まずは、一枚の画像をご覧いただきたい。

これは、とある海沿いの廃集落を描いた古地図だ。
あなたには、この奇妙な地図に隠された秘密がわかるだろうか?
変な地図
雨穴と申します。
先日『変な地図』という小説を発売しました。
今回、物語の雰囲気を知っていただきたく、冒頭100ページを全文無料公開いたします。
すでにYouTubeで第一章の内容を公開しておりますが、カットした場面も多数ありますので、動画をご覧になった方も楽しんでいただけると思います。
それでは…!!


2015年7月6日 大里幸助
けたたましいアラームの音で、
大里幸助は目を覚ました。
粘っこい眠気。
頭痛。酒臭い息。
辺りは暗い。
(アラーム……? こんな夜中に……?)
スマートフォンの画面を見ると
『AM 6:00』と表示されている。
(朝の6時……? こんなに暗いのに?)
体を起こそうとして床に手をつく。
ひやりとして、硬い。
今いる場所がベッドの上ではないことに気づく。
突然『ごおおおお』と低い音がして、
冷たい風が吹きつけた。
(外……か?)
目が慣れるにつれて、
周囲の様子がわかるようになった。
完全な暗闇ではない。

頭上にオレンジ色のライトが
鈍く光っている。
それが街灯のように、
遠くまで等間隔で並んでいる。
酔いつぶれて道路に寝ていたのだろうか。
だがおかしい。
今の季節、
午前6時でこんなに暗いわけがない。
それに、屋外にしては空気が薄く、
妙な圧迫感がある。
おそらくここは建物の中だ。
しかし、どこなのだろう。
ゆっくりと立ち上がり、
目をこらして周囲を観察する。
近くに壁があることに気づく。
ブロック状の石を、
いくつも組み合わせて作られた壁だ。
湿っていて、所々に苔が生えている。
大里はこの場所に心当たりがあった。
恐る恐る足元に目をやる。
銀色の細長い金属が二本、
遠くまで延びている。
そこには小さな文字が記されていた。
YABITSU RAILWAY TRACK
Mt.MOJO TUNNEL 2.3km
FROM ENTRANCE KOGAKUSHI(矢比津鉄道 母娘山 トンネル内線路
湖隠駅 側入り口から2.3km)
背筋が冷える。
ここは鉄道トンネルの中だ。

矢比津鉄道はR県の海沿いを走る私鉄だ。
大里はこの鉄道会社のすべてを知り尽くしていた。
22歳で入社してから40年近く、
会社のために尽くしてきたからだ。
10年前、社長に任命されてからも、
たびたび駅や工場に足を運び、
安全が保たれているか、
日々チェックすることを怠らなかった。
そんな大里だからこそ、
自分が置かれている状況の恐ろしさが理解できた。

『YABITSU RAILWAY TRACK』
矢比津鉄道の線路には、
すべてこの文字が刻印されている。
その次に続くのは、
線路の位置を示す文字だ。
『Mt.MOJO』は
『母娘山 』のことである。

母娘山はR県の沿岸にそびえる巨山だ。
山の両脇には湖隠 と柿童 という二つの駅がある。
その間を電車が走るために掘られたのが、
全長6㎞の母娘山 トンネルだ。
『2.3㎞ FROM ENTRANCE KOGAKUSHI (湖隠駅 側の入り口から2.3㎞地点)』
つまり、大里が今いる場所は
トンネルの中央付近ということになる。
太陽の光も、新鮮な空気も届かない、
巨大な山の底。
思わず身震いをする。
今すぐここから出たい。
しかし、片田舎の古いトンネルだ。
無線はなく、スマホも圏外。
助けを求める手段はなく、
歩いて外に出るしかない。
母娘山 トンネルには、
避難用トンネルが5つ設置されている。

ここから一番近いのは第二非常口だ。
重い体を引きずるように、
大里は歩きはじめた。
(しかし、なぜ俺はこんなところに寝ていたんだ。昨日の夜は……そうだ。
誰かと一緒に飯を食った……それから……ダメだ)
途中で記憶が途切れている。
そのときふと、前方に奇妙なものが見えた。

枕木に、赤黒い液体がついている。
近づくと、独特の生臭さが鼻をついた。
まさか血液だろうか。
しかしなぜこんな所に?
血はまだ乾ききっておらず、
ライトに照らされ、
ぬらりと光っている。
あまりに不可解なことが立て続けに起きるので、頭がおかしくなりそうになる。
枕木を避け、先を急ぐ。
しばらくすると、
青いランプが見えてきた。

非常口だ。
ひとまず、ほっと胸をなでおろす。

非常扉は施錠されているが、
鍵穴の上に付いている金属の棒を倒せば、
鍵がなくても開けることができる。
大里は棒に指をかけた。
そのとき、異変に気づく。
どんなに力を込めても、
途中までしか倒れないのだ。

まさか壊れたのか。
なぜ、今にかぎって。
鍵穴を覗くが、暗くてよく見えない。
いや、仮に故障の原因がわかったとしても、
工具を持っていないので修理のしようがない。
(仕方ない。こうなったら第一非常口まで行くしか……いや、まてよ)
目覚めてから今まで、
影のようにまとわりついてきた不安が、
今になって姿を現した。
慌てて腕時計を見る。
『AM 6:09』……血の気が引いていく。
通常通りのダイヤなら、
柿童 方面の始発電車が
6時12分に湖隠 駅を出発する。

あと少しでここに電車がやってくる。
それがどれほど恐ろしいことか、
大里はよく知っていた。

利用客の少ない矢比津鉄道は、
ほとんどの区間で、
上り電車と下り電車が一本の線路を分け合う単線鉄道だ。
その上、母娘山 トンネルは
電車一台がぎりぎり通れるほどの広さしかない。
逃げ場がないのだ。
屋外であれば、
レールの隙間にうつ伏せになることで、
軽傷で済む可能性もあるが、
ここではそんな甘い想像は通用しない。

トンネルを電車が駆け抜けるとき、
ピストン効果によって、
瞬間的に大型台風並みの風が吹き荒れる。
大里は小柄で、体重も軽い。
しがみつく場所もない線路の上で、
強風に耐えられるとは思えない。
吹き飛ばされた場所がレールの上だったら
……その上を電車が通過したら
……想像したくもない。
(しかもこの暗いトンネルじゃ、相当接近しないと運転席から俺の姿は見えないだろう。それから急ブレーキをかけたって……)
祈る思いで棒を握り、全体重をかける。
だが、びくともしない。
「クソ!」と吐き捨て、
大里は第三非常口に向かって走り出す。

6時12分に湖隠駅 を出発した電車は
17分頃トンネルに入る。
第二非常口にたどり着くのは6時19分頃。
第三非常口に至るにはそこからさらに1分。
要するに、
6時20分までに第三非常口に入れば助かる
ということだ。
時計の針は6時10分を指している。
第三非常口までは1㎞。1㎞を10分で走る。
間に合わないことはない。
枕木は湿っており、
少しの油断で転んでしまいそうだ。
慎重に、しかし最大限の速さで駆けていく。
数分で息切れが始まる。
心臓が荒く脈打つ。
大里は年齢の割には健康だ。
毎朝のジョギングも欠かさない。
なのに、少し走っただけでここまでバテるとは、まだ相当酒が残っているようだ。
(どうして昨日は、こんなになるまで飲んだんだ……それに……)
線路に付いていた血痕。突然壊れた鍵。
明らかにおかしい。
そのとき、脳裏に一人の男の顔が浮かぶ。
いかめしい、鷲のような顔。
(会長。そうだ……昨日は珍しく会長に誘われて……)
唯一、社内で大里の上に立つ人間がいる。
会長の矢比津啓徳 だ。
矢比津と大里は現在、
あるプロジェクトをめぐって対立しており、
ここ数年はまともに口をきいていない。
そんな彼が昨日、なぜか夕食に誘ってきたのだ。
(まさかあの爺さん、邪魔者の俺を……)
矢比津は足が悪い。
大里を背負ってトンネルの中まで運び入れるなど不可能だ。
だが、協力者がいれば……。
(あっ)
一瞬の油断だった。
足がもつれ地面に崩れ落ちる。
とっさにレールに手をつき、
なんとか怪我をせずに済んだ。
だが同時に、最悪の事態を知る。
レールがかすかに振動している。
電車が近づいてきているのだ。
残された時間は少ない。
急いで立ち上がり、
湿った空気を胸いっぱい吸い込むと、
脱兎のごとく駆けだした。
もう足元など気にしていられない。
(転んだら終わりだ。それでいい。どのみち間に合わないなら、最後まで走り抜く!)
もはや時間の感覚はなかった。
過ぎ去ったのが1分か1秒かさえどうでもよかった。
とにかく無心で走った。
不思議と足はもつれず、
息も乱れなかった。
やがて遠くにぼんやりと、
青色の光が見えてきた。
(非常口だ……!)
だが、危機も迫っていた。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん」
まるで妖怪の鳴き声のような轟音が
トンネルいっぱいに反響しはじめた。
電車はもうすぐそこまで来ている。
呼吸も忘れ、無我夢中で走る。
段差を駆けあがり、非常扉を開ける。
助かった……
はずだった。
ところが、そこには思いもよらぬ光景があった。
次の瞬間、大里の意識は消えた。
そして、二度と戻ることはなかった。
2015年7月2日 栗原文宣
梅丘の古いアパートで、
一人の青年があぐらをかいている。
よれよれのジャージ。
短く刈った髪。
見るからに頑固そうな顔。
彼の名前は栗原文宣 。
都内の大学に通う22歳だ。
彼の前には一通の封筒がある。
この前、面接を受けたハウスメーカーから送られてきたものだ。
封をあけ、中身を取り出す。
厳正なる審査の結果、誠に残念ではございますが、今回は栗原様の採用を見送らせていただく結果となりました。
これまで何度も見てきた不採用通知だ。
来年の3月に卒業を控え、
同級生の多くはすでに内定を一つか二つ獲得している。
しかし、栗原はまだ全戦全敗だ。
(まあ、社風と私の性格が合っていなかったに過ぎない。面接官との相性も悪かった。
最後に聞かれた『建築に対する熱い思いを聞かせてください』という問いもナンセンスだ)
頭の中で言い訳を並べながら、
通知書をぐしゃっと丸めて、
ゴミ箱に捨てた。
栗原は大学で建築学を学んでいる。
成績は良い。
資格も持っている。
決してダメな人材ではないはずだ。
ただ、面接が圧倒的に不得意だった。
栗原は自分に正直だ。
思ったことを包み隠さずしゃべってしまう。
この前も面接で
「御社はここ数年、経常利益が伸び悩んでいます。取り立てて製品に独自性がないことを考慮すると、未来の明るい企業ではないと考えています」
と言い放った。
若い男の面接官は顔を引きつらせながら
「……じゃあ君は、どうして未来の明るくない弊社を志望したんですか?」
と聞いた。
栗原は
「偶然、求人広告が目についたからです」
と答えた。受かるはずがない。
また、栗原は不愛想だ。
多くの就活攻略本には
『笑顔ではっきり話すべし』と書かれている。
栗原は真顔でねっとり話す。
さぞ不気味に見えるだろう。
『建築に対する熱い思いを聞かせてください』という問いは、
面接官が長所を見つけるために出した、
最後の助け舟だった。
しかし、栗原はそれを蹴飛ばした。
「熱い思いは持ち合わせておりませんので、回答できません」
就活生は、まだ採用・不採用が決まっていない企業を『持ち駒』と呼ぶ。
栗原の持ち駒は、あと一つしかない。
『小田笠 設計舎』という、
都内の小さな建築事務所だ。
尊敬する建築士が設立した、
唯一「入りたい」と思える会社だった。
先日の一次面接では、
担当者が急病になったらしく、
社長の小田笠氏が自ら面接した。
栗原は少し動揺したが、
いつもの調子で受け答えした。
すると奇跡というべきか、
小田笠氏は栗原の性格を
「面白い」と評価してくれた。
だが、最後の質問でつまずいた。
「これは純粋な興味として聞くんだけど、そもそも君はどうして建築を学ぼうと思ったの?」
何も答えられなかった。
帰り道「また不採用か」と肩を落としたが、
昨日来たメールにはこう書かれていた。
先日は弊社にお越しいただき誠にありがとうございました。
栗原様にはぜひ、二次選考に進んでいただきたいと考えております。
文末には
『前回の質問に対する回答を、次までに用意しておいてください』
と添えられていた。
二次面接は10日後だ。
一次を通過できたのは良かったが、
小田笠氏からの宿題を思うと、気が重い。
(理由……か)
『なぜ建築を学ぼうと思ったのか』
……言葉はちがえど、
どの面接でも似たようなことを聞かれる。
そこでいつも詰まってしまうのだ。
答えがないわけではない。
誰にも言ったことはないが、
建築学を専攻したのは、
母親の影響だ。
栗原の母は学者だった。
大学で建築工学の准教授を務めていたらしい。
子供の頃の栗原は、
母がどんな仕事をしているのかよくわからなかったが、
夜遅くまで机に向かって没頭する姿には、
言葉にできないかっこよさを感じていた。
あるとき、何気なくこんな質問をしたのを覚えている。
「お母さんは、なんでそんなに研究が好きなの?」
栗原にも可愛い時代はあったのだ。
母はクマのできた目で栗原を見つめ、
舌足らずの声で言った。
「別にとりたてて好きってわけじゃー、ないんですけどね~。どういうわけか、やめられないんですよ~」
「なんで?」
「うーんとね~、たとえば~」
母はレポート用紙を手に取り、
二つ折りにして机の上に立たせた。

「この上に、本を載せたらどうなるでしょ~?」
「つぶれちゃうよ」
「じゃあ、実際にやってみましょ~」
厚い辞書を載せられた紙は、
一瞬でくしゃっとつぶれてしまった。
栗原は『当然だ』と思った。
ぺらぺらの紙1枚で重いものを支えられるわけがない。
母はそんな息子の様子を嬉しそうに眺めながら、今度はレポート用紙をくるくると丸めてテープでとめ、筒を作った。

「では、これならどうでしょ~?」
「つぶれるよ。だっておんなじ紙だもん」
「はたしてそうかな~?」
母はもう一度、辞書を置いた。
すると驚くことに、
紙はつぶれることなく、
すくっと立っている。
「え!? なんでつぶれないの!?」
「おんなじ素材でも、形が違うと強くなるんですよ~。じゃあ、どういう形が一番丈夫かな~って考えるのが『研究』なんです~。
強い風が吹いても、お家がぺしゃってつぶれないのは、昔からいろんな人が研究を頑張ったおかげなんですよ~」
「じゃあ、ママもお家がつぶれないために研究してるの?」
「うーん、ちょっと違うかな~。フミノブくん、さっき『なんでつぶれないの?』って言ったでしょ~?」
「うん」
「それなんですよ~。『なんで?』とか『どうして?』って気持ちがあるから研究をしちゃうんです~。知りたい気持ちは、止められないんですよ~」
その日から、栗原は『研究』の虜になった。
いつか母と対等に議論をしたくて、
小学校に入る前から難しい字を覚え、
本をたくさん読んだ。
しかし、願いが叶うことはなかった。
栗原が5歳のとき、母は死んだ。
妹の沙耶 を出産した直後、
難産による失血死だった。
建築学の道に進んだのは
『母が熱中していた学問を深く知りたい』
という思いがあったからだ。
きっとそれが答えなのだ。
小田笠氏も納得してくれるだろう。
だがなぜか、
どうしてもそれが口に出せなかった。
5歳のときからずっとそうだ。
母の話をしようとすると、
上手く言葉が出ず、苦しくなってしまう。
泣きたいわけではない。
ただ、苦しいのだ。
栗原はそれを『発作』と呼んでいた。
発作のせいで、今まで一度も、
母の話を他人にしたことがない。
せっかく掴みかけたチャンスを、
このまま逃してしまうのだろうか。
軽くため息をつき、狭い床に寝転ぶ。
そのときスマホの着信音が鳴った。
「もしもし、栗原です」
「お兄ちゃん、久しぶり」
「沙耶ですか、お久しぶりです」
「元気?」
「はい。おおむね」
「この前の大雨、大丈夫だった?」
「ええ。特に被害はありませんでした」
「よかったよかった。……梅雨、いつ明けるんだろうね? 去年はけっこう早かった気がするけど……」
「沙耶。私に気を遣って、会話のウォーミングアップをしなくてもかまいません」
「いや、別にそういうつもりじゃ……」
「あなたは今、受験生ですよね。家族への気遣いのために、貴重な勉強時間を無駄にしない方がいいです。伝え方が不愛想でも私は気にしませんから、用件だけを簡潔に教えてください」
「……ああ、うん。用件ね。……お父さんが、お兄ちゃんに話したいことがあるんだって」
「お父さんが?」
「詳しいことは聞いてないんだ。でも、結構大事な話みたい。……近いうちに帰ってこれる?」
「わかりました。次の土曜に帰ります。伝えてくれて感謝します」
以前、沙耶との電話を知人に聞かれ
「なんでそんなによそよそしいんだ」と驚かれたことがある。
しかし、冷たく接しているつもりはない。
今だって、栗原が止めなければ、
延々と天気の話を続けていたはずだ。
彼女はそういう性格だ。
兄と違い、社交的でコミュニケーションを大切にする。
それは良いことだが、
今は勉強に集中すべき時期だ。
早々に電話を切ったのは、
栗原なりの思いやりだった。
とはいえ、理屈っぽくて愛想のない自分を、
沙耶が内心『付き合いづらい』と思っていることは知っている。
沙耶だけではない。
父は栗原の電話番号もメールアドレスも知っている。
にもかかわらず、わざわざ沙耶に伝言を頼んだ。
栗原と家族の間には、見えない壁がある。
父子
土曜日、
電車を乗り継ぎ実家のマンションに向かう。
インターホンを押すと、
父が笑顔で出迎えた。
「おかえり、文宣。久しぶりだな」
来年60歳になる父は、
典型的なサラリーマン気質だ。
気弱だが愛想がよく、人付き合いが上手い。
今は銀行の課長を務めている。
軽い挨拶のあとリビングに案内され、
テーブルに向き合って座る。
ティーポットと二つのカップが用意されている。
「ごめんな。就活で忙しいのに呼び出しちゃって」
「かまいませんよ。ところで沙耶は?」
「朝から予備校に行ってるよ」
「頑張ってるようで何よりです。……話というのは?」
「ああ、そのことなんだけど……」
父はいったん言葉を止め、
ティーカップに口をつける。
彼は緊張する場面ではいつも紅茶を飲む。
「……文宣のお祖母ちゃんに関することなんだ」
「名古屋のお祖母さんですか?」
「いや、俺のお袋じゃなくて、お母さんの方のお祖母ちゃんだよ」
「え?」
奇妙に感じた。
母方の祖母は、栗原が生まれる前に亡くなったと聞いている。
祖父はそのもっと昔に病死したらしい。

だから栗原にとって母方の家族は、
最初から存在しないも同然だったし、
これまで家庭内でその話題が出ることもなかった。
なのに、なぜ今さら?
父はまた紅茶をすすり、話を続ける。
「お祖母ちゃん、名前は知嘉子 さんというんだけど、文宣が生まれる前の年に亡くなったんだ。その話、聞いたことはあるよね?」
「ええ、一応」
「お祖母ちゃんが生前住んでいた家……つまり、お母さんの実家が飯田橋にあるんだけど、お祖父ちゃんはずっと昔に亡くなっていたから、一人っ子のお母さんが相続したんだ。
自分が育った家だから、思い入れがあったんだろうね。文宣が生まれる前は、毎月行って管理をしていたよ。
で、今は俺の名義になってる。お母さんが最期まで大切にしていた家だから、粗末にするわけにはいかないと思って、実はときどき行って、掃除や草むしりをしてたんだ」
「知りませんでした。言ってくれれば私も手伝ったのに」
「文宣に迷惑をかけるわけにはいかないよ。
……それで、ここからが本題なんだ。お母さんが亡くなってからもう18年経つだろ?
……そろそろ、いいかなって思ってさ」
「手放すということですか?」
「俺も50後半になって、だんだん管理がしんどくなってきてさ。それに俺が死んだら文宣か沙耶のものになるだろ?
手続きとか毎年の税金とか、そういう面倒ごとを二人に残したくないんだ」
「たしかに、色々と大変でしょうね」
「家自体は古くて、売ってもお金にはならないけど、土地はそれなりの額になるらしい。
俺の職場、不況でどんよりしててさ。いつリストラされるかわからないんだ。
せめて沙耶が大学を出るまではしがみつきたいけど、そればっかりは会社の判断だからね」
父はカップに紅茶を注ぐ。
ティーポットの中身はすでに半分ほど減っている。
「沙耶には昨日話したんだ。家を手放すことに反対はないらしい。
まあ、沙耶からすれば、会ったこともないお祖母ちゃんの、行ったこともない家だからね」
「では、あとは私の判断だけですか」
「そうなんだ……どうだろう?
今売らなければ、いずれ文宣のものになる。お前が欲しいなら、無理に売ることはしない。持っていれば今後地価があがるかもしれないし、将来その土地に家を建てることもできる。
いきなりこんな判断を迫るのは申し訳ないけど、正直な気持ちを聞かせてほしい」
地価のことなど、栗原にはどうでもよかった。
父の負担と、沙耶の学費を考えれば、
今売ってしまうのがベストだろう。
ただ一点、
先ほどの言葉が引っかかっていた。
『お母さんが最期まで大切にしていた家だから』
母が大切にしていた家。
母が育った家。
「お父さん、沙耶の志望校はご存じですか?」
「国立大学を目指してる……とは言ってるけど、たぶん本心じゃないな。
オープンキャンパスで見学に行った青学のパンフレットを、まだ大切に持ってるんだ。
ときどきソファで眺めてるよ」
「しかし、私立だとお金がかかりますよね」
「まあ……な」
「……わかりました。私はかまいませんから、お父さんのご判断で売ってください」
「……すまない。売り金の半分は文宣に渡すから」
「いりませんよ。そもそも私の所有物ではありませんし。
ただ、売りに出す前に一度、その家に行ってもいいですか?……見てみたいので」
父はしばらく考えたあと、
決心したように立ち上がった。
「わかった。せっかく来てもらったんだし、今から一緒に行こうか。車を出すよ」
祖母の家
父が運転する車の助手席で、
栗原は先ほどから気になっていたことを質問した。
「どうして今までその家のことを、私や沙耶に話さなかったんですか?」
「……ごめんな、黙ってて」
「いえ、別に非難しているわけではありません。単純な興味です」
「そうか……」
返答を待ったが、それきり父は黙ってしまった。
何か言いづらいことでもあるのだろうか。
栗原も、あえて深追いはしなかった。
午後2時過ぎ、飯田橋に到着した。
駅前のコインパーキングに車を停め、
線路沿いを歩く。
しばらくして父が「あれだよ」と指をさした。
その先には、昔ながらの木造一軒家があった。
1階建てのコンパクトな民家だ。
玄関に着くと、
父は郵便受けから小箱を取り出した。
蓋に4桁のダイヤルが付いている。
「いつでも来られるように、ここに鍵をしまってあるんだ。番号は『9180』だよ」
「もしかして9(く)1(り)8(は)0(ら)ですか?」
「よくわかったな!無理やりな語呂合わせだけど、覚えやすいんだ」
鍵を開け、ガラガラと引き戸を開くと、
古い家特有の甘い木の匂いがただよってきた。
こまめに掃除をしているからか、
カビや埃の臭いはしない。
玄関で靴を脱ぎながら父が言う。
「文宣、悪い。ちょっとトイレに行ってくる。だいぶパンパンなんだ」
「紅茶をたくさん飲んでましたからね。トイレの場所を知っておきたいので、私も同行します」
「よし、一緒に行こう」

二人は二つ続きの居間を抜け、廊下へ出た。

ガラス戸の向こうには小さな庭が見える。
その隅に、何か黒いものが置いてある。
父はよほど限界だったのか、
ベルトに手をかけながらトイレに駆け込んでいった。
栗原はガラス戸を開け、
その黒い物体を眺める。

炭になった木の棒が、
いくつも針金で束ねられている。
焚火でもしたのだろうか。
針金がサビていることから、
相当昔のものだと思われる。
ガラス戸を閉め、そのまま廊下を進む。

トイレ、台所、脱衣所を横目に見ながら歩くと、
再び玄関へ戻ってきた。
胸の中に、奇妙な感覚が芽生える。
(そういえば、どうしてあのとき……)
廊下を引き返し、台所を覗く。
壁も床もきれいに掃除されている。
続いて脱衣所に入る。
その瞬間、違和感に気づく。

手すりの下部分が取れかかっているのだ。
違和感の正体が見えてくる。
そのとき、遠くから水を流す音が聞こえた。
廊下に出ると、父がトイレから出てきた。
「おまたせ。文宣はトイレ大丈夫か?」
「はい。……ところでお父さん、何か隠し事をしていませんか?」
「……何のことかな?」
父はわざとらしい笑顔で誤魔化すように言った。
昔から、嘘をつくのが下手な人だ。
「ではなぜ先ほど、遠回りをしたんですか?」
「遠回り……?」

「玄関からトイレに行くのであれば、廊下から行った方が早い」

「居間を通ったのは明らかに遠回りです。なぜそのルートを選んだのでしょう?」
「それは……その……」
「もしかして、浴室の前を通りたくなかったのではないですか?」
その言葉に、父の笑顔が引きつった。
「ずっと引っかかっていたんです。
なぜ今までお父さんは、この家のことを黙っていたのか。
私はまだしも、沙耶なら喜んだはずです。彼女はセカンドハウスや別荘のような、浮かれたものが好きですからね。そこでこう考えました。
お父さんは、我々をここに連れてきたくなかったのではないか……最初は理由がわかりませんでしたが、脱衣所と浴室を見たときはっとしました」

「あそこだけ埃が溜まっています。他の部屋はピカピカなのに、なぜあそこだけ掃除をしないのか。
もしかしてお父さんは、浴室に入るのを怖れているのではありませんか?」
「…………」
「理由はおそらく、過去にあそこで何かがあった」
「『何か』って……」
「たとえば、自殺とか」
父の顔が青ざめていく。
栗原は追い打ちをかける。
「そういえば、今までお祖母さんの死因について、聞いたことがありませんでした。
彼女は、あの浴室で自殺をしたのではないですか?」
「……どうしてそう思うんだ?
……浴室なら、事故や病死かもしれないだろ?」
「では『浴室でお祖母さんが亡くなった』という事実は認めるんですね」
「あ……」
「たしかに、老人が入浴中に死亡することは珍しくありません。ただ、そういった死因であれば、浴室の前を通るのを避けるほどの恐怖は抱かないのではないでしょうか。
遠回りをしてまであの場所を避けたのは、それ相応の理由があったと思うんです」
「……短時間でよくそこまで考えたな」
「恐れ入ります。ただ、これらは憶測でしかありません。私が『自殺』と確信した理由は手すりです。
先ほど見たのですが、浴室の手すりが取れかかっていました。あれはやや不自然です」

「縦型の手すりは構造上、上から下に引っ張られることが多いため、上部に負荷がかかりやすい。
しかし浴室の手すりは、下の留め具が壊れていた。下部に負荷がかかるような手すりの使い方はあまり一般的ではありません。
もしあるとすれば……」

「ロープを結んで、下方向に全体重をかけた。
つまり、首を吊るのに使用したのではないかと考えたんです。違いますか?」
父はこらえていた気持ちを吐き出すように、
深いため息をついた。
「……文宣の言う通りだよ。実際はロープじゃなくて、針金だったけどね」
「お父さんはその現場を見たんですか?」
「ああ。連絡がつかなくて、お母さんと一緒に様子を見に来て発見したんだ。黙っていて悪かった。
『お祖母ちゃんが自殺した』なんて言ったら、文宣と沙耶にトラウマを与えてしまうんじゃないかと思ってさ」
「お気遣いは理解します」
「すまない……」
「ところで、自殺の原因は何だったんでしょう?」
「それが、よくわからないんだ。足腰が弱っていたこと以外は、病気もなくて健康だったし、快活でおしゃべりで……そして強い人だった」
「強い、とは?」
「お祖母ちゃん、昔は相当苦労したらしい。子供の頃に家族と生き別れたり、空襲で下宿先を焼かれたり。
そういう辛い過去を乗り越えて、それでも明るく笑える人だったんだ。
でも、亡くなる少し前から、急に元気がなくなってな。性格が変わったっていうか……。好きだった一人旅も行かなくなったし、食事会もなくなった」
「食事会?」
「ときどき誘われて、俺とお母さんと三人でご飯を食べていたんだ。蟹とか焼肉とか、いつも豪勢なものをご馳走してくれたよ。
けど、あるときから誘いがぱたりと来なくなった。心配で時々様子を見に来たけど……お祖母ちゃん、あの部屋に閉じこもって顔を合わせてくれなかったんだ」
父は、玄関横の扉を指さした。

「あれは何の部屋ですか?」
「仕事部屋だよ。中を見てごらん」
そこは四畳ほどの小部屋だった。

机と小箪笥、二つの本棚。
そして計器が置かれている。
「あれは、測量に使う道具ですよね」
「そうだよ。お祖母ちゃん、若い頃は測量士をしていたんだ。引退したあとは大学で測量学の教授をしながら研究をしていたらしい。お母さんと似てるよな」
測量士とは、土地の形を測り、
地図や設計図などを作る仕事だ。
分野は違うが、建築学とは関わりが深い。
部屋の様子も、どことなく母の自室に似ている気がする。
不思議な気持ちで眺めていると、
ある個所に目が留まった。

「床に傷がついていますね」
「え?」
「あそこです。本棚の手前に擦り跡があります」
「本当だ。よく気づいたな」
「本棚を移動させた跡でしょうか。ちょっと動かしてみます」
「お……おい、そんないきなり」
栗原は本棚の角を持ち、こちら側へ引っ張った。
分厚い専門書が詰まっているのでかなり重い。
力をこめると「ギー」と不快な音を立てて、ゆっくりと動き出した。
計器類をまたいで本棚と壁の間に体をねじ込む。
スマホのライトで照らしながら観察すると
本棚の裏に何かを見つけた。

封筒の上部を切り取り、
袋状にしたものが貼られている。
その中に差し込まれているのは、
四つ折りにされた古い紙だ。
黄ばんだ古紙は、
水に濡れたのを乾かしたようにべこべこと歪んでおり、
隅には両面テープが貼られている。
抜き取って広げると、
奇妙な絵が描かれていた。

地図だろうか。
不気味な地図だ。
真ん中に描かれた化け物は何なのだろう。
右上のシミも気になる。
インクにしては質感がおかしい。
まさか……。
そのとき、本棚の向こうから父の声がした。
「文宣、大丈夫か?」
「はい」
計器をまたいで、部屋に戻る。
「本棚の裏にこんなものが隠されていました」
「……何だ、これ?」
「地図のようですが、詳細はよくわかりません。お父さん、何かご存じありませんか?」
「……いや、俺もはじめて見た。
……それにしても気持ち悪い絵だな。妖怪……か?」
「百鬼夜行……というやつでしょうか」
「文宣……すまない。一回、外に出ていいかな? なんか、気分が悪くなっちゃってさ」
「大丈夫ですか?」
「情けない話……こういうのが苦手なんだ。
その……妖怪とかオバケとか。昔から怖がりでね。絵を見るだけで吐きそうになっちゃうんだ」
「そうでしたっけ……?
まあ、気分が悪いならもう帰りましょうか。遅くなると沙耶も心配するでしょうし」
栗原は地図をポケットにしまい、
帰り支度を始めた。
隠し事
帰りの道路で、車は渋滞に巻き込まれた。
なかなか動かない車列を眺めながら、
父はぼそりとつぶやいた。
「しかし血は争えないな。お祖母ちゃんは学者、お母さんも学者、そして文宣も、だ」
「私は学者ではありません」
「性格の話だよ。三人とも頭がよくて、探求心がある」
「二人はどうか知りませんが、私に関しては過大評価です」
「さっき名推理で俺を追い詰めたじゃないか。それに、あの古地図だってよく見つけたよ。
俺は今まで何度もあの部屋に入ったのに、床の傷を見過ごしてた。観察力がないんだ」
「お父さんは背が高いですから、私より床が見えづらかったのでしょう」
「無理にフォローしなくていいよ。それに、たとえ気づいたって『傷がある』としか思わない。
『本棚の裏に何かがある』だなんて想像できなかった。文宣と違って、俺は凡庸な人間なんだ。
取引先にお世辞を言うくらいしか能がない」
「私はお世辞を言うのが不得意です。その点において、お父さんは私より有能といえます」
「はは……一応、褒め言葉として受け取っておくよ」
「それに、お父さんはとても優しい人間です」
「……俺がか?」
「お父さんは、あの家にトラウマを抱いているんですよね。なのに頻繁に通い、掃除をしていた。
『お母さんが大切にしていた』という理由だけで、18年間もそれを続けたのは偉いと思います」
「大したことじゃないさ」
「大したことです。私はそういった優しさを持っていないので、素直に尊敬します」
「文宣だって優しいだろ?」
「ご冗談を」
家に着く頃には夕焼けが出ていた。
帰りが遅くなったこともあり、
父に勧められるまま、その日は実家に泊まることになった。
自室のベッドに寝転び、
持ってきた古地図を眺める。

船が描かれていることから、
下半分は海だと思われる。

海沿いの土地に
民家が20軒ほど建っている。
漁村だろうか。

漁村の中央には湖らしきものがあり、
その近くに同じ形の物体がたくさん描かれている。
石碑、あるいは墓石だろうか。

湖の向こうには三角屋根の建物。
そして、女の後ろ姿。
彼女が向かう先には……。

謎の妖怪。
これはいったい何なのだろう。
(妖怪……そういえば)
あることを思い出した栗原は、
ベッドから起き上がり、
クローゼットを開けた。
クローゼットは本置き場になっている。
推理小説、エッセイ、詩集……お気に入りの本がぎっしりと詰まっている。
その中から、一冊の本を探す。
それは奥の方に眠っていた。
『ぢごくの森 平成怪奇図鑑』
子供向けの恐怖絵本だ。
だが『子供向け』という割には、
血みどろの地獄絵図や、恐ろしい妖怪が容赦なく描かれている。
よほどのホラー好きでなければ、
大人でも顔をそむけてしまうだろう。
そのせいか、今は絶版になっているらしい。
これは母に買ってもらったものだ。
昔、二人で書店に行ったとき、
棚の隅に置かれたこの絵本を見つけ、
おどろおどろしい表紙に目が釘付けになった。
遠慮がちにねだると、
母は二つ返事で買ってくれた。
子供が興味を持ったものなら、
それが何であっても尊重してくれる人だったと、今にして思う。
その夜、帰宅した父に絵本を見せた。
父は「面白いものを買ってもらったな!」と言って絵本を手に取り、
じっくり眺めていた。
(ああ、そうか……私はすっかり騙されていた)
栗原は絵本を持ってリビングへ向かった。
父はソファでテレビを見ていた。
「お父さん」
「おお、どうした?」
「本当のことを話してもらえませんか?」
「……もう全部話したよ。家のことも、お祖母ちゃんのことも」
「まだ教えてもらっていないことがあります」
テーブルの上に絵本を置く。
「これ、覚えていますか?」
「……懐かしいじゃないか」
「よく一緒に眺めましたよね。お父さんも楽しそうに見ていたように記憶しています」
「子供の頃、水木しげるとか諸星大二郎の怖い漫画が好きだったからな」
「妖怪やオバケが苦手、というのは嘘なんですね」
「あ……。また自分からボロ出しちゃったなあ……」
「ボロ出しすぎです。ただ、一つ気になる点があります」
「情けない話……こういうのが苦手なんだ。その……妖怪とかオバケとか。
昔から怖がりでね。絵を見るだけで吐きそうになっちゃうんだ」
「お祖母さんの家で古地図を見たとき、お父さんは本当に辛そうでした。嘘をうっかり信じてしまうほど、顔色が悪く声も震えていた。演技とは思えません。
お父さんはたしかに、怖がっていた。
ただ、それは妖怪の絵に対してではなく、地図そのものに怯えていたのではありませんか?」
そう言って古地図を差し出すと、
父は顔をしかめた。
「やめてくれ……」
「やはり、これにトラウマを抱いているんですね」
栗原はすでに、
その理由に見当をつけていた。
「もしかして、お祖母さんは自殺するとき、これを持っていたのではありませんか?」
「……どうしてそう思うんだ?」
「この古地図、一度水に濡れたようにべこべこしています。浴室の水気を吸ったからではないでしょうか」

「そして右上の黒いシミ。インクにしては色合いが鈍く、表面がざらざらしています。
これは血痕の特徴です。自殺の際に付着した、知嘉子お祖母さんの血液なのではないかと考えました」
「でも、お祖母ちゃんの死因は……」
「はい。彼女は首を吊って亡くなった。出血はなかったはず……最初はそう思っていました。
しかし同時に、ほんの少しの違和感がありました」

「浴室の手すりは、あまり首吊り自殺に向いているとは思えません。家の中には、梁やカーテンレールなど、より適したものがいくつもありました。
なぜお祖母さんは、わざわざ浴室を選んだのか。
話は変わりますが、自殺方法としてもっともポピュラーなのは、リストカットだそうです。
『手首を刃物で切る』というのは、他の方法と比べて難易度が低いのでしょうね。
ただ難点は、自殺現場が血で汚れてしまうことです。
よって多くの人は、家族に迷惑をかけないために、掃除のしやすい浴室を使うといいます。湯をためた風呂の中で手首を切れば、流れ出した血を自分で見ずにすみますから、精神的にも楽なんだそうです」
「……詳しいな」
「ただ、リストカットにはもう一つ難点があります。成功率が低いんです。
失血死を起こすほどの出血は、手首を切るだけでは難しいんでしょうね。
もしかして、お祖母さんは一度、自殺に失敗したのではないでしょうか。
お祖母さんは最初、浴室で手首を切った。しかし、死ぬことができなかった。だから方法を変えることにした。そのとき目についたのが手すりだった。彼女はいったん浴室の外に出て、ロープを探した。
そういえばお父さん、先ほどこう言っていましたね」
「……文宣の言う通りだよ。実際はロープじゃなくて、針金だったけどね」
「『針金』という、首を吊るにはややめずらしい道具を使ったのは、紐状のものが他に見当たらなかったから、と考えれば説明がつきます。
古地図の血痕は、リストカットで流れた血が付着したのでしょう。
つまり、お祖母さんは自殺をする際、古地図を浴室に持ち込んだということです。
お父さんがこれを見て青ざめたのは、遺体発見時のことを思い出してしまったからですね?」
「……本当に、文宣には嘘がつけないな」
「ではやはり」
「ああ。だけど、地図を見て思い出したわけじゃないんだ。仕事をしてるときも、飯を食ってるときも、今こうしてテレビを見てるときだって、あの光景がいつも頭の片隅に浮かんでるよ。
必死に目をそらすけど、気を抜くと直視してしまう。そのたびに恐怖と、自殺を防げなかった罪悪感が襲ってくる」
「だから、黙っていたんですね」
「騙すようなことをしてごめんな。お前の言う通り、お祖母ちゃんはこの地図を手に持った状態で亡くなっていた。
よっぽど大切なものだったんだろうな」
「本棚の裏に隠したのは、お父さんですか?」
「いや、俺じゃない……知らない間になくなってたんだ」
「なくなってた?」
「遺体を発見したあと、110番通報して、すぐに警察が来て現場検証になったんだ。
浴室にあったものはすべて回収されたけど……この地図はなかったな」
「では警察が来る前に、お母さんが回収したのでしょうか」
「そうとしか考えられないよな……」
「その後、お母さんは本棚の裏に細工をして隠した」
「……いや、細工はお母さんとはかぎらないんじゃないか?
お祖母ちゃんが生前作ったものかもしれないし」
「それはないと思います。あの本棚はとても重くて、若い私でも動かすのに苦労しました。
足腰の弱っていたお祖母さんに動かせたとは思えません」
「言われてみればそうだな」
おそらく母は
『警察が来る前に勝手に回収してしまった』という負い目から、
人目につかない場所に隠したのだろう。
だが、それだけが理由ではないはずだ。

床の傷の多さから察するに、
母はたびたび本棚を動かし、
古地図を取り出していたのだ。
何のために?
「そういえば、お母さんはお祖母さんの死後、毎月あの家に行って管理をしていたと聞きましたが、お父さんも同行したんですか?」
「いや、いつも一人だった。一緒に行って手伝おうとしたけど、断られちゃってさ」
「断られた?」
「一人で思い出に浸りたいのかと思って、無理に付いていくことはしなかったよ」
「お母さんは、亡くなるまでずっと通い続けたんですか?」
「さすがに、文宣が生まれてからは頻度は減ったけど、それでも3か月に一回は行ってたと思う。
沙耶を妊娠してるときも、大きいお腹を抱えて出かけて行くから心配したよ。
何度も止めたけど無駄だった。お母さん、頑固だからな」
母の目的は、本当に家の管理だったのだろうか。
そこまでこだわるということは、
何か他の事情があったように思える。
もしや……。
「お父さん、色々教えていただきありがとうございます。おかげで謎が解けました」
「また何かわかったのか?」
「きっとお母さんは、お祖母さんの自殺の原因を探っていたのだと思います。
おやすみなさい」
父に礼を言ってリビングを出ると、
母の部屋に向かった。
六畳の洋室には、
机と本棚が置かれている。
栗原は片っ端から遺品を調べていく。
(きっと、どこかに調査記録があるはずだ)
祖母が死んだとき、
母はどんな気持ちだったのだろう。
悲しみ、喪失感、悔しさ……
当然そういった感情はあっただろうが、
一番大きかったのは
『なぜ自殺をしたのか』
という疑問だったのではないか。
そして唯一の手がかりが、
祖母が浴室に持ち込んだ古地図だった。
だから母は、
警察に回収される前にそっと隠し、
自分の手で自殺の原因を突き止めようとした。
母が頻繁にあの家に行っていたのは、
調査のためだったのではないか。
そのたびに本棚を動かし、
古地図を取り出していた。
自宅に持ち帰らなかったのは、
調査と日常生活を線引きしたかったからだろう。
その感覚が、栗原には理解できた。
栗原は何かに興味を持つと、
食事も睡眠も忘れて没頭してしまう性格だ。
母もおそらく、そういう人間だったのだろう。
だとしたら……。
(そうだ。この部屋を調べても意味がない。調査記録があるとすれば……)
自室に戻り、荷物をまとめ、玄関へ走る。
靴を履いていると、父がやってきた。
「文宣、こんな時間にどこへ行くんだ?」
「もう一度、あの家に行ってきます」
「行ってどうするんだ?」
「お祖母さんの自殺の原因を突き止めます」
「どうしてそんなことをするんだ?」
「……お母さんが、最期まで調べていたことだからです。彼女の調査を私が完成させます」
「文宣、やめなさい」
父は静かに言った。
しかしその口調には、
珍しく厳しさが含まれていた。
「どうしてですか?」
「お祖母ちゃんもお母さんももうこの世にいない。今さら……仕方がないだろう?」
「そんなことはありません。知ることに価値があるんです」
「暇なときならいくらでも調べればいい。でもお前は今、時間がないはずだ」
「私の時間をどのように使おうと、私の勝手です」
「内定、出たのか?」
静かな言葉が胸に刺さる。
「……いえ、まだです」
「最近は、学歴や資格だけでは面接に通らないって、職場の若い子たちから聞く。
人柄重視っていうのか?積極性とかリーダーの素質が求められるんだってな」
「そのようですね。リーダーの素質が、20分程度の面接でわかるとは思えませんが」
「俺も同意見だ。そんな尺度で文宣を測ってほしくないとも思う。
でも悔しいことに、社会っていうのはわからずやなんだよ。わからずやの社会に自分を合わせないと生きていけないんだ。
時には、相手が望む人間を演じることだって必要だ。今日明日でできることじゃない。
お祖母ちゃんについて考えるよりも、模擬面接の一つでも受けた方が有意義だ」
返す言葉がなかった。
だが、今の気持ちを抱えたまま、
就活に打ち込めるとも思えない。
「文宣、次の面接はいつなんだ?」
「7月12日です」
「あと1週間か。それまでにしっかり練習を……」
「それまでには調査を終わらせます」
「文宣!」
「自分の人生は自分で決めます……失礼します」
父の返答を聞かず、外へ出た。
すっかり暗くなった道を、
駅に向かって歩く。
(お父さんの言っていることは正しい。私は駄々っ子のようだ。でも……)
公園の前を通りすぎる。
いつか、ここで母と遊んだのを覚えている。
栗原は昔から運動が苦手だ。
ジャングルジムは一段しか登れなかったし、
いくらブランコをこいでも、
高く揺らすことができなかった。
そして母は、
息子以上に運動音痴だった。
ブランコに乗る栗原の背中を押そうとして、
転んで泥だらけになってしまったことがあった。
家に帰ったあと、
二人で風呂に入って、
インスタントのコーンスープを飲んだ。
研究で忙しい母が一緒に遊んでくれた、
数少ない思い出だ。
栗原は今でも、
その些細な一日を大切にしまっている。
母は沙耶を妊娠中、
大きなお腹を抱えてあの家に通っていたという。
つまり、死の直前まで調査を続けていたということだ。
真相を知らずに命を終えたのだ。
悔しかったに違いない。
いつか聞いた、あの舌足らずな声がよみがえる。
『知りたい気持ちは、止められないんですよ~』
すでに通勤ラッシュは終わり、
電車はすいていた。
飯田橋で下車し、
先ほどの記憶を頼りに、
あの家へと向かう。
都心は夜でも騒がしいものと思っていたが、
駅を離れると、
人がいないかのように静かだ。
やがて家が見えてくる。
昼間とは印象が違う。
闇の中に身を潜めるように佇んでいる。
郵便受けから小箱を取り出し
「9180」とダイヤルを回す。
引き戸を開けると、
家の中はしんと静まり返っていた。
窓から差し込む月灯りが、
ぼんやりと床板を照らす。
手探りでスイッチを入れると、
白い電気がまぶしく灯った。
祖母の仕事部屋に入り、
母の調査記録を探す。

まず机を調べるが、
めぼしいものは見つからない。
続いて、小箪笥の一段目を開ける。
クリアファイルが入っている。
その中に、
祖母の戸籍謄本が挟まれていた。
空欄が多い。
「出生地」「出生日」「父」「母」などの項目に何も書かれていない。
昔は今と比べ、
戸籍の管理がおおざっぱで、
特に地方の出身者は出生届が出されないこともあったという。
祖母もその一人だったのだろうか。
唯一、祖母の旧姓が『沖上 』であることがわかったが、
それ以外にこれといった情報はない。
父の言葉を思い出す。
「お祖母ちゃん、昔は相当苦労したらしい。子供の頃に家族と生き別れたり、空襲で下宿先を焼かれたり」
家族との縁が薄い人だったのだろう。
ファイルを戻し、二段目のひきだしを開ける。
文具や、お土産でもらうようなキーホルダーがしまわれていた。
そして最後に三段目。
開けた瞬間、
焦げたような匂いが鼻先をかすめた。
見ると、スーパーのビニール袋に、
真っ黒な板状のものが入っている。
よく見ると、
それは黒焦げの大きなノートだった。
昼間の光景がよみがえる。

庭の隅に置かれていた、
炭になった木。
誰かが庭で焚火をして、
ノートを燃やしたのだろうか。
しかし、なぜ?
ビニール袋をどけると、
ひきだしの底に大量の日本地図と、
スヌーピー模様の小さなメモ帳があった。
メモ帳を手に取り、表紙をめくる。
ペンで文字が書かれている。
1991年9月23日
葬儀、おおむね済む
実家で荷物整理
⇒庭に焚火の跡と焦げたノートを発見
特徴的な右肩上がりの文字。
文を『⇒』で繋げる癖。
間違いない。
母が書いたものだ。
断片的な言葉しか書かれていないが、
だいたいの意味は理解できる。
祖母の葬儀が済んだあと、
母は遺品整理のためにこの家に来た。
そして焚火の跡と、
燃やされたノートを発見した。
すると、ノートを燃やしたのは
祖母ということか。
ページをめくり、次の日記を読む。
1991年9月24日
焦げたノート、すべて確認
⇒解読可能な文字なし。
⇒ただし1頁目にテープの跡
⇒紙を貼り付けていた可能性大。
黒焦げノートの表紙をめくる。

たしかに1ページ目に、
溶けたプラスチックが付いている。
テープの燃え跡だろう。
だが、何かを貼り付けていたにしては、
位置がおかしい。
そのとき、あることを思い出す。
古地図を広げ、裏面を見る。

上部に両面テープが2枚貼られている。
なるほど、と思った。

祖母は、ノートの1ページ目に古地図を貼り付けていた。
だが、燃やす前に剥がしたのだ。
その際、上のテープ2枚が古地図に、
下の2枚がノートに残ったのだろう。
どうやら母も同じように推理したらしい。
メモの続きにはこう書かれている。
地図の裏にもテープの跡あり
⇒ノートを燃やす前に剝がした?その後地図を持って自死
⇒なぜ?ノートの最初に地図を貼った
⇒地図をテーマに何かを調べていた?最後に貼られた15枚の写真が結論?
『15枚の写真』という記述が気になる。
ノートをめくると、
最後のページにあるものを見つけた。

見開きいっぱいに、
長方形の紙が15枚貼られている。
すべて焦げてしまっているが、
サイズから考えて写真に違いない。
つまり祖母は、
ノートの1ページ目に古地図を貼り、
その後、数十ページに渡って何かを記し、
最後に15枚の写真を貼ったということだ。
では、なぜそんなことをしたのか。
母は『地図をテーマに何かを調べていた?』と推測している。
そういえば、先ほど父がこう言っていた。
「亡くなる少し前から、急に元気がなくなってな。性格が変わったっていうか……。好きだった一人旅も行かなくなったし、食事会もなくなった」
もしや、祖母は旅行ではなく、
調査に出かけていたのではないか。
そこで得た情報をこのノートにまとめていた。
元気がなくなったから旅をやめたのではない。
調査が完了したから、出かける必要がなくなったのだ。
つまり、最後の旅で祖母は
何らかの『真相』にたどり着いた。
15枚の写真に収められたその『真相』は、
祖母にとってあまりに辛いものだった。
だから彼女は死を選んだ。
そう考えれば辻褄は合う。
では、祖母はいったい何を調べ、
何を見つけたのだろう。
メモの続きを読む。
1991年9月27日
母の自殺、地図に関係ありと見て調査開始。
描かれた場所は不明。出身地の可能性
⇒母の戸籍謄本取得
⇒出生地不明。参考にならず。
母は古地図をもとに
祖母の自殺の原因を探ろうとした。
たしかに、それくらいしか手がかりはない。
気になるのは、
祖母の出身地を調べるために、
わざわざ戸籍謄本を取り寄せた点だ。
祖母は自分の故郷を、
母に教えていなかったということか。
自分の生い立ちを隠したかったのだろうか。
1991年10月6日
地図に描かれた場所、調べるために日本地図を各種購入
⇒現段階で結果得られず。今後も照合作業を継続予定。
日本全国の地図を集めて地形を見比べ、
古地図に描かれた場所を突き止めようということだ。
メモ帳とともにあった大量の日本地図の意味がようやくわかった。
インターネットがなかった当時は、
手作業で調べるしかなかったのだ。
1991年11月2日
〇〇県〇〇市 〇〇地区
山の位置関係に類似あり⇒湖なし。
他、沿岸の地形に差異
⇒地形変動の可能性を調査
⇒過去に大きな変化なし。結論⇒不一致。
1991年11月25日
〇〇県〇〇町 〇〇地区
山に接した道と湖あり
⇒山の位置関係に類似はあるものの、湖は存在せず。地形変動の可能性を調査⇒過去に大きな変化あり⇒湖が存在した記録なし。
結論⇒不一致。
1991年12月16日
〇〇県〇〇市 〇〇地区
湖と沿岸の形状に類似点あり。
山の位置関係に差異あり
⇒誤差の範囲か。文献を調査
⇒過去に人が住んだ記録なし。結論⇒不一致。
以降、このような調査記録が続くが、
結果は毎回『不一致』。
だいぶ苦戦していたようだ。
1992年の6月から10月にかけて
記録が途切れている。
ちょうど栗原が生まれた時期だ。
産休だろう。
休み明け最初の日記には、
母になった気持ちや、
子供への思い……などはなく、
淡々と調査結果だけが書かれていた。
栗原は思わずニヤリとする。
これでいい。
感情を混ぜれば記録が濁る。
母の誠実さが嬉しかった。
その後も調査は続き、
祖母の死から6年。
ついに母は古地図の場所を突き止める。
1997年7月14日
R県 柿童 地区
沿岸部の僻地に地形の類似あり。
山、湖、沿岸の形状と位置関係、おおむね一致。
1997年7月15日
文献を調査
⇒過去に小規模な集落が存在した記録あり
⇒河蒼湖 集落。年内に実地調査予定。
スマホで『河蒼湖集落』と検索する。
R県の沿岸部にかつて存在した集落で、
現在は誰も住んでいないという。

見比べると、
たしかに地形がぴったり一致している。
古地図に描かれているのは、
この場所と考えて間違いないだろう。
妖怪の山は『母娘山 』というらしく、
現在はトンネルが掘られ、
電車が通っているらしい。
それにしても、
google mapが無かった時代、
忙しい生活の合間を縫って、
自力でここまでたどり着いたのは、
すさまじい執念だ。
しかし、母はここからどのような調査を行うつもりだったのだろう。
メモ帳をめくる。
その先には、
何も書かれていない。
小さくため息をつく。
わかっていた。
最後の日記が書かれたのは
1997年7月15日。
この1か月後、母は死んだ。
きっと、実地調査にも行けなかったのだろう。
あの声が頭に反響する。
『知りたい気持ちは、止められないんですよ~』
突然、体の奥で熱が生じる。
気付くと家を飛び出していた。
おかしな行為だと自分でもわかっている。
「お前にそんな時間はない」
と父は言うだろう。
わかっている。
しかし、この気持ちを止めることはできない。
母の無念を晴らすためか
……いや、違う。
単純に知りたいからだ。
一度興味を持ったら、
調べずにはいられない。
それが栗原という男なのだ。
駅前の店で
リュックと数着の着替えを買う。
家に戻り、古地図、母のメモ帳、黒焦げのノート、
そして何かの参考になればと、
本棚からいくつかの専門書を選び、
リュックに詰め込んだ。
高速バスの時刻表を調べる。
R県方面のバスは、
明日の午前6時発だ。
仮眠を取るため、
フローリングにごろりと横たわる。
目を閉じると、
5分ほどで眠りに落ちた。
目を覚ましたのは夜明け前だった。
まだ少し早いが、いいだろう。
重いリュックを背負い、外に出る。
空は雲に覆われている。
そのとき、ポケットの中でスマホが鳴った。
沙耶からだ。
「もしもし、文宣です。早起きですね」
「ううん。今寝るところ」
「沙耶。徹夜は健康によくないですよ。とある研究によれば、記憶したことが脳に定着するのは一定時間の睡眠を……」
「あのー……もう寝たいから用件だけ話していい?」
「……失礼しました。どうぞ」
「お父さんから伝言」
緊張が走る。
昨日、父を振り切るように家を出てしまった。
怒っているだろうか。
「……お父さんは何と?」
「『少しでも準備はした方がいい。だから、面接の前日だけは練習に使いなさい』って」
「……では、それまでは許してくれると?」
「止めても無駄だって思ったんじゃない? お兄ちゃんの頑固さは、お父さんが一番よく知ってるからね。
……なんか、調査するんだって?」
「はい」
「好きだね、そういうこと」
「ええ、まあ」
「お父さんに何か伝言ある?」
「……『約束します』とお伝えください」
「わかった。あと、私からも一言」
「なんですか?」
「……危ないことはしないでね。お兄ちゃん、すぐ周りが見えなくなるから」
「……忠告、感謝します」
R県
午前6時、新宿。
栗原を乗せた高速バスは
R県に向かい出発した。
最初は飛ばしていたが、
途中でのろのろ運転に変わった。
渋滞に巻き込まれたらしい。
幸先が悪い。
リュックを開け、
祖母の部屋から持ってきた本を探る。
難しそうな専門書ばかりだが、
その中に『地図のいろは』というハンドブックが交ざっていた。
そういえば、
祖母は大学で測量学を教えていたという。
教材として使っていたのかもしれない。
パラパラとめくりながら読んでいると
『三角点』という文字に目が留まった。
建築学にたびたび登場する言葉だからだ。

公共物建築の際には、
必ず設計図が作られる。
当然、設計図通りの位置に、
建物は建てなければならない。
たとえば
『北緯36度 東経138度』と書かれていたら、
ちょうどその位置で工事を行う必要がある。
だが、ここで問題が起きる。

『北緯36度 東経138度が実際にどこなのか』
を特定するのが非常に難しいのだ。
GPSを使えばおおよその位置はわかるが、
かならず数センチのズレが生じる。
建築において、数センチのズレは命取りになる。
そこで登場するのが『三角点』である。

三角点とは、
全国10万か所に設置された、
いわば『位置を示す目印』だ。
これを参考にすることで、
正確な位置を知ることができ、
設計図から少しもズレることなく工事ができるのだ。
三角点はもともと
地図作成のために設置されたものだ。
衛星技術がなかった時代、
測量士はこれらを参考にしながら、
土地の位置や形を手作業で調べ、
図面に記していったという。
土地を測り、地図を作る測量学。
その地図を使い、土地に建物を建てる建築学。
ある意味では双子のような学問だ。
祖母はなぜ、測量学に興味を持ったのだろう。
ふと、そんなことを思った。
14時過ぎ、
予定より1時間遅れて
バスはR駅前に到着した。
R駅はR県のターミナルで、
ここからさらに二本の電車を乗り継いで
河蒼湖集落へ向かう。長旅だ。
駅前のコンビニで
『野菜一日これ一本』を買い、
チューチュー飲みながら構内へ入る。
これを飲めば
食事をしなくても一日元気で動ける、
というのが栗原の持論だ。
14時半発の急行に乗り、
ガタンゴトンと揺られること約1時間。
のどかな田舎駅に到着する。
改札を出てしばらく歩くと、
古めかしい木造の駅舎が見えてくる。
矢比津 鉄道、伊乃田 駅だ。

矢比津鉄道は、
R県の海沿いを走る私鉄である。
伊乃田発の電車に乗り
『柿童 』という駅を目指す。

河蒼湖集落の跡地は、
山と森と海に閉ざされている。
簡単には立ち入れない。
唯一のアクセス方法は、
柿童駅から出ているバスに乗って
登山道入り口で降り、山を歩いて越える、
という非常に手間のかかるものだ。
切符を買っていると、
どこからか軽やかな声が聞こえてきた。
「えーとー、あんぱんと草餅とー……あ、今日はくるみゆべしもあるんだ!どうしよー……」
声のする方を見ると、改札前の売店で、
ボブカットの小柄な女性が商品を物色している。
その様子を、年配の店員がほほえまし気に眺めている。
「あかりちゃん、決まったかい?」
「えーと……ああ、もう電車が来ちゃう!
おばちゃん!あんぱんと草餅とくるみゆべしちょうだい!」
「はいよ、急いで包むからねえ」
店員は「いつものこと」といった様子で、
手際よく菓子を袋に詰めていく。
時計を見ると、
たしかにもう電車が到着する時刻だ。
急いで改札に入る。
ホームに降りると、
都心ではなかなか見ることのできない
一両編成が停まっている。
ちょうどドアが開いたので、
車内に入ろうとした。
そのときだった。
突然、腕に強い痛みを感じた。
見るとランニングシャツの中年男性が、
栗原の腕をわしづかみにしている。
彼は大声で怒鳴った。
「横入りすんじゃねえ!クソ野郎!」
突然のことにビクリとしたが、
彼の後ろに行列ができているのを見て、
すぐに状況を理解した。

どうやら、電車に沿うように並ぶのがここのマナーらしい。
普段利用している小田急線とは並び方が違うので、
気づかず、順番ぬかしをしてしまったということだ。
ひとまず謝罪する。
「どうも失礼しました。他県から来たもので、ルールを知らなかったのです。並びなおします」
「お前、なんだ?その態度は!」
栗原の冷淡な口調が、
男性の癇に障ったらしい。
「ヨソから来ただか知らねえが、ちゃんと謝れ!」
「謝罪はしたつもりです」
「そんな言い方で気持ちが伝わるか!地面に手ついて謝れ!」
息が酒くさい。
かなり酔っているようだ。
すぐに駅員が止めに来たが、
男性はよりヒートアップしてしまう。
他の乗客も戸惑っている。
すると突然、
緊迫した空気に似合わない、
軽やかな声がした。
「どうしたんですかー?」
売店で菓子を買っていた若い女性だった。
ビニール袋を片手に駆け寄ってくる。
「あー!シゲルさんじゃない!どうしたの?そんなに怒って」
知り合いなのだろうか。
女性がそう言うと、
男性は急に大人しくなった。
「いや、別に大したことじゃないんだけどな。この兄ちゃんが横入りするから……」
「でもわざとじゃないんでしょ?」
「まあ、そうなんだろうけど……」
「じゃあ許してあげよう? ……ね?」
「……わかったよ」
驚くほど素直だ。
彼は栗原に「次は気をつけろよ」と言い捨てて車内に入っていった。
状況がよく理解できないが、
ひとまず助かった。
女性に礼を言う。
「どなたか存じませんが、どうもありがとうございました」
「いえいえ!それより腕、大丈夫ですか? だいぶ強く掴まれちゃったみたいだけど」
「はい、もう痛みは消えました」
「本当?それならいいですけど……。
矢比津線って、1時間に一本しか電車が出ないから、みんな乗りそびれないように必死なんですよね。
あの人も悪気があったわけじゃないだろうから、許してあげてくださいね」
「ええ、特に気にしていません。ところで、さきほどの方とはお知り合いなんですか?」
「仕事でちょっとだけ。酔うとよくトラブル起こしちゃうけど、本当は優しいおじちゃんなんです。
……さ、乗りましょう!電車出ちゃいますよ」
「……はい」
車内はすでに乗客でいっぱいだった。
二人はドアの近くに体を縮めて立つ。
やがてベルが鳴り、ドアが閉まる。
女性が菓子の入ったビニール袋を広げた。
「あの……お腹すいてません?さっき売店でうっかり買いすぎちゃって。よかったらどれかあげますよ」
「いえ、結構です。先ほど『野菜一日これ一本』を飲んだので、今日は食事をしなくても大丈夫なんです」
「なに言ってるんですか!大丈夫なわけないでしょ?ほら、これあげるからお腹すいたときに食べて!」
彼女はそう言って、
くるみゆべしを差し出した。
ときどきスーパーのレジ横で見かける和菓子だが、
栗原は一度も手に取ったことがなかった。
「これ、おいしいんですか?」
「おいしいですよ!それに腹持ちがいいの。持ってると便利ですよ」
「非常食ですか。せっかくなので頂戴します」
「賞味期限はそんなに長くないから、早めに食べてくださいね」
「恐れ入ります」
ゆべしを受け取り、ポケットにしまう。
にっこり微笑む女性を見て、疑問を抱く。
この人は誰なのだろう。
若いが学生には見えないし、
会社員という雰囲気でもない。
何より、激怒していた男性を
一瞬で黙らせてしまったのが不可解だ。
「あの、失礼ですがあなたは?」
「あ、自己紹介がまだでしたね。
私、帆石水 あかりっていいます」
「ほいしみず……さん?」
「変わった苗字ですよね。長いから『あかり』って呼んでください」
「ご職業は?」
「えーとね……これです」
彼女はジーンズのポケットから、
黒い手帳をちらりと覗かせた。
『警』という金色の文字が光る。
「警察官ですか……!」
「下っ端だけどね。今日は当直明けで、今から家に帰るところなんです」
なるほどと思った。
どうりで、よくトラブルを起こす酔っ払いと顔見知りなわけだ。
彼は何度も世話になっているのだろう。
あかりは手帳をポケットにしまい、
栗原に質問を返した。
「そういえば、あなたのお名前もまだ聞いてませんでしたね」
「申し遅れました。栗原と申します。今は大学4年生です」
「じゃあ、22歳?」
「はい。ただ、一回怪我で留年したので今年で23歳になります」
「へえ!じゃあ1個下だ!私、24なんです。あの……『栗原くん』って呼んでもいい?」
「急に馴れ馴れしいですね」
「あ……ごめんなさい……!」
「かまいませんよ。馴れ馴れしい人、けっこう好きなんです」
「よかった……怒らせちゃったかと思った!栗原くんはこれからどこに行くんですか?」
「河蒼湖集落の跡地です」
「河蒼湖!?」
「ええ。ただ……」
車窓を見ると、
すでに日が陰りはじめている。
今から行ったら、
到着は夜になってしまうだろう。
「予定より遅くなってしまいましたので、今日はホテルに泊まって、明日行くことにします」
「じゃあ、うちに泊まりませんか?」
「……会ったばかりの異性を家に招くのはやめた方がいいですよ」
「あ、そうじゃないの。うちの実家、旅館なんです」
「そういうことですか。ご実家はどちらに?」
「湖隠駅 のすぐ近くだよ」

「湖隠駅といえば、柿童駅 の隣ですよね」
「そうそう。河蒼湖に行くには便利でしょ?学生証持ってれば、学割で2000円で泊まれるし、食事も付いてるからお得だよ」
「それは……正直、助かります。貧乏旅行なもので」
「じゃあ、泊まってみる?」
「ええ、せっかくですので」
「やった!」
1時間ほどで湖隠駅に到着する。
あたりを森林に囲まれた、
静かな無人駅だ。

改札を出ると、
森を切り裂いたような細道が出迎えた。
その向こうから川が流れる音がする。
「あかりさん、この道の先には何があるんですか?」
「湖隠 集落っていう廃集落だよ」
「ここにも集落跡があるんですか」
「うん。昔、線路工事の作業員が住んでたんだって。今は廃墟があるだけみたい。うちの旅館はこっちの太い道の先だよ」

二人は左側の大通りに入る。
一瞬、冷たい風が頬をなでた。
道の両脇には
古い民家がいくつか建っているが、
どれも廃屋のようだ。
玄関の前に干からびた三輪車や、
錆びた農具が放置されている。
その背後には深い森がどこまでも続く。
夜にここを歩いたら、ずいぶん心細いだろう。

途中、道は大きくカーブを描く。
ふと、左に何かを見つける。
柵の中に、見覚えのある小さな石が立っている。
思わず足がそちらへ向かう。
三角点だ。

眺めていると、あかりが声をかけた。
「栗原くん、どうしたの?」
「実は先ほど読んだ本に、これに関する記述があったんです」
「へえ! 三角点だよね」
「ええ。ただ、ここまで厳重に管理されているのは珍しいですね」
「たぶん、一回壊されたからだろうね」
「壊された?」
「うん。昔、おじいちゃんから聞いたんだけど、70年くらい前にバラバラに割られて、上から土がかけられてたんだって」
「……変な事件ですね」
「たぶんイタズラだろうけど、ちょっと不気味だよね」
「では、これは新しく作り直されたもの、ということですか」
「うん。そのとき柵ができたんじゃないかな」
「なるほど」
三角点を写真に撮り、
再び歩きはじめる。
カーブを曲がりきると、
あかりの実家が見えてきた。

古くて飾り気のない
3階建ての木造建築が、
海を背にして建っている。
建物の横には、
軽乗用車と物干し台。
おそらく従業員家族のものだ。
旅館というより、
民宿に近いのかもしれない。
玄関に入ると、
あかりは「パパー!!お客さんだよー!」
と叫んだ。
すると割烹着を着た50代くらいの男性が
小走りでやってきた。
たれ眉の丸顔があかりにそっくりだ。
「どうもどうも、いらっしゃいませ……あかりがお連れしたのか?」
「うん、駅で知り合ったの」
栗原は会釈をする。
「栗原と申します。こちらの宿、学生は一泊2000円で泊まれると聞きまして」
学生証を差し出すと、
主人は一瞬、驚いたような顔をした。
「え!?……あ、はい!2000円でお泊まりいただけます。……では、お部屋の方へ」
「パパ、私が案内するよ」
あかりが口をはさむ。
「でも、お前は従業員じゃないだろ?」
「私のお客さんだもん。それより夕飯の支度してあげて。栗原くん、今日はまだ野菜ジュースしか飲んでないんだって」
「え!それはいけない。お客様がよろしければ娘に案内をさせて、私はお食事の準備に取り掛かりますが、それでもよろしいでしょうか……?」
「ご主人。お気遣いはありがたいですが、私は空腹ではありません。なぜなら『野菜一日これ一本』を飲むことで一日分の健康を……」
持論を展開しようとする栗原を、あかりが遮った。
「パパ、お願いね!」
帆石水亭
あかりのあとを付いて階段を登りながら、
栗原はうっすら感じていた疑問を投げかけた。
「あかりさん。本当はこの宿、学割なんてないんじゃないですか?」
「え……どうして?」
「学生証を出したとき、ご主人が一瞬、たじろいだんですよ」
「あ……バレちゃった?ふふ、学割は私が今日、勝手に作ったの」
「そんなことしたらダメでしょう」
「大丈夫だよ。パパも了解してくれたじゃない」
客の手前
『娘が嘘をつきました。学割なんてありません』とは言えないだろう。
「それにパパも喜んでるよ。栗原くんが来てくれなかったら、今日、お客さん0人なんだから」
「私の他に誰もいないんですか?」
「うん。ここ数年はそんな日が多いの。昔は地元の人たちで賑わってたけど、少子化と高齢化でどんどん人がいなくなっちゃってね」
「でも、それでは利益が出ないでしょう?」
「利益どころか赤字が増えてく一方だよ。だから私が働いてカバーするの」
「下っ端警官の給料で?」
「ひど!」
「さっきご自分で仰ってたじゃないですか」
「ふふ。将来の話。さ、もうすぐ部屋だよ」
案内されたのは、3階の広い和室だった。
窓からは海が一望できる。
荷物を置き、
館内を案内してもらうことになった。

帆石水亭は2階と3階が客室で、
1階は事務室、厨房、宴会室、
そして浴場になっている。
事務室の隣には従業員、
つまり帆石水家の住居があり、
あかり達はそこに寝泊まりしているらしい。
浴場へ向かう廊下に、
写真がいくつか飾られている。
最初に目についたのは、家族写真だ。
父親と母親、
その手前に小学校低学年くらいの少女、
子供時代のあかりだろう。
今の彼女をそのまま小さくしたような見た目だ。
あかりの隣には、
幼い少年がぬいぐるみを持って立っている。
その顔を見たとき、
不思議な感覚を覚えた。
「……この子は?」
「私の弟。雅也 っていうの」
「私の少年時代に、少し似ています」
雅也の顔は、
アルバムで見るかつての自分と重なって見えた。
「ほんと? 私も栗原くんの顔見たとき、なんとなく似てるなーって思ったんだ。そっか……本当に似てたんだね」
「彼は今どこに?」
「……交通事故で死んじゃった。もう、ずっと昔にね」
「そうですか……失礼しました」
「なんか気まずくさせちゃってごめんね。えっと、館内のことはだいたいわかったよね」
「はい」
「困ったことがあったら事務室まで来てね」
「恐れ入ります」
廊下を去っていくあかりを見ながら、
なぜか父を思い出した。
どこか似ていると思った。
あまりに早く大切なものを失った人は、
とても長い時間、
大きな孤独を背負って生きなければならない。
その重さに背中が疲れている
……そんな気がした。
もしかしたら、
自分もそうなのかもしれない。
思わず目を背ける。
その拍子に、
不可解な写真が目に入った。
家族写真から少し離れた場所に、
大きな額が飾られている。
見知らぬ老人の写真だ。
鋭い鷲鼻に、疑り深そうな目。
オールバックの髪は、
年の割に黒々としている。
なぜか、不快感を覚えた。
額縁の下のプレートには
『名士:矢比津啓徳 会長』
とだけ書かれている。
このつづきは……

書籍『変な地図』にて!
現在、全国の書店で発売中です!

雨穴

夢顎んく
岡田悠
私野台詞
たかや

めいと
オモコロ編集部






