こんにちは、ペンギンです。

 

 

これは馬です。

 

 

皆さんには、どうしても食べられないほど苦手な食べ物、ありますか?

 

 

僕は、こんぶのおにぎりがどうしても食べられないんです。

 

 

思えば、ピーマンも、納豆も、しいたけも、小さいときは食べられなかったけど、今は「食べられはする」ようになりました。

これが大人になるということなんだな、としみじみしたものです。

 

 

大人になると、昔食べられなかったものが食べられるようになると言いますが、理由は何なのでしょうか?

 

年季を重ねて、苦み・渋みなどの恐ろしい味への警戒心が薄れるから?

「お酒に合うかどうか」という、全く新しいルールが登場するから?

目の前に出てくる食べ物をただむさぼってウマいだマズいだ評論していた側から、稼ぎ、買い、作り、誰かを食わせる側に回るから?

 

 

しかし、それでも尚、こんぶのおにぎりだけは未だにどうしても食べられません。

 

本当は克服したいんですよね、こんぶのおにぎり。

もし将来、お腹ペコペコ状態でコンビニに辿り着いたとして、そこにこんぶのおにぎりしかなかったらどうなりますか?

 

おしまいです。

 

だから僕は、こんぶのおにぎりを克服したいんです。

 

なぜ「こんぶのおにぎり」が食べられないのか?

何かを克服するためには、まず原因から究明しましょう。

 

こんぶといっても、塩こんぶはむしろ好きです。

ホカホカのごはんに混ぜ込んだり、上に乗せたりして、バクッといく。めっちゃ好き。

キャベツとかにも合うし、塩こんぶはマジですごい。

 

僕が「食べられない」と言っているこんぶは、

 

こういうこんぶです。

 

 

手作りでもコンビニでも、おにぎりの具になるこんぶって、こういうこんぶが多いですよね。

デロッとしていて、やわらかさと歯ごたえが混濁した独特の食感。うーん、苦手だ。

 

しかし、

 

食べられるんです。このこんぶも。

 

企画、終了―――

 

 

味・風味・食感・匂い、どれをとっても正直「好き」ではない。

それは申し訳ない。

 

しかし、食べられるんです。

 

 

ご飯の上に乗せても、

 

 

確実に一歩、「食べられない」の領域へ近づきますが、それでも尚、食べられはします。

 

 

僕が食べられないのは、あくまで「こんぶのおにぎり」なんです。

手作りでも、市販でも、とにかくこんぶのおにぎりは食べられません。

 

 

組み合わせの妙、というにはあまりに不思議な事態です。

ごはん+こんぶという組み合わせは食べられるのに、握ったら食べられなくなる。

一体、なぜ?

 

ちなみに混ぜごはんにすれば、例のこんぶでも食べられます。

そして、混ぜごはんを握ったおにぎりも食べられます。なぜならば、それは実質混ぜご飯だからです。

 

表にするとわかりやすいですね。

僕が本当に「食べられない」のは、例のこんぶを中に具として入れ込んでいるおにぎりだけなんです。

だから究極、コンビニのおにぎりを買ってボウルでグリグリ混ぜれば、食べられます。

そのくらいの微妙な差なんです。

 

こうなると、少なくとも味や食感が苦手という次元の問題ではなさそうです。

全く別の何かが、僕に「こんぶのおにぎり」を食べられなくさせている。

それは何か?

 

僕の妹は、カニがどうしても食べられなかったらしいです。

聞いてみると、味や食感の問題ではなく、「思い出してしまうから」とのこと。

 

というのも、当時7歳の彼女が家族で北海道に旅行へ行ったとき、長時間のクルマ移動で酔って、それでも無理をしてご当地のカニを食べようとしたらしいです。

僕もよく覚えてます。ああ、あの日か、あのカニか、と。

確かに、ご当地のものは食べておかないともったいないですからね。7歳でもそういう分別はある。

 

それで無理をして、結局食べようとしたが食べられなかったそうな。

 

その日は、彼女にとって「車に酔った気持ち悪さ」「食べられないカニ」を強烈に結びつける原体験になってしまった。

その記憶が頭にこびりついて、以来カニが食べられなくなったらしい。

 

しかし先日久しぶりに会った妹は、ケロッとした顔で「カニ、食べられるようになった」と言っていました。

彼女は、カニの記憶を克服したんです。

 

僕は衝撃を受けました。妹は、もう一生カニを食べられないだろうと思っていたのに。

 

「記憶」の苦手は、克服できるのかもしれない。

僕の場合は、混ぜごはんですら食べられるのにおにぎりはダメ、ということなので、「こんぶ」ではなく「こんぶのおにぎり」そのものに関する濃い原体験があったはずです。

つまり、こんぶのおにぎりを取りまく「記憶」をたどれば、克服する糸口がつかめるかもしれません。

 

僕はなぜこんぶのおにぎりが苦手になってしまったのでしょうか?

こんぶのおにぎりに関する記憶をたどっていくことにしましょう。

 

こんぶのおにぎりに関する記憶をたどる

「こんぶのおにぎり」と「記憶」という2つのキーワードを並べた時点で、僕にはピンとくる思い出が1つありました。

 

それは、中学生時代の話です。

僕は中学生時代のある一定期間を、こんぶのおにぎりと共に過ごしていました。

 

正直、奥底にしまっていたこの記憶を掘り返すことには抵抗があります。

しかしそんなことを言っていては、世界がこんぶのおにぎりだけになった瞬間、生きていけなくなります。

意を決して、記憶をさかのぼってみましょう。

 

全ては、こんぶのおにぎりを克服するために。

 

①中学校に行きたがらなかった記憶

中学生の時の記憶は、「とにかく学校に行きたがらなかった」という一言に集約されます。

 

徒歩10分もあれば着いてしまう近所の公立中に通っていました。

しかし、中学校、行きたくなかったですよね。

 

一応僕なりの理由はあるんですけど、でもそんなことはどうだって良いんです。

みんなありましたよね、学校行きたくない理由の一つや二つ。

友だちとソリが合わなかったとか、体育の授業が嫌だったとか。

みんなと同じような理由があって、かつ本当に行ってなかった時期がちょっとある、というだけの話です。

 

重要なことは、学校に行きたくなかった理由ではなく、学校に行きたくなかった僕が「何をしたか」です。

 

他の記憶をほとんど覚えていないくらい、僕はしつこく中学校に行きたがらない子どもでした。

だからこそ、中学生時代の記憶はあまり積極的に掘り返しにいかないのですが、よくよく思い返すとこの時代に僕は「こんぶのおにぎり」と非常に密接な関係にあることがわかってきました。

 

②お弁当を見られたくなかった記憶

うちの中学、お昼ごはんは弁当制でした。

 

今では中学校の給食率も8割を超えているらしいので、わからない方も増えてきたかと思いますが、当時の僕にとって弁当の時間は「うんこしている姿を見られること」と同じくらい、非常に厳しい戦いでした。

 

弁当、最初のうちは非常にテンションが上がりました。

なぜならば、ほんの少し前、小学生までの我々にとって、弁当は「非日常」の象徴だったからです。

 

遠足とか、運動会の日にしか食べられないレジャーめし。

ふたをパカッと開ける瞬間のワクワク感、甘いたまごやき、ウインナー、好きなキャラが描かれたお気に入りの弁当包み。

毎日お弁当だったらどんなにか良いのに、と思ったものです。

 

しかし、そんな華やかで素直な気持ちも、中学に入ると一変します。

 

まず、弁当は「日常」になりました。

あんなに憧れていた毎日弁当生活も、それが当たり前になると色あせて感じるようになります。

なんともわがままなことに、段々と弁当が嫌になってきた記憶があります。

 

弁当が嫌になった理由はそれだけではありません。

 

よく考えてみてください。

弁当の時間になったら、小学生の頃に「あなたはポケモン好きだから」という理由で買ってもらったポケモンキャラの弁当包みをほどいて、おかずとごはんが二段になって食べ盛りの中学生でも腹いっぱいになれる弁当を開けて、きれいに洗ってケースにちゃんとしまってある箸を取り出して、おかずとごはんがバランスよく配置された食事を進めて、最後に隅っこに添えてある小さなオレンジの切れ端を食べてちょっと手が汚れるんです。

 

これ全部、全部が親の真心なんです。

 

弁当っていうのは、親の真心の結晶なんです。

 

多感な中学生は、周囲の誰よりも「大人」であることを望みます。

登下校、授業中、休み時間、部活、いついかなる時も「周囲よりほんの少し大人な自分」という鎧を着て、見えない何者かと戦っているのが中学生です。

 

しかし、弁当の時間だけは「丸裸」になります。

せっかく、カバンを流行りの肩掛けエナメルバッグに買い替えて、筆箱は四角いポケモンのやつから布製のシュッとしたやつに買い替えて、ワックスも見よう見まねで付け始めたのに。

どれだけ背伸びをしようとも、弁当を開けて食べるだけで、まだ大きな存在の庇護下にあるほんの子どもだということが、白日の下に晒される。

本当は、オレ、もう大人なのに。

だから僕は、つつみをほどいて、箸のハコを開けて、弁当をもぐもぐ三角食べしている姿を誰かに見られるということが、とんでもなく嫌だったんです。

 

親の真心は、僕にとって究極のプライベートな世界でした。

一方で中学校は、僕にとって唯一の社会、つまりパブリックな世界です。

小学生の時にポケモンが好きで弁当包みを買ってもらったこととか、青色が好きだということを親は知ってるから弁当箱もお箸も青系で揃っていることとか、甘いたまごやきが好きなこととか、全部、全部がウルトラスーパープライベートで門外不出の秘伝情報なんです。

そんなものを見られてたまるか。

うんこをしている姿を見られるのと同じじゃないか!

 

③お弁当からおにぎりへ「アップデート」した記憶

イケてる同級生たちは、近所のコンビニでパンを買ってきて、片手にパンを持ってもう片方の手をだらしなく椅子にもたれさせて、ワイルドに昼食をとっていました。

 

カッケー!

 

僕も、ああなりたい!

だらしなくお昼ごはんを食べたい!大人だから!

 

かといって、「明日からパン買って食うから、弁当じゃなくてお金ちょうだい」と言えるほど、我を通せる子どもでもありません。

そこで、1から10まで身勝手な折衷案として、おにぎりを作ってもらうことにしました。

 

おにぎりであれば、ラップをはがして、食べる。たったこれだけの工程で済みます。

中学生の食欲と粗暴な食い方をもってすれば、ものの4-5口で終わるでしょう。

2個でも10口。1口あたり10秒だとしたらたったの100秒。

何より、弁当包みも箸も要りません。ラップは無機質な使い捨て包装なので、そのまま学校で捨てられる。

 

これなら、うんこではなくおしっこくらいで済みます。この差が、当時の僕にとってどれほど有難かったか。

 

さらけ出したくないプライベート領域を極限まで隠すための最適解。それが、おにぎりでした。

 

 

そういうわけで、親に頼みこんでおにぎりを持たせてもらうことにしました。

そのおにぎりの具が、例のこんぶだったんです。

 

 

理由は全く思い出せません。

例のこんぶが、息子のわがままを飲み込んでまで毎日作るおにぎりの具としては、手間や栄養がちょうど良かったのかもしれません。

もしくは、息子がこんぶ好きだと思われていたのかもしれません。

わがままでおにぎりにしてもらった手前、具の種類までグダグダ言うことはできません。

 

ここから、こんぶのおにぎりと過ごす日々が始まりました。

 

④こんぶのおにぎりを連れて学校をサボった記憶

それからというものの、お弁当の時間になると素早くおにぎりを取り出し、鳥の卵を食らう大蛇のようにほとんど丸呑みして、やり過ごしていた記憶があります。

 

そうはいっても、やはり学校へ行くのは嫌なものです。

 

朝。

とりあえず、おにぎりを持たされた以上、家は出ないといけません。

登校時間ギリギリまで粘りつつ、勢いよく家を出ます。

 

なぜかいつも、毎日、僕が家を出た瞬間に、学校の方角から猛烈な風が吹きはじめます。

向かい風です。

いつもいつも、なんでこっちに向かって風が吹くんだ。

 

ふと、学校と逆方向の道を見ると、そこには光輝く道があります。

花が咲き、蝶が舞い、小鳥がさえずる、平和で豊かな道。

 

同じ一歩で、ここまで違う世界が両サイドに拡がっている。

 

 

この一歩は、僕にとって偉大な一歩です。

 

学校と逆方向へ歩き始めたら、もう戻れません。

もう、朝のホームルームが始まっている時間だな。

登校時間を過ぎた道には、殺風景なほど誰もいない。

 

30-40分ほど歩き続けると、市立図書館に着きます。

お金のない中学生が時間を潰せて、平日の昼間から学ランを着た子どもがフラフラしていてもみんな許してくれる気がする場所。

 

図書館で適当に本を物色していれば、陰鬱だった今日という日をあっという間にやり過ごすことができます。

 

12時。

図書館の庭には、小さなベンチがあります。

ほのかな木漏れ日と、たまに行き交うおじいさんやおばあさん。

他には何もありません。

世間に跋扈する喧騒、修羅、自意識の海から解放された空間です。

 

お腹が空いています。

ここで僕は、ベンチに腰掛けて、おにぎりを取り出します。

おにぎりを食べて、家に戻ればもう昼過ぎ。親も仕事に出かけている時間でしょう。

 

ラップに包まれたおにぎりを開けます。

こんぶが詰まったデカいおにぎりが2つ。中学生サイズ。

1口食べると、デロッとした中身(こんぶ)がだらりと垂れ下がります。

この食感、あまり好きじゃないんだけど、でもおにぎりがあるってだけで、ありがてぇなあ。

 

おにぎりを食べ終え、空になったラップを丸めて、空を見上げます。

 

お昼ごはんを食べてしまった。学校の外で。

 

学校って、お昼ごはんの時間を跨いでサボり切ると「もうその日は取り戻せない」感じがしませんか?

遅れてでも午前中に登校していれば、いっけねー遅刻遅刻!で済んでいた気がする。形だけでも学校でおにぎりを食べていれば、ちょっと遅れたけど学校にはなんだかんだ行ったな、という日にできた。

しかし、昼を跨いだ今となっては、もう厳然たる「欠」です。ここから巻き返すことはできない。今日は、どうあがいてももう「欠」です。

 

もう、今日という日を取り戻すことはできないという事実が、こんぶのおにぎりの味とともにじわ~っと身体をかけめぐっていきます。

 

その瞬間、

 

 

木は枯れ、鳥はいなくなり、景色は灰色に変わります。

あんなに喜び勇んで図書館に来たのに、今は一刻も早くこの場から去りたい。

もう取り返せないのに。

 

とにかくベンチから腰を上げて、来た道を戻ることにします。

 

復路の景色は、同じ道とは思えないほど澱んでいます。

朝よりも人が増え、街は活気づいているのに。

 

もう午後。街にいる人たちは、1日の流れにちゃんと乗った人たち。

そうか。僕はこの流れに「乗れなかった」んだ。

 

口の中にほのかに残るこんぶの味が、とても苦く感じます。

 

家に着いてからは、消化試合です。

 

鍵を開けて家に戻る。

カバンを開け、使わない教科書をかき分け、おにぎりを包んでいたラップをゴミ箱に捨てる。

テレビを点けると、「いいとも!」の曜日対抗選手権をやっている。

その後、元気に喋る小堺一機を眺め、2時間ドラマの再放送を眺めているうちに、もう夕方のニュースです。

 

学校へ行った日のニュースは何でもないのに、学校へ行かなかった日のニュースは重い。

激安スーパー、大盛りグルメ、政治・社会情勢。どれも僕には関係がないと突きつけられている感覚になる。

そうしているうちにゴールデンタイムのバラエティ番組。

ちゃんと学校に行って、ちゃんと下校していたら、もっとゲラゲラ笑えるのに。

 

親はこんな葛藤も知らず、きっと明日もおにぎりを持たせてくれるんだろうなあ。

 

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という具合に、市立図書館のベンチでこんぶのおにぎりを食べる日がちょくちょくあったんです。

 

記憶をさかのぼってわかりました。

つまり、僕にとってこんぶのおにぎりは、

 

彩りある世界を

 

奪い去っていく装置です。

 

こんぶのおにぎりを食べると、世界から彩りが消えるんです。

 

だから僕は、こんぶのおにぎりが食べられないんです。

 

市販のこんぶおにぎりもNGなので、1口かじると例のこんぶが中からデロッと出てくるあの感じが、この記憶の欠片を呼び覚ますということなのではないでしょうか。

 

 

 

さて、眠れる記憶を呼び覚ますところまでは完了しました。

 

記憶を呼び覚ましたところで、僕はこんぶのおにぎりを克服できるのでしょうか?

 

いま、僕がすべきことは何だろうか?

 

 

もう一度会うのよ

あなたの胸に穴をあけた相手に

 

 

もう一度……会うのよ……