人が叱られている様子を見るのが好きだ。
叱られて、大の大人が体をキュッと縮めているのを安全圏からぬくぬくと見守る喜び。それでいて、いつ自分に火の粉が降りかかってくるか分からないというスリル。
最高のエンターテイメントと言える。
素直になれよ。この趣味を持つものは僕だけじゃないだろう。ディズニーランドでアトラクションとして出したら、きっと大ウケ間違いなし。
キャストのお姉さんに案内されてトロッコが向かった先にそれは見える。
ホワイトボードに殴り書きした「責任」の二文字を平手でバンバン叩きながら、グーフィーを叱り飛ばすミッキーの姿が。
グーフィーが何か反論しようとするたびに、「いや、そういうことを言ってるんじゃないんだけど。ちゃんと俺が言ってること理解してる?いや、ハイじゃなくてさ」と隙を与えてくれないミッキー。あの声で。
拳を握りしめたまま、小刻みに震えるグーフィー。彼の目頭に溜まっていく大粒の涙。グーフィーの目頭ってどこだ。
僕らのクラブのリーダーには逆らえないのが世の常である。
ところで、「共感性羞恥」という言葉がある。
ドラマなどで登場人物が叱られたり失敗するシーンを観ると、彼らに共感し、胸が苦しくなり目を背けてしまう現象。
僕もそれだ。
そういった場面に差し掛かると、トイレに行くフリをしてこっそり居間から抜け出し、数分後に何食わぬ顔で戻る。それほど嫌なのだ。
名作と称されるドラマには大抵そんなシーンがふんだんに含まれているので、ちゃんと観れない。最後まで通して観たドラマなんて世界仰天ニュースのデブの再現ドラマくらいしかない。
すると不思議なのは、フィクションの中の出来事にはそうやって共感するのに、現実に起こる身近な出来事には平気でいられる事実。
先ほどのディズニーの例で言うと、僕自身も同じディズニーのキャラクター、せめてシュレックの触角ぐらいの立場に身を置かなければ、グーフィーに共感してしまい、彼が叱られている様子を素直に楽しめないだろう。
(後で調べたらシュレックに触角はなかった。しかもディズニーのキャラですらない)
なぜ虚構にしか共感できないのか? 身近な現実の事柄の方が、より共感できそうなものだが。
しばらく考え、ひとつの結論を導き出した。
度を過ぎて身近なことに対しては、共感する意味がないから予め脳がブロックしているのではないか。
なぜ共感する意味がないのか? それは、近い将来、僕も同じ目に遭うから。
ほら見えてきた、ホワイトボードの車輪をガロガロと響かせながら、僕のデスクへ近付いてくるあの姿が……。