新宿の地下にあるライブハウスは観客で一杯だった。客層は年齢、性別、職業含めて多種多様で、みんなどういう経緯でここにいるのかちっとも想像できなかった。

 

 ゆったりとした幅の厚い声で歌う男の子が演奏を終えると、次にふわりとした生成りのワンピースを着た女の子がピアノの前に立った。

「心地よい気分で今日を締めくくってもらえるよう、がんばります」

 彼女はそう言って深呼吸をし、ピアノの椅子に座った。客席からたくさんの歓声が飛んで彼女はアイドルのように手を振った。

 充分に心地よい気分だった僕はぬるくなったビールを飲み干した。折り重なる彼女の虜達をかき分けて出口に向かった。重たい防音扉を開けると、外の空気はひんやりとしていた。

 

 

 ワンピースのアイドルが最後の歌手だったらしく、会場に入るときチケットを切った女の子はもういなかった。エレベーターホールを抜け、地上につながる螺旋階段まで来ると、冷たい風がよく通った。通路の脇に置いてある、空になった生ビールのサーバーに腰掛けてタバコを吸っていると、ひとり、店から女の子が出てきた。

 彼女は僕の隣の隣にあった背の低いテーブルに腰掛けて、やめ、少し考えてから僕の隣にあるビールサーバーに腰を下ろした。

 彼女はその様子を見ていた僕の方を向き、「ちょっと、高かったね。あたしには」と言った。可愛らしい見た目とは裏腹なハスキーな声だった。出会ったばかりの彼女と僕が あはは と笑った。

 

 

 彼女は黒い踵の高いブーツで細身の濃い色のブルージーンズを履き、衿元にお花の刺繍があしらわれた白い上品なブラウスを着てダークブルーのジャケットを羽織っていた。

 僕は「さっきの男の子よかったね」と話しかけてみた。 彼女は「わたし、あの子達のファンなのよ」と答えた。 「さっきの女の子が最後っぽいよ」 僕が言うと 「ふうん」 と彼女は答えた。 「いいのよ。シャッターは下りたの」 僕らはとりとめのない話をはじめた。

 

 

「4月は会社で席替えがあるから緊張する」 といった話や、「あたし、お花がついてるお洋服を着てないとダメなの」といった話を彼女は熱心に聞かせてくれた。

「席替えは重要なの?」と、僕が聞くと、

「そうでもないかも。でも、席替えってなんだかわくわく緊張するもんじゃ無い?」と彼女が答えた。

そして「お花がついた服が好きなの?」と僕が聞くと、

「そうよ。だって仕事中に苛苛してもういやーってなったときによ?ワンピースの裾のあたりにお花があったらそれを見て、カワイイー!よーし、がんばろう って、できるじゃない?」と、彼女が答えた。

「こどもっぽい」 僕が言うと 「む!」 と、彼女はこちらをにらんだ。「あら、わたしあなたよりお姉さんなのよ。 こどもっぽくなんてないわ」 と、彼女がむくれた。 「そういうところが子どもっぽい」僕が言うと彼女は「そうかしら?」 と、わざとっぽく言った。 

少しの沈黙の後、「絶対幼くない」 そっぽを向いたまま小さく呟いた彼女を見て 「そういうところが」 と、こころの中で呟いた大人の僕は黙って彼女を見た。 

 

 すると彼女は何か思いついたように僕の顔を見てニヤリとし、すぐさま口元を隠した。がま口のポーチをあけ、ピンク色のガムを取り出した。

「いる?」 彼女が言い 「いる」 と、僕が言った。

 彼女は粒状のガムをひとつ取り出し、僕に渡すふりをして自分の口の中に放り込み、にっこりと笑ってからガムの細長いケースごと僕に手わたした。

 一粒ガムを取り出すと、「予備はいらないの?」と、彼女が言って、僕の手からケースを取り、僕の手のひらにもう一粒ガムをくれた。

「予備ってなに?」 僕が聞くと

「ガムをあげるときはね。予備にもうひとつあげるのよ。おとなでしょ?」 彼女が言った。

 ピンク色の小粒なガムと彼女の勝ち誇った笑顔を見比べ、「この二粒は桜の花びらと、あるいは彼女の小さな胸の先端を象徴しているなあ」などと酔った頭で考えて、そして僕は前者だけを彼女に伝えると彼女は「こどもっぽいねその発言」と言った。 

「こどもは桜色なんだ」 僕が言うと 「何の話?」 彼女が言った。

「おとなの話だよ」 僕は答えた。

 

 

 ライブが終わって人がぞろぞろと出てきたのでその流れに乗って僕らも帰ることにした。 大通りに向かって歩いていくと彼女が「こっちよ」と僕の手を取って脇の路地に引っ張った。

 その路地を歩くと左手には花園神社の桜が満開でライトアップされていて、右手には夜のゴールデン街が軒を連ねていた。

 初めて見るゴールデン街と酔っ払いを眺めていると「左」彼女は僕の手をひっぱった。 

 連れていかれた先には枯れかけたひときわ大きな桜の木があって、僕と彼女だけしかそこにはいなかった。

 少し先に見える神社の中は花見客がいて、僕らはそれを含めて、外からお花見をした。

「ねえ、きれいね」 彼女が言った。 彼女の顔は、もうこどもじゃなかった。一段高いところにいたせいか、僕とほとんど同じ目線で、涼しげに最後の桜を楽しんでいるように見えた。

 ぼんやりと、返事もしないまま彼女の顔を眺めていると、彼女は、ふっとこっちを見て、「またこんどこよう」と おとなの顔で僕にキスをした。

 僕は黙って彼女のほっそりとした腰に両手を回した。 彼女も何も言わず、僕の肩にあごを乗せて、そして目を閉じたように感じて、僕もまた目を閉じた。

「よしよし」 

 彼女は柔らかくて温かい赤ちゃんみたいな手で僕の頭を撫でた。 彼女の髪から幼い香りと大人の匂いがして、僕は彼女の頭越しに桜と、街のネオンを見て、そしてもう一度目をつぶった。 

「私の方がお姉さんってことで。それでいいですね?」

「それで、いいです。だから」

僕は強く彼女を抱きしめて、「参りました」と言わされた。

「ベルトがあたって痛いわよ」 

僕は身体の位置をずらしてもう一度キスをし、そして今度は優しく抱きしめた。

 

 

 

 

ちなみにベルトはしていなかった。