トルーマン・カポーティの短編に『夢を売る女』という話がある。

細々とした内容は端折るけど、この話の中にミスター・レヴァーコームなる「夢を買い取る謎の人物」が登場する。

 

この「夢」というのは修辞技法的な意味でなく、睡眠時にみるあれのことだ。

 

主人公は彼に夢を売り続け、次第に生気を失っていく。どうして生気を失うのか、具体的な理屈は作中では明示されない。なぜレヴァーコームは夢を買うのか、それすら明かされない。

主人公が夢を買い戻そうとすると「もう使ってしまったから返せない」とさえ言われる。

 

おそろしい。

 

しかし、そのおそろしさを別にしてみれば、「夢を買う」というのは単純に興味深い。

グロテスクな行為にも思えるが、メルヘンな行為にも思える。

 

夢を買ったら一体どんな気持ちになるのか。

楽しいのか、苦しいのか、あるいは何も感じないのか。実際に肌で感じないことは始まらない。

 

ということで、夢を買ってみることにした。

会社に夢を投函する箱を設置。

 

あなたの夢を箱に投函してください。

睡眠中に見る夢です。
将来実現させたい事柄の夢ではありません。

良い夢は買い取らせていただきます。
謝礼をお渡しするため、記名をお願いします。

買い取られた夢は、今までと同じように自由に話したり、書いたり、思い出したりしていただいて結構です。買い取った夢はお返しすることができません。

あなたの素敵な夢を楽しみにしております。

もってまわった文章だが、なるべく得体の知れない感じを出したかった。

そして、なるべく先入観を与えないように、社内で詳細な説明はあえてしなかった。「夢を買い取ってみる企画」と説明することで、投稿される夢の純粋さが濁ってしまうような気がしたから。

 

もしかしたら夢を買い続けるうちに、自分の中に評価軸が浮かび上がってくることだってあるかもしれない。

熟練の宝石商のように、ひとつの夢をうやうやしくつかみ上げ、複雑でなめらかな反射光をじっくりと観察する。そして他人の夢に、あくまで客観的な事実として、値段を与える。自分は夢が本来持っていた価値を金銭として変換しているに過ぎない。

それは悪くない作業のように思える。

 

どうでもいいけど、会社の入り口付近には「肉のカレンダー」が置いてある。来社したお客さんにも必ず目に入る位置に置いてある。業務内容とは一切関係がないのに。

このスペースに何を置くのが適切なのか、誰も分かっていない。なんとなく置かれた肉のカレンダーも気まずそうだ。

 

 


設置から一週間経過した。

 

箱の中はどうなっているだろう。

 

 

 

集まってる。

 

 

これだけの量になった。これを今から買い取るわけだ。

もちろんユングやフロイト(読んだことないけど)のように、夢から深層心理を解き明かそうとはしない。ただ判断し、値段を与えるだけ。ひよこ鑑定士がオスとメスを分けるのと同じだ。

 

ここで注意しないといけないのは、買い取り金額の判断基準は夢それ自体でないといけないことだ。

夢の価値は、物語として面白いとか、逆に夢らしい突飛さがあるとか、異なる評価軸によってもたらされるものでない。夢は夢として独立しており、外的な価値には依存しない。そのうえでやはり優劣が発生しないといけない、と思う。

つまり、夢には代用がきかない固有の価値がある(だろうと僕は考えている)ということだ。

 

ためしにひとつ見てみよう。

 

夏におばあちゃんの家で
たたみの上で風鈴を聞きながら
眠っていると死んだじいちゃんが
まっ黒な姿で近くまで来る。
という夢。

ちなみにばあちゃんの家に
たたみは無いし、風鈴も
ありませんでした

ギャラクシー

 

なるほど。

 

 

夢だ。

 

これに値段をつけるのか。

 

あと、おばあちゃんの家に畳がないんだ。まあ、そういう家もいっぱいあるだろうけど。でも投稿者のギャラクシーさんは50歳(すごい名前の50歳だ)なので、その祖母の家であれば普通は畳があるような気もする。いや、これは自分の偏った考えでしかないか。

 

まあ、畳の有無はいい。値段をつけよう。

 

 

この夢の買い取り額は……

 

 

 

 

200円。

最初の夢ということもあり、少し様子見的なスタンスもでてしまったかもしれない。なぜ200円なのかはうまく説明はできないが、とにかく200円だと思った。これが正しい金額なのか、まだしっくりきていない。安いのか、高いのか、それも分からない。

ただ夢という未知なる領域に、自分で導き出したフラッグをしっかりと突き刺したのはたしかだ。その位置が見当違いだったとしても、全くの無意味ではない。間違えた位置にはためく旗をみれば、あそこは間違いである、あそこには行かないようにしようと分かるはずだ。

 

それと、言うまでもないことだが夢への支払いは実際に身銭を切る。経費とかじゃない(そもそも経費として成立しないと思う)。

金銭的な痛みがないと「夢を買う」という行為はどこか空虚なものになると思ったから。

 

デスクに置いていたコジ坊(コジマ電気のキャラクター)の貯金箱が役立つ時がきた。

 

「ムダ使いしません!」

貯金箱にはそうプリントされている。これが無駄かどうか。それは買い取った後にはっきりするだろう。

 

お前は夢を金にかえてしまったあとに、そんな風にまだ笑っていられるか?

なんにも知らない顔して、太陽のように笑っていられるか?

 

 

次の夢を見ていこう。

 

大谷翔平に

「さっき話していた言葉何ですか?
感動したので教えてください」

と言われたので

「ああ、『追求』ですかね」

と答えたらお礼にユニフォームと帽子をくれた。

鬼谷

面白い。

大谷翔平がいまさら『追求』に感動するわけないのだが、ギリギリなくはなさそうな妙なリアリティがある。

教える側の何気ない感じも面白い。「ああ」って言ってる。大谷翔平を前にして、全く物怖じしていない。

 

 

この夢は……

 

 

 

買い取りできない。

なぜ買い取りできないんだろうか。分からない。でもそう思ってしまった。話としてしっかり面白いのが気になるのかな。大谷が自分のユニフォームの価値を自覚しているのが嫌だった可能性もある。

なるべく公平な気持ちになろうと思ってはいるのだが、そもそも夢の金額に公平さなんてものが必要なのか?

 

ともかく値段をつけ続けよう。

分からないながらもひたすらに反復することで、夢のレート感覚が体に徐々にしみ込んでくる気がしている。

 

次の夢。

 

地平線近くの太陽がめちゃくちゃまぶしくて、屋上から皆で見てるとそのでっかい光がビルや街を少しずつ呑み込んでいて、これでみんな死ぬんだ思う。

そこに車に乗った性格の悪い男が来て窓を開けて僕らに何か言おうとするが、車の窓がパコッと外れてドアの中に入ってしまい男はそれを見ている間に光に焼かれて死んだ。

他の人も足から徐々に焼かれて死んでいくが僕は「いざというときは起きればいいから」と様子見する(夢を自覚している、というより、現実でもそうやって逃避するんだと思う)

足元から徐々に光に焼かれて、「死ぬってこんな感じか~」と、とても悲しくなって目が覚める。

かまど

死ぬ夢。

夢としてはオーソドックスかもしれない。性格の悪い男の死因も、道理があるようでよく分からない不条理な死だ。

明晰夢のようでそうではないのも興味深い。出来事を客観的に見つめているのに、死ぬときはしっかりと悲しんでいる。描き文字の丁寧さも相まって、本人の生真面目さみたいなものを感じた。

 

地平線近くの太陽がめちゃくちゃまぶしくて、屋上から皆で見てるとそのでっかい光がビルや街を少しずつ呑み込んでいて、これでみんな死ぬんだ思う。

あと、最初のこの部分、なんか『最終兵器彼女』みたいだと思った。

 

 

この夢は……

 

 

 

 

500円です。

 

500円だと思う。

 

 

 

違うか?

 

いや、とにかく続けよう。

 

廃屋になってた
はずの団地で

コの字のうちがわに
玄関があってそこでおじいさんとおばあさんが庭をはさんで卓球してた。

急に夜になって、そしたら
みんな消えた

モンゴルナイフ

 

素晴らしい。

 

 

これは一目で素晴らしいと分かった。

さみしくて、美しい質感を持った夢だ。

 

 

この夢は……

 

 

 

完全に800円だ。

なんか、だんだん分かってきた。本来もっと高くてもいいかもしれない夢だ。でも、高すぎる値付けはあまり良くない気もする。100万円のコートを持っていたとしても、結局はクローゼットに仕舞ったままになるのと同じで、自分の体に馴染む金額というものがある。

もちろん安く買い叩けばいいわけではない。適切な対価を払わない夢は、けして自分の所有物にならない。と思う。そういう居心地の悪い夢を抱え込むのは、むしろ負債とさえいえる。夢を買う時はここを気をつけないといけない。

 

次の夢。

 

オフィスのくつろぎスペースが大浴場になっていて、そこにみんなで入っていたら、かんちさんが防水仕様のノートPCを持ち込んで、仕事の案件の話をし始めた。

商材の説明のために、PC画面をこちらに見せるも聞いてるページは証券会社の口座のページだった。

保有額「800万」だった。

かんちさんは「やべやべ」と言いながら顔を赤くして、みんな笑っていた。

起きてからも妙にその金額を覚えていてなんとなく本当なんじゃないかと思っている

永田

 

これも良い。

虚実のバランスが整頓されており、優しくて小気味の良い夢だ。「かんちさん」というのは会社の同僚である。長い年月をともにすることでしか生まれない特別な親密さ感じる。故人のエピソードを嬉しそうに話しているような、そんな印象を受けた。通り過ぎて二度とは戻らない大切な思い出を、折に触れてそっと取り出しては眺めたりする。そんな感じの夢だ。

 

 

この夢は……

 

 

 

ぴったり700円。

 

なぜか?

それは、実際に夢を買い取らないと分からないことだ。今の僕には分かる。ありきたりな教訓で申し訳ないが、やはり何事も体験してみるものだ。

 

次の夢。

 

 

とにかく

辛かった

みくのしん

 

なるほど。

プリミティブかつシンプルだ。詳細をそぎ落すことで、かえって夢の強度が伝わってくる。

それと「からかった」なのか「つらかった」なのか、分からない部分も蠱惑的である。意図しているわけではないだろうけど。朴訥そうに見えて意外とテクニカルな夢だ。

 

 

この夢は……

 

 

 

これは買い取りできない。悪い夢だとは思わない。ただ僕には むきだし・・・・すぎる夢だったかもしれない。

しかし、忘れがたい何かがあるのは確かだ。人によっては高い値段をつけることもあるだろう。あるいは、もっと時代が進めば評価されることもあるかもしれない。種田山頭火的な夢である。

 

 

次の夢。

 

千葉県にある伝説的なつけ麺屋「千葉から」を会社のみんなで食べに行く。

「千葉から」は山奥の廃きょのようなところにあり、店内はホコリだらけ。おじさん一人で経営していて、かなりの有名人らしい。

つけ麺の味がノーマルの他に味噌や鳥白湯など色々あり、シナモンで焼いたリンゴなどトッピングも異常なものが豊富にあって、「正解が分からない」とみんなで話し合っていた。

麺は細かった。

原宿

 

分かる〜。

こんな夢は見たことはないけど、なぜか思わず「分かる〜」と言ってしまう。悪い意味ではないが、はっきり言って平凡な夢だ。その平凡さの重要性を自覚して、自らを平凡の中に収めようとする試みのような夢でもある。

仲良しだったとまではいかないけど、それなりに交流があった同級生のfacebookを見たときの、嬉しくも悲しくもない、どの感情に接続されることもない、そういう気持ちと似ている夢。

 

 

この夢は……

 

 

 

当然そうなる。明確に100円だ。それ以外には考えられない。一番金額が分かりやすい夢だったかもしれない。僕だけでなく、多くの人にとっても100円だろう。通常、夢は買い取る人によって金額が異なるものだが、これは例外だ。

まあ、場合によっては120円の人もいるかもしれない。120円をつけるのは、日本よりずっと寒い地域に住んでいる人たちだ。逆に髪を切った直後や、「渋」という漢字を鉛筆で書いた日、かぼちゃを食べたあと、スケートシューズを履いた日などは、もう少し値段が下がるかもしれない。ただそれは一時的なもので、数日もすればやはり100円だと誰もが思い直すことになるだろう。

 

次の夢。

 

夜行バスで博多に行く

ブリリアントカット野沢のざわという人がいる

恐山

 

はいはいはい。

 

これはもう簡単。

ここまできたら、こんな夢の値付けは一瞬で判断可能だ。

 

 

この記事をここまで読んできた方なら、もうなんとなく予想はつくかもしれない。

 

この夢は……

 

 

 

 

 

もちろん300円。夜行バスで博多に行って、ブリリアントカット野沢という人がいたら、それはもう300円なのだから。

 

 


というわけで計2600円の出費と引き換えに、6つの夢を手に入れた。

これをどうするか。ミスター・レヴァーコームのように使ってしまうのもいいが、僕はいつか必要になるときまで大事に保管しておこうと思う。

 

 

夢の対価は封筒に入れて、それぞれのデスクに置いておいた。

 

そして最後に。

当初の疑問だった「夢を買い取ったらどういう気持ちになるのか」だが……

 

 

 

 

 

夢を買うと、ちょっとどきどきします。

 

 

 

(終)