6月26日(金)

卵がひとつ減りました。
理由は不明。割れた殻などもなく、見当もつきません。残念です。
残るふたつが無事に孵ってほしいと願う。
台風が来ている。いまも強い雨。

卵がひとつ減っても、あたためる君の熱はこれまでと変わらず。
かがみもちのような背中はいまなにを思うのか。
6月27日(土)

ゴイサギ
台風が近くに来ており、強い雨。
湖に降る雨そのものよりも、湖に注ぎ込む川や水路を伝って濁流が猛烈な勢いで流れてくることがおそろしい。すべて押し流されてしまう。

水草の上につくられた巣はとても不安定で、小さいふたつの卵はこの台風をしのげるかわからない。

モフモフのケツ。
そのモフモフのケツで、どうか守り通してほしい。

帰り道に「あっ!」と声が出た。
俺の目の前で、草むらのカルガモの巣から卵を盗んだカラスがいた。
ここまで俺はずっと分別のある大人ぶって、卵が減るのも雛が減るのも「自然とはそういうものだ」みたいな感じを出していたが、いざ卵が奪われる現場を目の前にすると、それはけっこうショッキングで、打ちのめされてしまった。
俺は生きるということをなにもわかっちゃいない。

つがいのカイツブリよ。その卵よ。
どうか台風にも、カラスにも、負けないでくれ。
6月28日(日)

きょうは湖でトライアスロンがあり早朝から交通規制がかかるため、キモすぎる時間に出発。

夏至のころにもかかわらず、完全に夜。

着きました。
台風が過ぎ、世界が落ち着きを取り戻した。


カイツブリの巣から卵が消えていた。
絶えず新しい水草で補強していたカイツブリの巣自体もぺしゃんこになり、流れた水の勢いを物語っていた。
ただ横でなりゆきを眺めているだけの人間にショックを受ける権利はない。それは勝手に物語を描くことで自分で自分の感情を刺激して気持ちよくなっているだけだ。理性ではそう思うが、それでもやはり、新しい命が無事に生まれてこなかったことは残念に思う。

カイツブリのつがいといえば、まるで卵なんて最初からなかったかのように、夜明けからせっせと巣に水草を重ねていく。また次の卵を産み、それを孵すための巣を作りなおしていく。
彼らに「喪失感」や「無力感」を感じる機能は備わっていないのだろう。そんなものはいらないのだ。徹底して前を向いている。そうでないと、過酷な自然の競争のなかで命をつないでいくことはとてもできないのだと思う。
人は落ち込こんで立ち止まってしまうことがある。私は子供のころから何度も落ち込んできた。今朝も、当事者でもないのに卵が消えて落ち込んだ。その感情があることを不思議と感じたこともなかった。しかし、あらためて思えば、人にはなぜこんな感情があるのだろう。カイツブリのように、ずっと前を向くことができればいいのに。

もう明日からここに来ることはないんだな、と思って、また寂しい気持ちになった。ひとりで勝手に感情を動かして気持ちよくなって、無邪気なものだ。もう帰るというところで、カイツブリが空っぽになった巣の上に乗った。あたためる卵を探しているのだろうか。そこにはもう、おまえの産んだ卵はない。




水のなかから、卵がひとつ出てきた。
卵は残っていた。強風にも濁流にも負けず、まだそこにあったのだ。

この卵がまだ生きているのかはわからない。卵のなかで死んでしまうこともある。ただ、今日という日を経て、終わりまで見届けたいという気持ちが私のなかで強固なものになった。
この先、この親子にはどんな障害が待ち受けているのだろうか。これまでに起きたことを振り返り、これからの未来を想像して不安になる。
カイツブリに不安はない。ただ目の前の卵をあたためるだけだ。
6月29日(月)

きょうもたったひとつの卵をあたためる。

この顔でなに考えてるんだろうな、一日、一年、一生。
6月30日(火)

アオサギ
なにを眺めているのかしら。

きょうも元気に抱卵中。
なんか写真が近いなと思ったかもしれませんが、こないだの台風で巣が流れて岸側に寄ったためです。

卵を現認。
卵があったのはいいのだが、なんだか昨日からつがいが見当たらない。
つがいも常につきっきりというわけではないのでちょっと遠出しているだけかもしれないが、2日連続で姿を見ることができなかったので、それがちょっと心配。

それと関係があるかはわからないが、きょうのカイツブリは本当に落ち着きがなかった。もう2週間毎日見ているが、こんな姿ははじめて見た。あきらかに様子がおかしい。
常に首を高く伸ばしては周囲をキョロキョロと見渡していた。いつもはもっと、でーんとしたかがみもちみたいに堂々としているのに。
明日は平穏が戻ることを祈る。
7月1日(水)

今朝、いつもの場所を訪れたときには、すべてが終わっていた。
カイツブリも、その卵も、どこにもいない。
最後の卵に不幸があってカイツブリが去ったのか、カイツブリが去ったあとに卵が食べられてしまったのか、それは正確にはわからない。
ただ、こうなるような不安はあった。きのうのカイツブリの落ち着きのない様子は、やはり帰ってこないつがいを探していたんだろう。カイツブリはつがいで協力して卵と雛を育てるため、一羽のままでは採餌も抱卵も育雛もままならない。そうしてひとりきりで2日間過ごすうちに限界を迎えて卵を放棄したのだと思う。
こうなるような不安はあったが、思っていたよりも苦しい。
こうなることで自分がこんなにショックを受けるとは思っていなかった。今日、湖に着いて、遠目にからっぽの巣を見たときから、朝の食欲が一気に失われる感覚があった。
巣の近くまで寄り、どこかにカイツブリが泳いでいないか、このまえのように水の中に卵が落ちていないかと探す、待つ。
ずっとずっと待ったが、巣はいつまでも空っぽのままだった。
ぐったりした気持ちになった。きょうは本当に会社に行きたくないなと思った。なにか適当なうそをついて休んでしまおうと思った。

湖を眺めた。
遠くに、別のカイツブリのつがいが営巣している様子が見えた。一羽が卵をあたため、もう一羽がせっせと水草を巣に運ぶ。私にはよく見慣れた姿だった。
私がずっと見ていたカイツブリも、いまごろどこかで別れたつがいを探している。
もしそのつがいが見つからなければ、新しい相手とつがいになり、また卵を産み、温める。
もう二度と姿は見えないが、この湖のどこかで、次の雛を育てるために生き続けている。それには間違いがないと私には思える。
カイツブリは悲しんだり、悩んだり、立ち止まったりしないからだ。巣が壊れたらまたつくる。卵が失われればまた産む。カイツブリが合理的に生きる姿勢を私はよく知っている。
元来、生き物が命をつないでいくこと、あるいは命をつないでいくことに失敗すること、そんなところにドラマなどはないのだろう。それはきっと人間が商業のなかで大きくふくらませすぎた幻想だ。私たちは、生きていくなかで起きる喪失に必ずしも打ちのめされなくてもよい。無力感を感じなくてもよい。やりなおすこと、もう一度失うことに怯える必要はない。
それがこの16日間のカイツブリの観察で私が学んだことだった。私たちはきっと、本当は、そんなに泣かなくてもよいのだ。
だから私は、3つの卵が孵らなかったことを悲しむのをやめ、車に乗り、いつものように会社へ向かった。

ニュースで見るカモの親子ってマジでめっっちゃかわいくない?? 俺も見たいので生まれるまでを観察してみました!!
おわり

藤原 仁
加味條
電気バチ
めいと
彩雲
うらみち







