キャプテンとの出会いは僕が大学2年生だった頃までさかのぼり、ざっと10年来のつきあいということになる。その頃の僕は世に言う健全な大学生であって、毎日下北沢を遊び歩いていた。
蒸し暑い。-いつになく長く、雨のひとしずくから大きく感じる梅雨がいつまでも後を引いていた。久しぶりの東京出張は午後4時に終わった。ビルと駅の連絡通路では靴底がじっとりと湿り、タイルとの摩擦を溶かしたように、つるつると重い足を取られた。
取引先から逃げるように、早歩きで駅に向かう。蒸し器でスチームしたみたいにシャツが張り付ている。カバンをひっくり返して久しぶりのSUICAを探すと、人の流れに沿って改札を抜けてホームを歩く。発車間近の電車に走る人の流れを避けて、なるべく遠くまで歩く。手に持っていたスーツの上着を肩に掛け、袖をまくり、ネクタイを緩め、携帯を開く。電車は一本遅らせる。発車サインが鳴り終わるのを待って、お婆ちゃんの誕生日を4桁、ロックを解除して、電話帳をめくる。「キャプテン」に発信。大きな懐かしい声が聞こえてくる。「久しぶり!」電車が動き出し、声がかき消され、遅れてぬるい風が吹く。
仕込み中であることを知ってて軽口をたたく。
やってる?
「やってるよ!俺、いつもやってっから」
下北沢北口、線路脇の路地奥、ごちゃごちゃした闇市の名残を抜けると、そこに居酒屋「イイジマ」がある。キャプテンはこの店で昼頃から仕込みを始め、夕方から翌朝まで店を開ける。僕はいつも通り千代田線に揺られ、代々木上原で小田急線に乗り換える。昔住んでいた沿線は今も青くて銀色に見える。
5時前に店に着くと、まだ暖簾はしまってあった。やってないし。キャプテンは「よー」と、言ってニヤリとする。一瞬こっちに向けた視線をまた手元に戻し、真剣な眼差しで包丁を滑らせる。
「何飲む?ビール?」勝手知ったる僕は、いつものように上着をハンガーに掛けながら いいよー自分でやっから 「おー?」 冷蔵庫に冷やしてあるグラスを二本とる。冷えすぎていないビールグラスにきめ細かな泡のエビス生を並々と注ぎ、 どうぞ!お疲れさまでした! 「なーによ。俺も?」 いいじゃん。一杯飲んでよ。とりあえず。ここはとりあえず。 「ここウチの店だし、まだウチ始まってもねーし」 まあまあまあ。おわっとこ。一回おわっとこ。そんで一緒に始まりましょう。「しょうがねえなあ」
んじゃ
「「乾杯!!」」
開店前の準備を邪魔しながら、ビールを一杯飲ませながら(もちろん僕の会計にしっかり入れてもらう)、東京出張の締めが始まる。
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キャプテンとの出会いは僕が大学2年生だった頃までさかのぼり、ざっと10年来のつきあいということになる。その頃の僕は世に言う健全な大学生で、ありきたりなバイトとありきたりな飲み会の日々を謳歌しており、毎日毎日かわるがわる、いろんな友達、女の子、先輩、後輩、女の子と、遊び歩いていた。集まるのはいつも下北沢、それもチェーン居酒屋「ひるがお下北沢店」と決まっていた。
「ひるがお」の良いところは、「その頃の下北沢には珍しく、小ぎれいで落ち着いている」と「お酒と、刺身と、焼き物がおいしい」で、良くないところは「トイレにわざわざ小田急線と井の頭線両方の終電時刻が書いてある」と「五人いる店員が揃いも揃って、男前」ということだった。中でも一番の男前はその店の店長で、胸の名札には「キャプテン」と入っていた。
キャプテンは店にいるみんなに愛されていた。焼き場に蒸し場にと忙しく駆け回るキャプテンが「あちー」と言うと、他の店員が意地悪そうな顔で「こっそり一杯いっちゃいますか」とつつく。キャプテンは「えー?いいの?」と笑い、周りをぐるっと見回すと黙って生ビールを注ぎ、隠れて飲むかと思ったら、オーダーが入った時と同じかそれ以上の大きな声で「なぁまビールいただきます!!」で、イッキに飲み干す。
始終それを観ていたカウンターのお客から拍手と笑い声が起こる。そのうちの一人が「そんなのありなの?じゃあ俺おごっちゃうから飲んでよ!つうか一緒に飲もう!」 キャプテン「ラッキー!」 更に別の一人が「じゃあ俺は焼酎芋!一緒に飲む!」 キャプテン「お!ラッキー!」という具合に、その場で連続3杯「生、生、焼酎ストレートいただきましたぁ!」で、またまたイッキに飲み干す。その日初めてひるがおに来てなんとなく端から眺めていた僕らもおかしくて楽しくて、思わず4杯目の生ビールを大きな声で叫んでしまった。僕とキャプテンの長いつきあいがはじまった。
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そのうち僕は、「ひるがお」へ一人で飲みに行くようになった。二十歳そこそこの田舎者が一人でカウンターに座り「あーなんかスパゲッティ食べたい気分だわ」とか「漬物。炒りごまたっぷり」とか「ハムエッグ」とか言うと「いいよ!」と言ってメニューにないものをいとも簡単に作ってくれたりする。そしてこっちが注文したものに対して、必ずひとひねり、気を利かせてくれるのがキャプテンだった。たとえば「キャベツ生で!塩で食うから」と言うと「塩、ごま油と塩胡椒、七味マヨネーズ」の3パターンを小皿に分けてそれぞれさっと出す。こういうのがたまらない。
もちろん、そんな具合だからキャプテンは女の子にモテる。だけど、彼は格好つけるということをしないし、女の子たちの甘い言葉にも全然なびかない。ちゃんと彼氏や連れの男友達をたてるし、連れがいないときは隣の席の男の子を紹介する。ということは自然に男にもモテる。「そりゃモテるわ」「ずりぃわ」「飲んでほしいわ」と、嫉妬混じりに焼酎をグラスになみなみと注いでも平気でイッキに飲み干し、平然と仕事に戻る。こういうのもたまらない。
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そのキャプテンが今、独立して同じ下北沢に店を構えた。飲食店のひしめく、より雑多で繁華なエリアに「イイジマ」の暖簾を見つけたときは、胸が熱くなった。中はテーブル席が二つと、中央に大きな鉄板の焼き場、それをカウンターが囲むというシンプルな作りだった。やっぱりというか、いつも多くのお客さんで賑わっている。お客さん、キッチン、店員と、みんなの距離がとても近くて、隣で飲んでる人と知らない間に打ち解けしまう。料理やお酒がおいしいというのはもちろんだけれど、魅力的な人にはたくさんの人がついてくるもんだなと感心した。前の店ではわがままで作ってもらっていたハムエッグがレギュラーメニュー化していたのがなんとなく嬉しかった。
僕は大学を出て就職した。地方に勤めることになったので、昔みたいにしょっちゅう店に来ることはできなくなったけど、たまの東京出張ではこうしてキャプテンの店に来て、彼や他のお客さんと長い時間しゃべりながら閉店まで飲み明かすことにしていた。
その日はキャプテンとビールを一杯飲んだ後、18時、ふたりで「イイジマ」の暖簾を表に掲げた。
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開店してすぐにお店は一杯になった。僕は一番隅の席に座らせてもらい、刺身とホルモン焼きとナムルをあてに焼酎緑茶割りをずーっと飲んだ。キャプテンは延々忙しく料理やお酒を作った。次々と入れ替わるように隣の席に座る、知らない人や知っている人を眺めたり、話しかけたり、話しかけられたり、明太子と鮭ハラス焼きを追加したり、エビマヨととんぺい焼きを交換したりしながら、僕は延々同じものを飲んだ。キャプテンは汗をかき、いらっしゃい。と、おしぼりを渡し、注文を受け、作り、ありがとうございました。と帰って行くお客さんひとりひとりに声をかけた。
終電が終わって、店の中が落ち着いてきた。二人組の若い女の子たち、常連のおじさんとその連れのやけにかわいい子、テーブル席に知らない二人、そして僕だけになり、お店の中が少し静かになった。
キャプテンが急に僕をキッチンの中に呼んだ。これまで何度頼んでも「それはだめ」と言って断られ続けていたのに、何の前触れもなく、一番神聖な場所に入ることを許された。僕はネクタイの先を胸ポケットに突っ込み、腕まくりをして身体を点検し、落としたり引っかかったりするものが何も無いことを確認して、恐る恐る、そこに足を踏み入れた。
キッチンの中には日本酒、焼酎のボトル、冷蔵庫、七輪、包丁、漬け物やナムルの瓶が整然と並び、中央には毎日磨き上げているぴかぴかの鉄板が一層存在感を増しているように感じた。「この包丁さあ。12年くらいかなー。使ってて、3分の2くらいになっちゃってんだよ」料理の修行を始めた頃からずっと使っているという包丁は刃こぼれ一つなく、ぴかぴかに手入れされていた。「ちっさくなった」新品の包丁と並べて見せてくれたその相棒は、素人目にも美しく光り、白い切っ先を濡らしていた。「今日は特別に教えてやるよ」そう言って、おそらく包丁の次に大事にしている、この店のメインメニューを支える鉄板の前に立たせてくれた。
そこはカウンターから一段高く作ってあって、店の中を一望することができた。みんなが笑顔でお酒と食事を楽しんでいるのが目に飛び込んでくる。努力を重ね、自分の腕一本で店を持った人が見られる特別な景色なんだと思うと、嬉しいような誇らしいような不思議な気持ちになった。
キャプテンは僕にハムエッグの焼き方を教えてくれた。「たまごはそっと、置くように鉄板に乗せるんだ」僕も隣にそっとたまごを落とし、しばらく置き、蒸し焼きにするため水を足して蓋をした。言われたとおりやったハムエッグは、ここで食べる いつものおいしいやつ の味がして、なんだか泣けた。
それから僕はお願いして鉄板を磨かせてもらった。いつも「これおいしい」とか「彼女いるの?」とか言われながら「そう?」とか「今はいない」とか、真剣に仕事をしながら適当に返しているあの姿を真似てみたかったからだ。
鉄板を磨くという作業はカウンターから眺めてる印象とは全く違う、結構な力仕事だった。「それぜーんぜんだめ。もっと腰入れなくちゃ」キャプテンが腰に手を当てて言う。僕がいくらこすってみてもきれいにならない焦げ目もキャプテンがやるとすっきりと落ちた。「もっと姿勢を低く、こう!ね?やってみ?」僕はそれを見よう見まねで、キャプテンと並んで鉄板を磨いた。
隅から隅まで磨き上げると、二人とも肩で息をしながら、同じように汗を拭った。「なんだか兄弟みたいね」目の前のカウンターに座っている、やけにかわいい女の子が笑った。キャプテンが僕に目配せをして、僕はなんだか照れて、へんな引きつった笑い方で そうかな と、言った。
なんとなく、何かをつかみかけている気がした。無心で大切な道具を手入れする作業の中で、これまでもやもやと、仕事だったり、人生だったり、なんとなくこのままでいいのかな?とか、悩んでいたことが、すっきりと、わかりかけた気がした。
天井を見上げて、握っている金たわしと真っ赤になった手のひらを見て、キャプテンの方を見た。
「きづいた?」
たぶん
「すごくない?」
すごい
「もっかい一緒にやってみる?」
やってみる
僕はもう一度腰を落とし、力を込めた。
キャプテンが「しっかり見ろ」と言う。
僕は彼の目線を追う。
俺の景色に追いついてみろ。そう、言われているような気がした。
僕は腰を落とし、キャプテンの視線の先を見定める、そこにはやっぱり、さっき見た すっごい胸の谷間が見えた。
僕はもう一度キャプテンの顔を見る。彼が真剣な目で口を開く
「すごくない?」
僕とキャプテンの動きが加速しはじめた。
(すっごい…)