こんにちは、オタク。
そろそろ春アニメの始まりだした季節ですが、冬季アニメで良くも悪くも絶大なインパクトを残したアニメといえば……
ポプテピピック
だと思います。
そんなポプテピピックのアニメについて、日本の理学者「郡司 ペギオ 幸夫」氏が1万文字にも及ぶ論文を発表していたのでここで紹介します。
郡司氏は現在早稲田大学の教授。研究内容については全くの門外漢でちょっと本を読んだくらいじゃ私には何もわからないので説明できませんが、「生命」「科学」「意識」などを新しいアプローチで研究している方です。
論文の全文はこちらで読むことができます。
郡司氏は特にアニメオタクというわけでもないそうですが、なぜ『ポプテピピック』を革命として評価したのでしょうか?
以下、引用しながら論文の概略を見てみましょう(引用元は全て上記URLのものです)
我々が転回すべき新たな思想、技術、⽣活の実践までもが、ポプテピピックには展開されているのです。
そして、これはポプテピピックにおいて突然出現したものでもない。
常にマイノリティーとして、⽂化や科学、芸術の局⾯に現れ、異能なるもの、多様性を担保する材料として、マジョリティーの陰で存在を許されてきたセンス、そうして細々と⽣きながらえてきたセンスが、ここへきて全⾯展開したのです。
これまでは日陰でほそぼそと生きながらえてきた、文化や科学、芸術の多様性を担うセンスがアニメ『ポプテピピック』にて全面展開した――それが、郡司氏の主張です。
サイ・エンス主義
郡司氏はここで「サイ・エンス主義」という概念を『ポプテピピック』のアンチ概念として提案します。これはどういうものかというと……
全てを等質的で⽐較可能なものに落とし込み、量に直して計算することでしか理解が成⽴しないと考える、そういった思考様式
言ってみれば映画にでも出てくるような「典型的な科学者」みたいな考え方ですね。
サイ・エンス主義では、計算を停⽌させる以外に理解は在り得ない。停⽌するか否か、いずれかの判定はできますが、停⽌した場合にのみ、「理解」が成⽴するのです。
計算機は、計算をし続けている限り「答え」を提示できません。
それと同じように、サイ・エンス主義者は計算を停止させない限り「理解」ができないというのです。
そしてそのような思考様式を持っている人には、『ポプテピピック』を理解することはできない。
科学主義
サイ・エンス主義は⾃らを、科学主義と差別化するでしょう。科学主義とは、真なる世界がただ⼀つ存在し、我々の理解はそれに収斂するはずだとする信念に基盤を有します。サイ・エンス主義はそうではない。
サイ・エンス主義と似ているのは科学主義です。科学主義の基盤には「がんばって研究していけばたった1つの”真理”にたどりつけるはずだ」という信念があります。サイ・エンス主義者はさすがにそこまで無邪気ではないので「相対的な真理」を認めます。
しかし、それも結局のところは、個々人の小さな「世界」の中で矛盾のない論理体系を組み上げているだけではないでしょうか。現実という嵐の中に大きなドームを建ててみんなで快適に暮らしても(科学主義)、あちこちに小さなテントを張って快適に暮らしても(サイ・エンス主義)、それは似たようなものではないでしょうか。
サイエンス
じゃあサイエンスってなんなの、ということになりますが。郡司氏によればサイエンスとはこういうものです。
サイエンスは、現実の不確定さや制御できない現実を取り込み、無謬な「世界」ではない、そこら中に現実を浸出させた運動体なのです。
無謬な「世界」とは、矛盾のない世界。きちんと組み上がって全てに説明がつけられる世界のことです。
しかし、そもそもサイエンスとは、説明のつかない、不可解な「現実」というものがまずあって、それをどうにか「世界」の中に位置づけようとする、動的なものでしかありえません。
ポプテピピックは存在と不在を区別しながらも両者の差異を無限⼩として混同し、存在と不在の間の、部分的な存在領域を不在の領域として書き換え、部分的な不在領域を存在と読み変えていく
以上が前提で、ここからポプテピピックの話につながっていきます。
ポプテピピックは存在と不在を区別しながらも両者の差異を無限⼩として混同し、存在と不在の間の、部分的な存在領域を不在の領域として書き換え、部分的な不在領域を存在と読み変えていく。
何言ってるかたぶんわからないと思いますが、本文を最後まで読めばたぶんわかるようになると思います。
ポプテピピックはパロディを解体した
ご存知の通り、ポプテピピックは原作のコミックからしてほとんど何かの「パロディ」で構成されています。
アニメや漫画において、パロディというものは別に珍しい手法ではありません。知ってる人はニヤッとできるし、作者と読者の間に共犯関係みたいなものも築けますから。
さて、コミックのポプテピピックがパロディという観点でどうすごいか考えてみると、あまりの無意味なパロディやなりふり構わないパロディネタの連発が挙げられます。
適当すぎるんです。「言っときゃいいんだろ」くらいの軽いノリで前後の文脈を無視して「今日も一日がんばるぞい」とか言うなりふり構わなさがあります。
それをアニメ『ポプテピピック』はさらに暴走させ、多層化しました。
作品(着地点)を⾒たものは、ジャンピング・ボードを使って、また別の逸脱・跳躍を転回することになるのです。コンテンツとして提供された四コマ漫画ポプテピピックは、それぞれの作家においてずらされ、パロディ化の運動を駆動していく。複数の作家によって実現されたパロディ化の運動は、貼り合わされた全体として、⼀つのアニメ・ポプテピピックとして公開されることになります。
「ポプテピピック」の番組内コーナー「ボブネミミッミ」がその代表例です。
そもそもパロディに満ちた「ポプテピピック」をかき混ぜさらにグチャグチャにしたような絵で再度パロディ化しています。
「ヘルシェイク矢野」のエピソードに至っては、原作で1コマしかない小ネタを膨らませに膨らませて紙芝居アニメにしてしまっています。
ここへきて、静⽌画から⾒かけ上の運動を作り出すアニメーションの技法さえ相対化され宙吊りにされ、パロディ化の運動の渦へと投げ込まれるのです。
さらに、ほぼ同じ内容を繰り返す「Bパート」は、「アニメ・ポプテピピック」のパロディになっています。パロディがパロディを生み、無から有を生み出し、パロディにする。これが「パロディ化の運動を駆動」するということです。
サブカルクソオンナ
ポプテピピックの頻出ネタに「サブカルクソ女」というのがあります。
郡司氏は、この言葉に2つの意味を与えます。
ポプテピピックがターゲットとする愛すべきサブカルクソオンナとは、⾃分からみた、無限⼩に駆動される異質な運動の中に⽣きる者であり、ディスられるサブカルクソオンナとは、私からみた世界を無謬な「世界」として外部を排除し、⼈⼯知能となんら変わらない思考の中に無⾃覚に⽣きるサイ・エンス主義者なのです。
どういうことか。
たとえば、アニメポプテピピックが1年間、毎週放送されたと考えてみましょう。そうすると、最初は戸惑っていた視聴者も20話、30話と見るうちに作品の「世界観」を把握し(把握したつもりになって)、「こういう展開はポプテピピックらしくない」だとか「アニメポプテピピックはこうあるべき」とか言うようになりそうじゃないですか?
これが「サイ・エンス主義」的なアニメの見方です。「世界を無謬な「世界」として外部を排除」しているからです。
しかし、アニメ『ポプテピピック』は、そのような「サイ・エンス主義」的な世界の見方を拒否しているということにある。
だからこそ郡司氏はポプテピピックを「我々⼀般⼈の思想、存在の在り⽅における⾰命を意味する」と大仰に表現しているのです。
気になったら読もう
以上が私の理解ですが、間違っているところもあるかもしれません。
ともかく面白かったので、気になったらぜひ読んでみてください。