好きになればいいんです。

 

 

結論は以上ですが、これだけでは十分に意図が伝わらない可能性もありますので具体的な方法を説明します。

 

現在、日本で餓死せずに生きていくためには他人との接触が不可欠です。本当は日光と水だけで生きていく事ができればそれが一番良いのですが、それができない以上は諦めて他人との接触を続けるしかありません。

 

不特定多数の他人と接触を重ねていくと、どうしても自分にとって好ましくない人物、憎い人物が何人か現れてしまいます。職場や学校や町内会など、どのような生活の場でも起こり得る辛い事態です。

 

 

この辛い事態に対処し心の安定を図る方法として、今回私が提案したいのが「憎しみのスポーツ化」です。あなたの脳内で「最も大きなストレスを与えた者が勝ち」というルールのスポーツ選手権を作り、憎い人たちを招集し、想像上でその憎さを競わせるのです。

 

想像上の舞台としては、甲子園球場をお勧めします。自分にとって特別に憎い32人を選抜し、グラウンド上に集合・整列させてください。

 

想像上の競技形式としては、自身の採点(10点満点)を基準に優劣を決める形式をお勧めします。慣れないうちは憎しみを定量化する事に対して戸惑いを覚えるかもしれませんが、新体操の採点に見立てると冷静かつ客観的な評価を下しやすくなります。

 

想像上の競技種目としては、演技のお題を与えるエチュード(即興劇)をお勧めします。「お弁当のおかずを分けてもらいたがっている時の顔」「100%本気の茶道」などの具体的なお題を設定して演技を競わせると、選手たちは憎さのポテンシャルを存分に発揮してくれます。

 

 

この想像上の憎さ競べを通じ、憎い人=不快なもの、といったネガティブな捉え方を矯正し、「彼らは自分に感動を与えてくれるスポーツ選手たちなのだ」と捉えられるようになれば、もう日常生活の些末な出来事で腹を立てる心配はありません。

 

例えば、「ポイントカードを持ちたくない理由」をコンビニ店員に向け6分ほど主張し続け客の流れを止めていた初老の男性も、「今は5位どまりだが伸びしろがある、今後に期待」といった目線で見ると非常に好ましく思えます。

 

また例えば、飲み会の席で私が食べている途中の枝豆の皿にタバコの灰を落とし続け、その行為を注意されると「でもこれ(枝豆)って莢で守られてるから味に影響ないし別に気にする事ないでしょ」と言い放った同僚も、「チャンピオンの貫禄があって頼もしい、今後も首位の座を守り続けるように」といった目線で見ると非常に好ましく思えます。

 

私は「憎しみのスポーツ化」を実践する事によって博愛主義の心を手に入れました。みなさんも是非試してみてください。

 

 

余談ですが、中学の頃同じクラスだったY原くんはホームページ上で、クラスメイト達の名前を無断で借用した「バトル・ロワイアル」の二次創作小説を書いていました。その小説では、私(筆者)の本名と同じ名前のキャラクターが序盤で猟犬に噛み殺されていました。当時、Y原くんの中で私はどのような位置付けだったのでしょうか。ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。

 

 

 

 

他の「文字そば」を読む