午前8時。
東京の気温は30℃をゆうに超え、遠慮のない湿度がTシャツと皮膚の間にびっしり張り付き、逃げ場はない。厚みのある透明な膜が熱をもって身体を覆っているようだった。
僕は自転車を降りて守衛のおじさんと
こんにちは
「暑いねえ。ご苦労様。いつまでいるんだっけ?」
土曜日までです
と、昨日と全く同じやりとりをし、正門をあけてもらい、研究棟の鍵を受け取った。
研究室に来ている職員はまだ誰もいなかった。窓を開け、扇風機を回し、今日中にやるべき実験項目をノートに書き出した。実験はかなり押していた。今週だけ、装置が空いている間にこの研究所で測定をすませて、来週には大学に戻ることになっていた。
東京郊外にあるこの研究所では、今の時期 夏休みをとっている人がほとんどで、今日出勤予定なのは研究室の秘書の女の子と、出向させてもらっている僕だけのようだった。僕は軽く拳を握り、白衣を羽織って別棟の実験室に向かった。菱形の日差しと蝉の声が雨のように降り注いでいた。
なるべく日が当たらないよう街路樹のそばの小路を歩いていると、秘書の女の子が自転車でこっちに来ているのが見えた。
「「おはようございます」」
ほぼ同時にあいさつをし、彼女はうふふと笑って自転車を降りた。
彼女は色白で長い髪をくるりと束ねて髪留めでとめ、前髪と細いセルフレームの眼鏡がよく似合っていた。いつもにこにこと誰にでも愛想がいいが、いつもブラウスにタイトスカートといったきちんとした服装で、仕事とプライベートはきっちり分けています。と、言わんばかりの彼女と僕は必要なこと以外喋ったことがなかった。
男女問わず、若手の事務職員から年配の研究員にいたるまでみんなに人気があったが、それは見た目が可愛らしいだけではなく、電話応対や事務処理が的確で、来客への気遣いも察しが良い、仕事のできる美人秘書として一目置かれている様子だった。
確かに仕事中の彼女は背筋がぴんと伸び、その表情は凛として隙がない。また、どういうわけだか、この研究所では女性事務員はみなエプロンをしており、そんな美人秘書がピンクのエプロンで隣に座っているだけで、直視するには眩しすぎて、妙な息苦しさを感じるほどだった。
実験棟に行ってきます
「あら、いってらっしゃい」
にやにやしているのバレないように、僕は下を向いてその場を離れた。
会うたびに任天堂DSを改造してやると勧めてくるおっさん技術者と、このクソ暑いのに編上げのブーツを履いた若いのに頭が薄いの職員と一緒に、ああでもないこうでもないとクーラーのない実験室でだらだらと汗をかきながら測定・分析をした。スペクトルの波形をいくつもいくつも目で追いながら、暑い暑い田舎の夏休み、電車に揺られながら、窓の外に照り返す、きらきらとした川面を眺めたのを思い出した。
そして、やれ、おっさんのロレックスが子どもの頃買ってもらった超合金かゴールドクロスみたいな色合いだ。とか、若ハゲはブーツの靴底をすり減らしすぎてソール全とっかえの必要がある。とか思っていると、前触れもなくポンッとデータが出た。
やったじゃん。やるじゃん。今日飲み行く?行っちゃう?でもDSはいいです みたいに3人でハイタッチして、僕はすぐさまデータ整理のため研究棟のデスクに向かった。
大きな雲がゆっくりと動き、ちょうど太陽を隠していた。坂の上から吹き下ろす風がひんやりと冷たく、心地良かった。コンクリートの斜面にやけに大きな、言わば学校のプールサイドにいるタイプの蟻が目についた。こんな大きな蟻、そう言えば久しく見てない。郊外だから?都会の蟻は小さいのかしら。なんかぷりぷりしてて噛んだら味がしそう。などと観察していると、
「わっ」
わ
「吃驚しました?」と、彼女が笑っていた。
吃驚、してません!
「してます。人はびっくりするとそういうふうになるんです」
僕の片膝を立てた不自然な低い姿勢を容赦なく指さしながら、彼女はきっぱりと言い放ち
「戻るとこですか?」
あー、まあ。はい
寝ていた人間が電話に出た瞬間「寝てない」と言い張ってしまう時のような咄嗟の嘘で、完全につかみ損ねた会話の切れ端を、遠く後悔しつつ、立ち上がり、彼女の少し後をとぼとぼと歩き出した。
「実験?うまくいきました?」
あ、あーまあ
普段、話しかけるんじゃないわよと言わんばかりのオーラで、ほとんど会話の(でき)なかったエプロン美女がなにやら親しげに声をかけてくれたことに面食らい、しどろもどろに、おそらく、かなり、いや絶対に興味がないはずの実験結果について早口にまくしたて、「へー」とか「すごーい」とかそういう返事をするしかない彼女にようやく気づき、再び しまった! と思った時
「あ、そっちから行きます?」
へ?こっちじゃないんですか?
「あ、知らないんだ。じゃあこっち行きましょう。きてきて」
と、少し狭い路地に入っていった。
なるほどこっちの方が日陰になっていて涼しいですね
「それだけじゃないんですよー」
大きな松の木が並ぶ路地の先にはこぢんまりとした池とその横に古びた車庫があって、停めてある車の下には3匹、猫の親子が暑そうに寝そべっているのが見えた。
おー。まだちっさい!
「ね。こっちのほうがいいんです。わたしはこっちです。猫、見る派です」
うん
またも言い切った彼女は満足そうに頷き、そして猫のほうに近づいて「にゃんにゃーん」と言った。
かわいい
この人、絶対性格悪いと思ったんだけどなあ。と、なんでもできる美人に対する反射的な畏れをいまだ棄てきれずに眺めていると
「白黒より色がついてる方が人懐こいって知ってますか?」
えー
彼女は嬉しそうにこっちを見て、なんだか本当に懐いている様子の仔猫と指先でじゃれあいながら「ほらほら」と言った。
それがひどく眩しくて、僕はごくりとのどを鳴らし、つい、目をそらしてしまった。
色がついてる仔猫の前で、膝を折りたたんで手をひらひらさせる無邪気な彼女が、金属を溶かしたように黒い水面に映った。風が吹き、大きな葉が落ちた。波紋がやけにゆっくりと、結晶のように隆起し、ついで、ぬめった鱗のようにしっとり位相をずらしていった。橙色の旗が遠くではためき、僕はつるりとしたごむ靴のつま先でとんとんと地面をけった。
「ほんとうですよ?」
?
「あっ!また聞いてない」
えー?
「大体、話しかけても ちっともこっち見て聞いてくれたことないじゃないですか。あたしいっつも…」
ち、違うんです。それは、ちーこさんがそのきれいで、お仕事中に僕なんかが、なんだかその
「ちゃんと目を見て話してください」
……はい
いつもそうだった、肝心なときに僕は逃げてきた。自信がなくて、勝手に遠慮して、自分のことばかりでいっぱいいっぱいになって、相手がどう思ってるのかなんて考えられず、結果上滑りして、こんな歳になるまで女の子と満足に話をしたこともなくて。
「今週末」彼女は仔猫の頭をなで、「…帰っちゃうんでしょ?」そしてこっちを見た。
僕は勇気をもって彼女のほうを見た。彼女の顔を、その少し潤んだ瞳を、でもやっぱり
色がついてる仔猫の前で、膝を折りたたんでこっちを見ている彼女が、金属を溶かしたように黒く、鏡のように反射する水面に映っているのが見えた。モニター越しに会話をしているみたいだった。どうして画面越しにしかコミュニケーションが取れなくなってしまっているんだろう。この目を引き剥がし、彼女を見なくてはならなかった。今がその時なのだ。でもどうしても
タイトスカートの深いスリットから太もものあたり、ストッキングの黒い濃い部分がしっかりと僕の眼鏡に映った。
僕は股間の異変に気付かれないように低い姿勢をとった。
今度食事にでも行きませんか
「どこ見てるんですか」