18年前、あるテレビ番組が放送された。

タイトルは「未解決事件を追って~瀬村家事件の謎~」

住宅街で起きた殺人事件の謎を追う、5分間のドキュメンタリーだ。
その中に、不可解な映像が映っていたという。
はじまり
3月上旬。
テレビ局に勤める女性から連絡が届いた。
彼女の名前は士倉依織さん。

ドキュメンタリー専門のディレクターだという。
彼女が制作した番組の一覧を見ると、知っているものがあることに気づいた。

中でも、昨年放送されたこの番組は衝撃的だった。

恋人に薬物を強要されたにも関わらず、彼を守るために黙秘を貫いた元服役囚へのインタビュー。
士倉さんは丁寧、かつ的確な取材によって彼女の本音を少しずつ引き出していった。

絞り出すようなその一言が、今も耳に残っている。
そんな硬派な番組を作るディレクターがなぜ私に…?
と疑問を抱きつつ、誘われるまま放送局へ向かった。
テレビ局
入館証を受け取り、会議室に通される。
出迎えた士倉さんは、googleの写真とだいぶ印象が違う。
ぶかぶかのトレーナー、少し乱れた髪。
腫れぼったい目をこすりながら「徹夜で編集してたんです。最近は子供も夫に任せっぱなしで」と小さく笑う。
ビシッと決めた写真よりも、こちらが本来の姿のように感じた。裏方気質とでもいうべきか。
向かい合って座ると、彼女は身を乗り出して言った。
士倉:今日はお仕事を依頼するためにお呼びしました。雨穴さんに番組作りを手伝っていただきたいんです。
雨穴:番組って……テレビの?
士倉:はい。一回きりの深夜放送ですけど。
雨穴:だとしても、私にできることなんて……。
士倉:雨穴さんにしかできないことです。
雨穴:……何をすればいいんでしょう?
士倉:お願いしたいのは、とあるテレビ番組の考察です。
雨穴:テレビ番組の考察?
士倉:はい。雨穴さん、尾坂辺耕三という名前を聞いたことありますでしょうか?
雨穴:いえ、不勉強で。
士倉:知らなくても無理はありません。
―――士倉さんはノートパソコンを開き、画面をこちらに向けた。

士倉:尾坂辺耕三はこの局の元社員で、ドキュメンタリー専門のディレクター……私と同じ裏方です。
雨穴:もしかして、士倉さんの師匠ですか?
士倉:いえ…局内でお会いしたことは一度もなくて、画面越しに彼の番組を見ていた、というだけです。
でも、尾坂辺さんの番組を見なければ、私はこの仕事をしていなかったと思います。
雨穴:それはすごい影響ですね。
士倉:ええ。報道の本質…事実を事実のまま伝えることにこだわり続けたテレビ職人だと思っています。
ただ、彼が作った番組の中に、一つだけ不可解なものがあるんです。
雨穴:不可解な番組?
士倉:昔、月曜深夜0時半から「未解決事件を追って」というドキュメンタリーが流れていました。

士倉:謎の残る事件を尾坂辺さんが自ら調査・分析するというもので、5分間という短い枠ながら、毎回密度の濃い内容が放送されていました。
でも、今から18年前……2008年5月26日の放送をもって突如終了したんです。
最後の放送は「瀬村家事件」という、神奈川で起きた殺人事件を特集したものでした。
雨穴:それが、変だった……と?
士倉:はい。基本的には真面目なドキュメンタリーなんですが、一か所、不可解な映像が紛れ込んでるんです。
見てもらうのが早いと思いますので、こちらをご覧ください。
―――彼女はノートパソコンを操作し、動画を再生する。
▼動画を再生できない場合は、こちらをタップすると画像と文字で表示されます

(ピアノの音)

(ナレーション)
去年、閑静な住宅街でその事件は起きた。

(ナレーション)
神奈川県厚木市に住んでいた専業主婦・瀬村啓子 被告が、夫の義一 さんを刃物で刺し、死亡させた。
啓子被告は現在にいたるまで、動機を明らかにしていない。

(ナレーション)
夫婦仲は良好で、近隣住民からの評判も良かった二人。
いったい何があったのか。

(ナレーション)
事件から一年、静寂を取り戻した街に瀬村家の空き家は佇んでいる。

(ナレーション)
事件があった夜について、第一通報者でもある隣家の住民はこう語った。









(ナレーション)
通報を受け、警察が到着したとき、啓子被告はうつ伏せの義一さんに馬乗りになり、背中を料理用包丁で刺し続けていた。
血の海となった部屋のすみで、当時10歳の長女がその姿を呆然と見つめていたという。

(ナレーション)
義一さんは病院に搬送され、死亡が確認された。
彼の背中と首には、あわせて17におよぶ刺傷が残されていた。

(ナレーション)
夫婦喧嘩による突発的な犯行にしては、あまりに残忍な事件。
二人の間に何があったのか。

(ナレーション)
夫婦が結婚したのは1994年。
医療機器メーカーに勤める二人の、職場結婚だった。

(ナレーション)
3年後、啓子被告は出産を機に退職。
以降は専業主婦となる。

(ナレーション)
休日には家族で出かけることも多く、近隣住民は「夫婦が喧嘩をしている姿は見たことがない」と口をそろえる。

(ナレーション)
一見、順風満帆に見える夫婦生活だが、取材を重ねる中でその裏側が見えてきた。


(ナレーション)
義一さんが勤めていた、医療機器メーカーの元部下はこう語る。



(ナレーション)
しかし一方で、別の一面を見せることもあったという。











(ナレーション)
啓子被告は、義一さんのこの性格をどう受け止めていたのか。

(ナレーション)
啓子被告と仲の良かった知人女性に話を聞くことができた。








(ナレーション)
近年、経済力のバランスを背景に、夫が妻に精神的な負担を強いるケースが多数報告されている。
『男が稼ぎ、女が家を守る』そんな昭和の夫婦神話に覆い隠されてきた問題が、徐々に表面化してきているのかもしれない。

(ナレーション)
義一さんに長年強いられてきたストレスが、その夜破裂した。
そんな可能性は考えられないだろうか。

(ナレーション)
黙秘を続ける啓子被告には、懲役20年が求刑されている。
我々は取材を試みたが、実現に至っていない。

(ナレーション)
唯一現場に居合わせた長女は、父方の親戚に引き取られたが、事件当時に受けた精神的苦痛の影響もあり、返答を得ることはかなわなかった。

(ナレーション)
家庭という閉鎖空間で起きた惨事。
核家族化が進む今、決して他人事ではないのかもしれない。

(無音)

(無音)

(無音)

(ナレーション)
同じ悲劇が二度と繰り返されないことを願い、我々は今後も取材を続けていく。
(終)
―――5分間の映像が終わる。
士倉:いかがでしたか?
雨穴:内容は理解できました。つまり……

雨穴:夫瀬村義一さんは、今でいう「モラハラ夫」で……

雨穴:彼との生活に疲れた啓子さんが、ある日離婚を切り出したところ、口論になって悲劇が起きた……と。
士倉:「モラハラ」という言葉がそこまで浸透していなかった当時、これを放送することは価値があったと思います。ただ……
雨穴:あの部分、ですよね。
―――4分41秒から突然流れる、この映像。
窓をアップで映した11秒間。
音声もテロップも付いておらず、テレビ番組としては異色といえる。
雨穴:この窓、瀬村家でしょうか?
士倉:それが、なんとも言えないんです。

士倉:少なくとも、正面の窓ではありませんし……
―――士倉さんは編集ソフトを操作し、映像の明度を上げる。

士倉:何かが映りこんでいるわけでもなく、特定は困難です。
瀬村家もすでに取り壊されていますし。
雨穴:うーん……。
士倉:まあ、無関係の家を映すのはマナー違反ですし、素材としていろんな角度から撮影することはよくあるので、おそらくは瀬村家だと思いますけど。
問題はなぜこれを無音で11秒も映したか、です。
雨穴:「演出」ですかね?
士倉:そうは思えません。テレビにおける演出には、必ず意図があるからです。

士倉:たとえば、政治家の映像に極端なコントラストがかかっていたら「この人物は腹黒い」と、作り手が遠回しに伝えようとしていると分かります。
あえて批判的に言うと、演出は印象操作の道具なんです。

士倉:この11秒には、そういった意図を感じません。
雨穴:たしかに、印象操作って感じではないですよね。
でも、ならなんのために……?
士倉:考えられるのは、穴埋めです。
雨穴:穴埋め?
士倉:雨穴さんもご存じかとは思いますが、テレビは「尺」が絶対です。

士倉:「5分の番組を作れ」と言われたら、4分59秒でも5分1秒でもダメ。
ジャスト5分じゃないといけません。
でもときどき、尺が足りなくなるんです。

士倉:たとえば、出演しているタレントが逮捕されたとか、取材先からNGが出たとか……理由は色々ありますけど、番組のどこかが放送できなくなって、そこをカットしないといけないってことがよくあります。

士倉:そういうとき我々は、余っている映像素材を使ってなんとか空白を埋めるんです。
「差し替え」とも言いますけど。
雨穴:すると……

雨穴:尾坂辺さんは最初、5分ぴったりの映像を作ったけど、何らかの理由でその中の11秒をカットしなければいけなくなった。
そこで穴埋めとして、あの映像に差し替えた。
士倉:そう考えるのが自然です。
ただ、差し替えるにしてもどうしてあんな映像を使ったのか疑問で。
雨穴:本人に聞くことはできないんですか?
士倉:誰も、尾坂辺さんと連絡を取れないんです。
雨穴:え…?
士倉:この番組が放送された日に、突然辞表を出して退社されたそうです。
当時を知っている先輩局員によると「理由も言わずに俯くばかりだった」と。
以降、局とも断絶状態で、彼の消息は誰も知りません。
雨穴:もしかして、このドキュメンタリーに原因があるんでしょうか?
士倉:タイミング的に、その可能性は高いと思います。
―――「11秒」を差し替えた直後に姿を消した。すると気になるのは……
雨穴:「消された11秒」には何が映っていたんでしょう。
士倉:この前、保管庫を探したんですけど、編集前の映像は見つかりませんでした。
尾坂辺さんが破棄したのかもしれません。
雨穴:当時の関係者は?
士倉:何人かに聞きましたけど、誰も覚えてないそうです。
「未解決事件を追って」は尾坂辺さんのワンマン体制で、編集も彼一人でやっていたらしくて。
雨穴:手がかりはこの映像だけですか。気になりますね。
士倉:ますよね!!
―――士倉さんの表情がぱっと明るくなった。
士倉:それを、雨穴さんに調べていただきたいんです!費用はこちらで出しますので、自由に調査をして謎を明らかにしてください!経費の申請は……
雨穴:いや!ちょ、ちょっと待ってください!
―――まくしたてる彼女をなんとか制し、ずっと気になっていたことを質問した。
雨穴:…………士倉さんがやればいいのでは?
士倉:それが……無理なんです。
退社済みとはいえ、尾坂辺さんは局の人間ですから。私がやったら身内の調査になってしまいます。
それは社内規定に反するんです。
雨穴:会社って厳しいですね……。
士倉:でも「外部ゲストの持ち込み企画」ということにすれば、すり抜けられます。
雨穴:悪徳社員ですね……。
しかし、外部でいいならもっとふさわしい人がいると思うんですが。
士倉:いいえ、雨穴さんしかいません。
感情が乏しいからです。
雨穴:え?
士倉:「変な家」をはじめ、雨穴さんの書くドキュメンタリーを読んでいると、調査対象が犯罪者であれ、弱い子供であれ、少しも彼らに共感していないように感じます。
徹底して無責任な第三者なんです。報道には、そういう冷徹さが必要です。
雨穴:あまり褒められてる気がしないんですが……。
士倉:褒めてるつもりはありません。
ただ「向いている」というだけです。
雨穴:遠慮がない。
調査
―――帰宅後、映像をもう一度見返した。

全編通して硬派なドキュメンタリー。
その中で「窓の11秒」だけが異質だ。
真相は気になるが、手がかりが少なすぎる。
早くもお手上げ状態の私は、一人の知人に助けを求めることにした。
これまで毎回、記事に協力してくれた栗原さんだ。
今回も興味津々で食いついてくると思いきや、意外にも反応は冷たかった。
栗原:今回は一人でやってください。
雨穴:どうしてですか?
栗原:テレビだからです。
雨穴:テレビ、嫌いなんですか?
栗原:権力が嫌いなんです。見るぶんにはいいですけど関わるのは御免ですよ。
同じ理由で議員ともつるみません。
雨穴:議員が栗原さんを相手にするわけないでしょ。……でも今回は協力無し、か。
栗原:まあ、考え方のヒントくらいは差し上げます。
雨穴:よしきた。
栗原:士倉さんによると「謎の11秒」は穴埋めである可能性が高い、とのことでしたね。
おおむね同意ですが、やり方が下手すぎると思いませんか?
雨穴:下手?

栗原:この映像、素人目に見ても違和感ありありです。放送事故といってもいいでしょう。
尾坂辺ディレクターは熟練のテレビマンだったんですよね。なら、もっとマシな穴埋めができたはずだと思うんです。
雨穴:言われてみれば。
栗原:すると、次のような推測ができます。
尾坂辺さんには、時間がなかったのではないか。
雨穴:……つまり、直前になって急遽カットの必要に迫られたから、まともな編集をする余裕がなかった…?
栗原:であれば、カットのきっかけになった出来事が放送直前に起きたということです。
この番組、いつ流れたんでしたっけ?
雨穴:えーと……

雨穴:2008年5月26日の……

雨穴:0時30分……その少し前に何かがあった……?
栗原:あとは一人で頑張ってください。
―――電話を切る直前、栗原さんは「もう一つだけアドバイスがあります」と前置きして、こんなことを言った。
栗原:相手がテレビだからって日和っちゃダメですよ。
雨穴さんは「ネットの人」なんだから、ネットの流儀でやればいいんです。
―――よほどテレビが嫌いなのだろう。
2008年 5月26日 0時30分
―――その後、放送日付近に局内で何か大きな出来事はなかったか、士倉さんに確認した。
しかし、当時を知っている局員に聞いても、これといった情報は得られなかったという。
局内ではないとすると局外。
つまり、世間で起きた出来事が尾坂辺さんに影響を与えたのではないかと考え、ネットニュースを掘り返し、古新聞を読み漁った。
大きな事件や事故、タレントの逮捕などはなかったが、意外な所に手がかりが見つかった。

2008年5月26日のスポーツ新聞に、週刊誌の広告が掲載されている。

そこに「瀬村家事件」の文字を見つけたのだ。
あのドキュメンタリーが放送された日、週刊誌にも事件に関する記事が載ったということ。
こんな偶然があるだろうかと思ったが、少し考えれば単純な理屈だ。

かつて「みのもんた効果」という言葉があったように、テレビで取り上げられたものは話題になり、売れる。
だからスーパーの店員は、こまめに予告をチェックし、翌週特集される商品を多めに発注しておく。
おそらく、雑誌も同じなのだろう。
5月26日に瀬村家事件のドキュメンタリーが放送されると知った記者が、その日の号で事件を取り上げることで、便乗売上を狙ったのかもしれない。
ふと思う。
もしや尾坂辺さんは、これを読んだのではないか。
雑誌は発売日の午前0時に店頭に並び始めるからだ。

その日、編集を終えた尾坂辺さんは、夜食でも買おうとコンビニへ行った。
その際、週刊誌の表紙に「瀬村家事件」の文字を見つけ、気になって記事を読んだ。
そこに書かれていた「何らかの情報」に衝撃を受け、映像の一部……11秒をカットすることを決断した。

急いで局に戻り、0時30分の放送に間に合うように慌てて再編集をした……と考えれば、雑な穴埋めも説明が付く。
では、記事には何が書かれていたのか?
さっそく、古書通販で週刊誌を購入した。
傷
だが、届いたものを読んで、がっくりした。

記事は、事件の概要を紹介するだけのシンプルな内容で、期待していたような衝撃的な特ダネは書かれていなかった。
ただ、唯一気になったのは、記者が刑事から教えてもらったという刺傷の図だ。

傷の深さは、ドキュメンタリーでも触れられていなかった。
もしも、これが尾坂辺さんの心を動かしたのだとしたら……。
ひとまず図を書き写し、それぞれの傷を対応させてみる。

線を引きながら「なるほど」と思った。

肩甲骨や肋骨、あるいは背骨の付近は、傷がどれも浅い。
骨に邪魔されたのだろう。

逆に、腰の両脇など、骨が少ない部分は深く刺さっている。
この発見をノートに書き留めて、ため息をついた。
だから何だというのだ。
そもそも、仮に特ダネが載っていたとして、それが差し替えの原因になるとすれば……

こんなところだろう。
どちらも、退職するほどのショッキングな出来事とは思えない。
なぜ尾坂辺さんは差し替え後、姿を消したのか。
ここを解明しないかぎり、謎は解けない気がした。
本人の消息を知りたい。
居場所は分からずとも、せめて足跡を見つけたい。
だが……

退社以降の情報は、やはりどこにもない。
長年テレビを作っていたとはいえ、局をやめれば一般市民だ。無理もない。
途方に暮れていたとき、ふいに、栗原さんから言われた言葉を思い出した。

真意は分からないが、普段通りにやればいいという意味かもしれない。
「普段通り」……私は再びネットを開いた。

まず「尾坂辺耕三」と検索する。
出てくるのは、局にいた頃の情報のみ。
しかし“ネット”はここからだ。

「越 坂辺耕三」と打ち直す。
ネットに書き込むとき、人はたびたび文字を間違える。
大手メディアであれば誤字はすぐに修正されるが、個人の書き込みは人目に触れることが少ないので、間違いが指摘されず、そのまま残る場合が多い。
ゆえに、誤字でヒットする情報はローカル……リアルな証言である可能性が高い。
長年ネットをやってきた人間は、こういう細かい情報収集テクニックをいくつも持っている。流儀とも呼べない、言うなれば小技。
そんな小技をたよりに、各SNS、掲示板、動画サイトなどをしらみつぶしに探す。
目が乾き、痛みはじめてきた頃、ついに情報のひとかけらを掴んだ。
しかし同時に、それは絶望でもあった。

2023年、facebookの投稿。

尾坂辺さんは1945年生まれ。
2023年の時点で77歳。
早い、とはいえ不思議ではない。
最期
投稿者に連絡を取ったところ、亡くなったのは元ディレクターの尾坂辺耕三で間違いないと判明した。
尾坂辺さんは2008年から、息子夫婦の住む岩手県で路線バスの運転手に再就職したが、2022年に病気が見つかり、翌年亡くなったという。

職場でも飲みの席でも前職について語ることは一切なかったらしく、葬儀にもテレビ関係者は来ていなかったという。
彼は2008年を境に、完全にテレビを捨てたということだ。
それほど、あの11秒は重大なものだったのだろう。
幸いにも、投稿者経由で尾坂辺さんの長男と連絡を取ることができた。
後日、私は岩手へ飛んだ。
隠蔽
岩手県矢巾 町は、盛岡に隣接する開けた町だ。
尾坂辺さんが最後に暮らしたのは、住宅地のはずれに建つ、平屋の一戸建てだった。
長男・尾坂辺道茂さんは50代の高校教員で、公民を教えているという。
居間の仏壇には二枚の遺影……晩年の尾坂辺さんと、若い女性が写った古い写真が並んでいる。
「母です。私が一歳の頃にひき逃げされたそうで……」と道茂さんが教えてくれた。
ひき逃げ犯を特定したのは警察ではなく、当時、新人記者だった尾坂辺さんだったという。

彼の、ジャーナリストとしての原点が見えた気がした。線香を供えたあと、話を聞かせてもらった。
道茂:親父がどうしてテレビを捨てたか、私も詳しいことは知らないんです。
私が子供の頃、親父はいつも仕事のことを誇らしげに話していました。でも、ここへ来てからはさっぱり無口になってしまって。
雨穴:お葬式にも、テレビ関係者はいらっしゃらなかったんですよね。
道茂:親父が「呼ぶな」と言ったんです。病室で、息も絶え絶えなときに。
雨穴:そこまで……。
道茂:よほどの思いがあるんだろう、と。迷いましたが、意思を尊重しました。
雨穴:局をやめたとき、何か仰っていませんでしたか?
道茂:理由を尋ねると、吐き出すようにぽつりと言ったことは覚えています。
「最後に、隠蔽をやっちまった」って。
雨穴:隠蔽……ですか。
―――「最後」とは、まず間違いなく、瀬村家事件のドキュメンタリーだろう。
つまり11秒の差し替えは、何かを隠すためだったということか。
道茂:親父はずっと、テレビの不正を嫌悪していました。隠蔽なんて、その最たるものです。何があったんだと私が食い下がると、一言だけ。
「あの事件は、貧者の一灯だったんだ」と言ったんです。
雨穴:え……?
―――「貧者の一灯」は「貧しい者が灯した小さな光」を意味する仏教用語だ。

弱い者が懸命におこなった善行は、たとえそれが小さくとも価値がある、という教えが込められている。
しかし、瀬村家事件のどこに「貧者の一灯」の要素があるのだろう。
道茂:正直、そのタイミングでこの言葉が出てきたことに、違和感がありました。
「貧者の一灯」は親父にとって、何より大切な言葉だったからです。
現役の頃、よく「テレビは貧者の一灯であることを忘れちゃいけない」と、自戒のように言っていました。
雨穴:「テレビは貧者の一灯」……どういう意味なんでしょう?
道茂:私も完全に理解できているかは自信がありませんが……。
―――道茂さんは仏壇に目をやり、小さな咳払いをした。
貧者の一灯
道茂:私には祖父がいません。戦地から戻らなかったそうです。
親父は、女手一つで育てられたんです。昔の話をするとき、よく言っていました。
「日本の戦後は、暗かった」と。
生き残った日本人は、真っ暗闇の中に取り残された……そんな暗闇に、小さな光を灯したのがテレビだったそうです。
雨穴:テレビが小さな光……?
道茂:ええ。暗闇に沈んだ当時の日本にも、かすかな希望は隠れていて、それを皆に知らせるのがテレビの最初の役目だったんだ……って。
焼け跡の残る広場で遊ぶ子供たち、貧しい食材に工夫をして食事を楽しもうとする夫婦、二度と悲劇を起こすまいと、国会で弁をふるう政治家。
それぞれのテレビマンが、己の信念に従い「国民に見せるべき」と思ったものを、なけなし光で照らした。
その光が集まってできた巨大な幻影……それがテレビの正体なんだ、と。
雨穴:なるほど……。
道茂:「しかしいつからか、テレビは間違った」……50を越えた頃、親父はそんなことを口にするようになりました。
テレビは、貧者の一灯の集合体であることを忘れ、自らが巨大な一つの光……権力だと勘違いした。
雨穴:権力……
道茂:やらせ、いじめ、大柄な取材。
そして、誤報の末に無実の人を死に至らしめた元テレビ局員が映像の世界に復帰したとき、テレビは完全にブレーキを失った、と。
雨穴:しかし、そんな中でお父様は誠実な報道を貫いていたんですよね。
道茂:それが、親父の誇りだと思っていました。
なのにどうして隠蔽なんて。
―――尾坂辺さんが理想をねじ曲げてまで隠したかったものとは何なのか?
雨穴:道茂さん、お父様が最後に作られた番組の……映像素材はお持ちでないでしょうか?
道茂:たしか、遺品の中にテレビ関係のものがいくつかあったと思います。
―――道茂さんは奥座敷に案内してくれた。
押し入れを開け、茶箪笥を開くと、埃の匂いが鼻をつく。
抽斗には、古いカメラやテープが丁寧に仕舞われている。その中に、比較的新しいプラケースが混ざっている。USBがまとめてあるようだ。
2008年といえば、すでにUSBの時代だ。
道茂さんに許可をとり、ふたを開ける。
その中の一本に目が留まる。

―――2008/5/26……放送日の日付だ。
しかも、そこに書かれた文字は……
貧者の一刀

雨穴:貧者の一”刀”……?
道茂:たしかに「刀」は「とう」とも読みますけど、これは誤用ですね。
雨穴:書き間違い……ではないですよね。
道茂:「貧者の一灯」は親父にとって座右の銘ですから、間違うとは思えません。
雨穴:……失礼ですが、データを拝見してもよろしいでしょうか?
道茂:ええ、どうぞ。
―――私は手持ちのノートパソコンにUSBを刺した。
すると……

「瀬村家事件」の映像が2つ。
鼓動が高鳴る。

まずは(放送)と記された方を再生する。

何度も見た、あのドキュメンタリーだ。
「謎の11秒間」もしっかり入っている。実際に放送された映像ということだ。
するともう一つは……。

息をのみ、再生する。

ピアノの音とともに、タイトルバックでスタート。

そして語られる事件の概要。
ここまでは同じだ。
しかし。

近隣住民へのインタビューを見ているとき、異変を感じた。






こんな発言、あっただろうか。
本放送の映像と見比べると、その違いがはっきりした。

やはりそうだ。
差し替え前は本放送版よりインタビューが長い。
つまり、本放送では発言が一部カットされたということ。
もう一度、その箇所を再生する。
長さはちょうど11秒。
間違いない。
尾坂辺さんはこれを”隠蔽”した。

「いいじゃん」……そこにどんな意味が込められていたのだろうか。
(離婚してくれても)
いいじゃん
(そんなに怒らなくて)
いいじゃん
(私のことをもっと考えてくれても)
いいじゃん
分からないことはない。
だが、いずれも微妙に腑に落ちない。
そのとき、道茂さんがぽつりと言った。
道茂:「貧者の一”刀”」というのは、この事件で使われた包丁と関係しているんでしょうかね。
―――その瞬間、頭の片隅で何かがうごめいた。

ふいに、恐ろしい想像がよぎる。
まさか。
慌ててリュックから週刊誌を取り出す。

思わず声が漏れる。

まさか、そういうことだったのか。
これまで積み重なってきた違和感のかけらが、不気味な像を結びはじめた。
尾坂辺さんがインタビューをカットした理由。
士倉さんが私に調査を依頼した理由。
すべての謎は、たった一つの真相に繋がっていたのだ。
真相
3月中旬。
テレビ局の会議室で士倉さんと再会した。
心なしか、前回よりも表情が柔らかく見えた。徹夜明けではないからだろうか。
向かい合って座ると、彼女は「動画、ありがとうございます」と礼を言った。
道茂さんからコピーさせてもらった、差し替え前の映像を事前に共有していたのだ。
士倉:この映像、本当に、本物で間違いないんですね?
雨穴:ええ。ご子息がお持ちでしたので。
士倉:……そうなんですね
雨穴:すでにお気づきかと思いますが、差し替えられたのは住民のインタビューです。



雨穴:これを見たとき、疑問に思いました。
なぜ尾坂辺さんは、たったこれだけのことを「隠蔽」と感じたのか。
インタビューの一部をカットするのは、テレビや新聞……ネット記事でもよくあることです。

雨穴:視聴者が見やすいように素材を整理するのは「編集」であって「隠蔽」ではない。
ほとんどの場合、罪ではありません。
唯一、罪になるとしたら……カットした箇所に「事態をひっくり返すような重要な情報」が含まれていた場合。
たとえば、インタビュー中に犯人を指し示す情報が語られて、記者が犯人をかばうためにそこをカットした場合、これはジャーナリズムにおいては罪になるのではないかと思います。
士倉:仰るとおり、それは基本理念です。
もしかしたら、この11秒間にそんな情報が含まれているのではないか……そう考えて、証言を細かく検証しました。
その結果、不可解な点が見つかったんです。当夜の状況を整理しながら説明します。



雨穴:その夜、義一さんは啓子さんを激しく怒鳴りつけ、言い争いに発展した。
原因は離婚に関するもめごととされていますが、真相は定かではありません。
重要なのは……



雨穴:義一さんが「怒ったら何をするかわからない人」として周囲から恐れられていた、という事実。
啓子さんは、かなりの覚悟で応戦したはずです。
そして……





雨穴:啓子さんは言い争いの途中に「いいじゃん」と叫んだ。直後、人が倒れる音がして静寂が訪れた。
義一さんへの怒りが爆発して、叫びながら包丁を刺した……そんなイメージが浮かびます。
でも、よく考えるとおかしいんです。なぜなら……


雨穴:義一さんの遺体は、体のうしろにしか傷がなかったから。

雨穴:普通、言い合いをするとき、お互い向き合いますよね。
つまり事件当時、啓子さんは義一さんの正面に立っていたと考えるのが自然です。
一方、インタビューから察するに…

雨穴:啓子さんは言い争いの途中に刺したと考えられます。ここで疑問が浮かびます。
正面に立ちながら背中を刺す、なんてできるんでしょうか……?
普通は腹や胸を刺すはずです。

雨穴:しかも現場はリビング。
はじめから調理用包丁を持っていたとは考えづらい。
すると啓子さんは……

雨穴:言い争いの途中に……

雨穴:義一さんを無視して台所へ行き……

雨穴:包丁を取って、彼の後ろに回ったことになります。……おかしいですよね。義一さんが無抵抗に刺されるはずがありません。
であれば、こう考えたらどうでしょう。
義一さんは……

雨穴:別の誰かに刺された。
士倉:たしかに、それなら矛盾はありませんね。
それで……別の誰かとは?
雨穴:手がかりになるのが、ドキュメンタリー放送日に発売された週刊誌の記事です。

雨穴:記事には刺傷の箇所と、その深さを示す図が掲載されています。
記者は「何か所も」「深く」刺した残虐性を示したかったんだと思います。
でも、尾坂辺さんが着目したのは「角度」だったのではないでしょうか。

雨穴:ほとんどの刺傷がほぼ垂直であるのに対して……

雨穴:腰のあたりの一つだけが大きく斜めに描かれています。
これだけ他と種類が違う……そう考えた尾坂辺さんは、一つの可能性を思いついた。
「これが、最初の一撃だったのではないか」

雨穴:馬乗りで上から刺せば、入刀角度はおおむね垂直になります。
でも……

雨穴:立っている人を横から刺す場合、犯人と被害者の位置関係によって角度はブレる。

雨穴:義一さんは言い争いの途中、立った状態で下から刺されたことになります。
つまり、最初の一撃を加えた人物は……

雨穴:背が低かったのではないか。
士倉:……

雨穴:警察が到着したとき、現場には10歳の長女がいて、遠くから見つめていた……この情報だけだと、長女は無関係に思えます。
でも、警察が到着するまでに何があったかは誰も知らない…とも言えます。
こうは考えられないでしょうか。

雨穴:啓子さんと長女は、つねに義一さんのハラスメントに怯えていた。
ある夜、啓子さんは勇気を振り絞って離婚を切り出した。
義一さんは激怒した。啓子さんを激しく攻め立てた。
このとき、長女は思った。
「ママが殺される」

雨穴:長女は台所から包丁を取り出し、母を守るために父の背中を突き刺した。
このとき母は何を考えるか。
「娘を守る」……本能的な行動だったのかもしれません。

雨穴:包丁を奪い、指紋をぬぐい、夫の背中をめった刺しにした。
それは怒りの爆発などではなくカモフラージュ。


雨穴:娘の付けた傷を、自分の刺傷で覆い隠そうとしたのではないか。
部屋が血の海になるほど刺し続けたのは、娘についた返り血を誤魔化すためだったのではないか。
士倉:…………
雨穴:尾坂辺さんは近隣住民の証言を聞いた段階で「何かがおかしい」と感づいていたのかもしれません。
そして放送日に、記事を読んで確信した。

雨穴:この傷は、母を守るために弱い者が放った「貧者の一刀」だったのだ、と。
結果として彼は、加害者を守る決心をした。
―――「加害者を守るため、事実をもみ消す」……ジャーナリスト 尾坂辺耕三にとっては、許されざる行為だったはずだ。
しかし、年老いた一人の人間としての彼は、少女を裁くことができなかった。
彼はジャーナリスト……冷徹な第三者であることを捨てた。
士倉:……11秒をカットするだけで、長女の安全が守られると思いますか?
雨穴:少なくとも、11秒を見るまで私はこの考えにたどり着けませんでした。
裏を返せば、見れば私でもたどり着けたということです。マスコミや警察が見逃すはずがありません。
士倉:ご謙遜を。
雨穴:ところで、そうなると気になるのが長女の行方です。
いったい、彼女は今どんな気持ちで、どんな人生を送っているのか。
そう思って本放送を見返すと、ある箇所が気になりました。




雨穴:ちょっとだけ、言い回しに違和感がありませんか?
「取材することはかなわなかった」ではなく「返答を得ることはかなわなかった」
……質問したけど答えてくれなかったということではないかと。
士倉さん、この前、こう仰ってましたよね。

雨穴:つまり、局外では会ったことがあるってことですよね……?尾坂辺さんと、どこで会ったんですか?
士倉:……私が瀬村啓子の長女だ、と?
―――士倉さんは鋭い視線をこちらへ向けた。睨む、というより吟味するような目つきだ。
私はひるまないように力をこめ「はい」と答えた。
雨穴:最初から、色々と違和感はありました。
でも、決め手になったのは「いいじゃん」です。

雨穴:近隣住民の証言が正しければ、啓子さんは長女が義一さんを刺す直前に「いいじゃん」と叫んだことになります。
明らかに言葉のチョイスが変です。すると、こう考えるのが自然ではないでしょうか。
「いいじゃん」は聞き間違いで、啓子さんが叫んだのは別の言葉だった。
彼女の視点で、当時の状況をイメージしてみました。

雨穴:目の前で怒鳴る夫。その向こうに包丁を握った幼い娘。娘は刃先をこちらに向け、決死の表情で走ってくる。自分を守るために夫を刺すつもりだ。
そのとき、母は何を叫ぶか。
……名前ではないでしょうか。
啓子さんは「やめなさい!」の意味を込めて、とっさに娘の名前を叫んだ。
「いいじゃん」ではなく「いーちゃん」……あだ名です。
つまり、長女の名前は「い」から始まる。

雨穴:士倉依織さん。
結婚して苗字が変わる前は、瀬村依織さんだったのではないですか?
もし違うなら、戸籍謄本を見せていただければ謝罪します。
―――私は半分、賭けのような気持ちで、士倉さんに言葉を突き付けた。
もしも私が探偵だったら、犯人に言い負かされそうな穴だらけの推理。
しかし、これでいい。なぜなら……
士倉:……やっぱり、雨穴さんにお願いして正解でした。よくわかりましたね。
雨穴:士倉さんのおかげです。
士倉:え……?
雨穴:……思い返せば、最初からヒントをくれていたんですね。

雨穴:調査対象が犯罪者であれ弱い子供であれ
……あなたは最初から、私を利用して自分の罪を世間に知らせるつもりだったのではないですか?
13歳以下は法律で裁かれません。
しかも19年前の事件とあっては、今あなたが自首したところで警察は何もできない。
あなたは裁かれないかわりに、許される権利も失ってしまった。
一生、罪を背負うのが、辛くなったのでは?
―――士倉さんは、会議室の小さな窓に目をやり、都会の景色を眺めながら息を吐いた。
士倉:母は……いまだに黙秘を貫いているんです。そのせいで仮出所さえできずにいます。
―――そして、こちらに向きなおる。
士倉:雨穴さん、どうして母は黙っているんだと思います?
雨穴:え……うーん……
士倉:……私はずっと、母の沈黙を「愛」だと思っていました。
娘の罪を隠し通すために黙っているんだ、と。
でも、ある時期から疑問が芽生えました。本当に娘を守りたいのであれば「私がやりました」と嘘を吐くはずではないか、って。
雨穴:……たしかに、言われてみれば。
士倉:私はずっと、その理由を考え続けました。
答えらしきものが見つかったのは去年……息子を出産したときです。
産む前は、親になれば自然と愛情が湧いてくるのだろうと思っていました。
でも、逆でした。
愛情は、まず子供が親にくれるんです。
まだ不自由な体を必死に動かして、無垢に私を求めてくれる。……彼らは生き延びるためにそうするしかない。
子が親を愛するのは、きっと生存本能なんです。
親は、一身に愛を受けてはじめて「こんなに愛されているのだから、なんとしてでも返さなければ」と思う。
これは本能……とは言えないかもしれません。子供を愛せない親も少なくありませんから。
雨穴:…………
士倉:私が父を刺したのは、母を守るためでした。無償の愛……だったんだろうと思います。
母は、自らが罪をかぶるという形で、その愛に応えてくれた。
……私は勘違いしていました。
「自分が犠牲になることで子供が助かるなら親は幸せ」……そんなお涙頂戴な美談を、心のどこかで勝手に作ってしまっていたんです。
……でも、実際は違ったかもしれません。
あのとき母は、留置所で、拘置所で、裁判所で……待っていたのかもしれません。私が本当のことを話すのを。
「ママ、ありがとう」って言ってくれるのを。
―――そのとき私は、あの女性が語った言葉を思い出した。

雨穴:もしかして……

雨穴:士倉さんが「黙秘する人たち」を取材してきたのは、お母さんの気持ちを知るため……?
士倉:……そうかもしれません。それが何の解決にもならないと知りながら……逃げていたんだと思います。
でも、おかげで決心がつきました。これから、母と向き合います。
雨穴:それは……どういう?
士倉:私、三月で局をやめるんです。
雨穴:え!
士倉:息子が物心つく前に、過去の清算をしたいんです。ちょっと、遅すぎるかもしれませんけど。
雨穴:……ちなみに、この企画は?
士倉:信頼できる後輩がいるので、彼に託すつもりです。そのときは手伝ってあげてくださいね。
画面の上で、私をきれいに裁いてください。
雨穴:…………。
士倉:今回は、色々とお手間をかけました。
それでは。
―――士倉さんは立ち上がり、扉のほうへ歩き出す。私は慌てて声をかけた。
どうしても聞きたいことがあったからだ。
雨穴:あの……どうして自分でやらないんですか?
士倉:ですから……
雨穴:ここへ来るとき、案内してくれた局員さんに聞きました。

雨穴:そんな社内規定、存在しないそうですね。
士倉:……バレちゃいましたか。
雨穴:あなたは、優れたジャーナリストです。
私なんかが手伝うより、ご自分で番組を作ったほうが素晴らしい……いろんな意味で、伝説的な番組になるはずです。
士倉:ディレクターが自白する番組……ですか?
雨穴:はい。
士倉:たしかに、伝説になるでしょうね。
でも……私はやりません。
雨穴:え……?
士倉:ヒッチコックがこんな言葉を遺しています。
「観客は語り手に感情移入する。たとえその人物が罪を犯しても、その人物の立場に立ってしまう」
これは映画の話ですが、報道も同じです。
私が自分の主観で人生を語ったら、きっと視聴者の多くは私に肩入れしてしまう。
それは、中立ではありません。
雨穴:でも……
士倉:私はもう、映像の世界に戻るつもりはありませんから。
For Whom
―――四月になり、町は空気が入れ替わったような新鮮さを帯びていた。
しかし私は、正体不明の違和感に悩まされていた。
謎はすべて解けたはずだ。なのに、何かが腑に落ちない。
自分で解決したい気持ちはありつつも、糸口が見つからず、栗原さんに電話をかけた。ことの顛末はメールで伝えてあったが、直接話すのはあのとき以来だ。
もやもやを伝えると、待ってましたとばかりにこう言った。
栗原:雨穴さん、初歩的な見落としをしてますね。
雨穴:初歩的?
栗原:一番肝心なところを確認してないって意味です。
雨穴:いや……そんなことないと思いますけど。
栗原:差し替え前のドキュメンタリー、全部見ました?
雨穴:……いえ、途中までしか。
栗原:なぜです?
雨穴:だって…

雨穴:近隣住民のインタビューが11秒カットされて、かわりにあの11秒が追加されたわけだから……
栗原:そこが±0だからって、他も一緒とは限らないでしょ?
雨穴:待ってください……まさか
栗原:この前いただいた動画を確認したところ、変更された箇所は他にもありました。
雨穴:え!?
―――私は慌てて差し替え前の動画を再生した。

タイトルバック。

事件の概要。

近隣住民のインタビュー。
ここまでは確認済みだ。
そして……

同僚のインタビューが始まる。
そのとき、異変に気付く。
本放送版と何かが違う。

雨穴:ちょっと短い……?
栗原:はい。つまり、差し替えは二回行われたということです。
雨穴:二回?……窓の11秒が一回目で……えーと、頭が混乱してきた。
栗原:分かりやすく整理しましょう。

栗原:まず尾坂辺さんは、元の映像から近隣住民のインタビューを11秒カットし、かわりに窓のアップを11秒差し込んだ。
これが一つ目の差し替えです。
と、同時に彼は……

栗原:もともとあった何らかの映像をカットし、同僚のインタビューを引き延ばすことで穴埋めを行った。
雨穴:消された映像がもう一つあった……?
栗原:ご自分の目でどうぞ。
―――私は続きを再生する。

考察パートが終了した直後、それが流れはじめた。
その内容は、これまでのすべてをひっくり返すものだった。
▼動画を再生できない場合は、こちらをタップすると文字で表示されます

(ナレーション)
だが、事件当夜の状況を整理すると、疑問点が浮かび上がってくる。

(ナレーション)
近隣住民の証言では、義一さんは言い争いの途中で刺されたことが伺える。

(ナレーション)
しかし現場はリビングである。
啓子被告がはじめから包丁を手にしていた可能性は低い。

(ナレーション)
すると包丁を手渡した第三者、あるいは

(ナレーション)
義一さんの背中を刺した共犯者がいた、という説は成り立たないだろうか。

(ナレーション)
唯一現場に居合わせた長女は、現在、父方の親戚のもとで暮らしている。

(ナレーション)
その家を訪れたが、話を聞くことはかなわなかった。
雨穴:これ……明らかに……
栗原:気づいてますよね。
尾坂辺さん、週刊誌を見るまでもなく長女が犯人であることを見抜き、それを報じようとしていたんです。
雨穴:信じられない……。
栗原:同感ですが、事実です。
雨穴:だけど、ここまで核心的な映像を作っておきながら、結局は長女をかばうために没にしたってことですよね。
どんな心境の変化があったんでしょう?
栗原:おそらく、雑誌の記事と彼の生い立ちでしょうね。

栗原:彼にどんな苦労があったのかは知りませんが……

栗原:この刺傷を見て、理不尽のなか子供を守った啓子被告に、自分の母親を重ねてしまったのかもしれません。
その幻想を守るために、ジャーナリストしてのプライドを捨てた……そんなところでしょう。
雨穴:幻想って……。
栗原:ただ、ここで気になるのが11秒の映像です。

栗原:我々は当初「再編集する時間がなく、やむなく雑な穴埋めをしなければならなかった」と推理しました。でも、その考えは間違っていました。
なぜなら、番組後半においては違和感のない引き延ばし作業が行われているからです。
雨穴:たしかに、同僚のインタビューは自然でしたね。
栗原:つまり、尾坂辺さんには再編集する時間があったということ。
雨穴:あ……!
栗原:その気になれば、前半パートも自然な引き延ばしができたはずです。
雨穴:できたのに、しなかった。
栗原:この11秒は、何らかの目的で意図的に入れたと考えられます。
雨穴:意図的……つまり……

雨穴:演出……でも、瀬村家の窓をアップで映すことで、視聴者にどんな印象を与えようとしたんだろう……?
栗原:雨穴さん。この窓、瀬村家じゃありませんよ。
雨穴:え?
栗原:よく見てください。
差し替え前の映像にこの窓が映っています。
雨穴:映ってる……?
―――悪寒が走る。
窓が映っている映像といえば……

長女が移り住んだ親戚の家。
二階の窓を拡大する。


似ている。

遠い分ぼやけてはいるが、並べてみると「あの11秒」と同じ窓を映していることがわかる。
つまり……
雨穴:尾坂辺さんは「長女犯人説」に繋がる映像をすべて削除したあとで、長女が移り住んだ家の窓のアップを差し込んだ……もう、何が何だか。
栗原:当時番組を見ていた視聴者も、ちんぷんかんぷんだったでしょうね。
ただし、世界でたった一人、彼の意図を理解できた人間がいたはずです。
この家に住んでいて、なおかつ、事件の真相を知っていた人物。
雨穴:長女……?
栗原:ええ。この11秒は、彼女一人に向けたメッセージだったというわけです。
雨穴:そんな……
栗原:「貧者の一灯」……それが尾坂辺さんの理念だったわけですが、この事件は照らせないと判断した。代わりに彼は灯を刀に持ち替え、一人の少女を突き刺した。
「お前が犯人だと、俺は知ってるぞ」と。
雨穴:……尾坂辺さんがどういう人なのか、わからなくなってきました。
栗原:わからなくて当然ですよ。
ジャーナリストだって、しょせんは人間なんですから。
雨穴:…………
―――たしかにそうなのかもしれない。
人間の起こす事件の多くが非合理であるように、尾坂辺さんもまた自分の中の非合理に突き動かされ、あの映像を作ったのかもしれない。
そう考えると、いつか士倉さんが語った言葉が、妙に意味深に思えた。

作:雨穴
スペシャルサンクス
NHK
松田大樹
相ヶ瀬栄吾
上原全人
双葉社
渡辺拓滋
Ⓒ2026 BHB

雨穴








