しおりながあいだ、このせま病室へやにいた。

しろ部屋へやには、きらきらとした透明とうめい花瓶かびんかざられていて、

そこにしてあるしろはなはとてもきれいだったが、

そのはな名前なまえなんだったかはようとしておもせなかった。

 

あるときから、記憶きおく曖昧あいまいなのだ。

 

すうげつほどまえわたしなかかったいもうとあかりうしなった。

交通事故こうつうじこだった。

 

おおくの記憶きおくしろもやのようになったいまでも、

そのときの情景じょうけいだけは、

へばりついたようによくおぼえている。

 

よく、事故じこ災害さいがい命辛々いのちからがらびたひとがそううように、

そのときのことを、わたし第三者的だいさんしゃてき視点してん記憶きおくしていた。

 

大型車両トラック眼前がんぜんせまなか

切羽せっぱまったようにつぶるその表情ひょうじょうを、

何故なぜわたし鮮明せんめいおぼえていた。

 

つぎけば、わたし病床ベッドかされていて。

全身麻酔ぜんしんますいからの覚醒かくせい

特有とくゆう白昼夢はくちゅうむのような酩酊めいていなかで、

神妙しんみょうかおをした医師いしは、彼女あかりげた。

 

第一声だいいっせいげることなのかと当時とうじわたしおもったが、

はやつたえなければかえってこくだとおもったのだろう。

 

突然とつぜんのことに混乱こんらんしていた両親りょうしんおもんぱかり、

医師いしがわ無神経むしんけいきらわれやく

ってることになったのかもしれない。

 

あかりには、結婚けっこんする予定よていだった恋人こいびとがいた。

予定よていといっても、式場しきじょう指環ゆびわさえていた、

というわけではなく、それを前提ぜんていとした

そこそこながいをしていた、くらいの意味いみだ。

 

その男性だんせいとは、事故じこまえ

わたしったことがある。

たしか、優也ゆうやさんとったか。

物静ものしずかで真面目まじめそうな、とてもひとだった。

 

病室びょうしつらすようになってからは、

一度いちどっていないが。

まあそれは当然とうぜんだろう。

彼女あかりのことをよくっていたひと

どんなかおえばいいのか、わたし自身じしんからない。

 

両親りょうしんだってそうだ。

あかりは、とわたしはなしだすたびに、

二人ふたり口数くちかずらし、かなしげな表情ひょうじょうかべていた。

 

わたしだけが一命いちめいめたという事実じじつを、

どうあつかえばいいのか。

わたしふくめ、みんながただ混乱こんらんしていたのだとおもう。

 

そして、わたしだけは一命いちめいめたものの、

わたし身体からだ、そして言語げんご記憶きおくつかさど一部機能いちぶきのうには、

やや重篤じゅうとく影響えいきょうのこっていた。

 

身体からだなんげつおもうようにうごかなかったことも

それなりに大変たいへんではあったが、

そちらは比較ひかくてきわかかったこともあり、

存外ぞんがい好調こうちょう恢復かいふくしていった。

 

問題もんだい言語げんご記憶きおくのほうだ。

なんえばいいのだろう。

医師いしではないので明確めいかくにはからないが、

自分じぶん自身じしん感覚かんかくとしては、失読症ディスレクシアちかかった。

 

単純たんじゅん記憶きおく能力のうりょくいちじるしくちていることもだが、

それにともなって、記憶きおく言語げんごひもづけが、

極端きょくたんうすめられていくようなかんじがある。

 

あたまなか言葉ことばを「おもう」ことはできるのだが、

それを一般的いっぱんてきただしさで「む」「く」ことが、

むずかしくなってしまった。

 

「これは、茉莉というはななんだよ。

あなたみたいに、綺麗きれい可愛かわいはな

 

いつだったか、病室びょうしつ花瓶かびんながら、はははそうった。

わたしは、ははが「なんったか」はおぼえているのだが、

具体的ぐたいてきに「どんな意味いみ言葉ことばだったか」は、

うまくおもいだせないのである。

 

それは、漢字かんじみがからない感覚かんかくていた。

 

茉莉」という単語たんごおぼえている。

前後ぜんご関係かんけい字面じづらから、それがなんらかの「はな」だ、

ということも当然とうぜんかる。

 

しかし、それを具体的ぐたいてきなんむかはからない。

 

だから、そのしろ花瓶かびんしてあるはな名前なまえを、

くちすことはできなくなる。

 

仮名がな」をおしえられても、

おしえられたそばからわすれてしまう。

 

そういう感覚かんかくだ。

 

ひとは、あらゆる事物じぶつを、言葉ことばかいして記憶きおくする。

めない」景色けしきは、おぼえていないのとおなじだ。

だからわたしは、あらゆる景色けしきわすれてしまった。

 

向日葵あれ紫陽花あれ躑躅あれ雛罌粟あれも、

わたしにはただの「はな」としか認識にんしきできなかった。

 

めた当初とうしょは、あかり写真しゃしんふくめたアルバムが

病室びょうしつ抽斗ひきだしはいっていたのだが、

それもいつからか両親りょうしんによって撤去てっきょされていた。

 

わたしが、そこにうつっている祖父だれか祖母だれか記憶きおく

くしていることが、つらかったのだろう。

 

あるときのことだ。

しろちょうが、まどから病室びょうしつはいってきたことがあった。

 

そこは階数かいすう比較的ひかくてきたかく、

まどせまくしかひらかないのに、

めずらしいものだ、とわたしおもった。

 

しばらくその姿すがたながめていたのだが、

病室びょうしつ様子ようす看護師かんごしさんが、

それをて「あ」とこえげた。

 

「ごめんなさい、がいるみたい。すぐにつかまえます」

 

そこにいたってわたしは、

まどからやってきたのがであり、

自分じぶんちょう区別くべつもできなくなっていることにづいた。

 

看護師かんごしさんはそれをどうにかつかまえようと苦闘くとうし、

その拍子ひょうしほうきでぐしゃりとつぶしてしまった。

 

「──あ」

 

ひどくもうわけなさそうな表情ひょうじょうで、看護師かんごしさんはこえげる。

一瞬いっしゅんそれを芥箱ごみばこてようとして、

しかしそれがもうわけなくなったのだろう。

 

「ごめんね」

 

看護師かんごしさんはしただれもいないことを確認かくにんすると、

せまひらいたまどから、

触角しょっかくれてうごかなくなったを、

ゆっくりととしていった。

 

乳白色にゅうはくしょくはね病室びょうしつまどはなれ、

覚束おぼつかない速度そくどでひらひらとえていく。

 

すうセンチしかかないまどこうへ、

おだやかに屍体したいすべらせるその姿すがたて。

 

わりたい、とわたしつよおもった。

 

そら悠然ゆうぜんまわる、

しばしの自由じゆう引換ひきかえに、

なに理解りかいできないまま、

その一瞬いっしゅんねるなら。

 

ただゆっくりとちるのを、

自覚じかくするよりずっといい。

 

理不尽りふじんころされたむし身勝手みがって自己じこ投影とうえいし、

わたしひど利己的りこてき諦観ていかんおぼえていた。

 

少しずつ健康けんこうになっていくわたし身体からだと、

反比例はんぴれいするように、

わたし記憶きおくは、すこしずつむしばまれていった。

 

はな動物どうぶつの「かた」すらもからず、

あたまかんがえていることとくち言葉ことば整合性せいごうせいがつかず、

かんじたことをつたえるのにも一苦労ひとくろうだった。

 

ちょう見間違みまちがえるなど、

もはや問題もんだいにもならなかった。

 

ちちはは名前なまえも、

もうスムーズにはてこない。

 

どこかにったアルバムは、

たいとおもうことすらなくなり、

ひまつぶしにってもらったほんは、

少しずつほこりかぶっていった。

 

誤読ごどくばかりのわたし世界せかいで、

もはやたしかなのは言語げんごかいさない情報じょうほうだけで。

 

名前なまえはよくからないけどきれいなはな

び方は知らないけどうつくしい交響曲おと

そういうものがえていった。

 

たか教養きょうようがあるほど、

うつくしい言葉ことばを知っているほど、

言語化げんごか上手うまければ上手うまいほど、

世界せかい解像度かいぞうどがるとみんながよくっていた。

 

かれらからすれば、わたし構成こうせいする世界せかいは、

腹立はらだたしいほど低解像度ていかいぞうどで、

うつくしい日本語にほんごろくらない、

愚昧ぐまい人間にんげんのそれなのだろう。

 

ただ、それをかんじているわたしにとっては、

その世界せかいひとしくうつくしいものだった。

 

診察しんさつわった、ある休日きゅうじつ病室びょうしつ

両親りょうしんってもらった、

綺麗きれい西洋絵画かれた画集ほんを、

ひとりでんでいると。

 

からから、と病室びょうしつとびらいた。

わたし病室へや個室こしつだから、

看護師かんごしさんか身内みうちしか来訪者らいほうしゃはいない。

 

なんだろう、ととびらさきると。

おもなやんだ表情ひょうじょうで、

ひとりの男性だんせいっていた。

 

「あ──」

 

だれだっけ。あかり婚約者こんやくしゃだった、そう、優也ゆうやさんだ。

いつぶりだろう。わたしはその表情ひょうじょうを、

ひどくなつかしくかんじた。

 

随分ずいぶんやつれている。

 

彼女かのじょ突然とつぜんくしたのだから当然とうぜんだが、

なら猶更なおさらわたしのところにいのだろうか。

ただ、傷口きずぐちひらくだけではないか。

 

ながかおせていなくて、ごめんなさい」

「い、いえ」

 

いた言葉ことばのひとつもおもいつかず、

わたし眼前がんぜんあらわれたそのひとをただ注視ちゅうししていた。

 

かれは、なにかを決心けっしんしたようにとびらめ、

わたしのもとにゆっくりとあゆると。

ひどく重苦おもくるしい口調くちょうでこうった。

 

「もう一度いちどやりなおそう、あかりさん」

 

え?

あかりさんとは、いもうとのことか。

いや、わたししおりで、

あかりはつい半年前はんとしまえに、交通事故こうつうじこで。

 

「あの──なにってるんですか。わたししおりです。あかりはもう」

 

「──つらいのはかる。自分じぶんだけのこってしまって、そんな現実げんじつえられないのは当然とうぜんだ。だけど、いつかはそれを」

 

「あの、だからなにを」

 

わたし突然とつぜんのことに困惑こんわくし、

ナースコールをそうとした。

しかし、かれ有無うむわさぬ視線しせん気圧けおされ、

そのうごくことができなかった。

 

無言むごんかたまっているわたしに、かれ滔々とうとうかたりかける。

約半年間やくはんとしかんだれもずっとえなかったことを、

ただひたすらにすように。

きらわれやくとしていもうとげた、

あの無神経むしんけい医者いしゃのように。

 

「あのしおりさんは、信号無視しんごうむしのトラックから、あなたをかばってくなった」

「──ちがう」

あねであるしおりさんとなかかったあなたは、それをひどくんだ。そんな現実げんじつえられるはずがなかった。 だから、事故じこ影響えいきょううすれていくさまざまな記憶きおくじょうじて、かつての自分じぶん記憶きおく封印ふういんした」

 

「そんなわけない、わたしは」

「あなたをかばって彼女かのじょくなった。そんな現実げんじつへの防衛機制ぼうえいきせいとして、あなたはあなた自身じしん殺害さつがいした。まるで自分じぶんほうがそうなるべきだったとでもうように。あなたは『あかり』としての自分じぶんころし、しおり』のことを『わたし』だと誤読ごどくした。一瞬いっしゅんにしてあっけなくんでしまったあねに、どこかで『わりたい』とおもったのかもしれない」

 

ちがう。ちがう」

「あなたはあかりうしなったしおりではない。むしろ、まるきりぎゃくだ。あなたはしおりうしなったあかりだ」

 

このひとなにっているのだろう。

 

「泣き腫らしたご両親から『それ』を聞いたとき、僕は病室にも行けず、何か月も思い悩んだ。病室にあったアルバムも、あなたが『矛盾』に気付かないようにと、ご両親はとっくに隠してしまったらしい」

 

なにっているのかからない。

むずかしい漢字かんじばかりで。

文字もじめない。

こえない。

きこえない。

 

「僕が、亡くなった栞さんと 婚約していたことになってると、ご両親から伝え聞いた。最初、僕はもうそれでもいいと思っていた。君が僕を、そして君自身を封印して、幸せに生きていけるなら──それでもいい、と思っていたけれど」

 

しおりふたたび、あのときのことをおもしていた。

第三者だいさんしゃ視点してんでの、鮮明せんめい記憶きおく

大型車両トラック眼前がんぜんせまなか

切羽せっぱまったようにつぶ彼女わたし表情ひょうじょう

切羽せっぱまって、咄嗟とっさ決心けっしんしたように、  わたしに覆い被さった あのこのこと。

「でも、僕は『あなた』と一緒に生きたいんだ。 記憶が無くなっていてもいい。僕のことをれてしまってもいい。いや、とっくに僕のことなんて、れてしまっているんだろう。それでも、もう一度──」

てって」

わたしは、自分じぶんでも吃驚びっくりするほどおおきなこえさけんだ。

 

てって」

 

みみふさいで、何度なんど何度なんどもそうった。

かれたいしての言葉ことば、だけではなかったと思う。

 

わたし侵食しんしょくしようとする、 「ただしくない」記憶よみがなに対して。

わたしはそれをはらうように、 半狂乱はんきょうらんさけつづけた。

 

 

 

ふと。

つぎいたら、

わたしはベッドのうえほうけていた。

 

しずかだ。

病室びょうしつにはだれもいなかった。

 

花瓶かびんはなはすっかりれ、

しろ花弁はなびらうすかたかわいていた。

 

あれから、 ひどなが時間じかんぎたようにもおもえたし、

一瞬いっしゅんだけ居眠いねむりをしただけのようにもおもえた。

 

まどのそとははるのようこうち、

きらきらとやわらかにひかっている。

 

ながいじかんがたって、

わたしのせかいに、

ただしいことばは、

ただしいけしきは、

すっかりなくなってしまった

 

あるのは、ただ、

たくさんの誤読あやまりつづき、だけだ。

 

わたしは。

しずかに、そのしろいはなをてにとって。

すこしだけしかあかないおへやのまどをあけて、

かわききったそのはなを、ゆっくりと、くだいていった。

 

ぱきぱきとわれたしろいはなのはへんが、

おだやかなかぜにながされて、

ゆびのすきまから、

すこしずつこぼれていく。

 

    ごめんね

 

だれもいないおへやのなかで、

どこからかふいたかぜが、

そんなこえにきこえた。

 

きがした。