20120115_2411015

 

屁のこき方を忘れてしまった。

 

買い物に出かける前まではちゃんと憶えていたはずなのに、自転車に乗って出かけて、スーパーでうずら卵を買って、家に戻ってきたら、その時にはもう屁のこき方がわからなくなっていたのだ。

 

子供の頃、何度やってもダメだったのに、ある日をさかいに、急に補助輪無しでも自転車に乗れるようになったことがあったけど、今回はそれの逆だと思った。きのうまで普通に出来ていたことが、とつぜん出来なくなってしまった。

 

なぜ急に、屁のこき方を忘れてしまったのだろう?うずら卵がいけなかったのだろうか。それとも、マヤ歴が新しいサイクルに突入したことによる私の意識変容の結果、そうなったのだろうか。理由はわからないけれど、とにかくまずいことになったとわたしは思った。

 

なぜまずいのかというと、わたしは、次の日の朝の飛行機で日本を発ち、L.A.に行くことになっていたからだ。L.A.に行って、屁のこき方を忘れたなんて言ったら、外国人に笑われるに決まっている。だいたい、屁は英語でなんて言えばいいのか分からない。わたしはスーツケースを広げた部屋でひとり、途方に暮れた。

 

いくら思い出そうとしても、ダメだった。思い出そうとすると、頭が割れるように痛むのだった。もしかすると、何者かがどこかから、わたしが屁のこき方を思い出すのを阻止するための電磁波を、わたしの脳に送っているのかもしれない。もしそうならそいつを見つけ出し、電磁波を止めさせれば、屁のこき方が思い出せるかもしれない。そのようにも考えた。しかし、そいつを探し出している時間的余裕をわたしは持ち合わせていなかった。なぜならわたしは、L.A.に行かなくてはならなかったからだ。

 

どうしても思い出せない。だが…。着替えや電気シェーバーや薬の瓶をスーツケースに押し込みながら、わたしは考えた。だが、屁は、尻との関連性が高いものであることは確かだ。であるならば、おそらく尻をどうにかすれば屁がこけるはずだ、と。

 

たとえば、尻を温めてみたらどうだろう。尻を温めれば、案外かんたんに屁が出るんじゃなかろうか。わたしは、明日の支度を一時中断し、尻を温めてみることにした。尻をお湯につけてみたり、火に尻を近づけてみたり、日光にしばらく尻を当ててみたりしてみた。だが、ダメだった。尻がポカポカに温まっただけで、いっこうに屁の出てくる気配はなかった。

 

もっと強い刺激が必要なのかもしれない、とわたしは思った。あるいはもっと直接的な刺激が。そこで次に、半ば強引過ぎる向きもあったが、尻を引っ叩いて屁を出す作戦に打って出ることにした。布団叩きを隣の部屋から持ってきて、それで尻を思いっきり引っ叩いてみたり、友だちに電話をかけて家まで来てもらって、ワークブーツを履いてもらって、「ちょっと、おれのけつ蹴ってくんねえか?」と頼み、思いっきり尻を蹴ってもらったりした。だが、やはり屁は出なかった。

 

それでわたしは、肉体に直接与える刺激じゃ、ダメなのかもしれないと考えた。もう、そういう時代じゃないのかもしれない。現代は心の時代である。もっと、「尻」の「心」に響くような知的で芸術的なアプローチで、「屁」を引き出す必要があるのかもしれない。そう考えた。そこで今度は、クラシック・ミュージックを尻に聴かせてみることにした。わたしは中学・高校学時代は吹奏楽部だったので、自分でフルートをで吹いて、その美しい旋律を自分の尻に聞かせてやった。しかしそれでもダメだった。

 

わたしは絶望した。もはや「屁」と「尻」とで、どっちが「しり」でどっちが「へ」なのかすら分からなくなっていった。

 

そうこうしてる間に、日が暮れて、夜が更けて、朝になってしまった。仕方なくわたしは、うずら卵を食べてスーツケースを手にし家を出て空港に向かい、日本を発った。L.A.に着くまでの間、機内にてわたしはずっと、いったいどうすれば屁が出るのだろうかと、真っ青な顔で考え続けた。

 

しかし、そんな心配は無用だった。L.A.に着いたとたんに、屁は出た。

西海岸の自由な空気が、そうさせたのかもしれない。