<登場人物>
エリコちゃん
人の話を聞いて相槌を打ったりビックリしたりするOL。
ミカ先輩
いきなりアップになって人をビックリさせるエリコちゃんの先輩。
チルドレン
未来を担う子供たち。無垢だがそれゆえ危うい。
シェアポテト
概して分けるほどの量はない、カゴに入ってるだけのポテト。
エリコちゃん、今回は読者の純真なる子どもたちからお便りが届いているよ!
連絡先がないのにどこ経由で来てるんですか?
うるさい
さすが人権エリート教育を受けてる子どもたちは意識が違いますね!
ありがとう、無垢なる子どもたち
確かに、偏見や差別発言をした人を周りが諭しても全く話が通じないことが多い…
倫理は時代とともに変化するもの…世代や育ちによって前提が共有できないと議論が平行線になることが多いわ。
いかん、そんなことでは真の平和は訪れん!
その声はまさか…!?
えーと…誰?????
わしはややこしい問題首突っ込むの好きすぎ博士じゃ
知らない人だった
傷つける=悪意?
偏見や差別はたしかに人を傷つける悪いこと…しかし必要以上の攻撃や人格批判を繰り返すとどうなる?
偏見や差別は生まれ持った悪人の人格破綻者のすることだから別に叩いていいでしょ
そう…「偏見や差別は極悪人がすること」という前提が広まれば人々が自分の言動を差別や偏見と認めることはますます難しくなる…
誰だって自分が悪者だなんて思いたくない。しかし偏見や差別問題が難しいのは「悪意のない人でも無意識にしてしまう」ことだからなんじゃ。
何が言いたいの?
例えば「誰かが傷つく発言の裏には必ず悪意がある」という前提ができたらどうなるか…
この前提は「自分が傷つけられた側」なら相手を断罪するのにこれほど都合のよいものはない。
しかし悪意のない発言に対して「悪意そのもの」を咎められても相手は答えられないんじゃ。
やさしさフラワーって何だよ
やさしさフラワー、それは人のやさしさを糧に咲く花…
では同じ前提で逆に「自分が傷つける側」に回った場合はどうか?
傷つくことと悪意がセットなら、悪意のない自分が人を傷つけるはずがない。
そう、「人を傷つけるのは悪意」という前提は、「悪意がないから傷つけてない」と開き直る理屈にもなってしまうんじゃ!
あ、確かに!
悪意さえ避ければ人を傷つけることも避けられる、というような簡単な話ではないものね。
すなわち、「人が人を傷つけるのは悪意なので絶対に避けられること」と考えている正義感の強い人のほうが「私はあなたを傷つけた」と認めるのが難しくなってしまうんじゃ。
自分が傷つけられるとうるさいのに他人を傷つけても頑として認めない人は多いわね。
普通の人が普通にしているだけでも誰かが傷つくことはある、という認識が必要なんですね。
では逆に、「傷つくことの裏に悪意があるとは限らない」と考えてみよう。
やさしさフラワーが咲き誇ってる…!
「傷つくこと」と「悪意」をセットで考えなければ、互いの価値観の違いを乗り越えて思いやることができる…
ただ傷つけた側を糾弾するのではなく、言い方や考え方を改めるチャンスが与えられるようになるんじゃ!
つまんねえな
へ?
つまらないって言ってるのよ!
君たちは…川越市のケンキチ君とユミちゃん?
さっきかから聞いてればさ…「相手に悪意がないかもしれないから断罪するな」だ?
そういう、被害者にばかり成長を求める姿勢がすでに古いって言ってんのよ!
違う…!ワシが言いたいのは、人は傷つける側と傷つけられる側にハッキリと分けられるものではなく…
ねえ、聞く耳持たないよ、この大人。
古い世代の価値観は”浄化”しないとね…。
ちょうどここにささくれ立った角材があるね
それを使って考えを改めてもらいましょう!
ギャヒー!(博士は死にました)
認めない人
偏見や差別に基づいた見方も必ずしも悪意が伴うわけではない…
となると、ますますそういう発言を避けることは難しくなりませんか?
そう…博士も言っていたけど差別や偏見は「悪意ない普通の人にも潜んでいる」から難しいの。
「自分も無意識にしているかもしれない」という意識と、そうなったときに認めることが大事なのよ。
これはあくまで架空の例だけど、ネットで無自覚に失言をして炎上した人は最後まで過失を認めないことが多い。
「全員がそうとは言ってない」って2000回は見ましたね。
「泥棒の99%は貧乏人なので貧乏人を僻地に隔離しましょう」なるほど、データは正しいかもしれない。
そもそも金持ちは盗まなくていいですからね。
でも、データがどうとかいう以前に「貧乏人は犯罪者候補」なんて言ったらかわいそうだよね。
「人が傷つくことを言うべきではない」というのは、ポリコレとかマナー以前の問題で、そこが共有できない時点で「互いに加害し合わないよう妥協点を探りましょう」という議論はできねえのよ。
「かわいそうなことはやめよう」ということですよね。
「偏見」というのは文字通り「見方」に出るもので、後でどう取り繕っても打ち消せないものなの。最後にこの例え話をしましょう。
黄色い四角・青い丸
この世界には顔が四角い人と丸い人、それからそれぞれ黄色い顔の人と青い顔の人で全部で4種類の人がいる。
ある日、青くて四角い顔の人が悪いことをした。たとえば泥棒にしようか。
とうもろこしを盗んでますね
じゃ、この出来事をフラットな目で見られるのは誰か?
青い丸顔は「四角顔が悪さした」と考える。
黄色い四角顔は「青い顔が悪さした」と考える。
黄色い丸顔は「青い顔も四角い顔も悪い奴だらけ」と考える。
青い四角顔だけが「泥棒した悪い奴がいる」と考えられる。
自分と違う集団で括ってしまうのが偏見ということ?
ここのキモは、泥棒を「四角い奴が泥棒した」「青い奴が泥棒した」と認識している、その時点でもう偏った見方をしているということね。
相手をどう捉えているかで自分の所属がわかってしまいますね!
だから、「四角顔には気をつけたほうがいいかもしれない」と言ったあとに「四角顔が全員泥棒だとは言ってません」と取り繕っても遅いの。
泥棒を「四角顔」と認識している時点で、無意識に偏った見方をしていることがばれてしまうからね。
これは言ってみるまで自分でも気付かないかもしれませんね…
でも、そういう見方をしてしまったら即悪者だとか、人格破綻者だとかそういう話じゃない。
時代に合わせて倫理が変化していくように、人の倫理観も経験を経てアップデートしていくものなの。
断罪しているだけでは世の中は良くならないんですね。為になりました。
思えば私たち、異分子を糾弾する立場に驕り、自分が傷つける立場にもなり得る事実から目を背けていたのかもしれない…。
あの博士が伝えたかったのはそのことだったのかもしれないわね…。
ありがとう、なんとか博士…。
(おわり)
次は…
お前だ…