子供の頃、みんなでかくれんぼをした。オニになった子はみんなを探し、みんなはオニに見つからないように隠れた。そのときに、箱の中に隠れて、結局さいごまでオニに見つからなかった子が、その後もずっと箱の中に隠れ続け、箱の中で成長し、成人し、40歳になってもまだその箱の中に隠れていた。

 

箱の中で彼は、成長して大きくなってしまった体を窮屈に丸め、オニに見つからないよう息をひそめながら、思い出そうとしてた。遠い昔、かくれんぼをしたあの日の記憶を、頭の中で忠実に再現しようとしていた。ある拭い切れない疑念が生じたからであった。

 

それは、あの日、かくれんぼで自分がオニから隠れたという自分の記憶に対する疑いであった。オニは、確かジャンケンで決めた。自分はパーを出した気がする。みんなもパーを出した。ひとりだけグーを出した子がいて、その子がオニになったと記憶している。

 

だがそれは事実だろうか。本当に自分やみんながパーでオニがグーだったのだろうか。グーが自分でみんながパーだったのではないか。長い年月を経て記憶は埃を被り肝心な箇所が不透明であるが、あのときオニになったのは、実は自分だったのではないだろうか。そんな気がしてきたのだ。

 

だとすれば、今、自分は箱の中に隠れたつもりになっているけれども、本当は隠れてなんかいなくて、本当は自分以外のみんなが 箱の外に隠れているのだということにならないだろうか。

 

いや、箱の 「外」 にみんなが隠れてるというのは状況として不自然であろう。隠れているのは、やっぱり箱の 「中」 だ。だから、みんなは箱の中にいて、箱の中にいるはずの自分は、みんなが中にいる箱の外の箱、つまり箱に内在する箱型の外部空間にいる、ということになるだろう。箱の中の彼はそんなことを考えている。

 

わたしは、街道沿いの蕎麦屋で蕎麦をすすりつつ思う。「実は、自分はオニかもしれない」という彼の考察がもし正しいなら…。

 

もしそれが事実なら、今、普通に家族を持ち、普通に会社で仕事をして、普通に暮らしているつもりのわたしは、実は、暮らしながら同時に、隠れてもいるのだということにならないだろうか。蕎麦をすすっているが、すすりながら同時に隠れてもいることにならないか。

 

箱に内在する外部空間の、つまり、箱の、中の外の中で丸まってるオニに見つからないように、箱の、外の箱の中で、隠れて蕎麦をすすり、隠れて蕎麦つゆの中に蕎麦湯を入れ、それを、隠れて飲んでいることにならないか。

 

もちろん、「実は、自分はオニかもしれない」という彼の考えは間違っているかもしれないし、そもそも、箱の中の彼という存在自体、実在しない可能性の方が、はるかに高いのではあるが。

 

 

 

(ラミレ水の日記)