2018年1月23日。

会社のお昼休み中、僕はふとこんな考えにとりつかれた。

 

 

「でっかい肉を買ってこよう」

 

 

そうと決まればと、さっそく表へ飛び出した。

東京では昨日、4年ぶりの大雪が降り、道路のそこかしこにシャーベット状の雪がまだ残っている。

僕が突然でっかい肉を買いたくなったのは、大雪によってもたらされた高揚感のせいなのか。

確信はないが、そんな気もする。

 

 

 

関東近郊で、でっかい肉を買うところと言えば、「肉のハナマサ」である。

他にもあるのかもしれないが、僕はハナマサしか知らない。

大正時代に創業した時はお花屋さんだったらしいが、いつしか今の僕のように肉に取り憑かれてしまったのだろうか。

 

 

「肉の」と言いつつ、ハナマサでは野菜も売っている。白菜一玉680円。今年は野菜が特別高い。

ビットコインでなく、白菜を買っておけば良かったと思うぐらいだ。

 

 

 

早くもでっかい肉を買った。もう買った。気がつくと買っていた。

ハナマサの店内で写真を撮るのは気が引けたので、でっかい肉を買ったあと、近くの公園に肉を置いて撮影した。

はたから見たら、「肉の塊を自分の子供だと思いこんで公園に連れてきている人」のように見えてしまいそうで、少し怖い。

 

 

豚バラ真空、である。

1本物、である。

値段は5キロで5000円。グラム当たりの値段にすれば確かに安い。

 

安いが、「ああ、5キロの肉の所有者になってしまった」という責任感に早くも押しつぶされそうだ。

5キロの肉を手に入れてしまった以上、ぼやっとしているわけにはいかない。

5キロの肉を持っている社会人として、これから適切な行動をとらなければ。

 

 

小脇に抱えた写真をとってみた。一瞬スケートボードに見えなくもないが、やはり肉だ。

 

 

普段、絶対に買わない量の肉を抱えたまま、会社へと戻る。

日常的に買う“5キロ”と言えばお米だと思うが、肉の5キロと米の5キロは明らかに種類の違う重さだ。

 

なんというか、肉の5キロは米よりもずっと、体の内奥から筋肉が引っ張られているような気がする。

デジタルの世界では同じでも、アナログの世界では手触りや質感が違うということが存在する。

5キロの肉は、そんなことまで思い出させてくれた。

 

 

これから会社にこの肉を持って帰るわけだが、肉の存在を知った同僚たちは一体どんな反応をするだろうか?

軽く脳内でイメージトレーニングをしてみた。

 

肉を買った立場の人間として、一番「手応え」を感じるのは無論①である。

しかしすでに昼食を済ませている昼休み後の時間帯、このテンションにはなる可能性は低いだろう。

 

そもそもこれだけ大きいカタマリ肉の場合、切って焼くという行為は非常に手間がかかる。

昼食後とはいえ、肉を焼き始めたらそれなりにみんな食べるだろうが、問題なのは「誰が焼くのか」ということだ。

 

業務時間中ということもあり、率先して肉を焼くのにリソースを割く人間はいないだろう。

リアリティのある落とし所として、行き着きやすいのは②か③である。

 

本来ならば肉を買ってきた者が焼くべきなのだが、僕とて「可能ならば、誰か別の人に切って焼いて欲しい」という気持ちに嘘はつけない。

 

ここはひとつ、同僚たちの出方を伺ってみよう。

 

 

会社に着いた。

見知った顔の同僚たちが、黙々とキーボードやマウスを操作している。

ここに突如として、5キロの豚バラ肉を出現させてみよう。

少し呼吸を整えたあと、僕はなるたけ平静を装って肉の存在を彼らに告げた。

 

 

 

「でっかい肉、買ってきたんだけど」

 

 

 

「え!」

「肉?」

「なんで?」

「はい???」

 

と、人によって反応は様々だが、やはりクエスチョンマークの割合が多い。

突然降り注いだ5キロの肉を素直に受け入れられる人間は、存外少ないのかもしれない。

 

 

それでも共有スペースに肉を置くと、ぞろぞろと同僚たちが集まってきた。

 

「ほんとに肉だ」

「でっかい」

「5000円もするの!?」

「なんで買ったんですか?」

 

それぞれが、肉に感情を揺さぶられている。

人々が巨大な肉を発見し受け入れるまでの、「ゆらぎ」の時期と言えるだろう。

 

 

僕はあえてその輪に入らず、みんなが巨大な肉をどうするのか観察してみることにする。

もちろん肉を持ってきた者の責任として、「さっそく食べようぜ!」という流れになれば、率先して肉を切り分けるつもりだ。

 

 

同僚の1人が肉をサンドバックに見立て、パンチを放ち始めた。映画「ロッキー」の特訓シーンを思い出す。

 

 

ある女性社員は肉を抱き上げ、まるで我が子のようにあやし始めた。

確かにサイズと重さ的には赤ちゃんと変わらない。

 

 

「あのアミアミのところにこの肉を思いっきり投げれば、『ザンッ!!』て一瞬でミンチにならないですかね?」

 

むちゃくちゃなことを言ってくる奴もいた。

 

 

 

同僚たちの口から「すごいなあ~」「肉だなあ~」という感想は出るのだが、「こうやって食べよう」「切り分けよう」という声はついぞ出なかった。

単純にお腹が空いていないからか、でっかい肉をまだ「食べ物」としてイメージできていないのだろうか。

 

 

しばらくすると、肉の周囲から誰もいなくなってしまった。

事前に考えていたシナリオで言うと、②の「最初だけ盛り上がる」のパターンだ。

人間は思っていたよりもずっと、5キロの肉の責任を負いたがらないものなのかもしれない。

 

あるいは、買ってきた人間(僕)が、何も言わないのを訝しがっているのだろうか。

主体性のないでっかい肉は、所在なさげにオフィスに佇む。

 

 

 

一度、外の空気を吸って気分を変えることにした。雪を撫でつけて吹いてくる冷たい風が、肌に心地いい。

同僚たちが肉を食べようとしないことに、正直言って少しショックはあった。

採集狩猟社会の時代であれば、あれだけのでっかい肉を村に持ち帰れば、ヒーロー並みの扱いをされることは間違いない。

 

しかし現実に起きたことは真逆である。でっかい肉を持ち帰った僕から、人は離れていったのだ。

現代、日常に突如侵食してきた5キロの肉は、人間にとって重荷にしかならないのだろうか。

 

 

 

オフィスに戻ると、肉の上に頭蓋骨とネームプレートが置かれていた。

一体どういうつもりなのだろう?

 

 

 

 

どういうつもり?

 

 

 

誰?

 

 

なんなの?

 

見ていただくと分かる通り、同僚たちはでっかい肉の見た目や周縁部には興味を示すが、より肉の本質に近い「加工して食べる」という方向に一切迫ろうとしない。

彼らは巨大な肉塊と真正面から向き合うことを、無意識的に避けている。そんな予感がした。

 

 

 

そのまま、夜がきた。

肉は一時的に冷蔵保存しておいたが、再び取り出して共有スペースに置いてみる。

時間的に、そろそろ肉を焼くにはいい頃合いだ。恐らく事態は動く。それも急激に。

 

 

来たぞ。

さあ言ってくれ、「みんなで食べよう」という一言を。

肉に近づけ。肉に向き合え。

酒池肉林の焼き肉パーティー会場は、もうすぐそこなんだ。

 

 

 

なぜ振り回す?

なぜ振り回してしまう?

 

さっきからサンドバック代わりにしたり振り回したり、でっかい肉は人の暴力衝動を喚起させてしまうのだろうか。

 

これではさすがに埒が明かない。

肉を腐らせるという本末転倒な最悪の結末を迎える前に、僕は自分から一歩を踏み出すことにした。

 

 

 

「この肉、好きにしてもいいんだけど」

 

 

 

「好きに……あー、もう食べちゃってもいいやつなんですか?」

 

「うん」

 

「この大きさ、角煮にしたらすごい量になりますねえ。塩豚にしてもいいかな。ビールと合いそう」

 

「合うだろうねえ」

 

「想像したら腹減ってきました」

 

「いいよね」

 

「そうだなあ…」

 

 

「明日、食べますか」

 

「明日?」

 

「今から切り分けて焼くのもちょっとあれかなって。豚バラってかなり脂も出ますし…」

 

「明日になっても、豚バラから脂は出るよ」

 

「そうなんですよね」

 

「生モノだし、今から食べてもいいのでは? 食べようよ(ついに言った)」

 

「今……みんな食べるのかな。食べる人がいるなら切って焼きますか」

 

「(いいぞ)」

 

「あ、でもまだいけるな」

 

「え?」

 

 

「今日23日なんで、賞味期限見るとあと5日ぐらいは余裕でいけますね」

 

「…まあ、そうだね」

 

「じゃあまだいいかな。明日、食べます」

 

「明日」

 

 

 

 

 

 

こうして僕が突然買ってきたでっかい肉は、これといったドラマを生むこともなく、厳かに会社の冷蔵庫に収まった。

主体性を持たないままにでっかい肉を買うことは、物事を永遠に先延ばしにし続ける結果しか生まなかったのだ。

 

今後は何事を始めるにも準備を持ってのぞもう。

そんなことを感じた、2018年初頭の出来事だった。

 

 

(おしまい)

 

 

 

 

※豚肉は主体性を持って冷凍保存し、主体性のままに少しずつ角煮にしていく所存です。