小市民としての人生が過ぎていく途中、ふと「ささやかな禁忌」とでも言うべきものに気がつくことがある。

 

自分にとって、仕事終わりに帰り道で食べるロースハムがそれに当たるだろう。

本日分のタスクをまんざらでもなく消化し、少々お酒も入って歩く通い慣れた道。

何とはなしに道中のコンビニに立ち寄るのだが、腹もそこそこ満たされており、体温的にアイスキャンディーを食べるって感じでもなく、ウロウロした挙句に手に取るのが税込100円弱の薄切りロースハムである。

食べる時に手もベタつくし、ことさら飢餓感に駆り立てられているわけでもないのだが、「ハムだな」という確信が変えられない。

「ピッ」と電子マネーで手軽な会計を済ますと、袋に包むのも断り、妙齢の男が抜き身のままロースハムを持って町へ出る。

 

今、ハムと夜との境界線は溶けた。

 

そのまましばらく陶酔したような表情で、夜の空気を泳ぐこと数十メートル。

いざ頃合いかと見るや、ハムを密閉していたビニールを剥き、「よくもまぁこんなに薄く」と言いたくなるほどの透けるようなハムを指でつまんで、口に運ぶ。

瞬間、加工工場の風味と塩気が口内に広がり、「ああ、俺は外でハムを食っている。外で、ハムだ」という満足感に全身が満たされるのだ。

咀嚼するごとに取り入れられていく、控えめなカロリー。すれ違う人の顔に目をやりながら、「どうだ。今、俺の口には塩気のある肉が入っているぞ。君の口には入っていないだろう」という優越感を味わう。といって、必要以上に目立つつもりはない。

今から中年の坂を上ろうかという男が、路上で歩きながらハムをもぐもぐ食べていたら、「夜半に路上でハムを食べるなんて。あの人、ろくな就職してないわ」という誤解を招きかねないからだ。

いつも以上にひたひたと影を歩き、ハムを食べ、また影を歩く。口の中には塩気のある、肉。

注意深くデザインされたモーダン・ソサエティーも、いい大人がハムを歩きながら食べるようには設計されていない。

夜の路上でついばむハムは、三度の飯にも数えてもらえぬイレギュラー極まる存在だ。

しかし、そんなささやかなルーティーンへの反逆も、大体は3切れ半ばのハムを食べ尽くしたところで終わり、残りは自宅冷蔵庫のチルド室にしまわれる。

翌朝、眠たい顔つきで昨夜の残滓であるところのハムを口に入れながら、僕は思うのだ。

 

朝に食べるハムも、また美味いと。

 

 

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