ。

雨穴:うーん……

 

―――「隣の部屋」とはどこのことなのか。
図面を見ながらしばらく考える。

そのときふと、根本的ことを思い出した。

この家が片淵家だということだ。

 

雨穴:あの、この間取り図って、柚希さんの記憶をもとに栗原さんが描いたものですよね。

栗原:ええ。

雨穴:だとしたら、柚希さんが知らないもの、見えていなかったものは書かれていない……ってことになりますよね?

栗原:もちろんです。

雨穴:ここは片淵の実家。
狛江や埼玉の片淵家と同じような造りである可能性は考えられないでしょうか?

栗原:つまり、この家にも「謎の空間」のようなものがあった…と?

雨穴:どこかはわかりませんが、お祖母さんの言う「隣の部屋」はそれのことなんじゃないかなって。
まあ、なんの根拠もないですけど。

栗原:雨穴さん。その考え、あなたにしては悪くないです。

雨穴:「にしては」って。

栗原:もしもこの家が、狛江・埼玉と同じ目的で造られたのであれば、死亡事故にまつわる謎がすべて解けます。

少々、時間をください。図面を書き直します。

 

通路

栗原:重要なのは、柚希さんがその部屋の存在に気づかなかったことです。

 

栗原:たとえば、こんな中途半端な形であれば、凹凸によって外側から分かってしまう。であれば……

 

栗原:どこかの壁一面ににぴったりと隣接していたはず。

 

栗原:お祖母さんの部屋で、唯一、窓も襖もないのは……

 

栗原:ここだけです。

雨穴:子供部屋……

 

柚希:ここに、 Aくんと同じ境遇の子供が閉じ込められていたということですか……

栗原:雨穴さんの推測通りなら、そういうことになりますよね。

雨穴:……はい。だけどこの図……

 

雨穴:入り口が無くないですか?

栗原:入り口は、写真に写っていたじゃないですか?

雨穴:写真?……あ!もしかして……

 

雨穴:仏壇の扉……?

栗原:その通りです。この仏壇、廊下の幅ほどのサイズがあります。大人一人くらいなら通れるでしょう。

 

栗原:おそらく、廊下の突き当りには穴が空いており……

 

栗原:それを仏壇で隠していたんです。

雨穴:すると……

 

雨穴:お祖母さんが仏壇の扉から子供部屋に様子を見に行ったとき、子供が隙をついて逃げ出して、そのままようちゃんを……?

栗原:いいえ。そうであれば、お祖母さんの「何も変わった様子はなかった」という発言が不自然です。
子供を庇いたいのであれば、そもそも「音がした」ということ自体隠すはずですからね。

この日、片淵家にいた誰かが、仏壇の扉を通ってようちゃんの部屋に忍び込み、殺害したんです。

雨穴:でも……

 

雨穴:仏壇の扉から中に入っても、③の部屋にはたどり着けないですよ。

栗原:ええ。ですからあと一回だけ、間取り図を書き変える必要があります。

雨穴:まだ仕掛けがあるってことですか?

栗原:ええ。ヒントは部屋の写真です。

 

栗原:この二枚を見たとき「妙だな」と思いました。

 

栗原:②の部屋は襖の両脇にスペースがあるのに④は片側にしかない。

雨穴:あ、ほんとだ。

栗原:つまり、④は他の部屋より少しだけ狭かったということになります。
柚希さんが圧迫感を覚えたのはそのためでしょう。

雨穴:だけど、どうしてこの部屋だけ狭いんでしょう?

栗原:実に簡単な理由です。
この部屋、壁がもう一枚あったのではないかと思います。

 

―――栗原さんは、間取り図に新たな『壁』を描き足した。

 

柚希:隠し通路……?

栗原:外側からは一枚の壁に見えるというからくりです。

雨穴:じゃあ、この襖が開かなかったのは……

栗原:通路側から鍵がかかっていたのでしょう。

 

栗原:では、片淵家は何のためにこんな仕掛けを作ったのか。
ヒントは④の部屋が普段使われていなかったこと、そして板敷きだったことです。

畳と板敷きの違いは多々ありますが、意外と大きいのは掃除のしやすさ
畳は汚れがしみ込んでしまいますが、板ならふき取るだけできれいになる。すなわち……

 

栗原:この部屋では頻繁に『床が汚れること』が行われていた。

柚希:まさか……

栗原:この家もやはり片淵家だったということです。

 

栗原:客人が来ると、子供は部屋から出て通路を通り、④の部屋に忍び込む……とまあ、この想像はこれくらいにしましょう。
ともかく、この家の構造を知っていた何者かが、それを利用してようちゃんを殺害したんです。

 

栗原:まず、犯人は廊下に出ると、

 

栗原:仏壇の扉から通路に入り、④を経由して③に侵入する。

 

栗原:そして、寝ているようちゃんを連れ去り、再び仏壇の扉から廊下に出る。
このとき不注意に立ててしまった音が、お祖母さんに聞こえたのでしょう。お祖母さんはそれを『子供部屋で子供が音を立てた』と勘違いしたんでしょうね。

 

栗原:犯人は廊下を通って、家族に音を聞かれない場所まで行き、ようちゃんを撲殺。

このとき、お祖母さんが子供部屋に様子を見に行くというハプニングは起きたものの、隠れてやりすごせばいいだけの話です。

 

栗原:お祖母さんが自室に戻ったあと、犯人は仏壇の前に遺体を放置し、自分の部屋に戻った。
あとは、誰かがそれを見つけるのを待つだけです。

雨穴:うーん……理屈としては理解できるんですけど、あまりにも雑な犯行じゃないですか?
警察に調べられたら、色々とボロが出てきそうな気がするんですが。

栗原:だから犯人は、警察が来ないように、遺体を仏壇の前に置いたんです。

雨穴:どういう意味ですか?

栗原:考えてみてください。
警察が来た場合、事故現場付近は徹底的に調べられます。当然、仏壇もです。

そうすれば、片淵家にとって不都合な事実が明るみになってしまう。『子供を監禁している』という事実がね。
ゆえに「ようちゃんは仏壇から落ちて死亡した」という状況を作れば、この家の人間は警察を呼ばないだろう、と犯人は確信していたんです。

柚希:だからみんな、美咲伯母さんを必死に止めていたのか……。

雨穴:それで、犯人は誰なんですか?

栗原:消去法で行きましょう。

 

栗原:柚希さんと同じ部屋にいたお母さん綾乃さんに犯行は不可能。
そして③の部屋から廊下に出るには、柚希さんの部屋を通らなければならないので、ようちゃんの両親も除外します。
寝たきりのお祖父さんは論外。そしてお祖母さんが犯人であれば『夜中に音がした』などという無意味な嘘をつくはずがない。

雨穴:そしたら……

柚希:……私の父しかいませんね。

雨穴:そういえばお父さん、この頃から人が変わってしまったんでしたよね。

柚希:はい。仕事をやめて、部屋に引きこもってお酒ばかり飲むようになって……その姿は、どことなく、死に急いでいるように見えました。
姉が失踪したせいだと思っていたんですが……もしかしたら、これも一因だったのもしれません。

栗原:しかし、父親が仕事をやめて、生活はどうしていたんですか?

柚希:……わかりません。 母は専業主婦で、父の前職も、貯金ができるような仕事ではありませんでした。だけど、私たちの生活水準は……以前より、少し上がったんです

雨穴:それ、おかしくないですか?

栗原:いえ、それが事実なら、お父さんの動機がぼんやりと見えてきます。

 

継承

栗原:片淵家には二人の息子がいた。

栗原:長男の清嗣さん、そして次男が柚希さんのお父さん。
日本的なしきたりで行けば、長男・清嗣さんが片淵家を継ぐことになる。では『片淵家を継ぐ』とは何を意味するのか。

たとえば『自分の子供を幽閉して、殺人をさせる』という謎の儀式を受け継ぐことなのだとしたら。

雨穴:え……

 

栗原:本来であれば、清嗣さんの息子である、ようちゃんがその役目を負うことになっていたはずです。
しかし彼は死んでしまった。

その場合、どうなるか。これまた日本的しきたりに従えば……

 

栗原:次男の第一子に降りてくるのではないか。お父さんの動機はそこにあったのではないかと思います。

雨穴:つまり、綾乃さんにその役割を担わせたかった……と?
いや、そんなの頼まれたって嫌でしょ、普通。

栗原:お金がもらえたとしたらどうですか?

雨穴:お金?

栗原:後継者は子供を提供する代わりに、片淵家から多額の資金援助を受けることができたのだとしたら。

柚希:父は、お金目当てで……?

栗原:実際、家族は豊かになったんですよね。

雨穴:でも……いくらお金がもらえたからって、自分の子供を差し出すなんて…

 

―――そう言いかけたとき、はっとした。
たしか柚希さんは先ほど、こう言っていた。

 

柚希:姉は二つ年上の、優しい人でした。
私たちはあまり似ていませんでしたが―――

 

『似ていなかった』……もしや綾乃さんも、Aくんと同じように養子だったのではないか。
だとしたら、彼女は自分が親からされたことを、自ら繰り返したことになる。

 

雨穴:柚希さん、これからどうしましょう。

柚希:……母に会いに行きます。あの人は、きっと何かを知っているはずですから。

雨穴:ずっと、絶縁状態だったんですよね。

柚希:はい。本当は顔も見たくないですが、今はそんなことを言っている場合ではありません……。

 

―――レンタルスペースを出ると、すでに辺りは薄暗く、街明かりが点きはじめていた。

別れ際、栗原さんが「今日の記念に写真を撮りましょう」と言い出して聞かなかったため、三人並んでいびつなスリーショットを撮影した。

この写真がのちのち、重要な意味を持つことになることに、この時点では気づいていなかった。

 

再訪

―――数日後、柚希さんから電話が来た。
実家に行ったが、母親から門前払いをされてしまったという。

 

柚希:私以上に、母は娘のことを嫌っていたようです……。表札も旧姓の『キタクラ』になっていて……もう、家族に一切未練はないんでしょうね。

雨穴:では、手がかりはつかめずですか。

柚希:いえ、悔しいので母が出かけている間にこっそり侵入しました。実家なので鍵は捨てずに持っていたんです。

雨穴:やりますね。

柚希:姉の痕跡は見つからなかったんですが、一つだけ収穫がありました。
祖父母の家の住所を書いたメモを見つけたんです。

雨穴:群馬の片淵家ですか。

柚希:はい。ようちゃんの一件以来、一度も行っていなくて、場所が分からなかったのでラッキーでした。
これから、行ってみようと思います。

雨穴:待ってください!危険ですよ。
よければ、私も同行します。そしたら、栗原さんも付いてくると思いますし。

柚希:いえ、お気持ちはありがたいですが、これ以上ご迷惑はかけられません。
……ただ一つ、お願いしてもよろしいでしょうか。

雨穴:…… 何ですか?

柚希:雨穴さん、ウェブライターなんですよね。

雨穴:ええ、一応。

柚希:もし……私に何かあったら、一連の話をおおやけにしてください。

雨穴:いや、そんな縁起でもない。

柚希:お願いします。 

 

―――このとき、彼女は何かを予感していたのかもしれない。
以降、柚希さんとの連絡は途絶えた。

 

遺言

栗原:電話もつながらないんですか?

雨穴:はい。それで昨日、警察に相談したんですけど『片淵柚希さんとの関係を教えてほしい』と言われて、言葉に詰まってしまって……

栗原:たしかに、我々と彼女の間にこれといった関係はありませんからね。
それで、どうするんですか?

雨穴:記事を出そうと思います。約束なので。

栗原:であれば、ある程度脚色は加えたほうがいいでしょうね。

雨穴:そのつもりです。

 

―――「変な家」と題したその記事は、予想を超えて大きな反響を呼んだ。
柚希さんからメールが届いたのは、記事の公開から二週間後のことだった。

本文はなく、画像データだけが添付されていた。

 

ブレていたり、指が映りこんでいたり、相当、焦って撮影したものだと思われる。

被写体は、黄ばんだ畳の上に置かれた古い紙。

専門家に解読してもらったところ、そこに書かれていたのは、とても現実とは思えない恐ろしい物語だった。

 

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片淵家の正体が明らかに