当日。秋から冬に変わる天候で、風は強く曇り空、肌寒くはあったものの、雨に見舞われることはなく、ほっとした。それになにより、運良くというかタイミングよくというか、福田さんによると、2週間前にクオッカの新しい赤ちゃんが誕生したとのことだった。生まれたてほやほやのクオッカは母親のお腹の袋で育てられるが、その袋から頭を出した日を、動物園は「2番目の誕生日」としてお祝いするらしい。もしかしたら、ちょうどその日に当たるかもしれない、と、僕は、教室で見たことのない、彼女が興奮した様子で熱弁をふるう姿を見て、いやお前の方が可愛いよ、と思ったし、それを口に出してはいないのに「お前って呼んでごめん」とも思った。

 

 そしてさらに幸運なことに、福田さんの望む通り、我々が訪れた日に新しいクオッカが母親のお腹の袋から「こんにちは」して、その日が第2の誕生日となった。この日はニュースにもなるらしく、福田さんと同じようにクオッカを推していると思われる皆様が祝福していた。いい場面に立ち会えて嬉しかった。それに、今日という日の成功を約束されたようなもの、僕は「生命万歳」と、極めて自己的な都合により、命の尊さ、ありがたさを噛み締めた。

 

「新しい赤ちゃん、名前なんていうの?」

 

 と僕が尋ねると、福田さんは

 

「まだ決まってないみたい。男の子みたいなんだけど」

 

 と答えた。僕は「11月生まれだから、11月の誕生石のトパーズから取って”トパ”くんというのはどうだろうか」

 

 と提案してみようかなとも思ったが、グッと堪えた。急に石がうんぬん言い出すのは怪しまれそうだし、11月の誕生石がトパーズというのも人間が勝手に決めたこと、石には関係がない。

 

 クオッカの新生児のおかげで、福田さんのテンションはずっと高いままだった。動物園が夕方に閉まって、そのまま2人でご飯に行くことにした。僕は酒が弱いので最初の1杯だけ顔をしかめながらビールを飲んで、あとはウーロン茶を飲んでいたのだが、福田さんは今日の慶事も手伝ってか、2杯、3杯と甘めのカクテルを飲んでいた。会話をする中で、彼女が長崎県の海辺で育ったこと、上京には親から大層反対されたこと、髪を青く染めた時、皆の反応が意外と薄くてショックだったこと、なんかを冗談めかして話してくれた。

 

「すごく似合ってたから、わざわざ言うまでもないのかなと思っちゃって」

 

「なんで!言ってほしいに決まってるじゃん。また染めていったら絶対驚いてよ」

 

「次は何色にするの?」

 

「また青じゃつまらないから、次は緑とかどうかな」

 

 さしずめエメラルド、ペリドット、ヒデナイトかダイオプサイドといったところか。などとさまざまな緑色の石が脳裡をよぎったところに、

 

「なに考えてるの?」

 

 と福田さんから横槍が入り、僕は「いや、髪の色を緑に染めたら、さしずめエメラルド、ペリドット、ヒデナイトかダイオプサイドといったところっすかね」などとは返さず、適当にお茶を濁した。

 

 

 そうして2時間半ほど居酒屋に滞在し、福田さんはけっこう酔ってしまった様子だった。うつらうつらとまではいかないが、少々眠そうだ。聞いてみると、今朝方、課題を済ませて睡眠時間があまり取れずに待ち合わせに来てくれたらしい。僕も恥ずかしながらビール一杯で顔を赤くしてしまってはいたが、酔っている彼女を放って先に帰るのもどうなんだろう、解散した後に彼女に何かあったらまずい、管理監督責任が問われる、いや保護者でもなくてただの同級生なのだから管理監督責任でもないだろう、けれどもし何かあってからでは遅いのだ。動物園の最寄り駅から電車に乗って、川を渡って都内で飲んでいたわけだが、ここからなら彼女の家より僕の家の方が近い。いったん彼女の家まで送り届けてから僕の家に引き返すという手段もなくはなかったが、それをしてしまうと数百円を切り詰めた僕の懐が痛い。今日だって、交通費、入園料、食事代すべて割り勘にしてもらっているのだ。恥ずかしながら。だから、僕は彼女をあくまで安全に保護するという名目の元で彼女を自宅に誘った。彼女は「うん、ありがとう」と小さくうなづいた。

 

 僕の心臓は昂った。平静を装ってはいたものの「あの部屋」に女性がやってくるなんて当然、僕に取って初めての経験で、散らかってはいるものの人を招くことができないほどの荒れようではない。が、僕の部屋には石がある。そのことを彼女がどう感じるかである。しかしこうなってしまえば後先を考えてる余裕もなかった。僕の家の最寄り駅に着いた。冷蔵庫にはお茶が冷えているはずだ、コンビニには寄らなくても問題ないだろう。

 

 ワンルームの我が家に福田さんがやってきた。階段を昇らせるのは申し訳なかった。福田さんはほんの少しふらつきながら紺色のスニーカーを脱いで、部屋に上がった。

 

 すると、やはり、まず目に飛び込んでくるのは巨大なアメシストである。福田さんは目を丸くした。ラックには僕なりに整然と、貴重な石たちをディスプレイしているのだが、誰がどう考えてもあのアメシストの圧倒的な存在感と輝きで、他の石たちの姿は霞んでしまうようだった。

 

「あれはなに?」

 

「アメシスト」

 

「なんで?」

 

「なんでって、石が好きなんだ。僕」

 

「もしかしてさ、言いにくかったらあれなんだけど」

 

「なに?」

 

「なにかしらこう、誰かに買わされたりとか、神秘的な力を信じていたりとか、そんな感じ?」

 

「えっ?」

 

「あ、私全然引かないから、大丈夫、そういうの。親戚にもちょっとその気がある人がいて、悪い人じゃないっていうのは知ってるから。ただ、若干、ある程度の距離を置いているだけで」

 

 彼女は、さっきまで酔いでまどろんでいたはずだったのに、ハキハキと弁明を始めたのだった。アメシストの名称は、そもそもギリシャ語の「アメテュストス」(酒に酔わない)という言葉に由来しているといわれ、身につけていると酒に酔わず、理性を失わない効果があると言い伝えられているが。今、効力を発揮しなくてもいいんじゃないかと思った。僕はいっさいそういった迷信は信じていないが、今回ばかりは「なるほど、本当だったんですね」と膝を打ってしまいそうになった。実際、僕の頭もすっかり冴えていた。

 

「黙ってたんだけど、この部屋を見てわかる通り、僕は石を集めるのが趣味なんだ。ちょっと誤解しているみたいだけど、神秘的だったり宗教的だったり、摩訶不思議なパワーを信奉していたりするわけではなくて、純粋に、好きなんだ。石の、美しさが。綺麗だから集めているんだ」

 

「えっ、綺麗だから、こんな大きな石を家に飾っているの?」

 

「そうだよ」

 

「正直言っていい?」

 

「なに?」

 

「そっちのほうが変だと思う」

 

「えっ?」

 

 僕は予想外の返事にうろたえた。

 

「宗教とか、スピリチュアル的なものにハマっているわけではなくて、純粋に、きれいだから大きな石を飾っているわけだよね」

 

「そうだけど」

 

「そっちのほうが変だと思う」

 

 まさか、そっちのほうが、変なのか?

 

 石を飾っている人は、何かしら摩訶不思議な、得体の知れない力に縋りついていなければいけないのか?僕は決してそうは思わない。石に物語も力も求めていない。むしろその反対で、石は石として、僕らの暮らしとは無関係に、垂直に屹立しているから僕は石を愛しているのだ。おかしな宗教にハマっている人と同列に扱ってほしくない。僕は冷蔵庫から麦茶を取り出して、コップに注いでぐいっと飲んだ。自分の分だけを注いで。

 

「福田さん。誤解しているみたいだけれど、石っていうのはただの無機物、ミネラルなんだよ。言ってしまえば、原子の集合体。すべての物質は元素からできているって、理科の授業で習ったことがあると思うけれど、石っていうのはぜんぶ化学組成式で表すことができるんだ。例えばアメシスト。アメシストの化学組成はSiO2だ。これは、酸素とケイ素が2:1で結びついているということ。ダイヤモンドなんて「C」だからね。炭素でしかない。鉛筆の芯と一緒なんだよ。すべて化学で構成が紐解かれているわけであって、神秘的な力を宿すスキマはなく、人間側が石にドラマをなすりつけているに過ぎない。僕は石に対して非常に無礼な振る舞いだと思っている」

 

 僕は暖房をつけた。空気がどんどん冷えていくのがわかった。おそらく11月の夜の寒さのせいだけではない。

 

「じゃあ、さ。婚約指輪とか、結婚指輪は?もし、好きな人ができて、一生一緒にいたいって人ができたとして、指輪がほしいってお願いされたらどうする?そう言って、ただのドラマだからって拒否しちゃうの?」

 

 僕は、好きな人は、僕の目の前にいるよーん。と思った。だけど、持論だけは譲れなかった。おかしな空気になっている自覚はひしひしと感じてはいたのに、ついエスカレートしてしまった。アメシストはずっとこちらを見ていた。いや、見ていない。ただの石だから。

 

「違う。石の美しさ自体は否定しない。むしろ僕は石の美しさに惹かれているし、その石を身につける行為自体は、石への冒涜でもなんでもない」

 

「ラピュタって観たことある?」

 

「ラピュタ?天空の城?小さい頃に一度だけあるよ」

 

「飛行石の力でシータは救われるけれど、あれは石の聖なる力じゃない?単なる石だったら、シータは地面に激突してたよ」

 

「創作物と一緒にしないでよ、話がこじれる」

 

「バルスって言っても何も起こらないけど。最後、ムスカに撃たれてもいいってこと?」

 

「だから、それとこれとは話が違うんだって」

 

「ムスカに撃たれて終わって、その次の週の金曜ロードショーが火垂るの墓だったら、どういう気分になる?」

 

「かなり最悪の気分になると思う」

 

「……ふふっ」

 

 福田さんは、急に笑い出した。目尻がくしゃっとなる、いつもの、僕の好きな笑い方だった。

 

「なんか、そんなに感情むき出しにしてるの初めて見たから、笑っちゃった。大好きな石についてだと、冷静でいられなくなっちゃうんだね。普段、それこそよっぽど石みたいにクールな人だと思ってたけれど、全然そんなことないね」

 

「そうかな」

 

 僕は恥ずかしかった。

 

「今日、楽しかったね。明日、午前中から予定があるから、もしよかったら起こしてくれると嬉しい。朝、シャワーだけ借りたいな。じゃあ、おやすみ」

 

 彼女は僕の布団で、着替えずに、メイクも落とさずに、寝てしまった。

 

 僕は、アメシストを見つめた。どうする?と問われているような気がした。いや、問われてなんかいない。いや、問うているのかもしれない。いや……。