ピザまんを食べたいと思われたくない。

 改めて文字にしてみると本当にどうしようもないが、私はピザまんを食べたいと思われたくない。ピザまんは食べたい。月に3回食べたい。週に3回でもいい。食べたい。しかし「ピザまんを月に3回食べたい」と思っていると思われたくない。

 ピザまんを食べているところを人に見られたくない。「あいつ、ピザまんを食べたいと思った挙句、ピザまんを購入し、あまつさえ食しているぜ」と思われたくない。 もちろん店員にもバレたくないので、なるべくピザまんを頼みたくない。

 肉まんなら平気である。全然平気。もし周囲に肉まんを恥じている人がいたら、自意識過剰なんじゃないの、怖、同窓会に呼ぶのやめよう、と思う。

 

「食に対して必死なのはみっともない」という印象が私の中にあり、おそらくこの美意識がピザまんと肉まんの分水嶺になっている。肉まんはガツガツしていないのである。「ああ、寒いしちょいと小腹も空いたな、御誂え向きにコンビニがあるし、ここはひとつ肉まんでも咀嚼して体を温めますか」という流れで、「なんとなく」購入するストーリーを簡単に思い描けるのだ。

 ピザまんは違う。なんとなくでは選べない。「ピザまんを買う」ということはつまり「あ〜、肉まん的なものを食べたいけど今は肉まんじゃないんだよなー、あんまんでもねーよな、あ、最近ピザ食ってねーな、ピザまん? ピザまんにしちゃう? ピザまんしかねーっしょ! 頑張っていきまっしょい」と熟考したも同然であり、そんな思考が他人にバレるのはダサい、と私は確信している。

 

 この考え方はピザまん以外のシチュエーションでも幅をきかせている。私は毎日同じような無地のシャツばかり着ているのだが、オシャレはピザまんだからだ。柄物を着ている人を見ると「ヘェ〜、その柄が気に入ったのだなあ、あなたという人間は」と思ってしまうし、自分はそんな風に他人に思われたくない。不必要にヒラヒラがついた服など、私にとってはエビチリまんである。

 同じ理由で、発売を楽しみにしていた漫画などもすぐには買わない。書店に入って(「仏教史」のコーナーなどを中心に)5分ほど物色し「お、アレの新刊、出てんじゃん」という偶然気付きました感を出してレジへ持っていく。一直線にレジへ持っていくことで「よっ。幕末の必死侍、1名さまご来店」と思われたくないのだ。

 

 そんな過程を経て購入した、ばらスィー先生4年ぶりの新刊。
 『苺ましまろ』8巻。

 面白かったです。

 

 

 

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