ほとんど家から出ずに黙々と一人で生活していると、さまざまな雑念が頭に浮かんでは消えてゆくもの。

 

この日記では、家から出ないことに定評のあるライター・上田啓太が、日々の雑念や妄想を文章の形にして、みなさんにお届けします。

 

今回は、

・アサガオの観察

・ハデな服を着ると顔が惨敗する

・無線イヤホンを導入すべきか?

の三本です。

 

上田啓太

文筆業。ブログ「真顔日記」を中心に、ネットのあちこちで活動中。
ブログ:真顔日記 Twitter:@ueda_keita

 

アサガオの観察

小学生の頃、アサガオを育てていた。学校の課題だった。観察日記を付けていた。いま思えば不思議な光景だ。クラスの全員がアサガオの成長を見守っていた。

 

小学生に見守らせるものとして、アサガオはちょうどよかったのだろうか。大きすぎず、小さすぎず、適当な速度で適当に成長してくれて、それなりに意外性もあって、面白い。それがアサガオだったのか?

 

たとえば、タケノコは一日で一気に成長するという。これは観察対象としては不向きである。小学生にタケノコの観察日記を付けさせれば、すべての生徒が呆然とする。「朝になると、すべてが変わっていた……」。すこし文才のある小学生は、そんな書き出しで日記をはじめるにちがいない。

 

昨日は地面に埋まっていたはずなのに、今日は青々とした竹が天高く伸び上がっている。タケノコの急成長によって、平穏な日常が唐突に破られる。この脅威はアサガオの観察では味わえない。

 

子どもたちは絶句して空を見上げる。雲を突き抜けるほどに巨大な竹がそびえたっている。少年の手が震える。観察日記の文字が乱れる。握っていた鉛筆が地面に落ちる。僕たちは何も知らなかった。僕たちは偽りの平穏をむさぼっていた。そうして立ち尽くす少年の眼前には、無慈悲なほどに巨大な竹。

 

こうなってくるともう、ちょっとした『進撃の巨人』のオープニングである。

 

 その日、人類は思い出した。
 あの植物の生態を。
 タケノコが一晩で怖ろしいほど成長することを……。

 

まあ、そんなこと人類全体で忘れてんなよ、とは思うが。もっと図鑑とか読もうよ。

 

ハデな服を着ると顔が惨敗する

私はユニクロ顔なので、ハデな服を着ると顔が惨敗する。今日はそんな話をしたいのだが、何の説明もなしにユニクロ顔と言っても通じない気がするので、まずはその説明からはじめよう。

 

ユニクロ顔というのは、平均的で特徴のない顔としてもいいが、もっと言えば、ユニクロがTシャツやジーンズと同じように人間の顔面を売りはじめたときに、店舗に並ぶだろう顔のことである。ユニクロの売りそうな顔、シャネルの売りそうな顔、コムデギャルソンの売りそうな顔、色々あると思う。そして私は自分の顔を、ユニクロの売りそうな顔面だと自負している。端的に言えば、無個性。

 

そのため、ハデな服を着ると顔が惨敗する。顔の印象が服の印象に完全に負けてしまう。アロハシャツなんかは鬼門である。ヒョウ柄などもってのほかだ。

 

以前、友だちに借りてドクロのネックレスを付けてみたことがあるのだが、それですら自分の顔が負けていて笑ってしまった。小さなドクロの存在感に、自分の顔が惨敗していた。胸元の小さなドクロが、人間さまの本物の頭蓋骨を食っていた。サイズだけを見れば、私のしゃれこうべのほうが、ずいぶんデカイはずなのに。

 

このあいだ街で見かけた男はコワモテだった。色黒で彫りが深く、迫力のある顔をしていた。赤いレーシングカーのイラストが大量にプリントされた派手なシャツを着ていたが、顔面が対等に渡り合っていて、感動した。インパクトのある顔と、インパクトのある服が、それぞれに自己を主張して、そのままひとつの外見になっていた。優れたロックバンドのダイナミズムに似たものが、そこにはあった。どの楽器も脇役になっていない。

 

大阪のおばはんは、ヒョウ柄の服を着る。そんな定番のイメージがある。あれもまた、顔と服の壮絶なデスマッチではないのか。以前、大阪の商店街で、トラの顔が刺繍された服を着たおばはんが歩いてきたのだが、おばはんの顔は胸元の巨大なトラにまったく負けていなかった。あれは見事だった。

 

大阪のおばはんは、日常のコミュニケーションによって、顔面筋肉を酷使している。顔立ちというのは遺伝的要因で決まる側面もあるが、日常的な表情筋の運動によって決まる側面も大きく、そして人々は自覚せずとも毎日、顔面の筋トレを続けている。その意味で、大阪のおばはんは顔がムキムキなのである。だからこそトラの刺繍のある服を着こなせる。その顔面、トラ殺しの風格。

 

無線イヤホンを導入すべきか?

いつのまにか、多くの人々が無線イヤホンを使うようになっている。ドングリみたいなものを耳に詰めただけで、さっそうと街を歩いている。コードも何も出ていない。あれは良いんじゃないか。自分も無線イヤホンを導入するべきじゃないか。

 

思えば、イヤホンコードのからまりを解きほぐすことに、人生の少なくない時間を費してきた。十代の頃のウォークマンに始まり、常にイヤホンのコードはからまっていた気がする。かばんの中をパッと見て、コードがぐちゃぐちゃになっている。そのたびに解きほぐしてきた。累積時間は結構なことになる。あの時間はもう戻らない。長くても数十秒で解決することだから、見逃していたのか。

 

イヤホンコードがもっと本格的にからまって、毎回、数十時間はかかる作業になったらどうか。そうしたら、もっと真剣に考えていたんじゃないか。

 

たとえば朝、仕事に行くために家を出て、かばんのなかにイヤホンコードのからまりを見つける。それを解きほぐそうと指先で試しはじめて、ふと顔を上げると、すでに太陽が沈んでいる。ああ、今日も会社に行けなかった……。

 

そんな世界に生まれ落ちていれば、違っていたか。

 

欠勤を叱責する上司からの怒りの電話にも、正直に答える。

 

「すみません、イヤホンコードがからまってしまいまして……」

「それならば、仕方ない」

 

普段は厳しい上司が、珍しく優しい声を出す。

 

「たしかに、イヤホンのコードというのは、いったんからまると、解きほぐすのに時間がかかるものだからね。あれは私が二十代の頃だったなあ。女房が妊娠して、はじめての子が生まれる時のことだった。私は必死でイヤホンコードを解きほぐそうとしたのだけれど、結局、出産には立会えなかった……。ずいぶん責められたものだよ。だから生まれてきた子には、イヤホンコードと名前を付けたんだ。すまないね。年のせいか、ずいぶん説教じみた話になってしまった」

 

「いえ、部長、その話を私にしてくれて、ありがとうございます。明日は、なんとしてでも出社します。もちろん、まだまだイヤホンコードは絡まったままですが、大丈夫、今日は徹夜ですよ!」

 

無線イヤホンが普及していくと、こうした古き良き美談もなくなっていくのかもしれない。

 

しかしまあ、無い美談だからいいのか。そもそもが無い美談。無い美談を書くな。

 


 

ということで、今回は三本の日記でした。

それでは、また次回。