しばらくの日が経った。夜の9時ごろ、強い酒を購入しにオザキがスーパーに向かっていたころ、向こうから自転車を引きながらあの娘がこちらに向かっていた。遠目に見やると、どうやら自転車のチェーンが外れてしまっており、乗って帰ることができない様子だった。いわゆる普通のママチャリだから、ちょっとした段差の衝撃か何かで外れてしまったのだろうか。

 

オザキは学生時代にホームセンターでアルバイトをしていた経験があり、週末に主婦で殺到する自転車修理コーナーを担当していた。日ごろのメンテナンスはおろか下手をすれば空気すらろくに入っていない状態で乗り続けるものだから損傷が激しく、手を油まみれにしながら簡単な修理や整備をしていたから、外れたチェーンを元に戻すぐらいは目をつぶっていてもできる。

 

つい、口がすべった。

 

「直してあげましょうか?」

 

まずい!オザキは頭の中がホワイトアウトした。12月の苗場になった。ロッジから豚汁の香りがただよってきた。脳と声帯の間に人工弁を縫合する手術を受けておくべきだった。保険は適用されるのだろうか。そもそも何科だろう。口腔外科?

 

今はそんなことはどうでもよくて、知らない女性に声をかけてしまった後悔が全身をくまなく包んでいるのだった。ボンタンアメのように。ボンタンアメ。子どもの頃から食べていない。あれ、アメ?しっとりしてるのにね。今はそんなことはどうでもよくて、逮捕。そう。逮捕されるのだ。タイーホともいう。声かけは刑事罰にあたり、たとえ初犯とはいえしばらくの拘留は免れないという。嫌だな。何が嫌かって、他人と過ごさねばならないことだ。

 

「何で入ってきたんだ?お前」

 

「はあ。声かけです」

 

「声かけ!?だせー。ださすぎ。おいみんな、こいついじめちゃおうぜ」

 

うるさいな。お前だって犯罪してるだろうが。ださいもくそもあるか。俺の声かけは、善意から来たんだ。いや、大元の元まで辿っていけば、下心?的な?ところもあるのかもしれないが。深淵まで行けばね。でも、純度百パーセント、混じり気のない善意なんか存在しないよ。情けは人の為ならず。あれは、人に情けをかけるのは、めぐりめぐって自分に利益が帰ってくるかもしれないから、人には優しくしておくのに越したことはないんだよ。って意味なんだ。ことわざですらエゴを肯定している。体幹ごと人に優しくできる人間なんか、俺に言わせればそっちのほうが危ない。ウラがあるに決まっている。

 

でも、俺が声をかけたのは、9割が善意だったはずだ。9割善意なら十分善意だ。そう判断して差し支えないだろう。差し支えないと言って下さいよ。頼むよ!しかし、たとえば、昔流行ったオレオレ詐欺。あれだって、詐欺をしている人間は「老人どもが金を握っていたってどうせ費わないんだから巻き上げて、代わりに費ってやって経済を回しているんだ。したがって、我々は正義。善意の下に詐欺行為を働いているのであります」と朗々と詭弁をのたまい自らを擁護する。根本の認知が歪んでいるのである。その理屈で言えば、この俺自身が「善意」と信じて疑わない概念でさえ、世間から「善意」と真っ直ぐにみなされる保証はないのである。もはや自分自身でさえ信用ならないじゃないか。どうしようかな。

 

「えっ、お願いしてもいいんですか?」

 

我に返った。

 

女性は、助かった、ほっとした。といった表情だ。オザキには、女性が自転車を直してもらえると「快く」受け入れたかのように思われた。今では日本国民の必需品となっている、バッグからチェーンでぶら下げられたワンタッチの通報ボタンに手を伸ばす様子もない。肯定感!久々に味わう感情だ。人は人から不必要、とされることがいちばん辛いのだ。チェーンをギアに噛ませ、ペダルを手回しし、テンションを確認する。手は油と泥で汚れたがもとよりたいして清潔でもないからいとわない。

 

「これで、いいと思います。これでいいと思います」

 

オザキは、もしかして俺は、同じ内容のことを2回言ったのか?2回言わなくてもよかったのではないか、2回言うことで逮捕されてしまうのではないか?なぜなら、気味が悪いから。と訝ったが心配はなかった。

 

「あのー。」

 

「はい?」

 

「いつも来ていただいているお客様ですよね。ありがとうございます。またよろしくお願いします」

 

「よろしくお願いします?あ、よろしくお願いしますって、そういうことか、どうも、こんばんは、気をつけてくださいね、どうも」

 

他人とのやりとりが久々すぎて、視線は女性の後ろの街灯のLEDの白色の周りを泳いでいるし、受付ロボの後頭部をぶん殴ったような不自然な日本語の羅列が口から流れ出てくるし涙が出そうであるが、振り向いて足早にその場を離れた。オザキは、アパートに戻るまでの暗がりを、なんだっけなんだっけ、なんだっけなんだっけと早口で呟いていた。晩飯のカップの味噌ラーメンで死ぬほどむせた。

 

 

 

 

翌日から、オザキは非常に悩ましく切実な問題を抱えていた。毎日のように利用していた喫茶店に通えなくなってしまった。下手に接点を持ってしまったがゆえに、遠くから視界の隅で捉えていられれば良かったのに、距離感がわからなくなってしまったのである。

 

目の前であの娘が警察を呼ぶ光景も目撃している。身を守るためにあらゆるリスクを排除すること、は当たり前の世の中であって、あの娘が特別に冷酷無比なわけではない。当然の権利を行使しているのにすぎない。目があって、数年単位で上がることのなかった口角が吊り上がるのと同時にパトカーの後部座席に乗せられているビジョンが目に浮かぶ。あの喫茶店に通えないとなるといよいよどうして時間の潰し方に困る。

 

家でパズルゲームをやってもいいのだが、多少なりとも鬱屈から解放される時間を割きたいのである。お前みたいな者が家でじっとしておくのと外をほっつき回るのと過ごし方に大差なんてなかろう。と思われるかもしれないが、同じ立場に立ってみれば存外に閉じこもりっぱなしなのはきついのだ。死へのカウントダウン、ぜんまい、振り子時計が音もなく刻まれる妄想に苛まれる。

 

オザキは下戸であった。つまり、四六時中、正気の「自分」と立ち向かい続ける人生を送ってきた。そんなオザキの精神の逃亡先が、ある日からくだんの喫茶店となっていた。外界の空気と触れている間は、多少なりとも背筋がのび、真っ当な人間である実感を得られたのである。家に帰ると、またまっさらな自分と対峙し続けなくてはならず、毛根がプチプチと音を立てて死んでいくのがわかる。1日24時間のうち、2時間の休息が失われた。新しい止まり木を探すほどのエナジーを持ち合わせてもおらず、あの自転車の一件以来、2025年のプロ野球選手名鑑を隅から隅まで読んだり、手の甲をコインが貫通するマジックの練習をしたりして日々を過ごしていた。

 

だけれども、まあ、あと10年弱ぐらいは生きるとして、健康でいられるのは半分として、部屋の中でセルフで軟禁されているのはなんとも救いがなさすぎるだろう。というか、ぼちぼちしたら死ぬんだし。と思った。人生の第3コーナーを周り、土煙を上げてゴールテープを切らなければならないところを、何を悠々と、綽々と広島カープの助っ人の来歴を暗記しているのだ。している場合か。

 

プロ野球も選手寿命がだいぶ延びて、50代の選手もいるし、最近、ようやく女性の選手も活躍の兆しがある。だが、脂の乗った若手たちがキャリアの頭から渡米をしてしまうのが当たり前になってしまっているから、単純にレベルが低くなってしまっている。オザキ含めてオールドプロ野球ファンの暗黙の了解なのであるが、表立って口に出そうものならしかるべき団体から袋叩きに合うため噤まざるを得ないのである。息苦しいが、息苦しいと意見を発することすら憚られるからもはや呼吸以外の方法で酸素を吸引している。みぞおちに強く力を込めることで「昔はよかったね」を飲み下している。

 

オザキのように、柔軟性・多様性を失い大動脈が硬化した老人が部屋に閉じこもり、孤独死、あるいは自ら命を絶つ、なんて事案はざらであった。むしろ、この間までへらへらしながら喫茶店に通い、かわいいお姉ちゃんが働いているじゃないか、なんて軽薄・浮薄な態度をわずかばかりでも日常で取れていたオザキが恵まれている方である。オザキは、2025年のプロ野球選手名鑑を閉じた。財布を持った。スマートフォンは持たなかった。絡んだ痰を切るために念入りに咳払いをした。ガスの支払い用紙を無視した。精一杯の勇気で無視した。脂汗が頭頂部を伝った。

 

 

 

 

〜声かけ被害情報(令和33年4月14日最新)〜

 

令和33年、4月14日午前10時ごろ、○○市××区△丁目のカフェチェーン店において、勤務中の20代の女性が

 

「もっと速い自転車に乗ってみないか。もっと速い自転車に乗ってみないか。」

 

と声を掛けられる事案が発生しました。

 

不審者は、60代ぐらいの男性、広島カープのキャップに、無地のTシャツ、ベージュのチノパンを着用していました。警報ブザーが鳴ると同時に逃亡、現在も近隣に潜伏しているものとみられます。皆様もくれぐれもお気をつけください。