私は今年の夏、実家を出て1人暮らしを始めました。新生活にもだいぶ慣れてきましたが、今もふとした瞬間に実家が恋しくなることがあります。まだ1人暮らしを始めてそれほど経っていないのに、実家の風景がとても懐かしく、温かく思い出されるのです。

 

……いや、正直に話しましょう。私が抱いている感情はホームシックや郷愁などといったかわいいものではありません。私は実家に帰りたいのではない。実家に「忍び込みたい」のです。

私は実家の鍵を持っています。加えて私の親は毎週決まった曜日に夜勤の仕事があるので、そのタイミングを狙えば気付かれずに実家に忍び込むのは造作もないことです。「1泊」だってできてしまいます。もちろん事前に連絡はしないし、私が来たという形跡は極力残さないようにするつもりです。そうやって誰もいない夜の実家でこっそり過ごすことを考えると、うっとりするような陶酔と興奮を覚えるのです。

そして私には、無人の実家に忍び込んだ上でやりたいことが1つ明確にあります。「実家に忍び込む」こと自体よりも「実家に忍び込んで“それ”をする」ことのほうが本当の目的と言っていいでしょう。私が誰もいない夜の実家でしたいこと、それは、

 

 

ああ、言ってしまった。待ってください。どうか奇異や軽蔑の視線を向けず、もう少しだけ私の話を聞いてもらえませんか。あなたが親しい人たちに惜しみなく振りまいている愛情を、その1滴だけでいいので私に分けてはくれませんか。

『カカシの写真をストローにしてトマトジュースを飲みたい』、私はいつからかそんな薄暗い欲望の虜になっていました。それが口に出すのもはばかられるほど倒錯したものであることはわかっています。私は今まで、一度だってそれを実行に移したことはありませんでした。

しかしなぜ実行せずに済んでいたかといえば、ひとえにカカシの写真をストローにしてトマトジュースを飲む機会に恵まれなかったからに過ぎません。モラルや良心が私を抑えていたわけではないのです。誰もいない夜の実家に忍び込んで「それ」をするのが最上のシチュエーションだと悟ってしまった今、もはや私を止めるものはありません。お母さんごめんなさい。私は矢も楯もたまらず家を飛び出し、実家方面へ向かう電車に飛び乗りました。

 

 


 

 

電車に揺られ約2時間、実家の最寄り駅に到着しました。かつてはこの町に住む住人としてこの駅を利用していましたが、今の私はただの訪問者に過ぎません。それもおそらくは望まれぬ訪問者。なぜなら私はこの町に、カカシの写真をストローにしてトマトジュースを飲むためにやって来たのですから。

 

見たところ、町は私が住んでいた頃と何も変わっていません。まだ実家を出て2ヶ月ほどしか経っていないので当然といえば当然ですが、不自然とすら思えるほど「そのまま」な印象でした。まるで誰かが私のために、私の記憶を参照して1から町並みを再現したような。あるいは、浮ついた心が景色をそんな風に見せているのでしょうか。

コンビニで夕飯を買いつつ、実家の前に着いたのは20時頃。親はいつも19時半前には家を出ていたのでこの時間にはいないはずです。それでも念のため、明かりや物音がないか確認してから玄関の鍵を開けました。

 

 

 

ただいま。ただいま。ただいま。ただいま。ただいま。ただいま。かわいい息子が実家に帰ってきましたよ。カカシの写真をストローにしてトマトジュースを飲むために。

家に入ってまず思ったのは、今やここはれっきとした「他人の家」だということです。懐かしい実家というよりは、自分とは関係のない生活の現場といった印象でした。初めて感知できた実家特有の匂いは、これまでもずっと漂っていたものとはとても信じられません。私は自分がこの家の子供ではなく、ただ過去に一時期ここに住んでいた人でしかなかったような気持ちになりました。しかし、家が私を拒絶しているとは感じません。どうあれ今は私がこの家の主なのです。全能感に震えました。

 

改めて家の中を見回すと、家具の配置が多少変わっていたりはしましたが、大部分はそのままでした。台所の戸棚には私が使っていた食器があり、冷蔵庫を開けると私が買った調味料がまだ残っていて、本棚には乱れたままの本が乱れ具合もそのままに積み重なっていました。私が遠く離れた地で孤独に過ごしている間もこれらはここにあり続けたと思うと、私はようやく「実家のような安心感」を覚えることができました。

こうして誰もいない夜の実家に忍び込めたわけですが、まあ落ち着きましょう。焦ることはありません。まずは夕食にしましょう。

 

食事をしていると、食べたものがそばから自分の血肉と化していく感覚がありました。今はある意味で非常事態ですから、食事という行為がいつもより鮮烈に感じられるのかもしれません。奇妙な言い方になりますが、私はこれらのコンビニおにぎりやパンが「共犯者」に思えました。彼らは私の腹を満たし、今や私の一部となって「それ」が行われるのを今か今かと待ちわびているのです。

 

食後、ちょっとしたデザートが食べたい気分に。痕跡を残さないよう家のものは食べないつもりだったのですが、ふといたずら心を起こして冷蔵庫を漁ってみると、母が焼いたオートミールとドライフルーツのクッキーがありました。これを1枚つまみ食いするくらいなら問題ないでしょう。

 

自然で優しい甘みと穀物の香ばしさ。お菓子作りが趣味の母が昔からよく作っていた馴染み深い味です。その味に私は胸を突き刺されるような思いがしましたが、それも一瞬のことでした。クッキーを飲み込んでしまえば、それは先ほど食べたものと同じ共犯者になり果てました。

 

やつらには悪いですが、もう少しだけのんびりしましょう。スマホを見たり、ベッドに寝転がったり、置いてきたギターを久しぶりに弾いたりして、しばしの平穏な時間を過ごしました。これはいわば自分を騙すための行為です。私は実家を出てなどおらず、今日は1年前や10年前と何も変わらない1日だと自分に思い込ませるのです。なぜって、そのほうが興奮するから。

私は異常な行動ほど、日常のルーティンを片付けるようにそっけなく行うべきだと考えています。それをことさら劇的に演出し、「非日常」に仕立て上げるのは自らの暗部を受け入れる覚悟がないのと同じ。日々健全に生活を送る自分と、夜の実家に忍び込んでカカシの写真をストローにしてトマトジュースを飲む自分は地続きでなければいけません。その2つを切り分けようとするのは、アブノーマルの快楽をみすみす遠ざけるもったいないことに思えます。

 

そういう理由であえて事前にカカシの写真とトマトジュースを用意していなかった私は、今からコンビニに向かうことにしました。ちょっとアイスでも買いに行くみたいにそれらを調達するのが理想だったのです。コンビニへ向かう道のりでこれほど胸が高鳴ったのは初めてでした。

 

時刻は21時を少し回ったころ。郊外のベッドタウンであるこの町はすでに眠りに就きつつあります。この町の人たちが、これから私のやろうとしている行為を知らないと思うと深く安心しました。ただしそれは後ろめたさからではありません。彼らが私のような人間がいると知らずに済むことに、慈しみにも似た安堵が感じられたのです。

 

セブンイレブンに着きました(ちなみに、夕飯を買ったセブンとは別の店舗です)。実家に住んでいた頃は毎日のようにここを利用していました。

久しぶりに入った店内は、2ヶ月のブランクとここを訪れた動機を忘れさせるほどの親密さで満ちていました。実家より優しく思えたと言っても大げさではありません。このコンビニこそ私のやろうとしていることを全て見抜いていて、それでもなお私を受け入れてくれているようでした。私はその優しさに少々気圧されながらマルチコピー機でカカシの写真を印刷し、ペットボトルのトマトジュースを買って店を後にしました。

 

 

家に帰って机の上に2つを並べた時、先ほどまでの高揚感が一転、私の心は意外なほど落ち着いていました。いつかは必ず来るとわかっていた瞬間がとうとう来た、そんな気分でした。死の直前にも同じような気持ちになるのかもしれません。

 

ちなみに使用するカカシの写真は適当なフリー素材、トマトジュースはごく普通のカゴメのものです。私は「カカシの写真をストローにしてトマトジュースを飲む」というひとつながりの行為、センテンスに意味や魅力を見出してきたのであり、カカシやトマトジュース自体には興味もこだわりもないのです。一切。全く。これっぽっちも。

 

カカシの写真を細く丸めてテープで留め、ストローにします。ドラッグを吸引するため紙幣をストロー代わりにするジャンキーになった気分でした。それがいけないことだとわかっていながら誘惑に負け、自分をくだらなくすることが薬物乱用の悪徳だとしたら、今から私がやろうとしていることと何の違いがあるのでしょうか?

 

準備は整いました。ついに本懐が遂げられる時が来たのです。コップを使ったりなんかしません。私はペットボトルに直接ストローを挿し、己の欲望をすすり上げました。

 

 

 

 

 

 

この時の感情はとても言葉では言い表せません。「筆舌に尽くしがたい」というのは実に陳腐な言い草だと思っていましたが、確かにそうとしか言いようのないことがあるのだと思い知りました。言葉というのはそれ自体が一種の翻訳機のようなもので、純粋な表現をなし得ない場合もある。こうしていろいろな言葉を並べ立てることすら、耐え難いむなしさを掻き立てるようです。だから私は、

 

 

 

 

いや、違う。これは違う! 確かに言葉で言い表せないとは言ったが、その代わりにすべきことが「これ」でないのは明白だ。なぜ私は変な格好をして踊っている? 今は変な格好をして踊るべき時ではない。こんなことをしても何の意味もないと自分が一番わかっている。

 

私は変な格好をして踊りたくなんかない。信じてくれ! でも、情けないけれど、いつだって最後はこうするしかないのだ。私は本当は何もしたくないが、そんなのは許してもらえない。何をしてもいいけれど何もしないのだけはダメだとみんな言う。そして私はいつもその言葉に屈して、こうして醜態を晒すことになる。私を見ないで。無理をしている私を見ないで。こんな哀れなご機嫌伺いをするのはもうたくさんだ。

 

ああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!! 殺してくれ!! 殺してくれ!! 殺してくれ!! 殺してくれ!! 殺してくれ!! 殺してくれ!! 殺してくれ!! 殺してくれ!! それともこれは罰なのか? 言語化を放棄したのがそんなに悪いことだったのか? でも実際そうなのかもしれない。雄弁は銀、沈黙は金などと言うがあんなの嘘っぱちだ。今のこの世界では、どんなめちゃくちゃなことを言うより何も言わないことのほうが罪深いのだ。地獄に落ちて閻魔様に舌を抜かれるのは嘘つきではなく無口な人間なのだ。やつらに舌は必要ないからね。

 

きっとあなたは私が急におかしくなったと思っているでしょうね。でもこっちが本当の私なんです。あなたに会えて本当に良かった。こんにちは、彩雲と申します。私は今年の夏、実家を出て1人暮らしを始めました。そして私のやりたいことは、

 

 

 

 

 

 

 

 

夜が明けました。今日、9月24日は私の誕生日です。私は27歳になりました。

 

長い夢を見ていたようにも思えますが、からっぽのペットボトルとふやけたストローが昨夜のことは紛れもない現実であったと告げていました。親が帰ってくる前にここを出なければなりません。私はゴミをまとめ、部屋の原状復帰に努めました。

 

ただ、カカシの写真はきれいに洗った後、トイレの便器の後ろ側に貼っていくことにしました。なぜ自分がそんなことを思いついたのかわかりませんが、思いついたということはそうすべきだったのでしょう。

 

玄関を出ると、外は気持ちのいい晴天でした。暑さもひところより穏やかになり、日差しや風には秋の気配が感じられます。私は自分のしたことが、これからの自分にどのような影響を及ぼすのかまるで想像がつかずにいました。私は全く別の人間に生まれ変わってしまったのかもしれないし、元からその程度の人間だったのかもしれない。何にせよ今日の空は晴れていて、今はそれだけで十分でした。

『チェンソーマンの映画を観に行こう』、そう思いました。平日の午前中から映画館に行くなんて最高に贅沢です。おまけに今日は水曜日だから安く観られる。私の人生は実に明るく楽しいものであるように思えました。もしかして、今までもずっとそうだったのでしょうか?