「石」にハマったのは、物心がついてから。その物心がついたのはいつだっただろうかと定かではないが、ともかく僕の人生には常に「石」の存在があった。小学生のころ理科の課外実習で、近所の小川の源流を観に行く、というので山をずんずん登っていく途中に集団からはぐれて石を探しに行き、大目玉を食らったこともあったし、遠足で鉱物博物館に連れて行ってもらった時も一日中展示物を眺めていた。友達は巨大な「恐竜のうんこの化石」を冷やかすぐらいであとはそこまで興味を示していなかったが、僕はひとつひとつの鉱石を丹念に眺めた。とりわけ「宝石」の類は、女の子の喜ぶものであって男が夢中になるなんて恥ずかしいという考え方が子どもらにはあったから、僕の「石趣味」は誰かと共有されることなく、自分の中でだけ楽しむだけだった。

 

 今でも「毎週付録を集めて組み立てると、戦艦やお城のプラモデルになる」雑誌が発売されているだろう。本当に最後まで出ているのか?とか、そもそも買う人なんているの?と思う人がいるかもしれない。本当に買っていたのが、僕だ。毎週、ほんの5ミリぐらいの宝石の原石が付録でついてきて、最後まで集めると「鉱石標本」が完成する。周りが週刊漫画雑誌を買って楽しんでいる中、僕は小さな原石を集めていた。雑誌のほうには「今週の特集」として、付録についている石にまつわる情報が掲載されている。これも毎週楽しみにしていた。ある号の付録が「ルビーの原石」だったのだが、その中にルビーに良く似た石「スピネル」が混ざっていたことがあって、後日、回収騒ぎになった。あの時、これはもしかしたらルビーじゃなくて「スピネル」なんじゃないかと、日本で最初に気が付いたのは僕だったと思う。ルビーはそもそも「コランダム」という鉱物の一種で、中に含まれるクロムの含有率が高く、強く赤みがかったものをルビー。そうでないものをサファイアという。だから、ルビーとサファイアは元を糺せば同じ鉱物。

 

 一方スピネルは、化学組成的にはルビーとはまったく別の鉱物である。赤く、濃い色で輝くのはルビーとよく似ているが、何が違うかというと「柔らかさ」が違う。ルビーが属するコランダムは、モース硬度で言えば9。一番硬いダイヤモンドが10。要は、鉱物の中でダイヤモンドの次に硬いわけで、そうそう石にキズが入ることはない。だけど、僕の買った号の付録でついていた”ルビー”にはうっすらとキズが入っていた。これはおかしい、とアンケートハガキに書いてみたところ、「スピネル」の混入が発覚したという流れ。回収騒ぎにはなったが、「発見者」としてわがままを言って、僕はスピネルとルビー、両方を標本として持っている。だから、毎週集めるとマス目がすべて埋まる標本に収まっていない「スピネル」が今でも僕の手元にある。歴史的にもルビーとスピネルは間違われがちで、ロシアのエカテリーナ1世の王冠に嵌められていた”ルビー”も、実は”スピネル”だったことが後々判明している。結局どちらも同じぐらい美しいんだから、価値の優劣をつけるのも馬鹿馬鹿しいんじゃないかと僕は思う。

 

 大学に入って一人暮らしを始めた。木造ワンルームの、いわゆる「なんとか荘」的なアパート、ユニットバスだけは取り付けられているが築50年のオンボロだ。隣の住人の寝息や生活音は筒抜けだし、僕の立てる音も同様に響いていることだろう。ありがたいことに実家から仕送りこそもらってはいるが、なるべく節約してご飯も1日1食か2食、業務用スーパーで1玉10数円のうどんを買ってきて、湯掻いて納豆をかけて食べている。自分で言うのもなんだが貧相な暮らしだ。本当は飲食系のアルバイトでまかないや食事補助のついているところがいいのだが、たとえばカフェで自分がおしゃれな同学年と話が合うとは思えないし、居酒屋でタチの悪い酔っ払いを相手にするのも向いていないだろうから、公共施設の警備システム管理のアルバイトをしている。机の前に座って、万が一警報が鳴ったら親会社に連絡する。大概が誤報とか、ちょっと書類が落ちてカメラのセンサーが反応したとか、そんなのばかりだ。働いているのは40代以上のおじさんばかりで、特にそういった決まりやしきたりがあるわけでもないだろうに、誰も僕のことを詮索してこないし、僕も誰かのことを詮索はしない。行って適当に挨拶して、日報を書いて帰ってくる。日勤も夜勤もあって、稼ぎを増やしたければシフトの都合のいい時に夜勤に入る。

 

 僕がなるべく切り詰めて、交友関係を持たないような暮らしをしている理由は、最初に喋ったけれど、心の底から石が好きだからだ。宝石なんて高いんじゃないかと思われるかもしれないが、原石であれば数千円レベルから売っている。鉱物の見本市なんかもあって、そういうところで交渉すればかなり安く買い叩けることもある。僕には何人か知り合いのバイヤーがいるから、質が良い石を手頃な値段で回してもらえてありがたい。そうやってコツコツと石を集めていて、棚に並べたり標本にしまったり、収まらないものは押し入れにしまっている。そろそろ近所のレンタルスペースを借りようかなんて思っているけれど、そのお金があるなら石に回せばいいんじゃないかと思ってしまって踏ん切りがつかないでいる。

 

 この部屋のコレクションでいちばんの自慢は、高さ50センチのアメシストの原石だ。

 

 この50センチのアメシストは、関東近郊のリサイクルショップで購入したものだ。「大物」クラスの石が、おそらく持ち主が亡くなったかして、引き取り手に困った親族が二束三文で売りに出すケースがある。本来、相場でいえば十数万円、いやもっとするような代物ではあるが、よほど売れないのか、店の隅で牢名主のように鎮座した巨大なアメシスト原石を、相場の半額程度で購入することができた。とはいえ貧乏学生の身分であるから、かなり思い切りの要る買い物ではあった。近隣までの配送であれば、配達無料というのもありがたかった。とはいえ、リサイクルショップの店長は引っ越し屋ではないから、アパートの前に停めた軽トラックから、アメシストを担いで階段を上り、僕の部屋まで搬入する手助けをしなければならなかった。夏真っ盛りの灼熱の下だった。50代前後の男性の店長と協力してアメシストをえっちらおっちらと運び終えたあと

 

「こんなもの、どうするの」

 

「どうするって、飾るんですよ」

 

「飾ってどうするの」

 

「飾ったら、眺めるんですよ」

 

「いつ」

 

「ご飯を食べながらとか、コーヒーを飲みながらとか」

 

「そうかい」

 

といった会話を交わしたのを覚えている。まるで「こんなもの買うなんてどうかしている」とでも言いたげな雰囲気を醸していた。売っている品物を買って何が悪いというのだ。

 

 そうして僕は、店長に伝えたとおりに、毎日アメシストを眺める日々を過ごしている。アルバイトで些細なミスをしたとき。授業の発表がうまくいかなかったとき。つまらない飲み会のあと。家に帰ると、いつもアメシストが爛々と輝いていた。自然光、蛍光灯、照らし出される表情は微妙に違う。紫の濃淡の揺らめきが、時に大きくなり、時に小さくなった。しかし、それらの現象も、石の像を捉えるうえで僕という感覚器官のありようや心身状態のブレに由来するものなのだろう。アメシストは物質であって、決して神格化したりキャラクターを与えたりするつもりはない。僕はアメシストが、石が好きなのは「きれい」だからだ。「美しい」からだ。

 

 ここまで石を愛する僕だけれど、大学で石にまつわる専門的な研究をする方面、地学専攻に進むことはしなかった。実は僕は、教師を目指している。教職の道に進んで、理科を教えながら、石の素晴らしさを子どもたちに説くことができたならば素晴らしいと思っている。

 

 僕の中では、あくまで「石」は趣味の範囲にとどめたく、一本で進むのはよしたかった。なまじ趣味を仕事にするがあまり、石を嫌いになってしまうことだけは避けたかったし、そもそも石を「商売道具」として見る行為が石に対しての侮蔑に思われた。石はもっと尊く、本来であれば価値のあるなしを人間が決めるべきではないように思えた。

 

 付け加えれば、僕は、石にまつわるスピリチュアルな、非科学的な効能をいっさい、期待してはいなかった。たとえば「腕にタイガーアイのブレスレットを巻いているだけで、金運が急上昇」「ローズクォーツを玄関に置いておくと、想い人と結ばれる」というような。観光地やショッピングモールでは、石に神格的ななんらかの効能を求め、謳う「パワーストーンショップ」がけっこうある。むろん石にそういった救いを求めるのは人の勝手だし、アクセサリーとして身に着けたり、ディスプレイしたりすることによる気分の高揚を否定はしない。けれど、「石に縋りつく」ひどいようだと「石に責任を擦り付ける」ようなふるまいや、態度をとるような人を見ると顔をしかめてしまう。古来から石になんらかの意味性やドラマを付与したがるのは人間の性である。卑弥呼やクレオパトラの時代からそうなのだから。とはいえ、石はあくまでも石だ。「モノ」として捉えて、その美しさを愛したいというのが僕の立場だ。

 

 そんな僕にも今、気になる人がいる。石に恋をしているわけではない。恋愛対象は人間だ。その相手は福田さんという。福田さんは同じゼミの同期だ。背は160センチ中盤くらいと女性の中では高いほう。昔バレエをやっていたといい、手足はすらっと長く、背筋はいつもピンと張っている。周りの女性と比較して明らかに肌の色は白く、ほんのり水色がかっているようにさえ見える。石で喩えるなら、さしづめ、アクアマリンといったところだろうか。いっとき髪の毛を青く染めて周囲を驚かせたことがあったが、いまは教員採用試験の準備で、髪色を黒に戻している。僕が惹かれるのは、彼女が周囲に流されず、行動が読めないところだ。ファッションやメイクも、なんというか、今どき街や電車でよく見るような、無理やり似合わないアイプチを入れ、どうにかして二重をこしらえて、みたいなことをせず、自然に彼女自身の持つ切れ長の一重瞼を活かしている、と思えば唐突に髪の毛を青く染めてくる。そんなふうなところが好きだ。

 

 僕と福田さんは、ゼミの教室でしゃべる程度の仲。あまり仲が良くないゼミで、飲み会が開かれるのも稀だ。上の期は仲が良く、長期の休みは皆で旅行に行っているみたいだが、僕らの世代はほとんどお互いに干渉しない。僕にはそっちのほうがよっぽど都合がよかった。しかしながら、福田さんと接する機会はおのずと減る。だから僕は、ゼミの始まる時間に早めにゼミ室に入って、同じく早めにやってくる福田さんとしばらく歓談するのが楽しい。不真面目なやつが多いうちのゼミでも、彼女は熱心に出席しているのもいい。

 

 とある秋の日。イチョウの葉っぱが綺麗に染まるのはいいが、落ちて潰れたギンナンの匂いは苦手だ。福田さんとゼミの始まる前に話していたら、流れで「推し活」の話題になった。福田さんは、埼玉の動物園にいる「クオッカ」が好き、もとい”推し”らしい。クオッカは世界一幸せな動物という異名があって、好物の木の実や葉っぱを齧っている顔が、まるでニコニコと笑っているように見えるという。動画を見せてもらうと、たしかに福田さんの言う通り、至福の表情でユーカリの柔らかい葉を齧っている様がなんとも可愛らしかった。が、それよりも何よりも、クオッカの動画を見て癒されている福田さんの笑顔が、僕にはよっぽどまぶしかった。グッズなんかも出ていて集めているといい、クオッカの笑顔がプリントされた定期入れを見せてくれた。

 

「ちょっと子供っぽすぎるんだけどね」

 

「そうかも。でも、可愛いと思うよ」

 

「ありがとう。そっちは”推し”とかあるの?」

 

「えっ?」

 

「ほら、クオッカみたいな……。アイドルとか、キャラクターとか、スポーツ選手とか。私みたいに動物でも。なんでもいいよ」

 

「ああ、僕はあんまりそういうのはないかも。あまり誰かに熱中しないタイプだから」

 

「そうなんだ。あんまり自分のこと話さないからさ、気になっちゃって」

 

「大した趣味なんかないよ、僕も福田さんにとっての、クオッカみたいな推しがいれば、人生が潤うかな」

 

「無理して作るものでもないし、いつのまにか何かを推してるかもよ」

 

 僕は、石については語らなかった。理由は2つある。まず石は「推し」ではないし、石を愛することは「推し活」ではない。

 

 なんとなく「推し活」というと「就活」「育活」みたいに、いつかは終わりが来るもののため、ゴールが見えているもののための「活動状態」であるという認識がある。僕の場合、石は永遠に隣に寄り添い続けてくれるものであるから「推し活」と呼ぶべきでない。

 

 それに僕が「推し」たりせずとも、石は姿を寸分も変えずにずっと在り続けてくれる。いわば「推す」意味がないのだ。強いて言うなら、僕が「推す」必要がないのが石のいいところ、愛すべきところだと思っている。

 

 ……などと自説について演説でも打とうものなら彼女の機嫌を損ねるだろうことは、対人関係希薄な僕にも流石にわかる。いつか僕も、僕が定義する意味合いに於いて「推せる」ものができるといいが、金銭や余剰エネルギーを石以外のものに割いている余裕がないのは事実。あと、福田さんに対する気持ちは「推し」ではなくて「恋」だから違う。

 

 そうか、恋か。大学生活、自慢じゃないが20年少々の人生でこれまで恋人と呼べる存在がいたことはない。石にばかり夢中になっているうちに誰かを愛するのをすっかり忘れてしまっていた。大学生の本分は勉強と恋であった。僕は、教職課程が本格的に忙しくなる前に、彼女をデートに誘ってみようと思った。いや、デートというと肩肘に力が入りすぎてしまっているような気がする。2人きりで遊びに行くだけだ。デートとは正式に交際関係に発展してから遊びに出かける行為を指すものではないか。そして僕はなぜ自分自身が勝手にこさえた言葉の定義によって自分自身を苦しめているのだろう。

 

 僕は先ほどの会話にヒントを見出して「僕も福田さんの好きなクオッカを見てみたいから、埼玉の動物園に連れて行ってほしい」と誘ってみることにした。これなら流れがあって自然だろう。もし「推し活は1人でやるべきもの。クオッカと過ごす時間は誰にも邪魔されたくないの。ごめんね」などと断られたらどうするか。そうなったら、家で忍んで泣くだけだ。アメシストの横で。

 

 最悪の事態も想定しながら、僕は善を急げと、ゼミが終わったタイミングで彼女を呼び止めて、週末、誘ってみることにした。ゼミの間、どのような誘い文句にしようかあれこれ頭の中で推敲してはみたものの、結局シンプルに「今度の週末もし空いてたら、その埼玉の動物園に行かない?僕も、クオッカ見てみたい」とすることにした。最後まで「(福田さんが)そこまで言うなら」「僕も推し活に興味が出てきたよ」といったフレーズを付け加えるか、やめておくかで判断を迷ったが、切れ味が悪くなるし、なにより言い訳くさくなってしまうから、なるべくシンプルに切り詰めた。ゼミの内容はまったく頭に入ってこなかったが、今回は一度も先生から話を振られなかったのが幸いだった。「もし空いてたら」は削らなかった。ここを残すことにより、もし福田さんの都合が悪かった場合、誘いを断らせるのに退け目を感じさせにくくしたかった。

 

 いよいよゼミが終わって、三々五々、他の学生が帰って行った。

 

 福田さんはしばらく先生と談笑したのち、帰り支度を始めた。僕は、今だ、と思って声をかけた。

 

「福田さん」

 

「なに?」

 

「今度の週末もし空いてたら、その埼玉の動物園に行かない?僕もクオッカ見てみたい」

 

「えっ、ほんと!空いてるよ!行こう!」

 

 あっけなくデート、もとい「2人で遊びに行く」が成立となった。僕は上がるテンションを喉の奥で殺しながら、次は集合場所や、当日のコースを考えないと、と、いやまずはそれなりに格好のつく服を用意しなければならないのか、などと考えた。

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