その “衝動”は、ある瞬間に突然訪れた。
「厚揚げ食べたい」
僕は厚揚げ豆腐のことが「猛烈に好き!」というわけではないのだが、なぜか居酒屋に行くと必ず注文してしまう。
ホルモン炒めのように激しすぎることも無ければ、しらすおろしのように物足りないというわけでもない。
冷静と情熱の間のような食感を提供してくれるこの食品は、どうやら僕の性に「刺さっている」ようなのである。
キツネ色のボディに、薬味の白や緑が妙に映える。そんな関係性も見ていて心地が良い。
そんな厚揚げが、今食べたい。無性に食べたい。
厚揚げをめちゃめちゃ食べる会、会長になろう。
外へ出ると、アスファルトに影を灼きつけられそうな容赦ない日差しが降り注ぐ。
この日の東京の気温は34℃。
即座に「この暑い日に厚揚げかあ…」という気持ちが頭をもたげる。
しかしかつて、経営の神様ピーター=ドラッカーは語った。
「人間は何をもって後世の人々に記憶されたいか、常に自問しなければならない」と。
めちゃめちゃ暑い日に、めちゃめちゃ厚揚げを食べた男。
そんな記憶への刻まれ方も悪くない。
なぜなら僕は厚揚げをめちゃめちゃ食べる会、会長なのだから。
ウィン
焼いておいしい絹厚揚げ(二枚入り)を大量購入した。
厚揚げには外側の揚がっている部分が薄いのと分厚いの、二種類存在すると思うのだが、両者の違いは正直良く分かっていない。
会長職への適正を早くも問われる場面だったが、今のところ会員は僕一名しかいないので難を逃れた。
厚揚げのような風通しの悪いみっしりとした物を大量に運んでいると、気持ちまで妙に暑くなってくる。
そして序盤にして、この記事に出てくる「あつ」という文字の多さも気になるところだ。
これからもすっごい、出るだろうし。
撮影場所に着いたところで、白ネギを切っていく。
せっかくのこの機会だ、ネギはどかんと盛るのが良い。
厚揚げは生まれた時から油まみれなので、フライパンで焼くのに油を引く必要がないというのも便利だ。
「焼かれるために生まれてきたようなものですね」
「急に誰?」と思ったが、撮影に付き合ってくれた後輩の松岡がそんな言葉を口にした。
確かに厚揚げには、焼かれるのに都合のいい条件が揃っている。
しかし焼かれるために生まれてきたかどうかは、厚揚げ本人が感じて決めることではないだろうか?
厚揚げでない僕らがいくら議論しても詮無いことだが、最低限、厚揚げの痛みに寄り添える大人になりたいと僕は思う。
(厚揚げだよ。焼かれるために生まれてきたよ)
「そうなの!?」
(厚揚げだよ。四等分されるために生まれてきたよ)
「そうなんだね」
(お皿に盛ったらネギをのせてね)
「わかった任せて」
(かつおぶしものせてね)
「お安いご用」
…………
ひひっ
うへへ……ひひっ……ひひひ……