ライターの彩雲と申します。
こちらは私が住んでいる家のトイレです。
今回の記事では、このトイレを見て思ったことを全部言おうと思います。
私にはもう何もないので。
改めて、これが私の自宅のトイレである。家のトイレとしては平均的な広さかと思うが、これを見て思い出すのは、私が小学生の頃に住んでいた家のトイレが妙に広かったことだ。当時住んでいたのは狭くて古い木造アパートだったが、家の規模に対してトイレがやけに広かった記憶がある。というのも、そのトイレには本棚が置いてあったのである。
子供だった私の背丈と同じくらいの高さの、黒い木製の本棚。それが片隅に鎮座していてもなお、トイレは窮屈ではなかった。なぜトイレに本棚があったのかはわからない。私の家族はそこまで読書家でもインテリアにこだわるタイプでもないので、用を足す時に持ち込んだ本やメインの本棚に入りきらなかった本をただなんとなく置いていたのだろう。そこにあった本で唯一覚えているのはきのこ図鑑である。私はそのきのこ図鑑を読んで、ベニテングタケやジャグマアミガサタケといった毒きのこの存在を知った。
その本棚にまつわる思い出で最も印象に残っているのは、宿題をしていないのにしたと嘘をつき、「じゃあノートを見せてみろ」と親に言われ、苦肉の策としてノートを本棚の裏に隠したことだ。あの時の焦りや絶望感は今でも覚えている。間抜けなことに、その時の私は宿題をしていないのをごまかすために聞かれてもいないことをぺらぺらと喋り、そのせいで「じゃあノートを見せてみろ」という話になったのだ。結果その場はなんとかやり過ごすことができたものの、あれは今までの人生でも屈指のみじめな時間だった。この一件をきっかけに私は、嘘をついてはいけないこと、というか嘘をつくなら余計なことを言うべきではないということを学んだ。
あと、その本棚の横には私が小学校1年生の時に図工の授業で作った木の人形が置いてあった。板を組み合わせて作った人形で、色は茶色だか紫色に塗ってあったと思う。これといった面白味のない工作物だったと思うが、母はやたら気に入っていてけっこう長い間そこに置いてあった。
話を今の自宅のトイレに戻す。この中でひときわ目立つのは、白っぽい色ばかりのトイレの中ではとりわけ目を引く、右下の緑色のバッグだろう。このバッグには予備のトイレットペーパーが入っている。かつては壁に突っ張り棒を設置してそこにトイレットペーパー類を置いていたが、ある時突っ張り棒が外れて二度と元に戻せなくなってしまったので、今はこのバッグに入れている。ちなみにこのバッグは、以前は非常食の缶詰を入れておくのに使っていた。それより前は何に使っていたのか覚えていないが、少なくとも外出用のバッグとして使ったことは一度もないと思う。なぜこんなバッグが家にあるのかわからない。
バッグにはトイレットペーパーとともに、母がトイレに持ち込んだ料理の本が入っている。母は料理やお菓子の本を集めるのが趣味で、そのうちの1冊がだいたいいつもトイレに置いてある。私も用を足す時はなんとなくその本を手にとることが多い。トイレに本棚がある家で育ったからか、何か読んでいないと手持ち無沙汰に思えるのだ。読むとは言っても、たいていページをぱらぱらめくるだけだが。それでも本があるのとないのとではだいぶ違う。本なしでトイレに入るのは、外出時にイヤホンを忘れるのと同じくらいの間のもたなさである。たまにお腹の調子が悪くて長時間トイレにこもることになり、そういう時に限って本がなかったりすると、自宅にいながら無人島に漂着したような気分になる。
最近はスマホを持ち込むこともあるが、やはり本、それもこういう料理の本のように興味のないもののほうがトイレで読むには適している気がする。トイレで得られる情報は自分に関係なければないほうがいいと思うのだ。
それよりトイレットペーパーである。我が家では長らく、トイレットペーパーといえばコープのシングルロールのトイレットペーパー1択ということになっていた。理由はわからない。少なくとも私は特別使い心地が良いと感じたことはないし、すごく値段が安いわけでもなかったと思う。それでも、とにかくトイレットペーパーはコープのシングルロールという決まりで、家から徒歩5分の場所にドラッグストアがあるにもかかわらず、15分くらいかかるコープまでいつも私が買いに行かされていた。
しかし今はもうコープのトイレットペーパーは使っていない。今は、親がどこか別の場所から買ってくるトイレットペーパーを使っている。いつの間にかそうなっていた。なぜコープのシングルロールにこだわっていたのか、なぜ最近になって銘柄が変わったのか、どこでトイレットペーパーを買ってきているのか、私は何も知らない。こういうことについて一度じっくり話し合う場を設けるのが、健全な家族関係というやつなのだろうか? いや、全てに納得のいく答えを求める必要もないだろう。現に私はわざわざ遠いコープまで行かなくてもよくなったのだし、使い心地も今のトイレットペーパーのほうが断然良いのだから。余計な波風を立ててこの均衡を崩したくはない。
写真ではトイレのフタが閉まっているが、これは撮影のためではなく、普段からそうしている。子供の頃より私は、用を足した後はトイレのフタを閉めるよう教育されてきたからだ。初めは面倒くさいと思っていたが、いつしかそうするのが当たり前になっていた。自宅以外のトイレを使った後も自然にフタを閉めているが、そうするのが本当に良いことなのかいまひとつ確信が持てずにいる。
もちろん衛生的にはフタを閉めたほうがいいのだろうけど、よそのトイレを使った後でこれみよがしにフタを閉めるのは何かを誇示しているようで落ち着かない。もし自分がトイレのフタを閉めない側の人間だったとして、ふと立ち寄ったトイレのフタが閉まっていたら、そこにかすかなプレッシャーを感じ取らずにはいられない。だから私は自宅以外のトイレは「あえて」フタを閉めずにおくこともある。でもそんなことは誰一人気にしていないだろう。
見ての通り、このトイレはウォシュレット付きである。トイレがウォシュレット付きなのはこの家が初めてだったので、引っ越してきた時はテンションが上がった。しかし、ここに住んで3年ほど経つが、私はウォシュレットを一度も使ったことがない。今までウォシュレットのないトイレに不便を感じたこともなかったし、あえて使ってみようという気にならないのだ(それとは別に、ウォシュレットという「技術」への憧れも持ち合わせてはいる)。だから今はコンセントも挿さっていない。
あるいは、この家に越してきた時に感じたウォシュレットへの特別感を目減りさせたくないと思っているのかもしれない。ウォシュレットを実際に使い、それが生活の一部として当たり前になれば、そこに感動はなくなってしまう。むしろ、感動をなるべく長く保てるように「ウォシュレットを使わない」という選択をとり続けるほうが、かえって豊かであるとはいえないだろうか。
本当にウォシュレットを使ったことがないのだ。壁にあるパネルのボタンを押したこともないし、押している自分を想像できないとさえ言ってもいい。毎日目にしていてすぐ手に届く場所にあるのに、このボタンは地球の裏側にあるようだ。
それより「ビューティ・トワレ」とは何なのだろうか。多くのトイレで「ビューティ・トワレ」の字を見かけるが、それが何なのか私は知らない。そもそも「トワレ」の意味がわからない。「ビューティ・トワレ」と「秘密のトワレ」でしか聞いたことのない言葉だ。私が想像するに、「トワレ」とはどこかの神話に出てくる神具である。神具の名前をトイレに冠することがあるだろうかと思うが、自分たちの商品に誇りを持って、批判も覚悟でこういう名前にしたのだろう。それが私の思う「ビューティ・トワレ」である。
ウォシュレットを使っていないとはいえ、便座の暖房機能は冬場には大層重宝している。何と言っても便座カバーがいらないのだ。便座カバー! あの、生活というものの侘しさや味気なさを象徴するようなアイテムには散々煩わしい思いをさせられてきた。
まず購入の段階から、O型かU型かという2択を迫られることになる。いくら毎日目にしているとはいえ、自宅の便座の形状を聞かれてとっさに答えられる人がどれだけいるだろうか。私には無理だ。せっかく店頭で便座カバーを見つけても、自宅の便座の形に確信が持てず一旦家に帰って確認するという二度手間を踏まされたことも少なくない。
正しい形の便座カバーを買うことができたら、次は家のトイレにそれを装着することになる。それ自体は何も頭を悩ませることない、ごく簡単な作業だ。だが、便座カバーを着けても、そこに座ってみても、自分の心に一片の喜びも生まれていないことに気付かされる。これが私の求めていたことか? こんなことをするために私は生きているのか? いや、むやみに話を大きくしたいわけではない。便座カバーを着けるのなんて全く深刻に捉える必要のない、取るに足らない物事だ。それでも私は便座カバーと相対する時、人生の無為に思いを馳せずにはいられない。「冷たい便座に座りたくないから、便座を布で覆った」……こう言葉にすると、自分のやっていることが悲しくなるほどにささやかでしがないことだと骨身に染みて感じられる。私はちっぽけな存在で、この人生は浮かんでは消えゆく水の泡と変わらない。こんな風に人生の面白味と自尊心にケチをつけられるのが、便座カバーを着けるということなのだ。
他にも、洗濯機にかけていいのかわからないから都度手洗いする羽目になったり、使い続けているうちに中から細長いパイプが飛び出してきていちいち元に戻してやらなければならなかったりと、便座カバーにまつわる面倒事は枚挙に暇がない。実に便座カバーとは、私の心をかき乱し手を焼かせる代物だったのである。しかし、暖房機能付きのトイレを得たことで私は晴れて便座カバーから解放された。生きていれば良いこともあるものだ。
便座の暖房機能といえば、この「8時間切」ボタンの存在も忘れることはできない。このボタンを2秒間押し続けると暖房が切れ、8時間後に再び自動的に点くようになっている。これを外出や就寝の前に押しておけば節電になるというわけだ。実際のところその節電にどれくらいの意味があるのかわからないが、良いことをしている気分になれるのは間違いない。この機能を使ったところで電気代は大して安くならないのかもしれないし、環境問題に良い影響を与えることもないだろう。でもこのボタンを押す時、私は確かに希望のようなものを感じている。なお、上にある「節電」のボタンは押したことがない。この写真を撮るまでその存在にすら気付かなかった。
電気代のことはわからないが、このトイレのおかげで水道代が大幅に安くなったのは確かだ。このトイレは、水洗の勢いを「大」と「小」の2種類から選ぶことができる。ここに来る前に住んでいた家(トイレに本棚があった家ではなく、また別の家)のトイレは水洗の強さが1パターンしかなく、当時は気にしていなかったものの、おそらくそのせいでかなり水を無駄使いしていたのだろう。事実この家に越してきてから水道代が数千円も安くなったのだ(同じ市内での話である)。水道やシャワーの設備は前の家と大差ないし、節水を心がけているわけでもないので、このトイレのおかげだとしか考えられない。ありがたいと言うほかない。
ただ一つだけ言わせてもらうと、「小」のほうの水流はだいぶ控えめらしく、しっかりレバーを回したつもりでも流れていないことがたまにある。流れていないトイレほど目にして寒々しい気持ちになるものもなかなかない。薄ら濁った水とくたくたになったトイレットペーパー(私は座りション派なので、小便でもトイレットペーパーを使う)が便器の中に亡霊のようにとどまっていて、自分がこの世で最も低俗なコメディーの主人公になったような気分にさせられる。小便そのものよりよほど不快な絵面だ。うんこは笑えるし、しっこも笑える。でも流れていないうんこやしっこは笑えない。みなさんは両者の差はどこにあると考えるだろうか。
話が下品な方向に向かってきたので上品な話題に軌道修正しよう。トイレにまつわる上品な話題といえば、トイレ掃除の他にはない。私は週に1回、毎週日曜日にトイレ掃除をしている。やりたくはないがそういう決まりなので仕方がない。
トイレ掃除をするのはだいたい夜になってからである。そう決めているのではなく、先延ばしにしているうちに夜になってしまうのだ。20時頃、夕飯を食べ終え洗い物をしているくらいの時間帯に、今日がトイレ掃除の日だということがいよいよ無視できなくなってくる。気分が重い。トイレ掃除は大変な仕事ではないが、日々のルーティンにタスクが加わるのが憂鬱なのだ。私の普段の夜のルーティンでいうと、皿洗いをして床をクイックルワイパーで拭き、ベッドを整えたら後は自由な時間である。そこにトイレ掃除が加わっただけで、自由時間への道のりがひどく遠いものになってしまったように思える。皿洗いや床掃除にも身が入らず、おざなりにそれらを済ませてトイレに向かう。
いつもトイレ掃除は便器を磨くことから始める。洗剤を吹き付け、左奥にあるブラシを使って磨くのだが、このブラシはすっかり毛先が開ききっている。これでしっかり便器を磨けているのか甚だ怪しいが、面倒なので買い替えていない。そのうえ厄介なことに、ブラシを入れておくホルダーの中に茶色い汚水が溜まってきている。トイレに流して捨てようにも、汚水がホルダーから便器を伝って流れていくさまのおぞましさや、その水滴が床に垂れることなどを想像すると急激に気力が失われていく。それなら週に一度のトイレ掃除の際、ブラシをホルダーから取り出す一瞬だけ不快な気分にさせられるほうがまだましだ。ホルダーのフタを閉めてさえいれば、汚水はこの世に存在していないも同然なのだから。今もこのホルダーの中には汚水が溜まっているが、みなさんがそれを目にすることはないので、「汚水などない」と考えていただいて構わない。
ブラシだけでなく、洗剤にも問題がある。普通のスプレー式の洗剤を使っているのだが、スプレーの出がいまひとつ悪い。「いまひとつ」というのがミソだ。出が悪いとはいえ何度かしゅこしゅこやっていれば出るには出るので、中身を詰め替えようというところまでいかないのだ。明確に不便と感じてはいるが、ギリギリで受け入れることができてしまうから解決のしようもない不便さ。もう1年ほどもこの状態が続いている気がする。
いろいろ文句を垂れたものの、便器を磨くのはトイレ掃除の中では気が楽なパートだ。一番難儀なのはそれに続く、トイレ本体の拭き掃除である。私はかれこれ10年以上トイレ掃除をし続けているが、未だにその最適解を見つけられていない。
まずは乾いたトイレットペーパーで全体を拭う。続いてアルコールスプレーを吹き付け、再度トイレットペーパーで拭くというのが私のトイレ掃除のやり方だ。トイレットペーパーをむやみに消費することになるのが難点だが、これが一番確実な方法だと思っている。以前は雑巾やトイレ掃除用のウェットシートを使っていた。でもそういったものでトイレを拭くと、どこからともなく黒い塵のようなものが現れて表面に付着し、拭く前よりも汚くなるという現象が往々にして起こるのだ。元々雑巾に付いていた汚れが移っているのか、あるいは空気中に漂うゴミが水分に引き寄せられているのか……理由はわからないが、私はそれが嫌でトイレットペーパーを使うようになった。トイレットペーパーでも塵は出るけれど、雑巾類に比べてそれを拭い取りやすい気がする。また事前に乾拭きをすることで、多少は塵の発生を抑えられる気がする。「気がする」ばかりで申し訳ないが、私はそこまで熱心にトイレ掃除をしているわけではないので実際のところはどうかわからないのだ。
トイレ本体の掃除が終わったら、タンクやトイレットペーパーホルダー、ウォシュレットのボタンがあるパネルも軽く拭く。便器の裏側にある、よくわからない突起部分も拭く。そんなところまできれいにしなくても誰にも咎められないだろうけれど、やる。これはマメだとか一生懸命だということではないと思う。ただ神様に媚びているだけだ。私は目の届かないような場所までしっかり掃除しています、だからひとつ、お願いします、と。
そもそも私が面倒くさがりながらも毎週トイレ掃除をしているのは、験担ぎ的な意味合いも強い。トイレ掃除をさぼると何か良くないことが起こる気がしてしまう。というか、良くないことが起こった時に「トイレ掃除をしなかったせいなんじゃないか」と思いたくないのだ。トイレ掃除さえしておけば、不運や災難に見舞われても自分ではなく世界を恨むことができる。これはなかなか有用なライフハックではないか。トイレ掃除に限らず、あらゆる種類の善行に同じことが言える。みなさんも自分ではなく世界を恨むために、日々良い行いを心がけてみてはいかがだろうか。
最後に床を雑巾がけする。さすがに床は雑巾を使ったほうが早いし、床なら多少塵がついていても仕方ないと思えるからだ(どうせ足で踏む場所だから)。床の掃除にはコロコロクリーナーを使っていた時期もあるが、トイレの床は材質的にテープが「べりっ」となりやすいのでやめた。これでようやくトイレ掃除は終わりである。
しかし私は、便座とタンクの隙間に汚れが溜まっているのをずっと見て見ぬふりをしている。気になってはいるものの、指一本も入らないような狭い隙間だから掃除のしようがない。いや、掃除のしようがないというのは嘘だ。マツイ棒的な細長い掃除アイテムを使うとか、便座を取り外すとか(実際、フタの裏面に取り外し方が書かれている)、やりようはいくらでもあるはずだ。そういうちょっとした手間を疎んでいるだけなのに、それを「掃除のしようがない」と表現する卑怯さ。これは駄目だ。この一言でもうアウト。ちょっとここに人を集めてほしい。みんなでこいつを袋叩きにしてやろう。
ここからだとちょうど見えないが、タンクの裏にはラバーカップが置いてある。普段はまるで存在感がないが、トイレが詰まった時にはこのラバーカップがさながら聖剣のように思えるものだ。トイレの詰まりは、日常的に起こり得るトラブルの中で最も被害が甚大なものだと思う。ひとたびトイレが詰まると、それまでの生活がまるきり塗り替えられてしまう。詰まりを解消することが人生の全ての目的と化すのだ。ほとんど災害と言っていい。
最後にトイレが詰まったのは昨年の9月のことだったが、その時も大変だった。いつもは個人主義で干渉の少ない私たち親子が、一丸となってトイレの詰まりを直そうと奮闘しているのは滑稽ですらあった。インターネットで「トイレ 詰まり 直し方」と検索し、お湯を流せと書いてあれば流し、酢と重曹を使えと書いてあればその通りにし、何度もラバーカップをがぽがぽとやって、ついに再びトイレが流れるようになった時には、私たちはすっかり疲弊しきっていた。それまでやっていたことも、その後にやるつもりだったこともどこかに吹き飛んで、ただもう椅子に座ることしかできなかったに違いない。覚えていないが、おそらくこの日の夕食は店屋物だっただろう。
詰まりが直ってからもしばらくは、トイレが詰まっていないことの素晴らしさやありがたさを身にしみて感じることになる。風邪が治って健康に戻った時の感覚にも近い。しかし、風邪は完治してからせいぜい2、3日も経てばその感覚を忘れてしまうが、トイレの詰まりに関してはゆうに1週間以上は喜びを噛みしめ続けることができる。それくらい、トイレが詰まるというのは生活上の一大事なのだ。こうして話しているだけでも怖くなってくる。いつかトイレが詰まるかもしれないこの世界で、私はどうやって生きていけばいいのだろう。
視線を少し上げてみる。右側の壁に穴が開いているのがおわかりになるだろうか。ここには元々タオル掛けが挿さっていたのだが、引っ越してきた時点ですでに取れかかっていたので外してしまった。外したタオル掛けをどこにしまったのか思い出せないが、この家のどこかにはあるだろう。いくらなんでも、賃貸の家の備品を勝手に捨てたりはしないだろうから。
近くで見ると、割と大きめの穴が縦に2つ開いていることがわかる。この壁の向こうは私の部屋なので、穴を掘り進めていけば自室とトイレをつなげることも可能だ。そんなことをしても何もメリットはないが、「やろうと思えばできる」と考えること自体に甘美なものがある。
一方で「やろうと思えばできる」という考えは、時に破滅への導きとなることもあり得る。だってそう言うなら、この穴の中に小便をすることだってできてしまうではないか。壁に阻まれているからある程度は臭いや水分を抑えられるだろうし、今は下の階に人も住んでいないから、下階に漏れ出したとしても「最悪いい」。むしろやるなら今が一番のチャンスだ。なぜやらない? このように、可能性だけを追求していると思ってもみなかった凶行への道が舗装されていることもある。そもそも私は壁の中に小便をしたいなんて一言も言っていないのだ。「可能性は無限大」と言うといかにも聞こえがいいが、「無限大」の中には当然望ましくない要素も含まれていることを忘れてはならない。いや、違う、私はこんな説教くさい話をしたかったのではない。私が伝えたかったのは、「私の家のトイレには壁に2つ穴が開いている」というだけのことなのだ。
天井には電球と換気扇がある。両者は1個のスイッチで連動しているので、片方だけを点けたり消したりすることはできない。それで不便を感じたことはない。
この家に越してきてから電球はまだ一度も切れていないが、いずれ切れるだろう。私は今年で26歳になるが、電球や蛍光灯が切れたら自分で交換しなければならないということが未だに信じられない。かつては親など周りの大人たちが勝手に替えてくれたのに、いつの間に自分の管轄になっていたのか。電球が切れているか切れていないかなど考えもせず、ただスイッチを押せば明るくなるという事実だけを受け入れていればいい子供のままではいられないらしい。長じるにつれ世界のディティールにピントが合うようになり、その度に私は現実というものの途方のなさにめまいがするような感覚に陥る。
換気扇にはカバーがかかっている。カバーを替えるのは年に1回くらいだ。家の換気扇のカバーを交換するのは億劫な作業だが、ここのカバーを替えるのは比較的楽である。なぜなら、換気扇の四隅に小さなマジックテープが付いていて、そこにカバーを貼り付けるだけでいいのだから。テープを使うより作業がしやすいし、粘着力も強い。
言うまでもないことかもしれないが、これは私ではなく私の親による計らいである。そう、これこそが世界のディティールというものだ。トイレの換気扇に小さいマジックテープを貼ることこそが、人生でなすべきことなのだ。私の親は50年以上生き続けてようやくその真理にたどり着き、トイレの換気扇に小さなマジックテープを貼り付けるに至ったのだろう。
そろそろ入り口からの写真も見飽きてきた頃だろうから、一度便座に座ってみようと思う。そうすれば、また別の景色を見られるかもしれない。
これが便座に座っている時の眺めである。見えるものといったらドアとドアノブくらいだ。自宅のトイレなので普段はわざわざ鍵はかけない。それどころかドアをきちんと閉め切っていないこともある。
写真で示すと、こういう状態になっていることが多い。かろうじて隙間はないが、ドアががちゃっと閉まってはいない、なんとも中途半端な状態である。なぜしっかり閉め切らないのか、自分でもわからない。面倒くさがるほどのことではないし、しっかりドアを閉めたほうが落ち着いて用を足せると思う。でもそうはしない。
そんな自分を責めることもできるが、「トイレのドアをきちんと閉めない」というのは別に良いことでも悪いことでもなく、ただの習性、もっと言えば「現象」でしかないのだと私は開き直っている。「トイレのドアをきちんと閉めない人間がそこにいる」というだけのことなのだ。それを責めたいなら責めればいい。ただ、それで疲弊するのはあなたのほうだ。
ドアの上部には、小さな丸いオレンジ色のパネルが埋め込まれている。電気が点いていれば外からはここが鮮やかに色付いて見え、中に人が入っているか一目でわかるという仕組みだ。よその家のトイレでも同じものを見かけたこともあるので、よくある意匠なのかもしれない。
私はなんとなく、この小さなパネルを見ていると潜水艦を連想する。このトイレは一隻の潜水艦で、パネルから照射されるライトを頼りに暗い深海を旅しているような気分になるのだ。自分の中にそういう感性が残っているのは照れくさくも嬉しくもある。ひねくれ者を気取って頭がおかしいふりをしていても、繊細な少年のような感受性を捨てきれていないのだ。私はとうとう「本物」にはなれなかった。私は真面目で、良識があり、心優しく、何より凡庸な人間である。だから、自宅のトイレを見て思ったことを全部言うような羽目になったのだ。
自宅のトイレを見て思ったことを言い続けてきたが、そろそろ限界のようだ。これ以上私はこのトイレを見ても、何一つ言うべき言葉が思いつかない。自分にやれることはやりきったので、私は満足している。だがみなさんはどうだろうか。みなさんは楽しんでいただけただろうか。もし楽しくなかったというなら、私は、私は……
おさるの引っ越し屋さん・第1話「おさるは働き者!?」
よし、今日の現場も気合い入れていくぞ! えーっと、今日の分担は……
ホキャ! ホキャ!
ん、どうしたおさる?
ホキャキャ! ウッキー! ホキャウッキー!
えっ、「台所での作業はボクに任せてほしい」だって? でも台所は物も多いし、1人じゃ大変じゃないか?
ホーキキ! ウキッキー!
「ボクはおさるで力持ちだから大丈夫」? よし、そこまで言うなら台所はおさるに任せて、俺たちは他の部屋を進めていくか!
はい!
〜2時間後〜
いやー、おさるが頑張ってくれたおかげで意外と早く終わったな……あれ、おさるは?
確かまだ台所にいましたよ。
おっいたいた! おさる、ご苦労さん! お前のおかげでだいぶスムーズに……
ウキ?
……っておい! お前それ、お客様のバナナじゃないか!! てか、最初からそれが目的で台所での作業を申し出たな!? この食いしんぼーっ!!
ホキャ!? ホキャキャキャキャ、ウッキーウキー!
いーや許さん! お前は後でお尻叩き100回の刑だからなーっ!!
ホキャーーーッッ!!
つまみ食いしたバナナの代償は、大きかった……
おさるの引っ越し屋さん・最終話「おさるはお金を何に使う?」
今月もようやく給料日だ! ようやく欲しかった自転車が買えるぜ!
俺は家族とおいしいものでも食べに行こうかな〜。
……なあ、そういえばおさるって給料を何に使ってるんだろうな?
確かに……そもそもおさるにお金が必要なのか?
〜♪
おっ、ちょうどいいところに! しかも買い物帰りっぽいぞ!
なあおさる、お前は給料で何を買ったんだ?
ホキャ!
えーっと、なになに……?
えっ、『不安の種』!?