「いいか、今後一切君らのために鍋は振るわない。チャーハンが食いたかったら冷凍食品をチンすればいいし、天津飯が食いたかったら冷凍食品をチンすればいいし、中華飯が食いたかったら、もうええわ。今時の冷凍食品のレベルなんかエラいことなってるんやから。とにかく俺はもう疲れ切った。毎度毎度、アホ面下げて下品な話ばっかりしくさりよって、なんの未来があんねん。貧乏な学生たちに大量に食わせてやりたくて、みたいな顔しながら鍋振ってきたけどな、嘘やから、あんなもん全部嘘やから。割に合わないから。

俺がもういくつと思う。65よ。65。お前らの45個上。当たり前や思ってもらっちゃ困るから。俺がここでラード炒めてるところ、あんかけ作ってるところ、キクラゲ戻してるところ、当たり前と思ってもらったら、困るから。とにかく、出ていってくれ。頼む。もう、金輪際、うちの暖簾をくぐらないでほしい。早よ!出ていってくれ!アーッ!イヤーッ!」

大将は中華鍋をお鍋でガツンガツンと鳴らし始め、ぼくは卓の上で中途半端に残っているレバニラ定食をそのままに、逃げるように店から退散した。表に出てからしばらく経っても、大将の呻き声と金属音が響き渡っていた。三コマ目の講義が始まる30分前の出来事だった。色の抜けた暖簾が風に揺れていた。

大学名を冠した駅名から大学方面に歩いてほんの2、3分の場所に中華料理店『幸来軒』はあった。チェーンの中華料理店や新進気鋭のラーメン屋など同業他社の新陳代謝が絶え間なく行われているエリアであるが、『幸来軒』はボリュームの良さ、価格の安さ、味の良さ、なにより大将の気前の良さが評判で、細く長く営業を続けていた。独身の大将が50年以上、1人で鍋を振り続けていたが、先日、営業中に突如様子が豹変。もうとにかくお前らには会いたくないの一点張りで、常連だった学生たちはただひたすら困惑し、昼食の選択肢をひとつ失った。店の中に耳を澄ませると、ガツンガツンとけたたましい金属音の後ろで大将のブツブツとした声がうっすらと聞こえてくるという。

ぼくは入学して、2年目の夏を迎えた。大学での生活にも慣れ、周辺の安くて美味しい飲食店を自由律俳句サークルの先輩に教えてもらったその中に『幸来軒』はあった。

僕は初めて先輩に連れられ、決して清潔感があるとはいえない油で滲んだテーブルで食べたレバニラ定食の虜になった。甘辛く味つけられたタレによく絡む、少しだけ癖のあるレバーとしゃきしゃきのニラでいくらでも白米が進んだ。ワンコインで必ずお腹いっぱいになれる定食は、金のない男子学生たちの腹を満たすのに充分だった。

だからぼくは、いやぼくらは、『幸来軒』を、そしてあの柔和な大将の笑顔を失ったことがひどくショックだった。まさか、大将が「嫌で嫌で鍋を振っている」とは夢にも思わなかったのだった。儲けなんて度外視で、愛想良く振る舞っていた大将の立ち振る舞いすべてが「フェイク」だったのである。

そもそものあの店の成り立ちとして、先代が高齢により引退し、二代目である現在の大将に店が受け継がれて今に至る、と耳にしたことがある。あまり事情を深く掘り下げよう、なんて考えてみようともしなかったけれど、大将なりに「店をやらざるを・引き継がざるを得なくなった」事情のもとにあの店を切り盛りしていたわけである。奥さんもいないようだったから、愚痴ったり、弱音を吐いたりする相手もなかったものと推測される。

ところで、世間では「やり甲斐搾取」なんて言葉を時折、耳にするようになった。低賃金・長時間勤務を労働者に押し付けながら対価として与えられるものは「やり甲斐」などと形に残らないなにがしか。である。それが会社・組織に属していない大将のような自営業者にも降りかかるものなのかどうかはわからないが、利用者であるぼくらがいつしか大将に対し「当然であるかのごとく」「我々に対してほぼ無償の施しを行うことに」「疑問を持たない、あるいは、持つわけがない」とのバイアスを通してしか接していなかったのではないだろうか。

そんな視線を数十年間浴びた蓄積・累積が大将の限界を突破した結果、奇声と金属音に繋がってしまったのだろうか。突然の閉店以降、大将の姿を見かけた者はいなかった。

ぼくは大将に対する「もったいなさ」「やるせなさ」を感じずにはいられなかった。腕は確かなんだし、側から見る限りまだまだ体力もみなぎっている。だから、なんとかして大将を説得することはできないだろうか。ぼくは大将のレバニラ定食が食べたいし、何年も続いた店の最期が「物理的破壊」なのは寂しすぎる。週明けの昼間に、ぼくは『幸来軒』を訪ねてみようと決めた。差し出がましいようだけれど、きちんと大将と、面と向かって話がしたかったのだ。

 


 

蒸し暑い日だった。首すじに伝う汗が鬱陶しかった。ぼくは住んでいるアパートのカギを閉め、自転車にまたがり大学方面に向かった。月曜日は講義を入れていない。生意気にも週のどこかで三連休を作りたかったからである。昼前に店の前に到着した。以前ならば、すでに学生で埋め尽くされている時間だったけれど、店内は暗く、しん、と静まり返っている。

「ごめんください」

ぼくは引き戸を開けようとしたが、カギがかかっていた。

「ごめんください、どなたかいらっしゃいませんでしょうか」

何度かノックをしてみるが、返事はない。

単純に留守なのか、はたまた心を閉ざされており、扉を開けるつもりがさらさらないのか、誰かが現れる気配は感じられなかった。ぼくは、タイミングが悪かったか。むしろ、突然訪問したところで出迎えてくれるわけもないか。いつか、折を見て大将が、軒先の植木に水をやっているところなんかに、さりげなく声をかけよう。日を改めてまたやってこようとした瞬間、引き戸ががらり、と開き、とてつもない力で首根っこを掴まれ、店の中に無理やり引きずり込まれた。

「うわあっ」

山積みになったキャベツの段ボール箱の山に背中から放り投げられ、激突と同時に一瞬、呼吸ができなくなった。一体何が起こっているのか把握できなかったが、見上げると、右腕、正確に表現すると、右の肩から先の部分を、機械に改造した大将が仁王立ちしていた。

「おい、何の用事や」

「えっ、あの、すみませんちょっと待ってください」

「何を待つんや。こっちに用事なんかない。ごめんくださいごめんください五月蝿いんじゃ。用事がないんだらさっさと去ね」

「いや、ちゃうんですよ。ぼくは、ただ」

「なにがどうちゃうねん。なにがただやねん」

「どうしたんですか、その腕」

「お前に関係あるか」

大将は、右手首を高速回転させ火花を撒き散らしながらこちらを威嚇してきた。

「いや、あの、と、突然、店閉めはったから。ぼく心配して」

「おい。その平仮名で”ぼく”いうの止めろ」

「えっ、平仮名っていうのは。ぼくはただの、ぼくなんですけど」

「俺は、平仮名でおのれを”ぼく”と表す男が一番気に入らんねん。ちんちん付いてんのか。優男ぶりやがって。せめて漢字にせえ。ボケ。”僕”でええやろがい。なにが”ぼく”じゃ。前髪を切れ。そのうっとうしい前髪を今すぐに整えてこい。美容院とかヘアサロンと違うぞ。理髪店に通え。トニック叩いてもらえ。うなじの毛を剃ってもらえ。うつぶせでシャンプーしてもらえ。シャンプーしてもらう時にな。頭ガッてされてこい。あいつらどこまで洗面台に頭突っ込んでもガッてしてきよる。仰向けで”お湯加減どうですか、かゆいところありませんか”なんて聞いてけえへんわ。蕎麦締めてんのかみたいな洗い方して来やがって。あー、腹立ってきた」

大将の右眼が、エメラルド色に光を放ち始めた。

「大将、なんか右眼光ったはりますけど」

「知っとるわ。おのれで光らせてるんやから。お前がおのれのこと”ぼく”と表現しているのを認識できているのもこの右眼の機能なんじゃ。第四の壁を破りよんねん。第四の壁をな、破りよんねんやんか」

「ごめんなさい。なにを言っているのかわかりません」

「わからんやろうな。お前みたいな私大文系の頭の悪い学生にはわからんように喋ってるんやから。お前、大学で何の勉強してんねん。何のサークルに入っとんねん。どう下らなく過ごしとんねん」

「え、えっと、グローバルスタディ学部で、経営を勉強しています。自由律俳句のサークルに所属しています」

右腕の火花が青白くなった。

「まずな。グローバルスタディ学部なんて学部は、存在しない」

「いや、しますよ。学生証も持ってますし、旅行も学割効きます」

「しない。文系で存在する学部は、文学部、経済学部、法学部だけ。グローバルスタディ学部なんて奇天烈な学問は存在しない」

「……。」

「あと、自由律俳句って言ったな。自由律俳句のサークルに所属していますと、のたもうたな」

「……はい」

「問う。自由律俳句とは何や」

「五・七・五の定型に囚われずに、自由なリズムで感情を表現する俳句のことです」

「そうか。じゃあ、俺が”屁をこいて、夏”と呟いたとして、自由律俳句か」

「はい。自由律俳句です」

「じゃあ、”裸でネギを刻んでいます”はどうや」

「それも自由律俳句です」

「死ね」

「はい?」

静寂と火花。

「こんなもんなにが面白いんじゃ。どう優劣を競うんや」

「優劣とかではなく、一句一句に違った味わいが生まれていいんです。奥行きを感じるというか」

「何が奥行きじゃ。展開もクソもあるか。勝手に訳知り顔で詮索しやがって。せめて五・七・五の縛りは守らんかい。縛りを放っておいて俳句を名乗るな。山頭火もな。あんなもんタダ酒飲んでふらふらしとっただけやないか」

「芸術や表現は、何にも縛られるわけにはいかないんです」

「せめて大学生はもっと縛られとけ」

「嫌ですよ。どうせ卒業してから嫌でも縛られるんですから」

「ごたく、ごたく、ごたくはもう聞きたくない。いいから早よ要件を言え」

「ぼくは、いや、ぼくだけの希望じゃなく、他の学生のぶんまでお伝えします。大将が元気なら、もう一度お店を、幸来軒を開けてほしいんです。大将のレバニラがもう一度食べたいんです」

大将は、逆さに置かれたビールケースに腰掛け、ポケットから左手でタバコを取り出すと、右手の親指の第一関節をカチッと開けて火を点けた。三センチほど火柱が上がった。

「もう、店はやらん」

「なぜですか」

「本当は中華料理屋なんかやなくて、サイボーグになりたかった。でもな、俺は親父から店を継いで、いや、継がされて、鍋を振るうしかなかった。そうやって金を稼ぐしかなかった。ただ、ホンマはサイボーグになりたかった。いいよな。大学生は。未来の可能性が無限大にあって。お前は将来、何になりたい」

「経営コンサルタントです」

「あのな。無い職業になろうとするな」

「サイボーグのほうが無いと思いますが」

「大した儲けもなかったが、贅沢もしなかった。そして、ようやくサイボーグになれるだけの金が貯まった。もう、店をやる道理はない。お前らに食わせる飯はない。飯はない。め、飯。飯はない。めめめめめめめめ」

大将の耳の穴から、黒煙が上がった。長年のストレスが怒涛のようにフラッシュバックしたのが原因で、頭脳が熱を持ちオーバーヒートしてしまったようだ。ぼくはとにかく逃げようとした。こんなに無理をさせてまで店を開けてもらう必要はない。というか、命の危険を感じる。

大将は、自らの両腕をメキメキと背中側に折り曲げ、首を肩の中にうずめた。膝は百八十度捻れ、肩のあった部分から、扇子のような薄い はね が生えてきた。先ほどまでとは違う、サイバネティックな甲高いアラートボイスでぼくに語りかけた。

ワタシは孔雀。天空を自由自在に舞う孔雀。目標を排除する

畳一畳ほどはある大きな翅を虹色にはためかせ、ぼくに向かって滑空した。かと思うと、ぼくの横をすり抜け、店の扉を突き破り空高く飛来した。虹色の翅がぼくの頭の上に舞い降りた。

呆気に取られていると、大将、いや、孔雀は翅を微細に振動させ、超音波を発生させた。超音波は、月曜日の昼間の学生街をダラダラ歩いている大学生の首を次々とはね飛ばした。ぼくは、阿鼻叫喚に包まれている通い慣れた街の様子を眺めながら、確かに自由律俳句ってあんまり意味ないからまっすぐ就職活動でもするか。と思った。