ほとんど家から出ずに黙々と一人で生活していると、さまざまな雑念が頭に浮かんでは消えてゆくもの。

 

この日記では、家から出ないことに定評のあるライター・上田啓太が、日々の雑念や妄想を文章の形にして、みなさんにお届けします。

 

今回は、

・都市伝説が好きだ

・個人の感想です

・パイナップルの誕生

の三本です。

 

上田啓太

文筆業。ブログ「真顔日記」を中心に、ネットのあちこちで活動中。
ブログ:真顔日記 Twitter:@ueda_keita

 

都市伝説が好きだ

Mr.都市伝説・関暁夫の都市伝説7 ゾルタクスゼイアンの卵たちへ

都市伝説が好きだ。ネットでこの種の記事を読んでいると、すぐに時間が過ぎる。たいていはアルコールが入っている。酒を飲みながら真偽不明の都市伝説を読むことは、すばらしい娯楽である。

 

もっとも、都市伝説が好きだと言う時、そこには微妙なニュアンスも含まれている。私はオカルト系の文章を読むのも好きだが、少し距離も取っている。この距離感は大事にしたい。

 

おおまじめに「人類は本当は月に行っていないんですよ!」とか言われたりすると、それはそれで引いてしまう。ずぶずぶに都市伝説にハマッている人とも、全否定して歯牙にもかけない人とも、盛り上がれない。「んなわけねえだろ」と「もしかしたらそうかも」の間で心が揺れるのを楽しみたいというか。

 

私が十五年以上前に耳にした都市伝説で、いまだに印象に残っているのは、「SONYはすでにドラえもんのどこでもドアを発明している」というもの。

 

四、五人の友人と深夜に宅飲みをしていた。すでに話題は尽きており、みんな口数も減って、ダランとしている。そんな時なのだ。どこかで聞きかじった都市伝説を、人がふいに思い出すのは。そして、みんなの体温が少しだけ上がる。

 

「えっ、マジで? どこでもドア、できてるの?」
「うん、じつは、できてるらしいのよ、どこでもドア……」
「いや、でもさあ、だとしたらさあ……」

 

そうして、さまざまな憶測が飛び交いはじめる。どうでもいいような議論をしながら、真夜中の飲み会が過ぎてゆく。こんな夜が最高だ。

 

あれから十五年以上の時が流れたが、結局、SONYが新商品として、どこでもドアを発売したという話は聞かない。そもそも、SONYがドラえもんのどこでもドアを開発しているという話がどこから出てきたのか、それがなぜ、SONYと何の関係もない友人の耳に入るところとなったのか、何がどうなった結果、そんな都市伝説が生まれることになってしまったのか。

 

謎は深まるばかりだが、しかし、まことしやかな口調で、だれかが訳の分からない都市伝説を口にしはじめた時、真夜中の飲み会が輝きはじめることは事実だ。

 

ちなみに、その友人いわく、SONYがどこでもドアの完成を公にしない理由は、「輸送業界と交通業界に大打撃を与えてしまうから」らしい。まことしやか。

個人の感想です

ツイッターでコンビニデザートの感想を見かけた。あまりおいしくなかったらしく、おいしくなかったと書いているのだが、最後に「※個人の感想です」と付け足していた。これは腰が引けていると感じた。不要な断り書きは臆病の証明だ。個人のアカウントに書き込まれたコンビニデザートの感想なんて、断るまでもなく個人の感想に決まってるじゃないか。

 

むしろ「※全人類の総意です」と書いてほしい。逆に炎上しないと思う。馬鹿すぎて。

 

「うわさの新作デザート、さっそく食べてみました。しかし、う〜ん、これはイマイチ! 300円出すほどじゃないかも!(※全人類の総意です)」

 

これでいこう。猫だましで意表をつく相撲とりのように、不意の極論を炸裂させて、読み手の判断を停止させよう。人間というのは、突然、話のスケールが巨大になると、混乱して頭がバグる生き物だ。この特性を利用しない手はない。

 

たとえば、電話ごしに道案内をされている時、

 

「駅の東口を出て右に曲がるとコンビニがあるから、そこを左折してパン屋の見えるところまで歩いていくと、おまえは地球の上に立っている。そこで待ち合わせしよう」

 

とか言われると、不意に飛び出した地球によって、何の話をしていたのかよく分からなくなる。道案内という当初の目的は崩れ去り、地球の上にポツンと立っている自分のイメージだけが頭に残って、途方に暮れる。

 

これは、どんぐりの背比べにいきなり銀河系が参戦してきたようなもので、認識は比較の機能を失い、後にはただただ茫漠とした取りとめのない意識が残されるだけなのだ。

 

以上、乱文乱筆、失礼いたしました。死んでお詫びいたします。

パイナップルの誕生

パイナップルというのは、凶器として使えそうな見た目をしている。トゲトゲがたくさん生えている。なかなか暴力的なデザインだ。こんな果物は、めったにない。

 

フルーツを武器にしたバトルロワイヤルが開催された時、自陣にパイナップルが生えていれば、勝利を確信するだろう。対戦相手がキウイを握りしめて哀しそうな顔をしていれば、なおさらそうだ。残念、キウイなど、ゲームにおける初期装備にすぎない。表皮のぼそぼそとした毛は弱々しく、とても武器には適していない。一方、俺の手元にはパイナップル。どうやら勝利の女神は、こちらに味方したようですね。

 

パイナップルを創り出した時の神さまは、イライラしていたんだと思う。心のありようが、果実の形状にあらわれる。非常に、ささくれだっていた。

 

神さまは、会社で上司に叱られて、家ではささいなことから妻と大ゲンカ、テレビを付ければ悲惨なニュース、ネットを見ればイヤな揉めごと、ああ、むしょうにイライラする。しかし、我は万物の創造主。今日も指のひとふりで、無から事物をこねあげる。ああ、しかしイライラする。土くれに命を吹きこみながらも、殺伐とした内面はむやみに周囲を威嚇して、見えないトゲのようになっているのだ……。

 

そのようにして生まれた果物が、パイナップルである。

 

ま、神さまだってそんな日もあるよね、と思わされる。

 

それぞれのフルーツを造形物として見ていくと、さまざまな評価をくだすことが可能なのだが、たとえばリンゴというのは、シンプルにして最終解答でもあるような神さまの初期の傑作。その曲線はエレガントで優美だ。

 

ミカンもまた初期の傑作と言われることが多いが、創り出した神さまからすると、表皮へと執拗に打ち込んだブツブツに既成の美の観念に対する若き日の反逆のみぶりを感じて、今となってはむずがゆいという。

 

神さまが自己の創造のピークに挙げるのはスイカだ。濃緑の分厚い表皮に漆黒のいなづまを走らせ、その内側には人間の血液を思わせる鮮烈な赤の果肉がある。黒い種を散りばめたディティールもナイス。あれは自分で創り出したものとは思えない。不意にどこかから降りてきたとしか思えない。神にも神が降りてくることがあるんだと、その時、神さまは思ったという。

 

ところで、はじめに話題にしたキウイなのだが、あれは日常でボーッとしている時にふと思いついたという。具体的には、風呂場でシャワーの水がお湯に変わるのを待っている数秒の間に、キウイのデザインが降りてきた。たしかに、あの時の神さま、すごくボヤーッとしてた。

 


 

ということで、今回は三本の日記でした。

それでは、また次回。