第20回「わっしょい!オモコロ!ラジオ祭
  

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OP/いとしいご主人様 ED/悲しみのラブレター
唄/森の子町子

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今回は長々とラジオイベントの振り返りをしていますが、下のレポと内容はほぼ同じです。
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・みくのしん大喜利対決

みくのしんのことをなめてかかっている君たちと大喜利勝負だ!
今回のテーマは「こんな男梅サワーはいやだ」面白い答えを思いついたら送ってみてください!

 

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忌めば忌む 忌まねば忌まぬ 忌むという 文字は己の 心なりけり

 

「死神」のあらすじ

金もなく生きて行く気力を失った男。「いっそ死んでしまおうか…」とつぶやくと、そこに本物の死神が現れる。驚く男に、死神は「金儲けの方法を教えてやる」と話しかける。

死神が教えてくれたのは「死神を追い払う呪文」

死神が言うには、普通の人には見えないが、実は病人のそばには死神が憑いており、その死神がいなくなれば病気が治るというルールがあるという。

「うまくやれば万能な医者になれる」「それで治療費を取れば、いくらでも金儲けができる」と喜ぶ男に、死神は一つ忠告した。「枕元の死神には手を出すな」

まだ助かる見込みのある病人の場合は、足元に死神が居る。こいつなら追い払っても問題はない。

ただ、助かる見込みのない病人の場合は、死神は枕元に陣取ることになっている。これはもう運命なのだから、決して手出しをしてはいけない。

「それだけは絶対に忘れないように」と釘を刺して死神は消えてしまった。

その後、男は医者を名乗り、数々の病人を救った。

病気に関する知識や医療の技術がなくとも、病人の元へ行き呪文を唱えて足元にいる死神を追い払うだけで、病気を治すことができる。「あの人は名医だ」と評判が立ち、次々と依頼がかかるようになった。

稀に死神が枕元に居る場合もあったが、「これは寿命です」と診断しその場を後にすると、程なく病人は息を引き取る。「あの医者の見立ては正しい」とますます評判になり、次第に男の生活は豊かになった。

金に困らなくなった男は医者も休業し豪遊に豪遊を重ねた。しかし、金は使えばなくなるもので、気づけば結局元の木阿弥、一文無しの素寒貧となった。「また医者で金稼ぎをするか」と思い立つも、なかなか依頼が来ない。いよいよ明日食うものも尽きようかという頃合いに、大店からの依頼が来た。

行ってみると死神は病人の枕元。

「これは寿命ですからなんともなりません」と言うも、先方から「お礼金は三千両出しますので、そこをなんとか…」と頼まれる。大金に目がくらんだ男は一計を案じた。

枕元の死神が居眠りをしている隙をついて、病人の布団をくるっと半転させる。頭は先の足元に、足は先の枕元に。そこで男が呪文を唱えると、死神は驚いて消えてしまった。病人は全快し、男は約束の三千両を貰って上機嫌で家路に着いた。

その途中、呪文を教えてくれたあの時の死神が現れ、男を洞窟のような場所に連れていく。そこには一面に無数のろうそくが広がっている。死神は、このろうそくは1本1本が人間の寿命を表しているのだと説明した。

男の目に止まった1本のろうそく、ひときわ短く今にも消えそうにくすぶっている。聞くと、これは男の寿命だという。先ほど本来死ぬべきだった病人を助けた時、その病人の寿命と男の寿命が入れ替わってしまったのだ。

「金を返すからなんとかしてくれ」と懇願する男に、死神は新品のろうそくを渡した。これにうまく火を移すことができれば、寿命は延びるという。

震える手でろうそくの火を移そうと試みる男に死神は囁く。

「そんなに震えてると火が消えるよ…消えたら死ぬよ…

ほら…火が消えるよ…震えるんじゃない…

震えると消えるよ…消える…消える…消える…ほら…

消えた」

 

落語「死神」は、落語の祖と言われる三遊亭圓朝がグリム童話を翻案し生まれたと言われており、ゆうに100年以上の年月をかけて、幾多の噺家によって研鑽されてきた大名作だ。

現代でも目にする機会は多いが、噺家が「死神」を高座にかける際は並々ならぬ想いを持って演じられる(といち落語ファンは思う)。落語漫画「昭和元禄落語心中」でも「死神」はストーリーの象徴となる噺として描かれているし、『死神』と聞いた時、落語ファンの眼光はつい鋭くなってしまうものだ(あとは『芝浜』ね)。

 

落語は同じ噺でも演者によって味わいが変わる。例えば桂枝雀の手にかかればどんな噺も抱腹絶倒の爆笑噺になるし、立川談志の「火事息子」なんかは、序盤に「親の夢を見て涙ぐむ」というシーンを追加するなど、結構大胆な演出をしていたりする。噺家の人柄やバックボーン、噺の解釈や演出論の違いで、同じ噺でも全く違うものになる。演芸なのだからまあ当たり前なのだけれど。

そんな話でいうと、死神ももちろん演者によって様々なバリエーションがある。ただ、他の演目と一線を画しているのは、「死生観」や「哲学」など、落語ではあまり語られる機会のない角度からのアレンジが見えてくるという点だろうか。

上記のあらすじは最もポピュラーな(具体的にいうと三遊亭圓生チックな)ものだが、演者によっては噺の運びはおろか、サゲそのものすら変わってくる。

 

 

例えば、柳家小三治は、うまくロウソクに火が移ったのに、思わずくしゃみをしてしまい結局火が消えてしまうというものを演じている。死をテーマにしながらも、後味の悪くない間抜けなオチで、いかにも小三治っぽい。終盤にあれだけ緊張させながらくしゃみ一発で笑いのフィールドに帰ってくるのは、常人ではなかなかできないだろうから、根底に茶目っ気を感じさせる小三治の人柄があってこそ活きるサゲだと思う。

他では、うまく火が移った後にひと安心した男がため息をついて、その息で火を消してしまうというものもある。三遊亭好楽などはこのへんらしい。くしゃみの方が間抜け具合は高いような気もするが、ため息の方がわざとらしくない気もする(くしゃみの場合は「今日は風邪気味で…」みたいな見え透いたフリを入れないといけないし)。

これら2つの共通の筋は本人の不注意でせっかく延びた命が消えてしまうというところ。ぬか喜びさせといて、間抜けな死で落とすというのはいかにも落語っぽいので、サゲのアレンジの中では一番自然な部類と言えるかもしれない。個人的には「せっかく死神を観るのなら、最後に笑いの世界に戻ってきたくはない」という思いがあるので、この系統はあまり好みではない。あくまで個人的な意見ね。こういうサゲの場合はだいたい話全体を軽めに仕上げてある場合が多いので、実際は不満を覚えることはないけど、せっかく死神観るなら…って話。

 

他にサゲの種類で言えば、実際に見る機会は少ないだろうが、火がついたままハッピーエンドを迎えるものもある。この場合は主人公が幇間持ち(たいこもち)という職業になっているなど、大幅な変更があり、「死神」ではなく「誉れの幇間」というタイトルで演じられる。三遊亭金馬は「死神」というタイトルのまま演ってたらしいが、最後は自分が助かったついでに他の病人のロウソクもキレイにしてこの世の病人を全員治してあげたりなど、底抜けに明るい雰囲気で、他の死神とは全然違う作品になっている。そこまで行くと何の後ろめたさもなく滑稽噺として聴けるので(金馬のキャラありきな気もするけど)、これはこれで良いサゲだ。

同じく「譽れの幇間」で言えば、春風亭小朝も手がけているらしい。ただ、聴くと、火がついたロウソクを家に持って帰る途中、得意先に旦那に声をかけられ、幇間持ちらしく振舞ううちに誤って火を消してしまうというもので、サゲ自体は「死神」に近かった。本人の不注意で火が消えるという顛末が、幇間持ちというキャラが乗っかることで、より間抜けに演出されてるような気がしたので結構いいサゲだと感じたが、「幇間持ち」という職業を知らない人が聴くと、味気を失ってしまうような気もする。

これら2つの場合は、幇間持ちというキャラのせいで、ちょっと生活から離れたお話になっているので、個人的には身に迫るものがなくて物足りない。勝手な言い分で申し訳ないが、一つの噺としては楽しく聴けるものの、小うるさい落語ファンが「死神」に対して持っている無責任な期待に応えてくれないのだ。

 

他には、例えば柳家権太楼のものを観てみると、「火が消えた…のに、まだ俺は生きてるぞ」という展開になり、死神が「ここにいるお前は魂だけだ。家の前を見てきなよ、お前の死骸が転がってるから」というサゲになる。文字で書くとチープな展開に感じるかもしれないが、実際に観てみるとめちゃくちゃ怖い。権太楼の柔和な顔とのギャップもあってか、ゾクゾクする仕上がりだ。

ゾクッとさせて終わるサゲであれば、三遊亭圓楽(六代目)の場合は、火がついて「今日はゆっくり眠れる」と喜ぶ男に、死神が「そん時は目を開けて枕元を見てみろ。俺が座ってるから」と言い放ってサゲている。僕が聞いた音源では客は笑っていたけど、いや、これって怖いサゲよね?

後味が重厚なこの2つは、味わい的には一番ポピュラーな「その場で死ぬパターン」に似ているのかもしれない。

 

他にも、かなり珍しいものでは、昔昔亭桃太郎で、この場合は「無事に火が移るように笑うセールスマンに頼んでおいたのサ!」というトンデモ展開を見せる。「なんでお前が藤子不二雄と知り合いなんだ」「俺は赤塚不二夫だ!」要するに『赤塚不二夫に似ている』という噺家のキャラを活かしたサゲで、これは「死神」を楽しむというより、「死神」という大ネタすら桃太郎のカラーに染まりきる趣を感じるものだろう。

 

これまでにあげたサゲを大まかに分類すると
・無常に死んでいくオチ
・本人の不注意で火が消える間抜けなオチ
・ハッピーエンド
の3種類になるかと思う(赤塚不二夫はイレギュラーすぎるので置いておこう)。
もちろん僕が知らないだけで、他にもいろんなサゲはあるだろうけれど、主だったところを挙げるとこの3つだろう。

 

 

ただ、僕が好きなのは今から挙げる4つ目
「死神の介入によって死ぬオチ」だ

 

立川志の輔は、火が移ったロウソクを持って外に出るが、死神に「外は明るいのにもったいないよ」と言われて、思わず火を吹き消してしまう。立川志らくも、うまくロウソクに火が移る展開を見せるが、死神の「お前の新しい誕生日だな。祝ってやるよ、ハッピーバースデー」という言葉に乗っかり、ロウソクを自分で吹き消してしまう。

どちらも、明確に死神の「いっぱい食わせてやろう」という意志が介入して、結果男が死ぬことになる。(余談だが、志の輔の場合は、サゲ以外にもロウソクは寿命ではなく運の象徴など、独自の解釈に則った演出が見られるので、一度観てみてほしい。すごいぞ)

極め付けは、この二人の師匠である立川談志。男が「火がついた! やった!」と喜んでいるのに、死神がいたずらに火を吹き消して男を殺してしまう。これはすごい。それまでのストーリーはなんだったんだ。なんでもありじゃないか、こんなの。

 

ただ、個人的には死神のサゲはこれが一番良いと思っている。Wikipediaでは「最悪のパターン」と書かれているが(どういう意味合いで描かれているのかは分からないものの)、突き詰めたらこうならざるをえないのが「死神」なのではないだろうか。

 

多分調べれば分かることなんだけど、寡聞にして僕はなぜ家元がこのサゲを作り出したのかを知らない。なので答えを知らないまま、恐れながらこのサゲの魅力を説明することになるが、一言で言えば「所詮、人の生き死になんてものはかくあるべし」ということに落ち着きそうだ。

うろ覚えの知識だが、確かこの「死神」の元となった寓話は、主人公の振る舞いに怒った死神がロウソクの火を消してしまう、というものだったはずだ。要するに、他のサゲではもってまわったようにロウソクの火を消す理屈を探していたが、元々は死神の一存で人が死んでしまう話なのだ。原初に立ち返ればこれが一番素直な展開ではある。

 

僕はそもそも「死神」という噺が好きではない。好きではないというと乱暴な言い方だが、何というか、噺に一定のご都合主義を感じるというか、不信感があるので、他の落語ファンほど諸手を挙げて信仰する対象として見ていない。

その不信感の正体は、ひとえに「そもそもなんで死神が男に呪文教えてくれるん?」の一言に尽きる。特に理屈もなく、死神が親切に男に死神を追い払う呪文を授ける不自然さが拭えないし、噺がストーリーに従属している感じがしてヤダ感がある。演者によっては「お前の親父を手違いであの世に連れてっちゃったから、そのお詫びに…」とかちゃんと言い訳を用意している場合もあるが、いやいやそれはあくまで言い訳であって、個人的にはもうその時点で噺の推進力は失われているように思うのだ。三遊亭金馬の場合は、「お前の幇間持ちっぷりは死神界で大ウケでね。俺もお前のこと贔屓にしてんのよ」的なスタートを切るので違和感はないが、あれはほぼ「誉れの幇間」だからね…。

もっと言えば、最後にロウソクに火を移すチャンスを設けるのも意味が分からない。約束を破ったんだからとっとと殺せよ。わざわざ洞窟に連れてきて説教かましといて、「仕方ないな~。新品のロウソク~」では筋が通っていないのではないか。のちの見せ場のために生まれた都合のいい展開だという印象がどうしても強い。

ただ、家元の演出に依れば「結局死神の気まぐれ」とスッキリ解釈することができる。思い悩んでいる男を助けてやろうと呪文を教えてやるのも気まぐれなら、ロウソクチャンスも気まぐれだし、その気まぐれで人を死なせてもいい。死神のストーリーラインをなぞりつつ、違和感なく(かつ「人の死はこんな風に不確定に移ろうものだ」というそれっぽい哲学も匂わせつつ)味付けするなら、この演出が一番しっくり来ると思うのだ。

 

 

いや、どうだろう。ただの家元ファンなだけな気もする。初見でこの「死神」を観たら憤慨する人がいてもおかしくはないもんね。サゲまで積み重ねてきた時間が全部無に帰すというか、それまで聴かされたストーリーが全部おじゃんになった感があるので、噺の魅力としてはそこまで強固なものではないかもしれない。関西圏でよく聞く「~なんちゃうの? 知らんけど」みたいな、外し感があるもんね。

とはいえ、「死神」を突き詰めて考えると、家元のこの解答はかなり納得感があるのではないだろうか。

 

 

 

 

…と、「死神」のサゲについてだけでここまで駄文を重ねてしまった。まいった。中身についてももっと細かくおしゃべりしようと思っていたのに、気づけばこんな文量になっている。まあいいや、「死神」という噺の魅力を語りだすと、これでもまだ足りないということだけ伝わってくれれば良し、である。

そして、みくのしんはその「死神」に挑戦するという。大した度胸だ。僕はやめたほうがいいと再三伝えたのだが、それを突っぱねて押し通した落語だ。僕のアドバイスにものらりくらりと言い訳をして従わず、練習スケジュールを2%も消化しなかった彼は一体どんな落語を見せてくれるのだろうか。

 

「死神」の見所をざっくり挙げると
・死神が実在感を持って描けているか
・途中途中のクスグリがちゃんと笑えるか
・右往左往する主人公の感情にしっかり共感できるか
・終盤の息を呑むような緊張感が味わえるか
・サゲをどう演出するか

の5つだろうか。

 

みなさん、みくのしんの渾身の「死神」をお楽しみに。

 

END