こんにちは、ペンギンです。

 

椅子置き場から失礼します。

外は雪ですね。

 

おや。

 

 

雪を見るのは初めてかい?

 

ごめんごめん。外を見てたんだよね。

 

今夜は冷えそうだなあ。

 

 

 

 

彼は、落ち込んでますね。

 

彼は、何か考え込んでますね。

 

彼は、あまり何も考えてませんね。

 

わかりますか? 彼らの歓びが。彼らの悩みが。彼らの呼吸が。

まだわかってもらえないとしても、僕は先に進むしかありません。

 

違います。「物の向き」という話ではありません。

違います。「人形遊び」という話ではありません。

 

彼らには「顔」があるんです。

 

そもそも「顔」って、すごくないですか?

身体の部位の中でも、「顔」ってぶっちぎりですごいですよね。

 

本題に入る前に、一旦、顔のすごさを振り返っていきましょう。

多分その方が、「物にも『顔』がある」ということを、少しでもわかっていただけるのではと、僕は思っているんです。

 

※しばらくフリー素材が続きますが、誰の顔かよくわからない画像で「顔」の説明をしたいのでお付き合いください※

 

冷静に考えると、そもそも「顔」って何?

どこからどこまでが「顔」なんですか?

 

眼とか鼻とか口とかは、ちゃんとわかります。

なぜなら、境界がハッキリしているからです。

眼なら「ココ」から「ココ」まで、と指で外周をなぞることができますよね。

「オレは眉毛まで『眼』に含むと思うんだよね」という人はまずいません。

 

しかし「顔」は、パーツが集合しただけの領域についている「地名」みたいなものなので、境界線は曖昧です。

 

みなさん、自分の身体で『顔』だと思う領域を指でなぞってみてください。

 

耳周辺、あるいはおでこ周辺で、一瞬、指が止まりませんか?

 

「耳って顔に含めるのかな?」

「生え際はどこまでが顔なんだっけ?」

 

一瞬止まった後、「まあ多分こんな感じだろ」と適当に終わらせますよね。

「どこからどこまでが『顔』かなんて、どうでも良いだろ。時間返せ」と。

 

そう。どうでも良いんです。

適当で良いんです。

 

つまり「適当で良い」くらい、顔の範囲なんて曖昧だし、そもそも曖昧だとして全然困らないんです。

これはすごい

定義が曖昧なのに、みんな当たり前に「顔」という言葉を違和感なく使えている。

 

あと、生物として重要な器官が、「顔」という同じ領域に集中しています。

これもすごいことです。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚。五感のうち4つが大集合です。

 

つまり「顔」を破壊されたら、生物として重要な機能をほぼゴッソリいかれます。

財布とカギとスマホを同じカバンに入れて無防備に持ち歩いているくらい危ないです。

 

リスク分散のために、せめて予備の耳だけでも背中あたりにストックしておけないものですかね。

 

そして「顔」は、「めっちゃ大事な器官の集まり」であると同時に、「変形させて他者に何かを伝える」コミュニケーションツールとしての役割もあります。

これもすごい

 

器官としての役割は、持ち主個人の中で完結しています。

眼は、本人が何かを「見る」ためにある。

耳は、本人が何かを「聴く」ためにある。

おでこは、本人が何かから頭骨を守るためにある。

全て、その人の中で完結している、その人のための機能です。

 

しかし、「伝える」という役割だけは、個人の範囲を超えています。

 

個体の生存戦略だけ考えたら、たぶん要らないんですよ。こんな機能。

明らかに、つがいで、家族で、群れで、「共に」生きていくための機能です。

 

手や足などの器官よりも、圧倒的に効率的で、しかも表現のパターンが無数にある。

眉の上がり方、黒目の位置、口の形、おでこのしわの本数、あらゆるパーツを総動員させて、私たちは「顔」で何かを伝えようとし、あるいは他者の「顔」から何かを理解しようとして、たったそれだけで、お互いが通じ合った気分になります。

ただ、お互いの体の一部がうごめいているだけなのに。

 

イケメンだとか美女だとか、美の基準も「顔」になりがち。ただ器官が集まっている領域っていうだけなのに。すごい。

この人は岸部シローで、この人は一徳、という個人識別をする手段も「顔」。冷静に考えれば「同じ」なのに。すごい。

 

境界すらよくわからない曖昧な領域なのに、器官も、感情伝達も、美も、個人識別も、あまりに「顔」が背負いすぎている。

責任が重すぎる。期待されすぎている。顔でなんでも済むと思っている。

 


顔、すごすぎ。読み取れる情報量がすごすぎる。

 

そう思ってテレビを見ると、もうすごい。

 

顔、顔、顔、顔。

全部顔。

バラエティも顔。ニュースも顔。アニメも顔。スポーツも顔。

顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔。

顔、映しすぎ。

顔しか映してない。

顔を映せばテレビを撮れていると思っている。

 

色んな人の色んな顔を高速で閲覧するための機械、テレビ。

 

顔を見すぎると疲れてしまう。情報量が多すぎるので。

ちょっと、外に出るか……

 

 

顔!

 

顔!!

 

うわぁッ、顔!!!!

 

 

「顔」はすごい。「顔」は面白い。

 

でも。

 

「顔」が多すぎる。「顔」は疲れる。

 

見たいけど、見たくない。

見なくても困らないけど、見ずには生きていけない。

それが「顔」。嗚呼、「顔」。

 

まだ喋りたい。顔はすごい。永遠に本題へたどりつけない。

 

物にも「顔」がある

本題ですが、生物ではない「物」にもちゃんと「顔」がある、と僕は思っています。

今日伝えたいのはこれだけです。

たとえば彼。

 

雪は夜になっても降り積もる一方のようです。

何度もごめんね。

 

『顔なんてないじゃん』

おっしゃる通りです。彼には眼がないので何も見えないし、耳がないので何も聞こえません。

ですが、一旦、「顔がある」と仮定したら、それはどこだと思いますか?

 

それは、

 

こっちじゃなくて

 

こっちですよね。

たったこれだけのことなんです。

 

『それってつまり、「正面」ってことですか?』

そう思いますよね。わかります。

 

では、彼はどうですか?

 

 

彼の「正面」は

 

こっちだと思っているんですが(商品の陳列棚とかを見るに)、

顔は、

 

こっちですよね。ちょっと表情が怖いけど。

たしかにドライヤーと顔を向かい合わせる機会って、なかなかないですよね。

キミ、こんな顔だったのかあ。

 

ドライヤーは、振り向きざまの表情がカッコいい。職人気質ですね。

 

ヤフオクの商品画像みたいな写真が続いてすみません。

 

全ての物に「顔」があるわけではない

『たしかに、天井のシミも「顔」に見えますよね!』

 

見えますよね。

でもそれは「顔に見える」だけであって、「顔」ではありません。

 

もちろん、顔に見えて、かつ実際に「顔」であるケースもあります。

 

たとえば彼。

 

彼は明らかに「一つ目小僧型」の顔です。

二足歩行ができない構造なので、歩くとしたら多分ぴょんぴょん跳ねながらになります。

 

トイレみたいな壁紙

 

顔がある物とそうでない物の差は、その物が「自分の役割を持っていること」そして「その役割に使命感を持っていること」だと、僕は考えています。

 

 

彼は、一日中部屋をキョロキョロ見渡し、一生懸命に空気を循環してくれます。

 

空気を循環することに対して責任感がある。

彼がいないと、部屋はよどんだ空気で充満してしまうことを、彼自身がわかっている。

うだる暑さで眠れない夏の夜も、彼の存在があるから乗り越えられる。

 

今日も頼むぞ。

 

僕とサーキュレーターの間に「心」が通っている。

だから彼は、夜通し寝ずに、首を動かしてくれるんです。

コンセントを刺したから動く、ではないんです。

 

天井は、ただそこに存在するだけの「物」です。

 

たしかに、天井がないと僕たちは雨風をしのげない。

天井にそういう役割があるのは間違いないです。

でも、肝心の彼自身が、自分が天井であること、そしてその役割を認識していない。

 

ただ鎮座しているだけ。

ただ存在しているだけ。

ただ「結果的に」雨風をしのげているだけ。

 

たとえシミが顔に見えたとしても、彼に「顔」はありません。

 

おやすみ。