チーターは時速100キロでサバンナを駆け、シャコのパンチは銃弾並みの破壊力を持つ。

 

動物たちは人間が及びもつかないような優れた能力を持っているわけだが、なかでも自分が尊敬してやまない能力がある。

 

それは。

 

「口臭いのに顔を舐めてくる能力」である。

 

我が家では7才になるメス猫を飼っているが、朝方になると挨拶なのか何なのか、寝室まで顔を舐めにやってくるのだ。そして彼女が人間の顔を舐める時、そこには寸分の迷いも無い。これが凄いと思うのだ。猫だから口臭いのに。

 

普通ペディグリーチャムのような口臭を自分が持っていたら、「すんませんね」という遠慮の心か、「しらんし」という開き直りか、どちらかの気持ちが姿勢に現れるはずなのだが、猫にはそれがない。

 

常に自信満々にふるまい、しなやかな体捌きから舌を伸ばすまでのフレームに、一切の逡巡というものが無い。まるで、自らの口が臭いとは夢にも思っていないようなのである(思っていないのだろうけど)。だから自分は飼い猫に顔を舐められるたび、「こいつ、口が臭いことに気づいていないのか!?」と、新鮮な驚きを感じる。(気づいていないのだろうけど)

 

侵入者が自然体すぎてセキュリティをすり抜けてしまう、みたいなシーンがよく漫画にあるが、この世界の持つクセのような部分として、逡巡なく行われることをついつい「そういうものか」と思って受け入れてしまうというのがある。

 

逡巡のない万引き、逡巡のないパワハラ、逡巡のない露出行為、なぜか犯罪ばかりを例に出してしまったが、本当は修正されるべきバグなのだけれど、一切の迷いなくそれを行うことで、世界が異物に気づく前にすり抜けてしまう、というようなことがあると思う。

 

もちろんポジティブな方面にもこの習性は活かせると思っていて、ウケるか分からないアイディアでも「面白いはず!」と信じ切って言うのか言わないのかでは、受け取り方がかなり違ってきたりする。

 

逡巡の無いことの強さ。何をやるにも自信がなく色々とためらいがちな自分は、口が臭いのに堂々と人の顔を舐めることができる猫からこそ学びたい。そしてこんなに口が臭いと書くと、いいかげん猫好きから怒られてしまいそうなので書いておくが、常識的な範囲での臭さの話をしており、ちゃんと歯磨きシートで定期的に磨いているのでご心配には及ばない。

 

良いことであれ悪いことであれ、迷いのなさを世界は受け入れる。今度あまり仲の良くない知人の結婚式があるのだが、何の迷いもなくご祝儀を3000円にしたら怒られるだろうか。怒られるだろうな。

 

 

 

 

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